書籍・CD・DVD

2017年9月27日 (水)

東京かわら版

book8月から9月にかけての、落語界(各協会など)の夏のイベント、9月下旬からの新真打昇進襲名披露興行、10月からの桂小南襲名披露興行・・・など、今月は盛りだくさんの内容です。
  東京かわら版
やはり、小南治改め小南・さんと実弟の二楽さんのインタビュー記事は面白かった。
お二人のお父上の正楽師匠も、何度も寄席で拝見しましたから、親子代々はいいものです。
秋になって、少し落語会にも足を運んでみようかと思います。

2017年9月 2日 (土)

NHK昭和名人寄席

cdNHKの音源が、CDセットでシリーズで発売されます。
とりあえず第1巻(CD5枚組)は、10,800円。
昭和名人寄席
 (1)  1.八代目 桂文楽        「鰻の幇間」
     2.五代目 古今亭志ん生    「今戸の狐」
     3.三代目 三遊亭金馬     「夢金」
 (2)  1.六代目 三遊亭圓生     「百川」
     2.八代目 林家正蔵       「やかん」
     3.三代目 桂三木助       「宿屋の富」
 (3)  1.八代目 三笑亭可楽     「船徳」
     2.二代目 三遊亭円歌     「早合点」
     3.三代目 三遊亭金馬     「死神」
 (4)  1.三代目 桂三木助       「猫忠」
     2.二代目 三遊亭円歌     「龍宮」
     3.五代目 古今亭今輔      「関の扉」
 (5)  1.八代目 三笑亭可楽     「子別れ」
     2.八代目 桂文楽        「素人鰻」
     3.五代目 古今亭志ん生    「黄金餅」

・・・確かに、素晴らしいメンバーです。
しかし、いくらなんでも、もう世代が違い過ぎる気がします。
この中で、私が間に合った師匠は、圓生、正蔵、今輔の3人だけ。
他の6人の師匠は、少なくとも、リアルタイムでは聴くことは出来ませんでした。
欲しいか・・・というと、それほどでもありません。

2017年8月27日 (日)

東京かわら版

東京かわら版東京かわら版9月号。
東京かわら版は、落語協会の3人の新真打がメインです。
それから、「ひらい圓蔵亭」の案内とか・・。
もう少し落ち着いたら、もっと落語会や寄席に行く頻度を増やして行こうと思います。
鞄の中に必携ということで。

2017年8月17日 (木)

四派花形若手寄席囃子

cd今活躍中の若手の噺家さんたちの出囃子を収録したCD(32曲)が発売されるそうです。
まだ出囃子として化がほとんどされていない楽曲だとか。
まぁ、若手中心の曲ということですからそうでしょう。
四派花形若手寄席囃子
演奏は、落語協会・落語芸術協会・立川流・五代目円楽一門会から選ばれた人たちだそうで。
収録されている芸人さんは以下のとおり。(収録曲順)
 古今亭菊之丞・立川志らく・三遊亭萬橘・三遊亭白鳥・
 三遊亭遊雀・林家木久蔵・古今亭文菊・立川左談次・
 春風亭ぴっかり・三遊亭愛楽・立川生志・三遊亭天どん・
 三遊亭小円歌(立花家橘之助)・立川談慶・立川談修・
 三遊亭兼好・林家たけ平・三遊亭朝橘・ロケット団・
 瀧川鯉斗・林家ひろ木・春風亭昇々・立川志ら乃・
 
林家あずみ・桂宮治・鈴々舎馬るこ・三遊亭楽大・
 柳家小太郎・三遊亭わん丈・瀧川鯉八・春風亭正太郎・
 春風亭柳若・ナイツ・入船亭小辰

・・・あ、林家あずみさんの出囃子もあるんですね。

2017年8月 4日 (金)

圓楽師匠の芝浜

book広瀬和生さんの「噺は生きている」の「芝浜」の演目論。
三遊亭圓朝作と言われているのですから、三遊派の人のコメントも必要でしょう。
三遊派の代表ということでもないでしょうが、五代目三遊亭圓楽師匠の芝浜についてもコメントされています。
噺は生きている
◇平凡な夫婦の物語として
談志や志ん朝と同じ世代で『芝浜』に思い入れを見せた代表的な演者に、五代目三遊亭圓楽がいる。
体調不良により引退を決意した彼が「最後の高座」として2007年に国立演芸場で演じたのが『芝浜』であり、私費を投じて1985年に建てた寄席「若竹」が1989年に閉鎖されることになったとき、その「若竹最後の高座」で演じたのもやはり『芝浜』だった。
五代目圓楽は『芝浜』を四代目柳家つばめから教わった。
噺の骨格は三代目三木助と同じだが、肌合いはまるで異なる。
『芝浜』に思い入れがあったというと、さも大ネタ然とした演り方だったように思えるだろうが、実際はそうではなくて、この噺を「平凡な夫婦の物語」と捉えた圓楽の『芝浜』は、「お茶の間」感あふれる下世話なホームドラマ、という感じだ。
圓楽という演者の最も大きな特徴は、落語の中に「現代的な会話」を持ち込んだ、ということ。
それはともすれば落語の美学を損ない、落語通には敬遠されたが、『芝浜』のような噺から「噓くささ」を排除するには効果的だったのは間違いない。
ーー美談ではなく、いい話--
圓楽の『芝浜』の最大の特徴は、亭主の素直さ。
「飲んだり食ったりしたのが本当で四十二両拾ったのは夢」と女房に聞かされた勝五郎は、まったく疑うことなく、「そうか。そういや、俺はガキの頃からこれは本当じゃねぇかなと思うような夢を見る癖があった。よくおばあちゃんに言われたよ。『勝っちゃん、お前、大人になってそんな夢を見ると命とりになるよ』……今度がそれだ」と信じる。
「おっかぁ、包丁出してくれ」「仕事に行ってくれるの?」「死ぬんだよ」と続くのだが、ここで笑いが起こるのが圓楽らしい。
そして、女房はまったく動じることなく、「なにを言ってるのこの人は」と切り返し、「お前さん忘れたの? いつも私が『仕事に行っとくれ』って言うと、『うるせぇ、女が男の仕事に口出すな! 男が死ぬ気になって働きゃ借金がいくらあったって返せるんだ』って偉そうな啖呵切ってるんだよ」と堂々と反論、亭主を奮い立たせる。
圓楽の演じる女房に「女の可愛さ」がほとんど感じられないぶん、ごく当たり前の夫婦喧嘩のように聞こえて、「美談」くささを消し去っている。
三年後の大晦日の夫婦の会話も思いっきり「人情噺らしく」演じているのだけれど、亭主が女房の告白に素直に感動するので、美談ではなく「いい話」としてこちらも素直に受け止められる。
圓楽のサゲは、若い頃は「よそう、また夢になるといけねぇ」だったが、後年「よそう、また夢になる」に変え、晩年までそれで通した。
夫婦の会話でなく独白で演るならこれで充分という判断だろう。

・・・圓楽師匠は、物知りを誇示するかのように、マクラや噺の途中に薀蓄を入れることが多かったのですが、台詞そのものは、あまり難しくはなかったかもしれません。
徐々に緊張感を高めて言って、例の口調でダァーッと落とす(緩める)パターンでした。
圓楽師匠の照れみたいなものもあったかもしれません。
十八番のひとつだった「浜野矩随」でもそうでした。

2017年8月 3日 (木)

小三治師匠の芝浜

bookそれでは、当代の最高峰である小三治師匠の「芝浜」はどうでしょうか?
噺は生きている
◇型の自由なアレンジ
三木助の「情景描写の過剰さ」が好きじゃないという柳家小三治は、八代目三笑亭可楽
の『芝浜』を手本にしている。
芝の浜で沖を見ながら「白んできやがった……カモメが飛んでる……お天道様が上がってきた! ぽつんと……ああ、舟だ、房州もんだな! 今日はいい魚が安く買えるぜ」と呟く場面、3年後にこの夫婦の間に子供がいて「障子につかまって立っちしちゃだめだよ」と話しかけるところ、女房が真相を打ち明けるときの「奉公してる時分に『人様の物は塵っぱひとつでも手をつけちゃいけない』ってご主人様に言われていたのを思い出して大家さんに相談した」という説明、それを聞いて感謝する亭主の「俺は今日からお前のことをおっかぁと思わない、親と思うぜ」という台詞などはいずれも可楽ゆずりだ。
とはいえ、それはあくまでも「型」としての継承であって、例えば芝の浜の場面でも「海の風ってぇのは柔らかいなぁ」といった表現を交えるなど、小三治はアドリブで自在に表現を膨らませている。
〈三木助〜談志〉型の『芝浜』では家を出た勝五郎が財布を拾って家に戻り、酒を飲んで寝るまでの行動をリアルタイムで描写する。
その後は眠り込んだ魚屋が女房に「商いに行っておくれ」と起こされ大金を拾ったのは夢だと言われる場面に移行し、その間の「湯の帰りに友達を大勢連れてきて、飲んだり食べたりした」事実は女房の台詞として聞かされることになる。
一方、〈志ん生〜志ん朝〉型では芝浜の描写はなく、逆に「友達を引っ張ってきて豪勢に飲み食いする」場面を描いて、再び寝込んだ亭主(熊五郎)を女房がもう一度起こして「あの払いどうするの?」と訊く。
小三治の『芝浜』は、家を出た亭主が金を拾って上機嫌で寝込むまでをリアルタイムで描写するのは〈三木助〜談志〉と同じだが、その後が異なる。
昼近くになると勝五郎はむっくり起きて湯に行き、友達を引っ張ってきて「めでてぇ」と豪勢に飲み食いすると、そのまま大の字になって寝てしまう。
つまり、〈志ん生〜志ん朝〉のように、飲み食いの場面も描写するのである。
そして再び寝込んだ亭主は、女房に起こされるのではなく自分で起きて「おっかぁ」と声をかける。「起きたの?」「ああ、ちょいと水一杯持ってきてくれ……いや、水じゃ効かねぇ、迎え酒だな」といった会話のあと、女房が「起きたら訊こうと思ってたんだけど、なにがあったの?」と問いかけ、「芝浜の一件よ」と亭主が言うと、それは夢だったと聞かされる。
この流れは可楽と同じだ。
ただし可楽の『芝浜』は冒頭いきなり「早く河岸に行ってらっしゃいよ」「行きゃいいんだろ」という短いやりとりがあって亭主が出て行き、地の言葉で状況を手短に説明して浜の場面に移行するが、小三治の『芝浜』は女房が「ちょいとお前さん、起きとくれ」と起こす場面から始まり、夫婦の会話で進行していく。
女房の「盤台の糸底に水が張ってある」「包丁は光ってる」「草鞋も出てる」などという台詞も含め、ここは三木助に近い(志ん朝がここだけ三木助演出を取り入れているのを思い出させる)。
なお、可楽の『芝浜』の魚屋は「留さん」だが、小三治は三木助と同じく「魚勝(勝五郎)」。浜で一服する場面を可楽は仕草だけで表現するが、小三治は「昔は火打石と火口というものを使わなくてはいけなかった」と地でわかりやすく説明する。
拾った財布の中身も可楽は50両だが、小三治は52両だ。
ーー弱気な勝五郎--
財布を拾ったのは夢だと聞かされても、夢だと信じたくない勝五郎は、あれこれ反論を試みるが、女房と話しているうちにだんだんと弱気になっていく。
何度も「俺よぉ、今朝……芝の浜に行ってさ……」と小声で繰り返す勝五郎がなんともいじらしい。
小三治らしさが最も色濃く出ている場面だ。

・・・何か、後出しじゃんけんの良いとこ取りのようにも思えますが、やはり先達の演出を参考にして、色々組み立てていくというのは当然だと思います。
ただ、あれもこれもと、良いところばかりを入れると、訳がわからなくなってしまいますから、しっかりとしたフィロソフィーや理屈(整合性)づけは不可欠でしょう。
さん喬師匠もそうでしたが、この夫婦に子供が生まれる設定になっています。
棒手振りで借金のある魚屋が、通りに奉公人も置く店を構え、子も生まれる。
しかも、そのサクセスストーリー3年と言う短期間で実現するというのは、さすがにやや違和感があります。
落語というのは、庶民のささやかな生活や了見を表現していると言われますが、意外にもエリート集団なんです。
この「芝浜」の勝五郎も、「ねずみ穴」の「竹次郎」も、無一文に近い状態から、事業に成功します。
富くじでも、「富久」「宿屋の富」「水屋の富」「御慶」・・みんな一番富を当てる。
「幾代餅」「崇徳院」「文七元結」「山﨑屋」・・・みんな好きな女と一緒になる。
庶民の抱いた夢、それを描いたのが落語だとすれば、これは当然かもしれません。
が、それにしても、魚勝の成功は、もう少し時間をかけても良いような気がします。
この「演目論」の議論ではないかもしれません。
・・・名作「芝浜」は、一部の"心ない"演出もありますが、小三治師匠以降の噺家さんも、様々に工夫をしています。
「芝浜」に限らず、噺家さんに限らず、その内容に限らず、噺をしっかり作り上げて行くためには、最初の骨格作りと、骨格をびくともしないようにする努力が必要だと言うことだと思います。
この本、読み進めて行きたいと思います。
談志礼賛に少し掛け目をかけながら。

志ん朝師匠の芝浜

book広瀬和生さんの「話は生きている」から、「芝浜」の「演目論」で、何人かの噺家さんを採り上げています。
”特別サービス”で、三木助師匠、談志師匠の次に、志ん朝師匠が紹介されていました。
その一部です。
噺は生きている
◇人間味あふれる夫婦の機微
落語を超えるドラマとしての『芝浜』を追究した談志とは対照的に、名作落語として『芝浜』を磨き上げたのが古今亭志ん朝だった。
万人に愛される「ミスター落語」志ん朝の『芝浜』は、彼の演目がどれもそうであるように、実に心地よい。
談志のように聴き手を自分の世界に引っ張り込んで強烈に揺さぶるのではなく、うっとり聴き惚れているうちにホロッとさせられる。
夫婦の機微を描いた落語として実に楽しく、心温まる一席だ。
志ん朝の『芝浜』は父の古今亭志ん生ゆずりの型で、主人公の名前は熊五郎(魚熊)。
志ん生は拾った財布の中身を50両としていて、志ん朝も50両で演っていた(「53両と2分」に変えていた時期もあった)。
いきなり女房が起こすところから始まるのではなく、腕のいい魚屋なのに昼飯で酒を飲むようになってから信用を失い、ヤケになって酒におぼれていったという経緯から入っていくのも志ん生の演り方を踏襲している。
ただし、志ん生はある晩「明日から商いに行く」と約束する夫婦の会話を手短に演じ、翌朝女房が亭主を起こすと亭主は素直に出ていく、という展開だが、志ん朝は、魚熊がヤケになって商いに行かなくなったことを説明すると「暮れもだいぶ押し詰まってきまして」の一言を挟み、「ちょいと熊さん、起きとくれよ」と女房が起こす。
亭主が出ていくまでの描写はほぼ三木助と同じ。
盤台が乾いて使い物にならないだの、包丁がどうのと愚図って行きたがらない亭主を「ちゃんと準備ができてるんだから行っておくれ」と説得する女房、という場面を丁寧に描いている。
ーー芝の浜を省略する演出--
志ん生・志ん朝親子の『芝浜』の演出上最大の特徴は、朝、女房に起こされた熊が芝の浜へ向かってからの行動を描写することなく、財布を拾い、慌てて戻ってきた熊が女房に「出かけたあと、なにがあったか」を語り聞かせて50両を見せる、という構成だ。
三木助・談志の型がポピュラーになったため、かなり変わった演り方に思えるが、志ん朝が演るのを観れば「この演出のほうが自然」と思えてくる。
志ん生は「(三木助は)芝の浜のくだりが長すぎて、あれじゃとても夢と思えねぇ」と言ったというが、そういう父の理屈とは関係なく、志ん朝の華麗な芸風においては「あの声と口調で淀みなく語り聞かせられるほうが、行動を描写されるより心地よい」からである。
この「芝の浜へ行く場面を省略する」演出は志ん生の創作ではなく、二代目金馬や三代目つばめがやはりそういう演り方をしていたことが速記で確認できる。
四代目小さんは芝の浜の場面を省略する演出について「財布を拾って気が動転している亭主が順序立てて観客にわかりやすく説明できるはずがない」と批判していたというが、そういうリアリズムと「芸の嘘」のどちらをとるか、という問題だろう。
三木助が芝の浜での描写に力を入れたのはリアリズムというより美学の問題だと思うし、その意味では談志のほうがずっと「リアル」だった。
いずれにしても志ん朝の演り方には四代目小さんの指摘するような「無理」はまったく感じられず、実に自然だ。
逆に志ん生・志ん朝は、三木助や談志が描写しない「湯へ行った亭主が友達を大勢連れ
てきて豪勢に飲み食いする場面」を、魚熊の行動として進行形で演じる。
志ん生はそれをごくあっさり済ませたが、志ん朝はここを大きく膨らませ、実に面白い「見どころ」にしている。

・・・そうなんです。
志ん朝師匠は、談志師匠のような理屈を全面に出すようなことにはしていません。
自然体で、素朴に人はどう思い、どう行動するかで、演じている気がします。
そこは、その方が良いと思います。
芝の浜の場面がカットされているのは、そういう演出上の理由だとは思いますが、この噺のクライマックスは、やはり後半の部分。
それでなくても長講になりますから、演ずる時間などを考慮すると、やはりこの部分を小さくするのがベストなのかもしれません。
野暮な言い方ですが。

談志師匠の芝浜

book広瀬和生さんの「噺は生きている」で、特別に「芝浜」のところの一部が公開されています。
桂三木助師匠がベースとなって、最近の若手真打まで、「芝浜」に対する「演目論」が展開されています。
これから、じっくり読ませていただきたいと思います。
”特別サービス”で、談志師匠の「芝浜」が紹介されていました。
噺は生きている
◇ドラマティックな感情の移入
立川談志は三木助の『芝浜』を受け継ぎながら、現代人としての感情を大胆に注入し、別次元の「感動のドラマ」に仕立てた。
「泣かせる人情噺」としてドラマティックに演じる『芝浜』の源流は間違いなく談志である。 「三木助の名作」に疑問を持った談志は、独自の解釈で取り組むことで、『芝浜』を世代を超えて受け継がれる「暮れの大ネタ」として定着させた。
談志は三木助の江戸前な落語における「会話のセンス」をこよなく愛したが、『芝浜』に関しては安藤鶴夫の入れ知恵と思われる過剰な文学的装飾を嫌い、まずはそうした要素を排除しながら自己の個性を存分に反映させた威勢のいい『芝浜』をつくり上げた。
これが談志30歳の頃。
だが、彼は次第にそれが「いい噺」であることに嫌気が差してきた。「この女房は可愛くない」と思ったからだ。
そこで談志は、『芝浜』を美談としてではなく、「ある夫婦の愛を描くドラマ」として演じ始めた。
それが40代のことで、50歳を迎える頃には格段にドラマティックな噺になっていく。
談志の『芝浜』の女房は、決して「ダメな亭主を立ち直らせようとしている」わけではない。ただ、亭主に惚れている可愛い女房であって、亭主が大金を拾ってくれば女房も一緒に喜ぶ。
あくまで、大家に命じられて「夢だった」と嘘をつくはめになるだけだ。
健気に働く亭主を見ながら3年間、申しわけない気持ちでいっぱいだった女房は、罪の意識に耐えきれず、ついに真実を告白する。
だが亭主も、この可愛い女房に惚れている。
だから嘘をつかれたと聞いても納得する。
芝浜の財布の一件から3年後、二人でささやかに暮らしていける今の幸せは何物にも代 えがたい。
この幸せだけは「夢」にしたくない……「また夢になるといけない」というサゲの一言には、そんな二人の想いが込められている。
ーーリアルタイム進行で始まる物語--
談志の『芝浜』は晩年に至るまで進化し続けたが、基本形は30代から40代で固まってい る。
魚屋の名前は勝五郎(魚勝)、芝の浜で拾った財布に42両入っているという設定は三木助のままだ(現存する唯一の三木助の『芝浜』の公式音源は82両となっているが、それは例外だという)。
三木助はマクラで芭蕉の句を引用しながら、隅田川で白魚が獲れた時分の江戸を語ったあと、「ねぇ、お前さん、起きとくれ」と女房が亭主を起こすことで『芝浜』を始める。
だが、談志の『芝浜』は(もちろん白魚云々のマクラはなく)、芝の浜で金を拾う前夜の「いつまでも休まれちゃ釜の蓋が開かないよ」「うるせぇな、明日から行くから今夜は飲みたいだけ飲ませろ」と魚勝夫婦の会話するシーンが挿入されている。
談志は、三木助版で女房が亭主を起こしながら語る「お前さん、明日から商いに行くから飲みたいだけ飲ませろって、ゆうべあんなに飲んだんじゃないか」という経緯をリアルタイムで進行する場面として描き、そのまま寝込んだ亭主を女房が「お前さん……」と起こす場面に続けたのである。
こういう演り方をするのは談志だけだった。
起こされた亭主が愚痴をこぼしながら河岸に行ってみても問屋が開いてない。
鐘の音を聞くと女房が時刻(とき)を一つ早く間違えて起こしていることがわかり、しかたなく浜へ下りて海水で顔を洗い、一服しながら夜明けを待つ。
ここで三木助は、「お天道様が出てきた……いい色だな……よく空色ってぇと青い色のことを言うけども、朝の日の出のときは一色だけじゃねぇや、どうでぃ、小判みたいなところがあるかと思うと、白いようなところがあり、青っぽいところがあり、どす黒いところがあり……」「帆掛け船が帰ってくるじゃねぇか」などと独り言による情景描写に力を入れていたが、談志はそういう描写はカット、ただ「波ってやつは面白いねェ」だけを継承して、すぐに財布を拾う。
火打石と火口を使って煙草に火をつけ、一服吸ったあとで手のひらに乗せた火玉を転がして二服目をつける仕草の見事さは、談志の『芝浜』の名シーンでもある。
財布を拾って家に帰り、喜んで酒を飲んで寝てしまった亭主を女房が「商いに行っておくれ」と起こし、「あの金があるから商いに行かない」と言う亭主に女房は「夢でも見たの?」と返し、「お前さんは起きたら湯に行って大勢引っ張ってきて豪勢に飲み食い したけど、その勘定はどうするの?」と迫る。
それを聞いて愕然とする亭主は、「死ぬ気で働けば借金なんてどうとでもなる」という女房の言葉を聞いて「酒をやめて商いに精を出す」と誓い、そのまま河岸へ出かけていく…この展開も三木助のままだが、その中の夫婦の感情表現のダイナミックさがケタ違いだ。

・・・さらに続いているのですが。
談志師匠のスタートの部分は、非常にシンパシーを感じます。
三木助師匠は、他の、例えば「ねずみ」などでもそうですが、文学的な表現を好んで使います。
山本進先生は、「ねずみ」のねずみ屋の主人が自己紹介をする場面で、暫く身の上を話した後で、「私、宇兵衛と申します」という演出を、気障な演出だと言われ、それでも「三木さん(三木助師匠)だから許されるが、他の噺家さんがやるのは似合わない」という趣旨のコメントをされていました。
ただし、おかみさんの位置づけは、そのまま入って行かれない部分があります。
夫婦が惚れ合っているというのは、落語の底流に流れていますが・・・。
芝の浜での場面は、真冬の未明だということを考えると、三木助師匠もそうですが、あんまり長くするのは、やや現実感がないのかもしれません。
・・・なんていう感想を抱きながら、読み勧めて行こうと思います。

2017年8月 1日 (火)

噺は生きている

book広瀬和生さんの新刊を上野駅の本屋さんで見つけました。
「噺は生きている 名作落語進化論 同じ『芝浜』は一つとしてない」
噺は生きている
志ん生、文楽ら昭和の名人から、志ん朝、談志、さらには小三治、談春、一之輔など現役トップの落語家まで、彼らがどのように演目を演じてきたのかを分析。
落語の魅力と本質に迫る落語評論本。

・・・だそうです。
長講好きな私が、今まで演った噺、いずれ演ってみたい噺について、研究する参考になりそうです。
特別に、「芝浜」の部分が公開されていました。
「芝浜」と言えば、三代目桂三木助が筆頭に来るでしょう。
◆落語を「耳で聴く文学」にした男◆
ーー「芝浜」とはどんな噺かーー
江戸の裏長屋に住む棒手振りの魚屋。
腕はいいのに酒におぼれて休んでばかりいる。
そんな男がある朝、女房に無理やり起こされて久々に芝の魚河岸に行き、大金の入った財布を海から拾う。
「これだけの金があれば遊んで暮らせる」と大喜びで豪勢に飲み食いし、酔いつぶれてしまった男だが、目覚めると女房に「大金を拾ったなんて夢だ」と言われて呆然自失。
「俺はそこまで腐っていたのか」と心を入れ替えて酒を断ち、真面目に働いて人並みの幸せを手に入れた三年目の大晦日。
女房が「あれは夢じゃなかった、お前さんを立ち直らせるための噓だった」と打ち明けて詫びると、亭主は「今の暮らしがあるのも、お前が夢にしてくれたおかげだ」と感謝する。
「今のお前さんなら大丈夫」と女房が勧めた酒を口にしようとした男、ピタッと手を止め、「よそう、また夢になるといけねぇ」・・・。
幕末から明治にかけて活躍した「近代落語の祖」初代三遊亭圓朝が三題噺の会で「酔っぱらい」「芝浜」「財布」の三つの題をもらって創作したとされる『芝浜』。
落語ファンの間では最もよく知られた人情噺といえるだろう。
『芝浜』という噺は、三代目桂三木助が売り物にするまではあまり人気のある演目ではなかった。
どちらかというと地味な噺という印象さえあった『芝浜』を、三木助は安藤鶴夫(作家・評論家)の助言を積極的に受け入れて風景描写に力を入れるなど工夫を凝らし、文学的な香りのする作品に仕上げた。
日本人のライフスタイルが大きく変わっていく戦後社会の中にあって「古典」と呼ばれることになった落語に、ちょっと気どった「耳で聴く文学作品」的な演出を持ち込んだ三木助の『芝浜』は高く評価され、1954年には芸術祭奨励賞を受賞している。
ーー新しい「夫婦の形」ーー
三木助は『芝浜』を、よくできた女房が亭主を立ち直らせる美談として洗練させた。
「よくできた女房とダメ亭主」という構図は落語ではよくあるものだが、三木助の『芝浜』の内容は落語というよりも夫婦愛を描いた良質の短編映画のようなもので、当時としては非常に新しく、そして時代の空気に合っていた。
日本が高度経済成長期に突入したのが1954年。
核家族化が本格化していくのはもう少しあとのことではあるけれども、戦前とは明らかに異なる夫婦観・家族観を持つようになった大衆が、三木助の描く「夫婦の形」の新鮮さに大いに感銘を受けたのは想像にかたくない。
芝の浜の一件から三年後の大晦日、女房は隠してあった革財布を持ち出してきて亭主の勝五郎(魚勝)に「夢じゃなかったんだよ」と打ち明け、「あのとき夢だって言ったじゃねぇか」と言う亭主に、「怒らないで聞いとくれ。しまいまで聞いてから、ぶつなり蹴るなりすればいいじゃないか」と釘を刺して、こう話し始める。
「あんな大金、悪い了見でも起こしたんじゃないかとも思ったけど、そんな様子もないし、どうしようと思って、お前さんがぐっすり寝込んだのをいい潮にして大家さんのところにこのお金を持って相談に行ったんだよ。そうしたら大家さんが『そんなもの一文だって手をつけたら勝五郎の身体は満足じゃいられない。俺がお上に届けてやるから、勝五郎のほうはお前がうまくやっとけ』って・・・お前さんがみんなを連れてきて飲み直して、あくる朝、夢だ夢だってとうとうお前さんをだましてしまって、それからお前さん人間が変わったように好きなお酒をピタッとやめて一生懸命商いをしてくれて、三年経ってこうして魚屋の親方になれて・・・。普段からお前さんに噓をついてて申しわけないと思っていたけど、うっかりしたことを言って元のお前さんに返られても困るしと思って、このお金だってずっと前に下がってきたんだけれども、今日まで黙ってた。でも、もうお前さんは立派な魚屋の主人、いつ見せても心配ないって思って、今日この話をした。決して悪気があって噓をついたわけじゃないけど、腹が立ったら、あたしをぶつなり蹴るなり・・・・」
聞いていた亭主は「ちょっと待ってくれ」と涙ながらに遮り、「おっかあ、お前は偉ぇなあ・・・」と、夢にしてくれたことを感謝する。たしかに拾った金に手をつけたのがお上に知れたら、悪くすれば打ち首、軽く済んでも寄場送りで、挙げ句の果ては乞食になるしかない。
それを救ってくれたのは女房の機転だ。
「お前のおかげでこれだけの魚屋になれたんだ。俺のほうで礼を言うよ。ありがとう、すまねぇ」
「許してくれるかい」
「許すもなにも、俺のほうで礼を言ってるじゃねぇか」
いい話である。
夫婦はこうありたいものだ、という素敵な物語を三木助は『芝浜』で提示してみせた。
それが時代の空気に見事に合っていたからこそ、三木助の『芝浜』は大いに支持され、この演目が「美談」として広く知られるようになったのである。
ーー意外にアッサリな『芝浜』ーー
もっとも、江戸前の口調で滑らかに進行していく三木助の『芝浜』は、実際に録音を聴いてみると、かなりあっさりしている。
「いい噺」ではあるけれど、今の我々がイメージする「暮れの大ネタ」的なコッテリ感はない。
三木助の『芝浜』は、桂文楽の『明烏』、古今亭志ん生の『火焔太鼓』などと同様、「この人の、この噺」として定着したが、それは三木助一代のこと。
現在の『芝浜』の「大ネタ」としてのイメージを確立させたのは立川談志と古今亭志ん朝、そしてそれに続く演者たちである。
『芝浜』が圓朝全集に入っていないことから「圓朝作であるかどうかは疑わしい」とする説もあるが、まあ、それはどちらでもいいだろう。
いずれにしても「圓朝の演目」として一門の三代目・四代目三遊亭圓生や四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、二代目三遊亭金馬などに伝わったほか、初代柳亭(談洲楼)燕枝と二代目柳亭燕枝、四代目柳家小さん、三代目柳家つばめ等も演じている。
八代目桂文楽は、三代目つばめから『芝浜』を教わったものの納得のいく出来にならず、持ちネタとして磨くに至らなかった。
三木助は、四代目柳家つばめから「私の噺を覚えてほしい」との申し出を受けて『芝浜』を覚えた。
三木助は『芝浜』という演目が好きではなく、当初は乗り気ではなかったものの、主人公(魚屋の勝五郎)に感情移入して次第に愛着を覚え、工夫を重ねて自らの代表作に磨き上げていった。

・・・こんなことが書いてあるようです。

2017年6月29日 (木)

これから出る落語本

book落語がブームなのかは分かりませんが、引続き色々な落語本が出版されています。
つい2~3日前に販売開始した本も含めて、これから(7月に)発売される本を調べてみました。
【落語の入り口?想像と創造のコミュニケーション】
Next Creator Book フィルムアート社 (2017/6/26) 1836円
これから出る落語本
2005年以降ずっと続く"落語ブーム"。
長寿番組「笑点」は視聴率ランキングの常連で、「赤めだか」「タイガー&ドラゴン」「どうらく息子」といった落語を題材とした作品が数多く制作され、寄席には若い女性ファン「らくこ」が連日押し寄せる。
本書では、江戸時代からの伝統・大衆芸能である落語について、一から知り、実際に
足を運んで楽しむための入門書。
何が面白い要素なのか、今聴いておくべき落語家は誰なのか、知っておくと“ 通"な専門用語などを、現役の落語家や漫画家、作家、認知科学者、社会学者などが多角的に紹介、分析する。

【落語 修業時代】 湯島de落語の会(編)
山川出版社 (2017/7/4) 1728円
これから出る落語本
若手落語家の台頭で落語界がまたまた盛り上がりを見せている。
本書は中堅・ベテラン勢に追いつき追い越そうと日々奮闘する若手落語家(特に二ツ目)にスポットを当て、新しい落語の時代の胎動を紹介する。
特別付録として、古今亭菊之丞のCD付き。演目は「干物箱」と「大山詣り」。

【噺家の魂が震えた名人芸落語案内】
竹書房新書 (2017/7/13) 1188円
 これから出る落語本
落語家が選び抜いた演目を、落語家が解説する――ありそうでなかった画期的落語案内 書!
この一冊で、落語家の本音と憧れがわかります―――六代目三遊亭円楽(解説)
テレビ・ラジオを通じて日本人は馴染み深いと感じている古典芸能『落語』。
だけど、知っているつもりで興味があっても、何から聴いていいのか分からない人が多いのではありませんか?
そんな人のために、博多・神落語まつりのプロデュースを通じて東西全流派の噺家と交流を深めている六代目三遊亭円楽が、落語家仲間にアンケートを取って、「生きている間に絶対に聴きたい名作落語」の52席を厳選しました。
八代目林家(彦六)正蔵から直接噺を教わった林家木久扇師匠から、2007年にネット動画で生まれて初めて落語を観た二つ目さんまで、老若30人の噺家のアンケートを堪能出来ます。
ありそうでなかった演者が選んだ落語案内書。
(参考文章)
第5位…『火焔太鼓』
戦後一番の爆笑王・古今亭志ん生の十八番には、誰も敵わない。
これは落語家ならば、誰もが一度は通る道の噺です。
いつの時代でも、どの音源でも、長いものでも短いものでも、この噺は絶対に面白い。
歌丸師匠とも、「疲れているときは、志ん生がイイね」って話をするンだ。
もう、自分にも落語にも疲れているときは、志ん生師匠がイイの。
それからね、自分の手術の治り具合を試すのには、圓生師匠を聴いたり他の師匠を聴いたりして、段々志ん生に近づいて行く。
いきなり志ん生を聴くと笑っちゃうから、手術で切ったところが痛くてしょうがない。
【噺は生きている 名作落語進化論】 
広瀬和生著 毎日新聞出版 (2017/7/26) 1728円

これから出る落語本
同じ芝浜は一つとしてない。
志ん生、文楽、圓生ら昭和の名人から、志ん朝、談志、さらには小三治、談春、一之輔など現役トップの落語家まで、彼らはどう演目を分析し、アレンジを加え、ときに解体もしながら、演じてきたのか。
演目の進化から落語の〈本質〉に迫る、画期的落語評論。
「落語という芸能において、演者と寄り添わない抽象的な「演目論」はありえない。
『芝浜』とはどんな噺か、と考えるとき、多様な演者の多様な演出に共通する部分を抽出した「あらすじ」を論じてもまったく意味がない。
「誰某の『芝浜』はこうだが、誰某の『芝浜』はこうである」という相違点や共通点を踏まえての具体的な検証によってのみ、『芝浜』論は成り立つ。
江戸の粋を描く三木助の『芝浜』と、夫婦愛を強烈なドラマとして演じる談志の『芝浜』と、滑稽噺のテイストで笑わせる白酒の『芝浜』を一緒くたにすることは不可能なのだ。
一つの演目が一つの型に固定化されることは決してない。
噺は、生きている。だからこそ、落語は面白い。」

・・・という訳。
みんなそれぞれ面白そうですが、どれもいくらかどちらかに偏重している面は否めない気がします。
それから、最近の落語ファンをかなり意識しているので。
どうしようか・・・、買って読みますか?

より以前の記事一覧