「五百羅漢」で得たもの
いつも来てくださる、落研を創部された先輩の同期の方で、いつもやや辛口のコメントをされる大先輩が、握手を求めてくださって「良かったよ」と・・・。
かなりの冒険をした高座でした。
私は、自らが出演するだけでなく、落語会をプロデュース(大袈裟ですが)する立場にあります。
プロではありませんから、テーマを掲げたり、個別の演目のリクエストはしません。
基本的には、出演してくださる人の申告どおりにします。
それぞれが、自分の気に入った噺を存分にやっていただくことにより、前向きな会になるからです。
それでも、無条件ばかりだと、噺がついたり、変化がなくなったりしますから、適宜、他のメンバーのネタ出しを見てから、自分の噺を決めるようにしています。
今回は、最初のエントリーでは、「粗忽長屋」「お化け長屋」「粗忽の釘」「小言幸兵衛」・・・。
長屋と粗忽でついてしまうものが多い状態でした。
そこで、志ん志師匠のご尽力で、遠慮がちだった方にも入ってもらい、「三味線栗毛」と「宗論」と「初音の鼓」も加わりました。
さらに、寝蔵師匠が「粗忽の釘」から「宿屋の富」に変更してくださり、バラエティに富んだ演目が揃いました。
さて、私の演目は・・・。
皆さんのネタ出しを見て、人情噺をやろうと。
落語を覚えるというのはどういうことか。
高座本(ネタ帳)を読んで、一生懸命覚えて(暗記して)、それに仕草(所作)を加えて・・が、通常のプロセスかもしれません。
しかし、師匠や他の噺家さんから常々言われているように、「寿限無」や「金明竹」や「蝦蟇の油」など、必ず丸暗記しなくてはならない部分のある噺を除いて、決して活字で覚えない(暗記はしない)。
そのためには、正面から読み稽古を覚えよう(暗記しよう)としないで繰り返すことだと思います。
もし、高座本を使うなら、高座本と違う表現や語句を使う場合に、それを控えておくぐらい。
読んで行くうちに、自分の引き出しの言葉を、頭の中に自然に刷り込んでいく作業です。
だから、「覚えた」という実感はない。
自分の言葉で作り上げる途上で、高座本で使われている言葉だけでなくて、演出やストーリーを変えて行くことも。
そして、一旦、高座本で覚えていることは極力忘れて、全体の流れを俯瞰して、自分の言葉で語る。
当然、しどろもどろ、噛み噛み、テンポがバラバラ、感情移入が出来ません。
しかし、それを繰り返していくと、自分の経験や料簡が出て来てまとまって来る。
しかし、台詞や仕草は決めずに、高座(本番)で、その時の感情で出して行く。
「五百羅漢」は、後半の熊さんとおさきさんと寺の和尚の台詞は、全く固定せずに、その場面で、その時の勢いやテンポで、その時の雰囲気や感情で、その3人のいずれかに喋らせる。
噺を進行するための説明をする地語りは全てカットして、台詞と仕草だけでやる。
これは緊張するけれども、はまれば実に楽しい。
だって、生きた登場人物が、自分の中にいるんですから。
その領域を実感させてもらえた高座でした。
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