噺家さん・芸人さん

2018年8月10日 (金)

これからの落語にできること

book文春で、五代目桂三木助さんの記事を見つけました。
◆五代目襲名の桂三木助が語る「これからの落語にできること」
昨年9月、真打に昇進し、桂三木男改め、五代目桂三木助を襲名。
さる6月15日、有楽町朝日ホールで行った襲名披露興行は、師匠の金原亭馬生はじめ、笑福亭鶴瓶、立川志の輔、立川生志と、江戸・上方の大先輩の師匠方が一堂に会する、賑々しくも華やかな披露になった。
「前の鶴瓶師匠が新作落語の『青木先生』で、場内の笑いを全部さらって行った後です。『うわぁ、この後に(高座に)上がりたくないなぁ』とちょっと思いましたが、私の披露目ですので、私が出なければ会が終わらない(笑)。鶴瓶師匠以上に笑いを取ることは絶対不可能ですので、枕も振らずに、すぐ『五貫裁き』を語り出しました」
「五貫裁き」は名奉行として知られる大岡忠相(越前守)が登場する「大岡政談」。
この演目を選んだ理由の1つは、会場の朝日ホールが、噺に出てくる南町奉行所のあった場所の近くだから。もう1つの理由は、故立川談志師匠に教えて貰った演目だったから。
一門の弟子以外には、ほとんど稽古を付けなかった談志師匠に、「三木男はいい!」と無性に可愛がられて、「芝浜」や「五貫裁き」の稽古を付けてもらった。
「母方の祖父、三代目三木助の落語を聞いて、『噺家になろう』と決心したのが20歳になる半年前。
祖父はとうに亡く、四代目の叔父も家では普通の叔父さんと甥の関係でした。
全然落語家になるつもりのなかった私は、周りの先輩方に教えて頂いたからこそ今日があります」
「芝浜」始め、古典落語が好きで得意。
自分も研鑽を積むと共に、若い人達にも落語の面白さを広めたいと願う。
「2カ月に一度、神田では勉強会、半蔵門で初心者向けの会を開いています。後者は初めてでも聞きやすい、15~30分の演目を2つ。〈江戸のお金の勘定の仕方〉とか、落語に出てくるテーマも交えながら、それに関連した噺を語ります。落語は想像力を働かせて楽しむ世界。とはいえ、頭の中が?マークで一杯では面白くないでしょう? 『へっつい幽霊』に出てくるへっついなどは、34歳の私も実際に見たことがない(笑)。補足的な映像を組み込んだ落語の動画を作ってYouTubeで公開することも考えています」
落語や話芸に親しんでみたいという方は、出演日程が掲載された『東京かわら版』(冊子とネット版あり)が便利。
「今後の予定としては、東京以外でも、名古屋や九州(大分)など各地にお伺いします。時代は変われど、落語でしか表せない事柄、落語だから表現できる世界に真摯に取り組んで行きたいと思います」。

・・・三木助さんの様子を知ることは出来ますが、表題ほどの内容でもありませんでした。

2018年8月 6日 (月)

入船亭扇辰さん評

pen広瀬和生さんの、入船亭扇辰さんの「お初徳兵衛」評。
扇辰さんは、寝蔵師匠が同郷(新潟県)ということもあってご贔屓。
確か、奥さんは山梨県のご出身だったと思います。
ですから、夫婦喧嘩は「川中島の合戦」と言うことになる?
冗談はともかく、私も好きな噺家さんの1人で、「ねずみ」とか「鰍沢」は、参考にさせていただいています。
          入船亭扇辰さん評
勘当された大店の若旦那が船頭になって大失敗する「船徳」は、初代古今亭志ん生(幕末期の名人)作の長編人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」の発端の部分を、明治時代に初代三遊亭圓遊が滑稽噺に改作したもの。
「昭和の名人」五代目志ん生は「船徳」ではなく「お初徳兵衛」の発端を一席ものとして演じ、倅の十代目金原亭馬生がそれを継承した。
その「お初徳兵衛」を入船亭扇辰が5月30日の独演会「噺小屋 皐月の独り看板」(国立演芸場)でネタ出ししたので聴きに行った。
「お初徳兵衛」は、現代では馬生門下の五街道雲助が細部に工夫を凝らし、より人情噺らしく磨き上げている。
扇辰が演じた「お初徳兵衛」も雲助の型を踏襲したものだった。
道楽が過ぎて勘当された徳兵衛が行き場を失って途方に暮れていると(この運びは「唐茄子屋政談」に似ている)、馴染みの船宿の親方に声を掛けられ、居候することに。
実家が夫婦養子を迎えると聞いて「もう帰る場所がない」と船頭になる決意をする徳兵衛。
志ん生・馬生親子はここで「船徳」にある「親方に呼ばれた船頭たちが早合点する」場面を入れて笑わせるが、雲助はそれを省いて人情噺のトーンを維持、「船徳」で描かれた「未熟な徳兵衛が2人連れを乗せて悪戦苦闘したエピソード」を、滑稽味を完全に抜いてサラリと紹介する。
扇辰の落ち着いた佇まいと端正な口調が、こうした展開に実によく似合っている。
3年後には界隈で随一の船頭となった徳兵衛。
四万六千日、お初という美しい芸者を連れた旦那2人が徳兵衛の客となり、彼らを降ろした後、お初1人を送り届けることに。
にわかの大雨で舟を首尾の松に止める。
「そこでは濡れるから」と徳兵衛を近くに呼び寄せたお初は、実は幼い頃、徳兵衛に恋をして「芸者になれば若旦那に遊んでもらえる」と思って芸者を志したのだと言う。
切ない恋心を打ち明けるお初、「それは御法度」と拒みながらも、雷鳴轟く中、お初を抱き寄せてしまう徳兵衛……。
2人がいい仲になるクライマックス、扇辰は持ち前の繊細な演技力でドラマティックに演じ、爽やかな余韻を残した。
テキストとしては雲助の台本にかなり忠実でありながら、扇辰は、古の江戸の香りを濃厚に漂わせる雲助の骨太な「お初徳兵衛」とは異なる、よりウェットな一席に仕上げていた。
「お初が徳兵衛を口説く」場面のきれいさは扇辰ならでは。
現代の観客が感情移入しやすいスマートな「お初徳兵衛」だ。
芸歴29年の54歳、扇辰の円熟の境地を感じた。

・・・この噺、以前からやりたいと思っている噺です。
破れ家笑児さんとの二人会は実現していませんが、もし実現したら、私が「お初徳兵衛浮名桟橋」で、笑児さんが「船徳」と、演目は勝手に決めています。
五街道雲助師匠のお弟子さんの隅田川馬石さんのを聴いて、「やりたいなぁ」と思いました。
扇辰さんですから、丁寧な噺に仕立てていたことと思います。

2018年7月24日 (火)

金馬師匠入院?

hospital三遊亭金馬師匠が、緊急入院されたそうです。
次男の三遊亭金時さんによると、金馬師匠、23日午前10時頃、都内の自宅で息苦しさを感じたという。
金時さんの姉に電話で「胸が苦しい。肺に空気が入ってこない」と訴えた。
姉が連絡した医師に「すぐ病院に行った方がいい」と勧められ、自ら救急車を呼んで病院へ搬送された。
病院に着く頃には容体が悪化。
検査をすると肺に水がたまっている状態だったため、口からチューブを入れて水を出す処置を受けているとのこと。
金馬師匠はこの数日間、入院中のおかみさんの看病のため毎日2、3回出掛けていた。
金時さんは「年齢も年齢なので心臓が弱っていると思うが、最近も元気そのものだった。寄席にも出ていたので、急にこんな状態になるとは」と心配そう。
今月11日の桂歌丸師匠の告別式にも参列していた。
金馬師匠は98年に心筋梗塞を発症。

6年前に再発し、心臓にペースメーカーを入れている。
・・・そうそう、当時ご本人が「心臓が停まった」とマクラで仰っていました。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/08/post-fbbe.html
精力的に高座も勤めていらっしゃいますから、元気になって欲しいと思います。
亡父と同い年だから、まだまだ頑張って欲しい。

2018年7月22日 (日)

柳家花緑さんのツイート

airplane4時15分頃の花緑さんのツイート。
えっ?今夜の浅草演芸ホールのトリ?
  柳家花緑さんのツイート
うわぁ、大変ですね。
新参さんも、羽田空港から到着する飛行機が降りられない?
大丈夫で゜しょうか?

2018年7月18日 (水)

課題山積?

confident別に、突然のことではないから。
桂歌丸師匠亡き後の落語芸者協会のことについて触れた一文がありました。
そんなに憂慮することもないと思います。
人気番組「笑点」の司会で知られた落語家の桂歌丸さんが亡くなり早くも半月ほどが過ぎた。
歌丸さんの通夜、告別式はすでに終了し、多くのファンが稀代の落語家との別れを惜しんだ。
ところが歌丸さんが亡くなってから2週間経った今でも、落語界ではいまだに大きな問題が未解決のままになっているという。
それは桂歌丸さんが生前、会長職を務めていた「公益社団法人落語芸術協会」の次期会長問題である。
歌丸さんの体調が本格的に悪化したのを受けて同協会は6月15日、「笑点」メンバーで副会長の三遊亭小遊三が副会長職を兼任しつつ会長代行に就任することを発表した。
現在も同協会には会長が不在という奇妙な状態なのだが、それには落語界ならではの特殊な事情があるのだという。
「一般的な感覚だと、副会長だった小遊三さんがそのまま会長としてスライド就任するのが自然な流れなのですが、クリアするにはいくつかの壁がある。小遊三さんは現在71歳なのですが、芸術協会の香盤(順位)では上から17番目と、キャリアが上の先輩はたくさんいます。いきなり就任するのは厳しい状態なのです。また、歌丸さんは協会の先代会長だった桂米丸の一番弟子という立場でもあり会長職の引き継ぎがしやすかったのですが、副会長の小遊三さんは別の一門(三遊亭遊三一門)の人間。歌丸さんから会長職を引き継ぐという形にはならなかったそうです」(演芸に詳しい記者)
また、会長問題以外にも落語芸術協会には問題が山ほどあるという。
そのひとつは顔の売れている芸人の不足である。
現在、落語芸術協会には約200名の芸人が所属しているが、一般的に人気とされる真打ちの数は春風亭昇太や、テレビでの活躍も多い桂米助ら10~20名ほどだ。
そのため、2011年頃には新宿末広亭などの都内の寄席から、ライバル団体である落語協会(会長・柳亭市馬)と比べ「客入りが悪い」と苦言を呈されてきた。
それでも人気者の歌丸さんが出演すれば、たちまち寄席は満席となり、面目は保たれてはいた。
しかし歌丸さんが亡くなった今、落語芸術協会は歌丸さんに匹敵する人気者の確保や育成が命題となった。
落語芸術協会にとって桂歌丸という存在はあまりに偉大であったのだ。

・・・当たっているようないないような内容です。
後任の会長だって、大変申し訳ありませんが、誰がやってもいいと思います。
香盤を言うなら、落語協会の「柳亭市馬」会長だって、上には大勢先輩の師匠方がいます。
それから、落語芸術協会の「駒不足」は、何も最近のことではありません。
もう、ずっと昔からそうです。
で、鈴本演芸場と絶縁せざるを得なかった。
上方の鶴光さんや、立川流の談幸師匠が会員になっているのも、一人でも多く噺家さんが必要だから。
三遊亭円楽さんが、落語芸術協会の興行を通じて寄席に出られるのも、歌丸-円楽の笑点ラインだからということはあるでしょうが、お互いの利害が一致しているからにほかなりません。
大変失礼ながら、寄席の定席に出られない団体や一門は、やはりレベルが高くありません。
確かに、歌丸師匠は、ご自身が広告塔の役目も背負い、横浜にぎわい座や仙台の花座のり(名誉)館長を勤められたのも、寄席を確保することが至上命題だったからだと思います。
また、寄席の芝居でも、落語や色物さんだけでなく、講釈や浪曲の先生方まで入れて、番組を作っています。
そういう意味では、広義の色物さん(=落語以外)の層は、落語協会を凌いでいるかもしれません。

2018年7月14日 (土)

京須偕充さんの寄稿

pen京須偕充さんが、「さよなら歌丸さん」ということで特別寄稿されています。
京須偕充さんの寄稿
七月二日に桂歌丸さんが八十一歳で亡くなられました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
一昨年あたりから酸素吸入器ごと高座に上がるようになりましたが息切れもなく声量も落ちず、まくらでは少し舌がなめらかではなかったものの、本題ではすっかり本調子になって、結末まで緩みがなかったのは立派な姿でした。
近年稀な芸人魂の持ち主だったと思います。
当人は「近頃覚えが悪くて」と言っていましたが、登場人物がやたらに多い「塩原多助一代記」も淡々とミスなくこなしていたのは驚異的でした。
八十路にして冴えていた歌丸師匠でした。
仕事上のお付き合いが始まったのは朝日名人会の発足準備段階の頃ですから二十年にわたります。
歌丸さんは私からすればビジネスライクの現代人。
芸人にありがちな癖や屈折がなく、駆け引きやはぐらかしも皆無で、爽やかな想い出しか残っていません。
こちらから問いかけもしないのに「(人情噺の)お手本は圓生師匠」と素直に明かすのもまた芸人として稀な常識人の姿でした。
それが回り回って歌丸さんの噺家人生を大団円へと導いたのだと思います。
お手本は圓生師匠と言いながら、歌丸さんは別の道への歩みを心がけていましたから、圓生のコピーに埋没することがなかったように思います。
圓生の人情噺は歌舞伎世話物型のセリフの妙味を備えていて、人物の感情や心理を繊細にまた克明に描きましたが、歌丸さんはそこに深入りしませんでした。
聴き手にとっては悪魔的魅力にあふれた圓生の世界に近寄りすぎると演者は遭難しかねない――。
芝居にたとえれば歌丸さんは装置や照明の変換、切り替えで難関をあっさり演じこなして、ひたすらリズミカルに噺を直進させる手法をとったのでした。
それは昭和戦後派で、江戸っ子ではなく浜っ子の、そして落語のスタートラインでは新作派だったから可能だった――などと理由づけては少し間口の拡げすぎになるでしょうが、人情噺を圓生、正蔵の時代から後輩世代へとつなぐ、歴史的役割は荷っていたように思います。
圓朝作の長編人情噺をライフワークにする前、四、五十歳頃の歌丸さんは埋もれ噺の復活にも取り組みました。
晩年までよくやっていた「おすわどん」「毛氈芝居」はその代表作です。
機会があれば「小烏丸」「辻八卦」「いが栗」もやりました。
一度はやって成功したのにその後あまりやらなくなった「樟脳玉」「庚申(こうしん)待ち」「派手彦」などを復演するよう奨めたのですがそれきりになりました。
「竹の水仙」「ねずみ」をやるのだから甚五郎物の「三井の大黒」はいかが、と奨めましたが、これも実現しませんでした。
「三井」の甚五郎は歌丸さんの芸風に合わないのかもしれません。
それよりも、と歌丸さんは浪曲で今もやる人がある甚五郎物の一編を落語化したいと言っていました。
一昨年、八十歳に手が届く時分のことでしたが、これも実現はしませんでした。
7月11日14時から横浜の妙蓮寺で桂歌丸さんの「お別れの会」がありました。
通夜と告別式は、近親、一門の方々により密葬形式で行われたようで、この日は業界や一般の人たちのための別れの催しでした。
師匠の桂米丸さん、落語協会会長・柳亭市馬さん、落語芸術協会会長代行の三遊亭小遊三さん、親交のあった歌舞伎役者の中村吉右衛門さん、「笑点」の僚友・林家木久扇さんなどの心のこもった惜別のことばがあって、とくに九十翁の米丸さんの弔辞は淡々と自然で少しの無駄や迷いもなく、心打たれる「ことばのひととき」でした。
歌丸さんにも十年の余命があれば、こんな境地に到達したのでしょうか。

・・・歌丸師匠の功績は、決して「笑点」ではありません。
私が憧れる"三遊亭"が、歌丸師匠にはありました。

2018年7月 6日 (金)

新聞の取材

hospital母の部屋に行くと、「麻原彰晃」の死刑執行のニュースを聞いて、家族ぐるみのお付き合いが続いている強制捜査当時に我が町の町長だった人に電話をしたそうです。
「麻原が死刑になって、やっと一区切りついたので、(一緒にオウム対策に苦労した父の墓前に)線香一本あげて、(私に代わって)報告して来て」と。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/10/httpswwwyoutube.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/10/post-e007.html
そんな話をしていると、母の携帯が鳴りました。
元町長さんの奥さんからでした。
どうやら、地元の新聞社(山梨日日新聞)の記者が、今朝の麻原死刑執行を受けて、当時の町長に取材に来たようで、元町長が母からの電話の話をしたら、是非母にも話が聞きたいと言うことになって、電話取材をかけて来たようでした。
今日死刑執行された麻原以外の幹部も、何度か実家を訪れたことを話したり、電話取材に答えていました。
父と二人で、死の恐怖を感じ、覚悟を決めたこともあったようです。
マスコミの取材
山間の小さな町を揺るがした、この兵器工場が。
明日の朝刊に載るかもしれないしれませんね。
    マスコミの取材
実家を離れていて、やや臨場感に欠ける私ですが、電話で記者に話す母の声や顔にも、様々な思いが含まれていた気がします。

歌丸師匠のこと

banana若い頃の歌丸師匠の印象は、落語芸能人協会で、桂米丸一門でもあったので、新作落語の噺家さんでした。
晩年、というか、途中からは古典落語の師匠のイメージが強くなりましたが。
歌丸師匠のこと
その辺りのことを、演芸評論家の渡邉寧久さんが振り返っておられます。
「役目だと思っています」
 毎年4月と8月、東京・国立演芸場で落語中興の祖、三遊亭圓朝作の長講をかけることが、古典派としての桂歌丸師匠の矜持だった。
約1時間の高座に挑む理由を尋ねたときの答えが、冒頭のひと言だった。
いわゆる“圓朝もの”といわれる「怪談牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」「塩原多助一代記」といった長講に挑むようになったのは、1994(平成6)年のことだ。
「これをやんなさいって勧められたんです。無理だって言ったんです、できるわけがないって」
58歳の歌丸師匠に道しるべを進言したのは、当時のTBS「落語研究会」のプロデューサーだった。
課題は「栗橋宿」。
「牡丹灯籠」の一節だ。
「3カ月くらいかかりました。何とか形になって、オンエアされましたから合格点をもらったっていうことでしょう」
若いころ、最初の師匠、先代の古今亭今輔の逆鱗に触れたことがあった。
新作派の師匠に入門しながら、古典落語に傾倒したからだ。
破門から2年半、落語界から離れていたことがあった。
74(昭和49)年、地元横浜の三好演芸場で独演会を定期的に開くようになったことで、流儀の転換を余儀なくされた。
「それまでは新作6割、古典4割でしたが、独演会をやるとどうしても古典のネタを増やさないとならないんです」
戦後、たいそうにぎわった横浜・真金町で育った。
親代わりだった祖母は、遊郭を仕切る「やり手ばばぁでした」という存在。
落語の廓噺そのものの世界でおしろいの匂いをかぎ、新内流しの三味線の音に耳を傾け、辻占(占い)のまわりに集ってははしゃぐ女らの姿を見つつ、物売りから稲荷寿司を買っては食べていたという少年時代。
「落語の下地はできていたんでしょうね」
それでも「まだ悩んでいますよ」と口にするほど落語に迷い続けた晩年。
その場所に甘んじることをしなかった。
「『笑点』の歌丸、大喜利の歌丸で終わりたくないんですよ。“落語の歌丸”になりたいんですよ」
70歳を過ぎて、そんなことを時折、口にするようになる。
放送開始から約50年間出演し続けた演芸番組「笑点」から身を引いたのは2016年5月、79歳のときだった。
歌丸師匠のこと
落語家として結果残された時間は2年弱。
“落語の歌丸”として満身創痍でしゃべり続け高座の緞帳を静かに下ろした。
お見事、師匠!

・・・この流れ、何となく記憶がある気がします。
個人的には、古典落語一本にされて大正解だったと思います。

2018年7月 5日 (木)

花座にも献花台

event歌丸師匠は、オープンしたばかりの仙台の寄席「花座」の名誉館長でした。
花座にも献花台
地元のテレビでも、訃報が大きく採り上げられているそうです。
花座にも献花台
宮城の落語ファンにも親しまれた大御所が帰らぬ人となりました。
2日、81歳で亡くなった落語家の桂歌丸さんをしのび、仙台の寄席には、多くの人が訪れ別れを惜しんでいます。

花座にも献花台
仙台市青葉区一番町に2018年4月にオープンした常設の寄席「花座」。
歌丸さんの訃報を受けて3日設置された献花台に多くのファンが手を合わせました。
横浜市出身
の桂歌丸さんは、2日に「慢性閉塞性肺疾患」で亡くなりました。
81歳でした。
歌丸さんは「花座」の名誉館長を務めていて、会員カードにもそのイラストがプリントされています。
2018年3月には酸素吸入器をつけながら花座のオープンを記念した電力ホールでの公演にかけつけました。

花座にも献花台
3日に花座の高座にあがった落語家の桂文治さん。
歌丸さんとは30年以上の付き合いです。
桂文治さんは「最後まで勉強して、たぶん入院しているときも覚えてたと思うんですよね、本当に頭の下がる存在、手本になる存在です」などと話していました。

・・・東京の寄席ではやや劣勢をかこっている落語芸術協会が、ファンの裾野を広げるためには、やはり多くの寄席や演芸場が必要になります。
歌丸師匠も、地元横浜だけに限らず、仙台にまで拠点を築こうと努力されていた訳です。
この電力ホールでの公演も、退院した直後か、病院から直接、しかも東京から車で仙台まで行ってくださったはずです。
他の予定されていた公演をキャンセルしても、仙台の寄席の立ち上げには、ただならぬ情熱をかけてくださったようです。
花座にも献花台
・・・もう、こんな姿を拝見することは出来ませんが。

2018年7月 4日 (水)

横浜橋商店街

drama行ったことはありませんが、歌丸師匠の地元の商店街。
横浜橋商店街
師匠の訃報を受けて、横断幕や献花台を設置して、地域全体で逝去を悼んでいるそうです。
地元の皆さんからも愛された師匠だったんですね。
横浜橋商店街
お弟子さんの話を聞くと、最期はかなり苦しまれたそうです。
私の父も肺の病気で亡くなったので、苦しさの一端が見えて来るような気がします。
横浜橋商店街
本当にお疲れさまでした。

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