「ねずみ穴」と圓生師匠のこと
昨日の落語っ子連の稽古の際、少し時間に余裕があったので、初読み稽古の前に「ねずみ穴」に対する思い入れ(思い出)を師匠に話してみました。
この噺を初めて聴いたのは、NHKラジオの公開録音の演芸番組で、圓生師匠だったこと。
普段から、圓生師匠のレコードやテープでは聴いていたが、仙台では生で聴かせていただく機会もないので、公開録音ではあるものの、ほぼ生の圓生師匠を聴くことが出来るので、ラジオ(放送)に聴き入っていたこと。
当時76歳だったはずですが、ラジオから聞こえてくる声は、驚くほど素晴らしかった。
噺が始まって暫くして、圓生師匠の噺に重なる(遮る)ように、「ニュース速報」が入りました。
確か、1976(昭和51)年10月29日だったと思います。
「山形県酒田市で火災が発生して、現在も延焼しています」という。
これが、あの「酒田大火」の報道でした。
深川蛤町の三戸前の蔵が焼け落ちるシーンに重なって伝えられた大火のニュース。
当時は、音源や映像を入手するのも大変でしたから、私は満を持してこの放送を録音していました。
大火は、1700棟以上の建物を焼き尽くして翌朝やっと鎮火しましたが、最悪の災害となりました。
その後、この録音テープを聴く度に、途中で「ニュース速報」も聞こえます。
・・・師匠に話すと、「そりゃあ凄いねぇ」と仰りながら、「うちの師匠(圓生師匠)はね・・・」と話してくださいました。
この噺は戦後演る噺家はいませんでしたが、圓生師匠がこの噺を再構成し、昭和28年の秋にネタおろしをしたもの。
翌29年初めて放送の電波に乗りました。
その功績に対し、専属契約をしていたラジオ東京(TBS)の局長賞を受賞し、圓生師匠としても記念すべき作品となりました。
圓生師匠は、「里う馬」という噺家さんから習ったということです。
圓窓師匠もあまり知らない噺家さんで、年齢は圓生師匠と変わらないぐらいの人。
圓生師匠が柏木(北新宿)の自宅に呼んで稽古をしたと思うが、どうもはっきりしないし「里う馬」という人は聴いたことがないそうです。
ほとんど演る人がいなくなった噺を里う馬さんから聴いて、それをこれだけの噺にしたのは、うちの師匠(圓生師匠)。
うちの師匠の創作ではないけれども、代表的な噺だと言えるし、TBSから表彰されるなどして評価を一段と高めた噺であることは間違いない・・・。
そんな噺を演らせてもらうということですね。
気が引き締まりました。
ちなみに、「土橋亭里う馬」を調べてみると、恐らく「九代目(1892~1968)」だと思われます。
本名は黒柳吉之助。
生家は東京で一二を争う煙管に細工をする筋屋。
徴兵検査の20歳まで生家を手伝う。
1912年に最晩年の四代目橘家圓喬に入門。
喬松と名乗るが、半年後に師匠圓喬が亡くなったため、浅草帝国館で黒沢松声という弁士に入門するが半年ほどで長続きせず。
・・・まぁ、あまり腰の定まらない人だったようです。
(当代の立川流代表の「土橋亭里う馬」師匠は十代目です。)
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