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2019年10月 7日 (月)

金田監督の思い出

国鉄の金田投手の記憶はあまりありません。
巨人の金田投手は頼もしかった。
星飛雄馬の大リーグボールの名付け親なんだそうですね。
私には、ロッテオリオンズ時代の金田監督が一番近い存在でした。
当時のロッテは「ジプシー球団」と言われて、川崎球場と宮城球場のダブルフランチャイズだったと記憶しています。
今は東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地として、ボールパークになっていますが、当時は県営の普通の球場でした。
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そのロッテが日本一になったのは、私が高校3年生の時。
巨人のV10が実現せず、憎き中日を叩きのめしてくれたのがロッテでした。
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翌年、仙台に行った私は、地元のテレビ局でアルバイトをしました。
当時のパリーグは2シーズン制で、前期と後期の優勝チームがプレーオフをすることになっていました。
3年生の私は、阪急ブレーブスとのプレーオフの宮城球場での全試合を、バックネット裏の席で、カメラマンと並んで座って観戦していました。
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当時は、今のようなVTR(デジタル)の時代ではなく、35ミリフィルムでカメラマンが撮影して一定の量になると、フィルムを持って球場の駐車場に行き、チャーターしているタクシーに、撮影済フィルムをテレビ局に届けてもらうためのメッセンジャーという仕事。
それでカメラマンの横でじっくり試合を観戦することが出来たんです。
阪急は、名将と言われた上田監督でした。
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結局、プレーオフに敗れてしまいましたが・・・。
エース村田、3番有藤、4番がリーだったと思います。
そう言えば、この時とは別に、一度だけ宮城球場のスタンドで売り子をしたこともありました。
コーラやビールや弁当を売りました。
確か、太平洋クラブライオンズとのダブルヘッダーでした。
当時のパリーグですから、観客は・・・パラパラ。
2試合でも、観客の数は知れていて、とても商売になりません。
一番高い席から呼ばれた時など、必死で駆け上がりました。
そうだ、売上の勘定がどうしても500円合わなくて、アルバイト代から引かれたんだ。
「俺は、こういう細かい仕事には向かない。銀行員にはなれない」と痛感したものでした。
球場の売り子のアルバイトは1日でやめました。
あの時も金田監督だったなぁ。

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