噺家さん・芸人さん

2017年6月24日 (土)

市川團十郎発祥の地

團十郎発祥の地
「市川團十郎発祥の地」の山梨県市川三郷町は、役場の本庁舎と2カ所の支所に掲げる国旗と町旗を半旗にして、闘病の末、乳がんで死去した歌舞伎俳優の市川海老蔵さんの妻、小林麻央さんを悼んだそうです。
麻央さんが公式に町に来訪したことはなかったが、海老蔵さんは平成17年9月、十一代目海老蔵襲名の披露公演の千秋楽を、同町内(当時は合併前の旧三珠町)の「歌舞伎文化公園ふるさと会館」で行っているそうです。
市川團十郎発祥の地

町は、團十郎にちなんだ同館などにも、おくやみの文章を掲示するそうです。
初代市川團十郎のことについて調べてみました。
父は甲州出身で、異名を「面疵(つらきず)の重蔵」、「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客だったという。
さらにさかのぼると武士で後北条氏の家来であったという説もあるが、これは甲州の出ということ以外は疑わしい。
「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものとされる。
十蔵は甲州から出てしばらく下総国に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている。
昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。
ただし市川宗家は、初代團十郎は成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。
これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。
町のホームページにアップされているお悔やみ文です。
市川三郷町は初代市川團十郎の発祥の地です。
この度、第十一代市川海老蔵丈ご令室小林(堀越)麻央様のご逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します。
ご遺族皆様のお悲しみをお察し申し上げますとともに、麻央様のご冥福をお祈り申し上げます。
                    市川三郷町

2017年6月23日 (金)

円楽師匠芸術協会入り?

drama「5代目円楽一門会」に所属する三遊亭円楽師匠が、「落語芸術協会」に加入することになったそうです。
単身での加入を申し入れ、落語芸術協会は役員会を開き客員としての加入を承認。
27日の総会で正式発表される予定。
5代目円楽一門会にも引き続き所属する。
過去には一門全体での合流を申し出たが拒否されていた。
落語家のホームグラウンドでもある寄席への出演という悲願をかなえた円楽は、落語界活性化のために、単身で乗り込む。

円楽の看板が寄席に帰ってくる。
円楽の申し入れを受け、落語芸術協会は役員会で検討し、客員という立場での加入を了承した。
桂歌丸会長は「私は入院していて役員会に出席できませんでしたが、反対もなくOKになったと聞いています」と答えた。
新宿末広亭など席亭(寄席の経営者)の推薦もあったという。
寄席(定席)は落語協会と落語芸術協会しか興行が打てず、円楽所属の5代目円楽一門の落語家は出演できない。
最近はトリの落語家と席亭の意向で“のせもの”として協会員ではない演者の特別出演も認められているが、年にわずか数日と狭き門だ。
2010年に行われた6代目円楽の襲名披露は、歌丸会長の尽力もあり、落語芸術協会の興行として寄席での公演が実現し大成功となった。
その後、円楽一門会は全体での落語芸術協会への合流を申し入れた。
人数の問題や寄席で修業していない落語家が加入することに異論を唱える声もあり、歌丸会長は賛成したものの、役員会で否決された経緯がある。
大師匠・三遊亭円生、師匠の5代目円楽とともに落語協会を離脱した1978年まで、円楽は楽太郎を名乗り、二ツ目として寄席で修業をした“寄席育ち”。
今回の申し入れには反対の声はなかったという。
円楽の願いを受け入れた歌丸は「活性化にもなるし、協会のためにもなる。円楽さんには『忙しいけれど寄席に出てください』と言いました。期待しています」とエールを送った。
円楽は5代目円楽一門会で幹事長を務めており、一門会での活動も、並行して継続する予定だ。
落語芸術協会への加入も単独で、弟子は連れて行かない。
今回の決断に、円楽は「将来、落語界は一つになればいいと思っている。(寄席に)育ててもらった恩返しをしたい」と話している。
客員とはいえ、円楽が加わることで、寄席が盛り上がるのは確実。
落語ブームと言われる中、さらなる発展のために、円楽と落語芸術協会が大きな決断をした。

・・・芸人さんの世界ですから、それに昔から合従連衡を繰返していますから、いちいち賛否がどうこうということもないと思います。
ただし、間違いなく言えるのは、噺家さんには「寄席」が絶対に必要だということです。
寄席に出られないがゆえに、落語をショー化して大味にしている立川流、(失礼ながら)なかなか人材が育たない円楽一門会。
頑なに「落語」を塀で固めて考えようとはしませんが、いずれ噺家さん全員が寄席に出演出来るようになるのが好ましいと思います。
円楽師匠は、落研創成期に親しかった青山学院大落研のご出身で、楽太郎時代に落研主催の鑑賞会にも出演いただきました。
・・・しかし、落語の本流のひとつである「三遊亭」が、さらに細分化して行くのは、やや複雑な思いもあります。

2017年6月20日 (火)

手術前日にも落語?

pen日刊ゲンダイで、周囲の人たちへの感謝を語った「柳家権太楼」師匠の記事がありました。
あれは2010年でしたか、63歳でしたよ。
「最近疲れっぽいな」とは思っていたんですけども、「63歳ってこんなに疲れるんだ」と半ば納得して、まったく病気を疑っていませんでした。
でも、北海道で独演会が終わった途端に倒れ込んでしまったんです。
自力で東京まで戻ったその足で、点滴を打ってもらおうといつもお世話になっている病院へ駆け込みました。
そうしたら顔色でわかったんでしょうね、すぐに尿検査をすることになって尿を取ったら、その色がヘドロみたいな茶色で自分でもビックリしました。
そのうち意識をなくして、ふと気が付いたら弟子6人と家族が集まっていてまたビックリでした。
急性腹症、腹水貯留、肝機能障害、腎機能障害、尿路上皮がんの疑い……と、大変な状態の中、1カ月ほどの入院で、血液から何から体内に流れる液という液を全部きれいに入れ替える治療をしたんです。
そして、いろいろな検査の末にやっと「左の腎盂がん」が見つかりました。
そのときの院長の様子ときたら、ニコニコ笑いながら「がんだったよ!」ってね(笑い)。
長年親交がある仲なので、通り一遍の検査じゃ見逃してしまうようながんを全力で見つけてくれたんです。
感謝ですよ。
「もし見逃してたら?」と聞いたら、「再来年の花見はできなかったかな」と言われました。
■手術の前日まで落語、翌年には膀胱がんの手術も…
腎盂は尿が集まる場所で、私の場合は左の腎盂のがんが筋層まで浸潤していたので、治療は左の腎臓と尿管の全摘出の手術になりました。
「あなたは“落語界の宝”だから」と院長が紹介してくれたのが、帝京大学医学部病院。
日本のトップ技術を持った外科医の手で腹腔鏡手術が行われたのが11年の1月11日でした。
1月といえば、元日から10日は「初席」といって顔見せの大事な時期。
実は「どうしても出たい」とお願いして、手術の日を初席が終わるまで延ばしてもらったんです。
手術の前日まで落語をして、さらに言えば、退院した翌日にはもう仕事に行きました。
とにかく落語がやりたくて仕方ないんですもん(笑い)。
退院後、秋ぐらいまでの間に1回1週間ほどの入院を要する抗がん剤治療を3回しました。
もちろん頻繁に検診も受けていました。
すると翌年、今度は「膀胱がん」が見つかりました。
でも、すでに言われていたんです。
腎盂がんを治療すると、おおかた膀胱がんになるものらしいのです。
だから驚きもせず、腫瘍を摘出する手術を受けました。
加えて、結核菌を入れてがんを退治する抗がん治療で3カ月間は通院しました。
おかげさまで人工膀胱にはならずに済み、今こうしているわけです。
■人間ドックを受けていることで安心して、健康を過信していた…
病気を治してからは汗の出方が変わりました。
以前は、一席終わるともう着物がびしょびしょになるくらいに汗をかいて、それが普通だと思っていたのですが、今は以前ほどではなく、あの汗は異常だったと気付きました。
あとは、サプリメントや栄養ドリンクを一切取らなくなりました。
前は疲れるとそういうものに頼ってばかりいたもんで、それが内臓を疲れさせてしまったのです。
でも、こう見えて人間ドック好きで、50代から2年に1度は頭から爪先まで全部診てもらっていたんです。
尿酸値と中性脂肪が高めとか言われていたんですけども、人間ドックを受けていることで安心し、健康を過信していたところはありました。
私を救ってくれたのは医師や看護師さんという医療の人たちばかりではなく、弟子であったり家族であったり、何よりお客さまのおかげです。
もう、粗末にはできないと思っています。
腎臓の手術前、かみさんに「63歳で終わったとしても、俺はここまでよくやった。もし“権太楼にはもう少し長くやってほしかった”と誰かが言ったら、“満足だと言っていた”と言ってくれ」と話したんですが、実際はね、悔いは残りますよ(笑い)。
だって、生きていれば“言い訳”ができる。
「病気になっちゃったよ」や「まいったよ」って言えるじゃない。
亡くなったら何も言えないからね。
病気の後も、落語は一切何も変えていないつもりです。
何か変化しているかどうかはお客さまが感じることですよ。
ただ、ひとつだけ言えるのは「うまく聞かそう」とか「笑わそう」という思いは捨てました。
出来が悪くても人の評価は気にしない。
自分にプレッシャーをかけないことにしたんです。
ストレスが一番いけませんから。
そんな言い訳で治療中は禁じていたたばこもお酒も、今やすっかり復活しています。
そういえばもうひとつ、病気をしたら大きな賞を立て続けにいただきました。
病気が治って長生きしたことが落語へ影響したのって言えそうなのは、それぐらいかな(笑い)。

・・・権太楼師匠が腎臓の病気で、暫く休演していた時のことを思い出しました。
勿論、細かなことを知るよしもありませんが、病気と闘っていたんですね。

2017年6月18日 (日)

話の肖像画(5)

落語協会会長の柳亭市馬さんの「話の肖像画」の5回目。
「笑わそうとするな」の真意は?
一門の兄弟子で、一番稽古をしてもらったのは(入船亭)扇橋師匠ですね。
家も近くて、よく電話がかかってくるんです。
「誰それが来るから一緒に稽古に来なさい」って誘ってくださった。
(柳家)小三治師匠と扇橋師匠とは、気の長短というか、はたから見るとほほえましい仲でした。
その小三治師匠は、複雑で、分かりにくい人です(苦笑)。
根は優しいんですが、はた目は怖い。
あまりしゃべらないし、笑わないしね。
もちろん噺や芸については、いつも考えていると思いますよ。
おそらく、小三治師匠の中で、「これでいい」というような思いなんてないでしょう。
〈小三治は現在、落語家唯一の人間国宝、最高峰の芸を誇るひとりだ。市馬は小三治から「お前の噺は押しつけがましい」と怒られたことがある。「面白いことを言って笑わそうと思っているうちはダメだ、つまらない」というのだ〉
ね、分からないでしょう。もともとは、(古今亭)志ん朝師匠が、父親の志ん生師匠から聞いた話らしいんですけど、こっちもまだ若いころだったから、「ウケようと思ってやっているのが、なぜいけねぇんですか」って反論したんです。
師匠は、「そんなにウケたけりゃあ、(笑いの多い)新作(落語)か漫談やれ」って。
結局、分かり合えませんでした。
この年になってやっとかな、小三治師匠が言ってたことが、おぼろげながら分かってきたんですよ。
ここでこう言えばウケるのは分かっているんだけど、その通りにすれば、あざとさや作為も見えてしまう。
でもね、「笑わせたきゃ笑わそうとするな」なんて禅問答ですよ。
真意はまだはっきりと分かりません。
生涯分からないかもしれませんねぇ。
〈落語協会会長としての忙しい公務をこなしながら、実力派の人気落語家として寄席、独演会を駆け回る日々。ひとりの落語家として、今後やりたいこともたくさんある〉
(柳家)小さん師匠はね、「若いときは何としてもウケさせろ。年をとって、季節感や人物像が自然に表せれば一人前だ」って言ってました。
70歳、80歳になって、何にも奇をてらわず、突拍子もなく歌ったりもせず(苦笑)、普通の世間話のようにお客さんを引き込ませる噺ができたらいいなって。
ずっとやりたくて、まだできていない旅の噺もいくつかあるんです。「万金丹」とか「三人旅」とかね。
小さん師匠はこういう旅の噺が得意だった。
笑うところがあまりないから、ウケないんだけど楽しいんです。
江戸っ子2人が、くだらないことや、言い合いをしながら旅を続ける。
その風情がよく出ていてね、とても良かったんですよ。
〈現在2期目の会長の任期はあと1年。再任となればさらに激務は続く。要職に就いているがゆえの苦労も絶えない〉
見えは張りませんが、まぁ、協会の代表ですからね。
「落語協会ってあんなもんかい」と言われないくらいには体裁にも気をつかいます。
つらいのは忙しくて(落語家としての)仕事をセーブしないと、(会長職が)務まらないこと。
名誉はあるけど、一般の企業や団体と違って物品的なメリットもないし(苦笑)。
ただ、1期や2期で辞めようと思って引き受けてはいません。
「辞めろ」と言われりゃあ、別ですけどね。

・・・噺家さんは、長い下積みの後で一気に開花するパターンですから、市馬さんもこの10年で大きくなりました。
10年前に、オフィス・エムズの加藤さんが、「これから10年が、市馬さんにとって大事なんです」って仰っていました。

歌丸師匠高座復帰

sweat01桂歌丸師匠が、今日開かれた落語会で高座復帰を果たしたそうです。
春風亭小朝さんがプロデュースした落語会。
歌丸師匠は、酸素吸入器を付けた姿ながら、まくらでは「入退院を繰り返して、はいえんな(大変な)騒ぎになりました」とダジャレで沸かせて落語「つる」へ。
声も大きく、きっぱりした口跡で滑稽な人物を演じ、観客を笑わせたそうです。
・・・痛ましい(痛わしい)と思うのは、私だけでしょうか?

2017年6月17日 (土)

歌丸師匠の苦言

annoy左肺炎慢性呼吸不全の急性増悪のため入院し、先日退院した桂歌丸師匠が、「笑点」の前番組「もう笑点」の収録に参加。
笑点メンバーと囲み取材に応じ、ピン芸人・アキラ100%などの「裸芸」に物申したそうです。
こんな記事がありました。
落語を誰に聞いてほしいかと問われると歌丸の目が変わった。
「日本全体、あるいは海外からの人にも聞いてもらいたい」。
そこには、体一つで高座に上がり続ける落語家としてのプライドがあった。
「日本語っていうのは日本の文化。その文化を1番、使っているのが、我々、噺家だと思いますよ。それも笑いに持っていっている」と思いを語った。
その上で「失礼ですけど、日本語を使わないで笑いを取っている芸能人の方が大勢いるじゃないですか。これも、言っちゃ失礼ですけど裸でお盆持って出てきて何が芸なんですか。私は違うと思うな」と、アキラ100%のお盆で隠すネタをバッサリ。
続けて「ああいうのを見て、面白いな、うまいなと思われちゃ困るんです。やっぱり日本の言葉を使って笑いを取るのが芸人であり、我々、噺家だと思いますよね。だから大いに日本人に聞いていただいて、日本語というものを、もっともっと理解していただきたい」と静かに熱く語った。
「ちょっと望みは大きいかもしれないですけど、そういう気でいます」と80歳にして抱いている壮大な夢を明かした。
また、入院中に落語の魅力を改めて感じたという。
「病院でじーっと落語を聞いているとね、ホントにいいもんだなと思いましたね」としみじみ。
続けて「落語はしゃべるもんじゃなくて聞くもんだ」とぽつり。
笑点メンバーを笑わせていた。

・・・私も、品のない芸は大嫌い。
もっと嫌なのは、その下品な芸を見て喜んでる芸人たちのアホ面です。
騒がしいだけの、楽屋落ちの、学歴をひけらかすような お笑い芸人は、皮肉にもその姿こそが滑稽です。

2017年6月16日 (金)

話の肖像画(4)

karaoke産経新聞の市馬会長の特集の4回目は、とうとう「歌」のこと。
〈落語界きっての美声の持ち主、歌を歌わせたらプロ級、ではなくて、れっきとしたプロの歌手(日本歌手協会会員)だ。平成20年には「山のあな あな ねぇあなた」でCDデビューも果たしている。著書「柳亭市馬の懐メロ人生50年」では、三橋美智也、春日八郎、三波春夫、村田英雄ら大好きな歌手への思いをたっぷりとつづっている〉
古いでしょ。
父親の世代か、もう少し上ぐらいかなぁ。
東海林太郎や岡晴夫、菊池章子、渡辺はま子も好きですよ。
4つ上の兄はフォークソングが大好きだったけど、私は子供のころから、ちょっと変わった歌が好きでね。
下戸だった瓦職人のおやじは宴席で酒を飲まされないために、ギターやアコーディオンの腕を磨いたんです。
お調子もんというか、人を楽しませるのが大好きというか、私もそういう性分を受け継いでいますね。
「いい声ですねぇ」なんて乗せられるとその気になって歌っちゃう。
だけど、落語家のパーティーなんかで歌うと、師匠(五代目柳家小さん)はダメだとは言わないけど、あんまりいい顔はしなかったなぁ。
落語家のくせに私がギャグも入れないでフツーに歌うもんだから、「これじゃあ(落語家じゃなくて)歌手じゃねぇか」というわけですよ。
もちろん私もそのときは「歌手」のつもりなんですけどね(苦笑)。
〈真打ちに昇進(平成5年)して、しばらくたったころ、壁にぶち当たった。後から真打ちになった(林家)たい平や(柳家)喬太郎ら勢いのある若手がどんどん売れ始めたのを横目に見ながら、自身も「何か新しいチャレンジ」をしなければ、と得意の歌を持ちネタに織り込むことを思いつく〉
真打ちになったのはいいけれど、だんだんと出番が減ってくるんですよ。
下から若い人がどんどん出てくるし、上にはまだ大御所らが頑張っている。
普通にしていると、存在感がなくなってしまう。
このままじゃ置いていかれるな、と思って、いろいろやってみました。
試行錯誤の末に、私の宝物である歌を取り入れる発想が浮かんだんです。
おかげさまで評判を呼び、そのころから独演会も増えていった。
揚げ句、会長まで仰せつかるようになって。
だけど、CDデビュー(平成20年)は勢いでやっちゃったようなもんですよ。
まぁ、歌うのは“請われれば”やりますけどね(苦笑)。
〈会長としてメッセージを発したり、あいさつの場では常々、落語家に対して「自由に、好きな道を行けばいい」と語ってきた〉
「個性」がなくちゃあ、いけないんです。
アイツの芸がどうだ、こうあるべきだとか、ダメだとか、仲間うちで言われても関係ない。
お客さんが喜んでいれば、それでいいじゃないですか、お客さんが決めることなんですよ。
落語ブームの中で、人気の若手落語家がグッズを売ったり、休憩中に客席を回ったりすることを苦々しく思っている人も当然、いるでしょう。
あるいは、お客さんの中にも批判的な方はいるかもしれない。
でもね、それはいたっていいし、好きにやっていいと私は思うんですよ。
〈落語の「現代性」についても論争が尽きないテーマのひとつ。時代に合わなくなったから、と古典落語のオチを変えたり、新たな「クスグリ」(ギャグ)を入れたりする落語家もいる〉
これも同じ。
私は必要だと思う人はやればいい、それに尽きます。

・・・やはり、落語協会の会長だった先代の小さん師匠の薫陶を受けていればこそのコメントですね。
そう言えば、私が落語に戻って来た10年ほど前が、ちょうど市馬さんが売れ出した頃でした。
落研の創始者でもある「麻雀亭駄楽」師匠も、当時、市馬さんを絶賛していたし、私もかなり"追っかけ"ました。
勿論、独演会の"歌謡ショー"も何度も聴きました。
中でも、「俵星玄蕃」は圧巻でした。
それに、記念すべき「第一回お江戸OB落語会(お江戸あおば亭)」で、私が選んだ演目は、市馬さんの音源を参考にした「花筏」でした。
この噺で、市馬さんを真似て、村田英雄の「男の土俵」を歌ったり、呼び出しや行司の声色をやって、それなりに拍手をもらったりしました。
・・そうか、「花筏」を再演してみようか。

2017年6月15日 (木)

真打昇進披露

eventいよいよ秋の真打昇進披露のチラシが出来たみたいです。
真打昇進披露

話の肖像画(3)

pen産経新聞の柳亭市馬会長の特集は第3回。
今回は、結論が出ない「大量真打ち問題」について。
〈柳家小さん一門の兄弟子だった立川談志は、毒舌家で、強烈なキャラクターの風雲児。昭和58年、真打ち試験の結果などに反発して落語協会を脱退、落語立川流を創設し、家元に。門下からは志の輔、談春、志らく、など実力派の落語家が育っている〉
談志師匠の小言はちょっと“別物”ですね。
ややこしい(苦笑)。
ここでこういうふうに怒る、と見せるところなんだ、とかね。
あのような「人物像」を自分で作り上げてしまったんだと思う。
だけど、実際はあれほど落語が好きな人はいないし、お客さんを大事にした人もいない 、と思います。
お客さんを喜ばせようとするサービス精神はおそらく一番だったでしょう。
先年亡くなった(橘家)円蔵師匠らとは「サービスの仕方」が違うんだけどね。
立川流といっても、もともとは同じ(小さん門下)ですから。
今、確たる地位を築き、人気者が出ているのも(協会を)出ていったからこそじゃないのかな。
〈談志は、小さん会長時代に六代目三遊亭円生らが落語三遊協会を立ち上げて出ていった協会分裂騒動(昭和53年)にもかかわっていた(談志は新協会のポストをめぐり、途中離脱したとされる)。このとき、分裂の主たる原因となったのは「大量真打ち問題」だ。円生らが主張した「芸のない者まで真打ちにするのか」、小さんらの「一定の年限で昇進させる」のか…。落語家の数が増えれば増えるほど、この問題に突き当たる。今でも結論は出ない〉
私(アタシ)はね、どちらも正しいと思う、というか、どちらも間違いではない。
答えなんて出ませんよ。
もちろん芸がある者しか真打ちにしないのが理想ですけど、落語家の数が少なかった昔
ならいいですよ。
今のように落語家が大勢いる現状(協会の落語家300人弱。うち真打ちが約200人)で、そんなこと(芸がない者は真打ちにしない)言ってたら二つ目(前座の次)でたまりにたまって永久に真打ちになれない。
私は、それはどうかなと思います。
東京の落語家にとって真打ちはやはり目標ですからね。
真打ちが、ひとつの「到達点」として、値打ちがあったのは(柳家)小三治師匠や(三遊亭)円窓師匠(いずれも昭和44年昇進)の時代くらいが最後でしょう。
今は、「到達点」ではなく、そこからが新たなスタートであり、勝負なんです。
10人一緒とか、単独でなった、とかも関係ありません。
伸(の)してくる人は伸してきますよ。
それにね、とりあえず真打ちにさせるのは一見、温情に見えますが、本当はどちらが「優しい」のか分かりませんよ。
真打ちになったはいいが、披露目(ひろめ)の後は(寄席で)1回もトリを取れない人だっているんです。
実際、使われる人は決まってきますからね。
上辺はいいけれど、こっちの方が本当はよほど非情かもしれません。
〈現在、弟子は7人。気質も違うイマドキの若者には驚かされることが多い〉
落語家になりたいのなら、当然知っているだろうという「常識」を知りませんねぇ。
例えば、芝居の忠臣蔵なんてまず知らない(落語には、忠臣蔵を題材にした噺(はなし)〈「淀五郎」「四段目」など〉がたくさんある)。
噺やマクラ(導入部分)に出てくる有名な川柳や俳句、ことわざも知らない。
大学の落研(おちけん)出身者でもそう。
学校じゃないから、こっちも一から教えるようなことはできませんし…。
いくら時代が変わっても「これくらいは知っておいてくれよ」という思いはありますね。

・・・今は、このスタンスが合っているんでしょうね。
圓窓師匠から直接お聞きしたんですが、師匠の時は、一人だけの先輩を何人か飛び越えての真打昇進で、当時寄席が7軒あったので、70日間披露興行をしたと。
若手の頃から勉強家で、持ちネタが多かった師匠は、披露興行のトリは全て違う噺をや
ったそうです。
要するに「70席」です。
懐かしそうに話されていたのが印象的です。

2017年6月14日 (水)

話の肖像画(2)

memo産経新聞の記事「話の肖像画」。
柳亭市馬さんの特集です。
大分県の出身。
高校時代は剣道に明け暮れた。
五代目柳家小さんへの入門は高校卒業後の昭和55年。
もらった名前が小幸(こゆき)。
約4年間、師匠の家で内弟子生活を送った〉
落語は好きだったけど、本気で“田舎モン”が落語家になれるなんて思っちゃあいませんからね。
それが、高校時代の剣道の先生のツテで(剣道が大好きだった)師匠を紹介してもらえることになって、後はトントンと話が進みまして…。
ウチの師匠は、めったにサシでは弟子に稽古はつけない。
それが私(アタシ)には、「(前座噺の)『道灌』を教えてやる」と言ってくれたんですよ。
兄弟子からは「いいなぁ、お前は剣道でハマってる(気に入られている)からなぁ」って、うらやまれてね。
それなのに、いつまでたっても教えてくれない。
あるとき、「稽古するぞ」と師匠に呼ばれて、喜び勇んでいったら、これが剣道の稽古だった(苦笑)。
師匠は強かったですよ。
師匠が範士(はんし)七段で私は三段。
結局、「道灌」は教えてくれなくて、「面倒くせぇから(兄弟子の)小里んに習え」って。
〈寄席の楽屋は、前座にとって修業の場でもある。師匠連中の着物を畳んだり、お茶を出したり、ネタ帳を書いたり。昔は落語の「小言幸兵衛」のように口うるさい師匠も多かった〉

 

「帯の結び方が違うよ。まともに着物が着れなくて、いい噺(はなし)ができるか」だの、「汚れた足袋で高座に上がるつもりかい。お客さんが見ていないと思ったら大間違いだぞ」なんて…のべつ小言をいっている師匠もいましたねぇ。
「うるせえジイさんだな」って思うんだけど、後から考えてみると“その通り”なんですな、これが。
楽屋で師匠方の世話をしたり、噺を聞いたり、漫才などの他の芸人を見ることが、前座にとってどれほど勉強になることか。
全部が血となり、肉となるんですよ、絶対に。
そうそう、林家彦六(八代目正蔵)師匠が当時ご健在でね。
“トンガリ”と呼ばれた激しさはなくなって、いいおじいちゃんになっていましたが、前座全員の名前を覚えてくれたのは、あの人だけでした。
たいていは「オイ」とか「前座」って呼ばれるんだけど、彦六師匠だけは2度目から、必ず名前で呼んでくれる。
それがうれしくてねぇ。
私も今になってまねをしようと思うんだけど、これがなかなか大変で、できません。
〈師匠の小さんは、落語界初の人間国宝(後に桂米朝、柳家小三治)。昭和47年から約四半世紀にわたって落語協会会長も務めた。一門は落語界きっての大所帯。弟子には、立川談志、柳家小三治、さん喬、権太楼、花緑など多士済々〉
師匠は、来る者拒まず、去る者追わずでね。
あまりにたくさん弟子を取りすぎて「こんなヤツいたかな」ってくらい(苦笑)。
サシで稽古をつけないのは、噺の間やイキなんてものは、教えられるもんじゃないからでしょうね。
だから、他の人の高座をソデから見て「必死で盗め」って。
師匠の「時そば」を見ているとね、どんな大きな会場でも寄席でも、そばを噛む回数がほぼ同じなんです。
このしぐさは、お客さんにウケるから、調子に乗って長くやりたくなるときもあるんだけど、師匠はやらない。
「そばの量は決まっているだろう、笑いが多ければいいというもんじゃない」というんですな。

・・・こういう世界っていいですね。

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