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久しぶりに参加の夢学さんは「厩火事」です。
以前から言っているように、個人的には女性にはやって欲しくない噺なんですが。
師匠から、「『桃太郎』 でも成功したから、この噺も、お崎さんが愚痴を言いに駆け込むのを、亭主の仲人だとか兄貴分にしないで、自分の姉にしたらどうだい?」とのアドバイス。
あぁ、これはまさに師匠創作の「救いの腕」のパターンですね。
確かに、前半を姉妹の会話にすると、私が女性が演って嫌な部分も、かなり緩和される気がします。
とにかく、男の演るコピーではなくて、女性の論理や立場で演って欲しい訳で、面白いトライアルかもしれません。
夢学さん、新年度(明日)から新しい職場に着任だというのに、稽古に遠路参加してくれました。
2012年9月の「千早亭落語会」では「鬼子母神 藪中の蕎麦」。
これもまた、師匠が創作されたものです。
「蕎麦」「雑司ヶ谷鬼子母神」「すすきみみずく」の三題噺のような噺です。
この時は、豊島区区制施行80周年記念イベントとして、千早地域文化創造館で稽古をしている「千早亭」「要亭」「千川亭」の3グループが一日ずっと落語会を開催しました。
そんなこともあって、豊島区のご当地ネタが良かろうということで、雑司ヶ谷鬼子母神を舞台にした、師匠の創作噺をやらせていただきました。
雑司ヶ谷鬼子母神の祖師堂と、薄で作った「すすきみみずく」。
高座の手拭いも、フクロウの柄にしました。
師匠のこの噺は、雑司ヶ谷鬼子母神の参道にある蕎麦屋を舞台に展開される人情噺ですが、元々、古くから伝承されている民話がベースになっています。
「すすきみみずく」は、江戸時代から雑司が谷に伝わる子供の玩具ですが、心やすらぐ民話伝承があります。
雑司が谷に「くめ」という親孝行な娘が住んでいましたが、家が貧しく、おかぁさんが働き過ぎがもとで病気になってしまいます。
薬も買うことのできない「くめ」は、優しいおかぁさんの病気が早く治るようにと、百度参りを始め、毎日毎日鬼子母神の御堂へと通ったのでした。
60日、95日…そして満願の日…、くめは、ついに疲れ果てて倒れ込んで眠ってしまいました。
すると鬼子母神の化身の美しい蝶があらわれ、「お前の気持ちはよくわかりました。この辺りはススキの多い処、そのススキでミミズクを作り御堂の前で売りなさい」と告げました。
くめがはっと目が覚めるとミミズクが木の上で鳴いていました。
家に帰ったくめは必死にすすきミミズクを作り、鬼子母神の御堂の前で売ると…、なんとすすきミミズクは飛ぶように売れ、おかあさんに薬が買えるようになり、おいしいものも食べさせてあげることができるようになりました。
おかあさんの病気もみるみるうちによくなり、幸せに暮らせるようになりました。
・・・というものです。
師匠の噺は、この「くめ」ちゃんと思しき女の子が、鬼子母神のお告げで、すすきみみずくを作って参道で売っていたら、心無い大人たちに邪魔されているところを、参道にある蕎麦屋の主と客が助けてあげるストーリーです。
民話を縦軸に、主人公に関わる蕎麦屋たちが横軸になって繰り広げられます。
親を思う気持ちと子どもに対する愛情を、鬼子母神を絡めて紡いで行きます。
大作ではありませんが、師匠の創作された名作の一つだと思います。
2012年3月の「千早亭落語会」では、「揺れるとき」にチャレンジしました。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-3428-2.html
この噺は、前年8月の「圓朝まつり」の「奉納落語会」で、師匠が自作実演された噺。
私も、その場で聴かせていただき、「いつかはやらせていただこう」と思っていたものでした。
「東日本大震災」があった年でしたから、「安政大地震」と「三遊亭圓朝」を軸にした、骨太の人情噺です。
簡単にあらすじをご紹介します。
安政2年10月2日(新暦では11月11日)。
相州神奈川宿で一人暮らしをしている盲目の元噺家「三遊亭西生」の家を、3月に真打に昇進したばかりの16歳の「三遊亭圓朝」が訪ねて来る。
西生は、6歳の圓朝が「小圓太」で初高座を勤めた日のことも克明に覚えていた。
自分は、人から頼まれると、出来も分かりもしないのに、すぐに「委細承知」と答えるのが口癖だという。
周りからは、「委細承知之介」と渾名で呼ばれた。
圓朝の父「橘家圓太郎」とも親しく、二人で身延山へお参りをした時も、「委細承知した」と先達を申し出たが、鰍沢あたりで道に迷ってしまった思い出などを語る。
(これが圓朝が「鰍沢」を創作するヒントになるように匂わせる)
西生は圓朝が気に入り、二人の会話は酒を酌み交わしながら延々と続き夜になる。
西生の師匠である初代圓生から教わった芸談から、圓朝は、西生に「寿限無」の稽古をつけてもらうことになる。
喜んだ西生が「寿限無」の佳境にさしかかる頃、突然大きな地震に襲われる。
これが、「安政の江戸大地震」である。
地震にひるんだ圓朝に、西生は微動だにせず「寿限無」を続ける。
そして、さらに西生の芸談や人生観が語られる。
時は流れて明治32年10月(新暦)。
あれから44年後の日本橋木原店の寄席。
「落語中興の祖」とまで言われ、功なり名を上げた圓朝も既に60歳。
前月から体調を崩していたものの、この日もトリで、自身の代表作「怪談牡丹燈籠」を演じる。
(実は、この日が圓朝の最後の高座になる。)
この寄席の芝居に、毎日通っている60歳前後の婦人がいた。
圓朝が「牡丹燈籠」を語っている途中に、また大きな地震が起きる。
ところが圓朝は微動だにせず噺を続ける。
そして客席でも、慌てて外に逃げ出してしまう客が多い中で、その婦人もまた微動だにせずに噺を聴いている。
寄席がはねた後、この婦人が楽屋に圓朝を訪ねて来る。
44年前に圓朝が訪ねて稽古をしてもらった西生の一人娘だと言う。
西生は既に亡くなっていたが、生前、圓朝が訪ねてくれたことを喜び、安政の大地震にも微動だにせず稽古を受けてくれた圓朝のことを褒めていたと。
そして、地震が起こってもびくともしなかった圓朝を、父親の位牌を抱いて聴いていたと。
圓朝は、西生の位牌を立てて、お経を唱える。
読経が終わった途端、位牌がパタンと倒れる。
「お父っつぁん、なんて情けない、自分でお立ちなさいな!」
「無理を言っちゃあいけません。師匠は、洒落っ気のある方だから、皆を笑わせようと、わざと倒れたんですよ。そうですよね、師匠」と西生に語りかけると・・・、位牌の方から、
「そうさ、位牌(委細)承知さ」
・・・色々な意味で、この噺は、ずっと暖め続けて行きたいと思います。
📱-📱 個人間のコミュニケーションツールとして、インターネットメールは本当に便利です。
今までの手紙や電話や電報や伝言や狼煙(のろし)は、手軽さ、やり取り出来る情報の量とスピードなど、到底比較になりません。
このブログも、メールの延長みたいなものですから、私も毎日、かなりの時間をインターネットの世界に身を置いていることになります。
メールのやり取りをする時に、以前から気になっていることが2つあります。
ほとんどの人がやっていることなので、「全然気にならない」とか「そんなことを気にするのはおかしい」と言われるかもしれませんが、天邪鬼には納得出来ないんです。
まずは、メールの「表題(件名)」についてです。
例えば、このブログと同じ「メールのマナー」という表題でメールを送信したとします。
受信者が、このメールに返信したいと思えば、「返信」を選べば、送信者が受信者になったメール作成ページが出て来ますから、そのまま入力して「送信」を押せば、簡単に返信が出来ます。
その際、何もしなければ、この返信メールの表題(件名)は、「Re:メールのマナー」です。
私はそれが気に入らない。
やはり、返信の内容を簡単に表現した件名にするのがマナーだと思うんです。
特に件名を変える必要がなければ、せめて「Re」を取るべきでしょう。
私は、必ず実効しています。
私からメールを受信されたことのある方は、気づいておられるでしょうか?
例えば「○○の件」というメールが来たら、そのまま返さずに「了解(しました)」とか「ありがとうございます」というように。
「Re:○○の件」は失礼(申し訳ない)と思うんです。
かなり古いメールを、全く内容の違う内容にも関わらず、そのままの表題(件名)で返信すると、ややこしいことになることもあり得ますから。
次に、メール文の中での引用についてです。
例えば、「東京は良い天気です」という文を送信した返信で、このフレーズをそのままペーストして、それにコメントを入れるパターンです。返信メール文は「>東京は良い天気です こちらは雨です」となります。
特に目上の人に対してはどうかな?と思います。
機械的で、心がこもっていないするんです。
何か添削されたみたいにも思ってしまう。
この場合は、「東京は天気が良いようですが、こちらは雨です」と返信するべきでしょう。
自分があまり良い気分ではありませんから、この2点だけは、相手のことを考えて気を使っています。
面倒くさいオヤジですね。
国立演芸場の、平成30年度「花形演芸大賞」の受賞者が発表されました。
【大賞】 江戸家小猫
【金賞】 神田松之丞 桂吉坊 三笑亭夢丸 坂本頼光
【銀賞】 古今亭志ん五 うしろシティ 入船亭小辰 桂雀太
・・・今年は色物さんが大賞受賞ですね。
最近は、なかなか聴きに行かれないので。
でも、小猫さん良かったと思います。
これで、師匠で父親の故江戸家猫八師匠も、安心されるでしょう。
今日から、2019年のプロ野球ペナントレースが開幕します。
もう、プロ野球にもあまり興味がなくなって久しくなりますが、それでも、サッカーやバスケットなどに比べたら、野球と相撲の方が気にはなります。
今、センバツ高校野球ももやっていて、郷土の高校を応援するのは、昔と変わらない景色ではあります。
ただし、特に私立高校では、選手は地元出身の選手は少なく、必ずしも純粋な郷土代表と言えないかもしれません。
面白い記事がありました。
プロ野球選手の「出身都道府県ランキング」という・・・。
Jタウンネットが、NPB公式ウェブサイトと12球団の公式ウェブサイト、その他の資料を参考に、出身地のランキングを発表。
出身都道府県別ということで、全12球団の809人の登録選手の中から、外国人選手は除いたもの。
上位はいかのとおりだそうです。
・・・やはり、大阪府がダントツなんですね。
外国人選手を除く全体の10%が大阪府出身ということです。
後は、人口の多いところ、プロ野球球団があるか、そこに近いところなどが多くなってるようです。
高校野球が強い都道府県ということも言えるかもしれません。
これは、卵か鶏かかもしれませんが。
さて、この表には出ていませんが、下位はどうだろう・・・?
出身地ランキング最下位はどこだろうということですが・・・。
「山梨県」と「鳥取県」が1人で、見事に最下位を分け合いました。
プロ野球選手約800人の中で、山梨県出身者と鳥取県出身者はたった1人ずつ。
それはそれで、貴重なこと・・・というか、「絶滅危惧種」ですね。
一昔前、我が町出身の若者も広島カープに入団しましたが、残念ながら引退しています。
そのかつての朱鷺、現在のジュゴンのような選手は誰か?
東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する「渡邊 佑樹」投手だそうです。
富士吉田市出身の23歳。背番号は「47」。
まだ、一軍登板はないようですが、とにかく頑張って欲しい・・・。
・・・噺家さんでやってみようか・・・。
東京かわら版のあの年鑑で。
知っている限りでも、大月ご出身の師匠をはじめ、ベテランの噺家さん何人かいらっしゃるから、最下位ではないでしょう。
「フィーバー」なんて古いフレーズは、今時使われてはいませんが・・・。
まぁ、巷では、新元号の発表を間近に控えて、無責任に大騒ぎしています。
今朝のテレビのニュースで、自分の住む町名が前評判が高いというので、イベントや名物作りを一生懸命にやっている町が紹介されていました。
素朴に、そんなことをしたら、仮に採用されそうになっても、それを理由に回避されるに決まっていると思うのですが・・・。
そうしたら、朝日新聞にこんな記事が出ていました。
平成に代わる新しい元号について、政府は民間の元号予想ランキングで上位となっている案をなるべく避ける方針だ。
4月1日の有識者による「元号に関する懇談会」などに提示するのは5案以上とする。
新元号は同日正午までをメドに菅義偉官房長官が発表し、その後に安倍晋三首相が首相談話を発表する方向で最終調整している。
複数の政府関係者が明らかにした。
元号選定手続きの要領で定める六つの留意事項は「国民の理想としてふさわしいような、よい意味」「漢字2字」「書きやすい」「読みやすい」「これまでに元号またはおくり名として用いられたものでない」「俗用されているものでない(広く一般に使われていない)」。
政府はこれらに加え、いくつかの条件などを考慮するという。
民間で流行している元号予想で取り沙汰されている「安久」などの案について、政府関係者は「俗用の一種に当たるので、なるべく避ける」と語る。
よくある人名や大企業名などは使わない方針だが、中小企業や小さな商店などの名前と重複することはあり得るという。
政府高官は「俗用されていても、よい意味であれば総合評価で選ばれることもある」と話している。
はい、ということで、「宮崎県都城市安久町」の皆さん、残念ながら騒いでも無駄ですよ。
何と言っても、新元号は、偉ぁ~い漢文学や国文学の先生方が考えるんですから、どう転んだって「希望」や「未来」や「羽生」なんて、俗っぽいものを選ぶはずがありませんよ。
それなら、「富久」とか「御慶」とか「長命」なんていう、落語の演目でいい。
場合によれば、「文治」「伸治」「菊寿」「百栄」「吉幸」「希光」など、落語協会と落語芸術協会の噺家さんの名前にもありますよ。
(あぁ、「文治」は既に昔あったかもしれませんが。)
いよいよ発表は3日後です。
病気だったんですね。
グループサウンズのアイドルとして、テレビドラマや映画でも活躍して、最近はあまり露出は多くありませんでしたが。
「神様お願い」「エメラルドの伝説」・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=IUwIfXgXOoM
https://www.youtube.com/watch?v=DfSzKWWWgZM
「純愛」なんていう歌もありました。
https://www.youtube.com/watch?v=oblKy_Upskk
ドラマでは「太陽にほえろ」「傷だらけの天使」・・・。
色々、お騒がせもありましたが、やはりスターでしたよね。
今日は、ザ・テンプターズを聴くことにしよう。
さいたま市出身。
1967年にグループサウンズの「ザ・テンプターズ」のボーカルとして16歳で芸能界デビュー。
「神様お願い!」「エメラルドの伝説」「おかあさん」などの大ヒット曲を生みだした。
グループの解散後は俳優へ転向。
日本テレビ「太陽にほえろ!」や「傷だらけの天使」など多数のドラマに出演し、「太陽にほえろ!」では新人刑事のマカロニ役で人気を集め、殉職シーンが話題となった。
また、映画「影武者」「八つ墓村」「青春の蹉跌(さてつ)」などに出演したほか、サントリーの「モルツ」など多くのCMに出た。
一方、大麻所持や映画出演料を巡る恐喝未遂容疑で逮捕されるなど、スキャンダルでも世間を騒がせた。
2011年から闘病していたが、容体が急変した。
2011年10月の「第3回千早亭落語会」の演目は「救いの腕」。
この噺を師匠の一門会で聴いて、時間が経てば経つほど、何となく気になって来て、とうとう稽古をお願いすることになりました。
師匠も、ご自身の創作ですから、大変喜んでくださいました。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/09/post-6e66.html
「あたしの弟子はやってくれないんだよ」なんて・・・。
あらすじをご紹介しておきましょう。
お香(こう)が姉のお里の家に来て、5年前に夫婦になった夫の善吉に愛想が尽きたと言い出す。
その原因は、真面目な善吉は、大きな声をあげたり、遊びに出掛けたり、お香を殴ったりすることもなく、毎日毎日決まった時刻に仕事から帰り、家で本ばかり読んでいるのが嫌だ。
他人からみれば、非の打ちどころのない善吉とは、もう一緒にいられないという。
それに比べて、遊んでばかりで、ろくに家にも帰らず、たまに帰ると付き馬を連れて来たり、暴力をふるい、お里も殴り返したりしている姉のお里夫婦がとても羨ましいと。
お香は、実は子どもの頃から「この人と一緒になりたい」と思っている人がいると告白する。
お里が誰かと尋ねると、15年前の10歳の時、(お里が)勝手にお香の下駄を履いたことで喧嘩になり、一人で家を飛び出して行った向島で、川に落ちて溺れてしまうが、その時に助けてくれた、太くて逞しい腕の人なんだと言う。
誰だったのかは未だに分からないが、お香は、いつか必ずこの人にめぐり会えると思い続けていた。
お香は、善吉と一緒になったのは、お里が善吉と夫婦になるだろうと思っていたので、下駄の仕返しにと軽い気持ちで善吉に言い寄ったら、意外にも善吉が乗り気になってしまい、後に引けなくなったからだと言う。
それでも、一応自分で納得して夫婦になった。
しかし、他人から見れば、真面目一方で全てよしの善吉にはもうついて行けないと、お里に向かって愚痴を続ける。
お里は、ちょっと工夫して、今までとは違う何か新しいことをやってみたらと諭す。
そして、とりあえず二人で向島の花見に行ってみてはと勧める。
お里に諭されたお香は、家に帰って善吉を説得して向島に誘い、翌日二人で行く約束をし、その夜お香は先に布団に入る。
翌日、二人は向島に花見に出かけるが、お香は15年前に自分が溺れた場所を探そうと、一人でどんどん進んで行く。
どうやらここらしいという場所を見つけ、土手の草の上に腰をおろしていたが、上流から流れて来た桜の枝を取ろうとして、誤って川へ落ちて溺れてしまう。
するとまた15年前と同じように、太くて逞しい腕が入って来て助けてくれた。
・・・ところが、これはお香が見た夢だった。
お香が、どんな夢だったのか話をすると・・。
善吉:「・・・そう言えば15年前だ・・・。」
お香:「15年前・・って、何があったの?」
善吉:「向島でな、溺れた女の子を助けたことがあったよ。」・・。
この噺に取組んでの感想などを、高座本に載せていただくことになり、以下のような一文を書きました。
「圓窓五百噺」の第499番目、師匠が女性作家の唯川恵さんの短編小説をヒントに創作された噺。
今まで演ったことのないパターンの噺にチャレンジしてみようと、師匠にお許しをいただいて取組んでみました。
男が、男の目で、男を主人公にして口演される噺が多い中、女性を主人公にして、女性の会話だけでストーリーが展開して行きます。
ところが、原作者の師匠しか口演されていない噺で、しかも女性同士のやり取りが続くために、今まで経験したことのない高い壁にぶつかってしまい、なかなか出来上がらず、本当に悩みました。
「耳慣れない噺だから、とにかく耳で慣れることだよ」と師匠からのアドバイス。
そして苦心惨憺の上で臨んだ本番の高座の当日。
客席には、おかげさまで中年の女性を中心にいっぱいのお客さま。
マクラをふって本題に入って暫くした時でした。
ちょっと不思議な感覚に捕われました。
喋っているのは確かに私なのですが、噺を進めているのは私ではないのです。
話の中の姉妹の会話が客席に入り、観客が噺を引っ張って、拙い私を助けてくれている・・??
オチの後に、「あぁぁ・・」という溜息のような声が聞こえました。
「自分のことのように聴きました」「身に詰まされてしまいました」と、何人もの女性の方が声をかけてくださいました。
実は、自分では予想もしていなかった反応でした。
「あれは、私が喋った噺ではない。演者を越えて、作品と観客の方々が勝手に共鳴して出来上がった高座だった。」そんな気がします。
師匠から頂戴したこの噺、これからも大切にし、折に触れて口演を繰り返してみたいと思っています。
再びあの快感と感動に出会えるように。
・・・懐かしいなぁ。
出張先の大阪のホテルの部屋で、池上彰さんの番組を見ていたら、ニュース速報のテロップが1回だけ出て、「萩原健一さん(68歳)死去」って流れた気がしましたが・・・。
えっ?ショーケンが?
センバツ高校野球で、千葉県の習志野高校が、優勝候補の石川県の星稜高校を破りました。
が、試合後に「サインを盗んだ」と星稜高校の監督に怒鳴り込まれたそうです。
試合中には、近隣から、応援団の音量が大き過ぎるという苦情が殺到したそうです。
「美爆音」と言われているそうです。
甲子園の喧騒に慣れているはずの近隣から苦情が出るなんて・・・。
どうでもいいけど、フェアにやってよ。
母からメールで「習志野おめでとう」って。
田舎に住んでいると、お年寄りたちは、地元の高校や地元でなければ近隣とか東北や北海道の高校を応援します。
私が千葉県に住んでいるから、習志野高校を応援していると思うんでしょう。
まぁ、強いてどちらかと言えば、少しぐらいは肩入れするかもしれませんが、別におめでたいという訳ではありません。
確かに、特に地方対抗のようなスポーツでは、県、地方、東北(北海道)の順に応援する傾向があります。
それに加えて、近しい人に関わりがあれば、東西南北に関係なく応援するようになる。
例えば、最近では、娘の婿と息子の嫁の出身県が加わりました。
突然ですが、竹の花の話題。
よく考えてみると、竹の花を見たことはありません。
実家は、筍の産地で、竹林は多くありますが・・・。
というより、竹の花が咲くのはよくないことの前兆だと言われています。
確かに、竹はめったに花を咲かせることはないそうです。
そして、一旦花が咲くと一面に広がっていた広大な竹林が一斉に枯れてしまうそうです。
これは、地上に出ている部分は、1本1本独立しているように見えますが、土の中では全て地下茎でつながっていてることもあるそうですから、一斉に枯れてしまう訳です。
竹が一斉に花を咲かせると、地下茎も一斉に枯れてしまいます。
枯れた翌年には回復笹と呼ばれる小さな笹状の地上茎が多数発生し、次第に大きくなり回復していきますが、完全に回復するまでに約10年かかるといわれています。
・・・なるほど、竹の花が咲くと、竹林全体の竹が枯れ、元の状態に回復するまでに長い年月が必要だったことから、昔の人は、竹が花を咲かせると、開花病、十年枯病などと呼び、気味悪がり、天変地異など不吉なことの前触れだといって恐れたということですね。
竹なだけに、あながち妄想(孟宗)ではなかったんだ。
・・・竹なんて、身近なものですが、不思議な生態なんですね。
「扇子っ子連・千早亭」は、正式スタートの半年後、早くも大きな試練にぶつかりました。
「第2回千早亭落語会」は2011年3月13日(日)の予定でした。
私は、学生時代の持ちネタの「花色木綿」をネタ出ししていました。
・・・ところが、その前々日に「東日本大震災」が起こりました。
東京でも、交通機関が乱れるなど大混乱。
「東京落語会」など、ほとんどのイベントが中止されました。
「千早亭落語会」についても、メンバーの間で議論されました。
私は、震災対応で自宅にも帰れず、会社に泊まらざるをえなかったので、開演する場合には休演せざるをえない状態でした。
結局、「中止」を決めて、師匠のところに報告に行ったところ・・・。
https://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_2.html
https://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_7.html
https://ensou-rakugo.at.webry.info/201103/article_8.html
・・・師匠とのやり取りがあり、「延期」することになりました。
余談ですが、この時のことがきっかけで、師匠が創作したのが「揺れるとき」です。
2ケ月後の5月15日に「第2回千早亭落語会」が開催されました。
「花色木綿」は、学生時代に一番多く高座にかけた噺ですから、まぁ無難には出来たと記憶しています。
思えば、2年生の最初の噺、自身として3番目の演目に選んだのが「花色木綿」。
五代目柳家小さん師匠の「出来心」、八代目春風亭柳枝師匠の「花色木綿」をベースに、マクラの部分は五代目春風亭柳朝師匠の「やかん泥」など、色々な音源を参考にさせていただきました。
不思議なもので、今でもすぐに出来るというのは、若い時に覚えたからでしょう。
新元号の発表が近づいて来ました。
今まで(大化から平成まで)274の元号があるそうです。
新元号は、漢字2字で、ま行・た行・さ行・は行の音以外で始まるものになるのが原則?のようです。
274の元号で使われた感じは、意外に少なく72字。
ということは、何度も使われている字もあるということ。
最多回数なのが「永」。
「寿限無」と同じように、「長い」というのが縁起が良いですし、字面も美しいですから。
ところで、私の千早亭でのり高座名は「永久(とわ)」でしたが、なんと「永久(えいきゅう)」という元号が実在したのを知りました。
平安時代の末期、1113年からの数年間、鳥羽天皇の時代です。
当時は、「一世一元」ではなかったので、鳥羽天皇時代も元号が複数あります。
この鳥羽天皇の後が崇徳天皇(崇徳院)ということになるようです。
さぁ、どんな元号になりますか。
4月から暫く休ませていただくことにした「扇子っ子連・千早亭」。
スタートから9年間の間に、16の演目を高座にかけました。
それを振り返ることにします。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2010/07/post-e5fd.html
まず最初は、2010年7月の「千早振る」。
豊島区千早地域文化創造館で開講された「三遊亭圓窓の落語教室」第1期の 修了発表会でした。
それが、記念すべき「第1回千早亭落語会」になって行きます。
この時は、受講生が14名いたんですね。
「千早亭」の亭号を名乗るグループなんだからということで、私が選んだのは「千早振る」でした。
私が落研で2席目(1年生の後半)に演った噺でした。
と言っても、当時は、確か三遊亭小圓朝師匠の速記で覚えましたが、すっかり忘れていましたので、改めて柳家小さん師匠をベースに、何人かの師匠の音源を参考にさせていただきました。
落語と短歌(和歌)や俳句などとの繋がりは多く、この噺も典型的な前座噺です。
「とは」と言うのは・・・、「千早の本名」です。
私の高座名は「千早亭永久(とわ)」ということになりました。
この噺、落ち着いてじっくり演ると、とても面白くなる気がしますが、当時は、そんな余裕もありませんでした。
また余計なことをしてしまいました。
最近、落研のホームページがリニューアルされました。
大変読みやすくなったのは良かったのですが、1ヶ所気になるところがありました。
それは、冒頭部分にあります。
「日本で二番目に古い落研」という部分です。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2019/03/post-f3ba.html
どういう基準(根拠)で「日本で二番目」と宣言しているのか・・・?
大学の落研と言えば、「早稲田と東大が一番古い」というのが通説です。
創部年で見ると、早稲田と東大と我が落研の間には、分かる範囲でも数大学の落研があります。
・・・迷いましたが、黙っていようと我慢していましたが、やはり誤ったままではいけないので、ホームページの問い合わせにメールをしました。
うるさい舅みたいだと嫌われるかもしれませんが。
先日の「千早亭落語会」は18回目。
扇子っ子連がスタートして間もなく9年になります。
2010年6月から7月に開講された「三遊亭圓窓の落語体験教室」から始まりました。
既に、「落語っ子連」で師匠から稽古をつけていただいていた私は、師匠からのお誘いもあり、参加(受講)することにしました。
講座には12~3名が参加していました。
元々、師匠が力を入れている「落語の授業」との関わりで、小学校の先生を対象にするイメージで、数名の先生がいらっしゃいました。
初回は、大きな声を出そうということで、「寿限無」を父親や母親や友たちの役になって「寿限無、寿限無・・・」と。
2回目では名前を決めることになりました。
私も、いくつか候補を考えました。
講座の場所が、豊島区千早地域文化創造館なので、亭号は「千早亭」にしようということで。
当時の記録を見ると、「千早亭弥ハ」「千早亭揚平」「千早亭流香」なんていう、訳の分からないものがあります。
「三流亭流三」と同じパターンの「千早亭早千」というのも考えたようです。
結局、師匠が、在原業平の名歌「千早振る・・・」に因んで考えてくださった名前を、アミダくじで決めることになりました。
私は「千早亭永久(とわ)」を引きました。
「千早振る 神代も・・・・水くくるとは」です。
でも、師匠から、この名前は女性につけようと思っていたそうです。
師匠が、男女のメンバーの数を間違えたので、最後に残った「永久(とわ)」が、私に回って来たという訳。
・・・そんなふうに始まった落語教室が7月に終了発表会を行いました。
これを「第1回千早亭落語会」としました。
講座終了後に、有志のメンバーで、アマチュアグループ「扇子っ子連」が立ち上がりました。
東日本大震災の2日後に予定されていた発表会を開催するかどうかで、色々ありました。
結局、5月に延期して開催しました。
この「扇子っ子連」も、あれから9年経ちました。
仕事の関係と、私自身の落語に対する方向性なども考えて、この3月末で、休会することにしました。
火曜日夜の稽古、最近出張と重なるようになり、なかなか参加も出来なくなっていましたから。
メンバーも増えて、多士済々となったので、ちょうどよい引き際でもあると判断しました。
瀬古利彦さんは、我々世代の英雄でした。
ピークの時にモスクワ五輪ボイコットで、結局メダルを獲れずに引退しましたが。
山下泰裕さん、高田裕司さんと3人はヒーローでした。
当代の三遊亭圓楽(当時の楽太郎)さんにも似ていたし。
今のご自身の立場は、まずは来年のオリンピックのマラソンが最優先だと言うのも分かります。
「貴方は、オリンピックが全て、何よりもオリンピック優先だからね」。
日本陸上競技連盟の長距離・マラソン強化戦略プロジェクトリーダーの瀬古利彦さんが、2「サンデーモーニング」(TBS系)に生出演して、公務員ランナー川内優輝選手に「喝!」を入れた。
東京五輪選考レース「MGC」の出場権を獲得しながらもこれを辞退し、世界陸上出場の意志を表明している川内に苦言を呈したもの。
案の定、ネットでは瀬古さんの発言に批判の声が続出しているそうです。
ずいぶんと高いところからの発言、決めつけた発言だこと。
「ドーハは困りますよねぇ」
川内選手は、先日の「びわ湖毎日マラソン」で、2時間9分21秒で日本人2位の8位に入った。
このレースはドーハ世界陸上の代表選考を兼ねており、世界陸上出場はほぼ確実。
世界陸上の男子マラソンは10月6日スタート予定のため、9月15日開催のMGCの掛け持ちは現実的に不可能。
このため川内選手は、世界陸上を優先させる発言をしており、これに対して瀬古氏が「喝!」を入れたもの。
瀬古さんは「我々だってね、オリンピック目指してるわけですよ。MGCだって盛り上げなきゃならないのに、ドーハは困りますよねぇ」と、川内選手の選択に苦言。
さらに川内選手が世界陸上を選んだ理由について「彼は暑さに弱いんですよ。ドーハは夜中の12時にスタートなんで。砂漠ですから、朝晩涼しい、砂漠ですから。だからそっちを選んだという」と説明した。
・・・いいじゃないですか。
素晴らしい選択だと思います。
ネットでも、批判が殺到しているようです。
「こういうのがパワハラ。自由を奪ってはいけない。」
「こんな暴走発言を放置してよいのか?」
「川内選手の自由だと思う。喝は瀬古さんの方」
「むしろ陸連の幹部なら『世界選手権頑張ってこい』と背中を押してやるべき。」
川内選手は4月からプロに転向し、公務員ランナーからプロランナーとして活動の場を広げていく予定で、しかも、今般同じマラソンランナーと婚約したそうです。
彼の人生に、余計なことを言う資格はありません。
それでなくても、過保護の選手ばかりで、全くの不成績の時に、川内選手は孤高を貫いて、国内のひ弱なエリートランナーを凌ぐ素晴らしい成績を上げていた、マラソン界の救世主です。
彼に1億円をあげたいぐらいでいすよ。
自分の立場や価値観でとやかく言うのは、やはり思い上がりだと言われても仕方がないと思います。
もう、どの世界でも、オジサンの価値観を押し付けるのはやめましょう。
ダイバーシティの時代なんですから。
最近は、「ドライブレコーダー」装着の車も増えて、違反や事件の動かぬ証拠になった
りして、全てバレバレ。
良いやら悪いやら・・・?
これは、ドライブレコーダーではないと思いますが、先日開通した「中部横断道」の開
通区間を走る投稿が、チューブにたくさんありました。
「東名(新東名)の清水JCTから富沢IC」と、逆のパターン。
それから、同日開通した「六郷ICから下部温泉早川IC」の分も。
https://www.youtube.com/watch?v=P9ihMFU2hEQ&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=6xvbbp_TjuM&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=DBmio0SgqXg&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=E_t12lHnQJk&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=I3cl4A5V8Dk&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=2m4S0aC07lE&app=desktop
開通当日は雨で、ちょっと見づらい映像もありますが、なかなか立派な自動車専用道路です。
今度帰省する時には、この路線を通ってみようと思います。
ユーチューブで、面白いものを見つけました。
「笑点」の司会者やメンバーなどが座っていた席順を、時系列にアニメで紹介しています。
https://www.youtube.com/watch?v=hC2S_X1lP8Q
例えば、1975年当時はこうでした。
左から、三波伸介(司会)、桂歌丸、林家木久蔵、三遊亭圓窓、三遊亭圓楽、林家こん平、三遊亭小圓遊、松崎真(座布団運び)の順。
若き、35歳の圓窓師匠も、兄弟子の圓楽師匠と真ん中に並んで座っていました。
何と言っても、50年の歴史がありますから、年によっては、目まぐるしくメンバーが代わったり、席順が変わったりしています。
圓楽師匠が司会者だった頃は、何年間もメンバーも席順も不動だった時期もあるようです。
オリンピックの前年、いよいよ来年が本番です。
先月の池江璃花子選手の病気だけでなく、日本水泳界にはもう1つ心配事があるようです。
2016年リオデジャネイロ五輪400メートル個人メドレー金メダリストの萩野公介選手が、今夏の世界選手権代表選考を兼ねた4月の日本選手権を欠場すると発表。
モチベーションの維持の難しさなどを理由に挙げており、現在は練習も行っていない。
東京五輪を目指すことには変わりないが、スケジュールは白紙で世界選手権も事実上断念。
五輪前年に“無期限休養”する異例の事態となりました。
心と身体のバランスが不安定になっているのでしょうか?
我々凡人には想像もつかない、様々な困難があるんでしょう。
とにかく、取り敢えずゆっくり休んで、自分のことだけを考えて、戻って来て欲しいと思います。
「我が落研が日本で2番目に古い」という誤報を確認しようと、ちょっと調べてみました。
在京の大学の落研のHPやSNSから、分かる範囲で。
創部年月を明記している大学落研は少なく、周年記念年から推測した分も含めて、こんな感じになりました。
◆早稲田大学 昭和23年
◆東京大学 昭和25年
◆法政大学 昭和28年
◆中央大学 昭和32年
◆國學院大學 昭和32年
◆学習院大学 昭和33年
●東北大学 昭和34年
◆明治大学 昭和36年
◆駒澤大学 昭和41年
◆明治学院大学 昭和42年
◇北海道大学 昭和42年
◆一橋大学 平成26年
・・・青山学院大学や立教大学や慶應義塾大学なども、かなり古いと思います。
何番目かはともかくとして、確かに我が落研の歴史は、恐らく在京・在阪の大学を除けば、一番古いかもしれません。
勿論、正確なところは分かりませんが。
なお、上方(在版)の大学は調べませんでしたが、同じように古い大学は多いと思います。
いずれにしても、大学の落研は、昭和30年前後の創部が老舗ということです。
ニュージーランド。
ニュージーランド南部クライストチャーチで、イスラム教の礼拝所(モスク)で男が中にいた人たちに銃を乱射するという、大変な事件が、起こりました。
乱射は別のモスクでもあり、死者は計49人、負傷者は48人に上り、容疑者3人を拘束。
クライストチャーチはニュージーランド南島の東海岸にある、英国の遺産で有名な都市です。
東日本大震災の直前に、大きな地震があり、日本人も犠牲になったのは記憶に新しいですが、治安が良い国というイメージだったので驚きました。
ニュージーランドの地図を見ると、日本列島の北半分(北海道と本州の半分)に似ています。
クライストチャーチの位置は、ちょうど仙台あたりの感じに見えます。
首都のウェリントンは、函館あたりかな?
先日の落語芸術協会の真打昇進披露会見の時の、会長代行の三遊亭小遊三師匠と三遊亭圓馬さんのコメントが、印象的です。
真打に昇進する3人への心構えを求められて。
「私だったら落語家にはならない」と切り出し、「今の世の中、人数が増えすぎちゃっている。競争が大変。われわれの時代はみんなでダメになっちゃえとやってたけど、(今は)覚悟をしていただかないと」と辛口激励。
門戸開放が当たり前の落語界だが、あれよあれよと飽和状態に。
これはいかんとばかりに、団体によっては入門年齢の上限を設けたり、前座の定員制を設けたりと慌てるところも。
小遊三師匠の嘆きが危機感を如実に表します。
三遊亭圓馬さんの発言も核心をついていました。
昇進する弟子の藍馬さんは2児の母で奮闘しているが、圓馬さんは広く女性の落語家への期待をこう語っています。
「女流の噺家は増えていますが、寄席でトリを務めるところまで行っていない」と現実を指摘し「どうにか寄席の看板になって自分の色を深く出してもらいたい」と。
東京で初めて女流の落語家が修業を始めて40年弱。
華やかな女流真打ちは多く誕生しているが、寄席でトリを務め、客席をいっぱいにできる看板はまだ育っていない。
男社会だったころの落語界への遠慮もまだあるし、そもそも落語界が、誰かと闘ったり既成概念や岩盤をこじ開けてのし上がっていく世界ではない。
とはいえ、女性の大看板も出てほしい。
歴史的に見れば、女流落語家はまだヨチヨチ歩きを始めたばかり。
女性が落語をやることには、プロアマを問わず、女性の世界を創り出さないと、今のように男を女に代えるだけではダメでしょう。
まず落語の基本や型を忠実に身につけ、さらに女性の観点から世界や空間を組み立てること。
今のままで女性が演る「お見立て」や「紺屋高尾」や「厩火事」などは聴きたくありませんから。
今日も、開演からゆっくり聴くことが出来ました。
新真打は、真打昇進時、師匠の前名林家九蔵が襲名出来なかった好の助さんでしたが、名前と異なり、あまり好感が持てませんでした。
遊雀さんは久しぶりでしたが、25分の持ち時間を16分で降りたと幸丸師匠が言っていましたが、やや期待外れでした。
幸丸師匠は、得意の評伝シリーズ。
これはこれで面白いとは思いますが、純粋な落語ではないですよね。
オチがありませんから。
扇遊師匠は、期待通りの「ねずみ」でした。
参考になる点がいくつかありました。
彦いちさん、オチが良くなかった。
圓窓師匠なら、「ダメ!」と言われるでしょう。
トリの雲助師匠は、比較的ライトな演出だったと思います。
終わって、いつもの通り、いつもの店で、頓平師匠と一献。
上方落語の名跡「桂小文枝」が復活しました。
桂きん枝師匠が、四代桂小文枝を襲名し、披露公演が「なんばグランド花月」で開かれたそうです。
師匠で「上方落語四天王」の一人、故五代目桂文枝師匠が長く名乗っていた名跡で、師匠の命日に襲名。
「あと何年、小文枝でいられるかわからないが、師匠に一歩一歩近付くよう、これから精進してまいります」と。
小文枝師匠は、1969年に三代目桂小文枝(当時)に入門。
大阪の人気テレビ番組だった「ヤングおー!おー!」にレギュラーで出演して、一躍売れっ子になりました。
途中、色々あったようですが、昨年まで上方落語協会の副会長を務め、演芸場「神戸新開地・喜楽館」の設立準備などを担当。
師匠の五代目文枝(三代目桂小文枝)師匠は、58年の落語家人生のうち38年間「小文枝」を名乗っていたので、お弟子さんたちにとっても思い入れの強い名前。
トリの高座では、師匠も得意とした「天神山」を演じたそうです。
・・・テレビ番組「ヤングおー!おー!」は懐かしい。
大阪のテレビ局の番組でしたが、静岡放送でも放映していて、確か土曜日の午後で、学校から帰って視聴していた記憶があります。
この番組の中で結成された若手落語家4人のユニット「ザ・ぱんだ」のメンバーでした。
きん枝さんのほかのメンバーには、「月亭八方」「桂文珍」「林家小染(四代目・故人)」さんたちがいました。
写真を見ると、何となく面影が残っていますが、左端の文珍師匠だけは、誰だか分からないほど変わっています。
個人的には、やや弟分的な存在だったきん枝さんと、残念ながら亡くなってしまいましたが、いかにも大阪の噺家さんという雰囲気だった小染さんが好きでした。
記憶が確かなら、「きん枝」という名前は、本名(苗字)が「立入」さんだったので、「立入禁止」から来たはずです。
落研のホームページがリニューアルされました。
少し垢抜けましたね。
まぁ、落研が連綿と続いているということで、OBの1人として、とても嬉しいものです。
・・・ただ、1つだけ、気になる表現がありました。
「東北大学の落語研究部は日本で二番目に古い落研という伝統があり、今では東北大学の学友会正規団体である部活動として活動を続けています。」
確かに60年という歴史は、国内屈指の伝統ではありますが、「日本で二番目に古い落研」 というのは???です。
少なくとも、東大と早稲田の落研の創部は昭和20年代ですから二番目ではないし、在京や在阪の多くの大学も、30年前後に創部したところが少なからずあると思います。
我が落研は、昭和34年ですから・・。
地方の国立大学では・・なら。
まぁ、いいか。
道路が新しく開通するというのは、その影響の大きさにハッとするものです。
先日、「中部横断道」が開通して、我が町から静岡県各地へのアクセスが大幅に改善しました。
こんな雑談をしました。
個人の旅行や中学校や高校の修学旅行などで、飛行機を利用する場合は、当然のこととして「羽田空港」しかイメージしませんでした。
ところが、中部横断道を使えば、「富士山静岡空港」へのアクセスが、格段に便利になります。
渋滞がなければ、1時間あまりで行くことが出来るのではと。
この富士山静岡空港は、「羽田や伊丹に行くとすれば、離陸して巡航高度に達する前に、羽田(伊丹)を通り過ぎてしまう」なんて言って、本当に必要なのか・・なんていう議論もありました。
・・・国際空港なんですねぇ。
いぶし銀の噺家さんの訃報です。
寄席の踊りや鹿芝居でご活躍の七代目蝶花楼馬楽師匠です。
享年71歳。
驚きました。
鹿芝居では、ご隠居や大家さんがはまり役でした。
1969年2月 六代目蝶花楼馬楽に入門、前座名は楽がん。
1975年5月 二つ目昇進、師匠の兄弟子二代目柳家小満んの
前名蝶花楼花蝶に改名。
1983年9月 真打昇進。
1987年6月 師匠馬楽死去。
1989年 国立演芸場若手花形演芸大賞受賞。
1991年9月 七代目蝶花楼馬楽襲名。
今年2月の恒例の国立演芸場の鹿芝居「辰巳の辻占」には、私は行きませんでしたが、名前が出ています・・・。
師匠の先代の六代目は、五代目柳家小さん師匠の兄弟弟子で、いかにも明治生まれの生粋の寄席芸人という雰囲気でした。
五代目馬楽は、彦六の八代目林家正蔵師匠です。
決して派手ではありませんでしたが、明治ゃ大正時代の師匠方の風情を受け継いだ師匠でした。
色々な言葉があるもので、なかなか追い付いて行かれません。
最近よく出て来る言葉に「ブレグジット」があります。
「ブログじっと(見る)」ではない のは分かります。
欧州連合(EU)からのイギリス脱退( Withdrawal of the United Kingdom from the European Union)の通称です。
ブレグジット(Brexit)とは、"British"と "exit"の混成語です。
・・・ということは、「あたぼう」ってのと同じですね。
「あ(っ)たりめーだぁ べらぼうめ(ぇ)ー」の短縮形が「あたぼう」。
「べらぼう」は江戸の昔見世物小屋の怪物からきているそうでバカと同じような意味合いで使われていたようです。
肝心なEU離脱の動向は、まだまだ悩ましいようです。
師匠がこんな趣旨のことを仰いました。
落語は、(噺に)演者を全部出すものではない。
登場人物に全て演者が出て来てはいけない。
演者が消えて登場人物を浮き上がらせることが大事。
(笑いや受けをとるために)噺の(背景や舞台の)中で、そんな台詞やくすぐりがあるはずもないことをやってはダメ。
中には、それを単純に喜ぶ(褒める)人がいるかもしれないが、それはちょっと違う。
それを理解して、落語の稽古をして欲しい。
・・・その通りだと思います。
落語、ただ笑わせるだけのものではなく、一定のルールや型の"制約"や"世界"の中で、人間を表現するから面白い。
それを理解しないでやるのは、単なる下品なお笑い。
着物を着て座布団に座っていても、落語ではない。
何でもありで、笑わせたいなら、落語には向きませんから、他でやってもらいたいものです。
コントでも、ドタバタでも。
「守破離」という言葉がありますが、やはり「守」から極めることが大事だし、教えてくれる人や周囲の人に対するマナーだと思います。
このマナーを守ることの出来ない人とは、私は一緒に稽古はしたくない。
落語に限らず、能狂言も、歌舞伎も、浪曲も、講釈も、同じです。
それを学ぶのも大切なことだと、再認識しました。
2019年2月の月間リクエストランキング。
https://www.youtube.com/watch?v=U9avQf1eOik
・・・売れているんですね。
オジサンは、女性演歌中心ですね。
◆「女・・・ひとり旅」
https://www.youtube.com/watch?v=8fSqPYPhVrA
◆「流恋草」
https://www.youtube.com/watch?v=IRLR1eiI5iM
◆「恋しくて」
https://www.youtube.com/watch?v=ZiY3KkxgZDU
2020東京オリンピック開幕まで、500日だそうです。
大会組織委員会が、大会で実施される競技・種目を表す「五輪スポーツピクトグラム」を発表したそうです。
んっ?「ピクトグラム」って何?
これだそうです。 ↓
一般に「絵文字」「絵単語」などと呼ばれ、何らかの情報や注意を示すために表示される視覚記号(サイン)の一つ。
地と図に明度差のある2色を用いて、表したい概念を単純な図として表現する技法が用いられる。
主に鉄道駅や空港などの公共空間で使用され、文字による文章で表現する代わりに、視覚的な図で表現することで、言語に制約されずに内容の伝達を直感的に行う目的で使用されてきた。
1964年東京五輪で初めて導入されて以来、言語圏を問わない「共通言語」として大会ごとに制作され、開催都市の特色や大会のコンセプトを示すものとして欠かせない存在となっています。ところで、これもピクトグラム?
「一般社団法人落語協会」のマークなんですが。
地震の話題が続きます。
「3.11」ではなくて、これからのことです。
政府の地震調査委員会は、東日本大震災の余震が起きている岩手県沖から千葉県東方沖
にかけての広い範囲で「今後も長期間にわたって規模の大きな地震が発生し、強い揺れや高い津波に見舞われる可能性がある」と注意を呼びかけた。
この場所では今月6日までの約1年間に、震度1以上の地震が震災前の約1・5倍にあたる471回発生している。
平田委員長(東大教授)は「震災発生直後に比べて余震は徐々に減っているが、地震活動は依然として活発な状況にある」と話す。
・・・そうそう、大阪の地震で忘れてしまいましたが、去年の前半は、千葉県で地震が頻発していました。
人間は、よく言い間違いをするものです。
菅官房長官が、昨日の「東日本大震災8周年追悼式」での開式の辞で、「追悼式」と言うべきところを「きねん式典」と言ったそうで、記者会見で訂正してお詫びをしたという。
追悼式で「ただいまから東日本大震災8周年『きねん』式典を挙行いたします」と述べたそうてです。
「きねん」・・・、「記念」か「祈念」ということですか。
「記念」というのは・・・、
1 思い出となるように残しておくこと。また、そのもの。
2 過去の出来事・人物などを思い起こし、心を新たにすること。
「祈念」というのは・・・、
神仏に、ある願いごとがかなえられるよう祈ること。祈願。
とてつもなく外れて不謹慎ということでもないでしょうが、式は「追悼」が趣旨なのと、「記念」と「祈念」というのは、お祝いや願い事のニュアンスがある気がするので、やはり適切ではないでしょう。
そもそも、式の名前(固有名詞)を間違えたんだから、訂正して謝るしかありませんが。
さて、衆人環視の中での言い間違いで一番有名なのが、大晦日の紅白歌合戦の「ミソラ事件」でしょう。
覚えていますよ。総合司会のNHKの生方アナウンサーでした。
1984年12月31日、「第35回NHK紅白歌合戦」で、ラストステージを公言していた都はるみが、涙のアンコール曲となった「好きになった人」を歌い終えた直後、得点集計に移ろうとした生方は、「もっともっと、沢山の拍手を、ミソラ…(首を振りながら絶句、一瞬固まる)、ミヤコさんに、お送りしたいところですが…」と、都はるみの名前を美空ひばりと言い間違えてしまった"事件"。
笑ってしまいましたが、翌年、生方アナウンサーは大阪に異動となりますが、この事件のペナルティではと言われました。
菅さんも、ひたすら無事を祈念していないと、いずれ周囲から追討されますよ。
春風亭一之輔さんが、こんなツイートをしていました。
傍若無人な人が多いようですが、「おじさん」にフォーカスしています。
私も"立派な"おじさんだから、気をつけないと。
・・・私なりに言い訳をしてみます。
高座の写真は撮っていません。
そもそも撮ってはいけないですが、スマホカメラでは、舞台が明るいので、上手く撮れません。
楽屋口で撮ったツーショット・・は、ありません。
私は、噺家さんの楽屋を訪ねたり、例えばロビーなどで見かけた時に声をかけたりはしません。
別に、「聴きに行きましたよ」とか、「私はここにいますよ」などと、自己顕示や"アリバイ工作"をする必要を感じませんから。
高座での芸を聴きにいくのですから。
演目を間違えて書いたりはないと思います。
時々、若手などの亭号を間違えることはあるかもしれません。
客席でウイスキーの瓶を持っての自撮りもしません。
自撮りはしないし、そもそも酒は飲みません。
・・・でも、噺家さんがここまで言うんだから、観客のマナーは酷いんですね。
気をつけよう。
卒業シーズン。
2019年3月1日、JR静岡駅(静岡市)に登場したメッセージボードが、「素晴らしい」「クオリティが高すぎる」などと話題になっているそうです。
「ご卒業おめでとうございます」――。
静岡県内各地の高校で卒業式が行われたこの日。
駅構内に置かれたホワイトボードには、次のような駅からの応援メッセージが記されていたそうてず。
「ドキドキしながら電車で通学を初めてからもう3年が経つんですね。3年間の高校生活はいかがでしたか?あっという間でしたか?
雨の日も風が強い日も真夏の炎天下の中でも静岡駅をご利用頂きましてありがとうございました。
これからは別々のレールを進んで行くと思います。
楽しいこと嬉しいこともあれば、大変なこともあると思います。
しかしそんな時は大好きな友達と共に過ごした時間を思い出して頑張ってください。
私たちも陰ながら応援しています。
きっと皆さんのレールは光り輝く未来へと繋がっていますよ!
明るい未来に向かって、出発進行〜!!
JR東海 静岡駅」
・・・なるほど。
学生時代、東北放送のラジオでは、朝5時から「早起きも一度劇場」という番組が放送されていました。
ずぼらな私は、どうしても5時には起きられず、たまにしか聴くことが出来ませんでした。
当時、既に鬼籍に入っていた師匠方の落語が紹介されました。
この番組の司会(今ならMC?)だったのが「川戸貞吉」さんでした。
どんな人かは知らないまま、明治生まれの名人たちの噺を中心に"勉強"したものでした。
演芸評論家の川戸貞吉さんの訃報。
享年81歳。
TBSのディレクター、プロデューサー時代に多くの演芸番組に携わり、立川談志師匠、五代目三遊亭圓楽さ師匠と交流が深く、落語の録音、文献のコレクターとしても知られた。
著書に「落語雑記帳」「現代落語家論」など。
著書も何冊か読みました。
羨ましい存在の人でした。
今日は、テレビもラジオも新聞も、「東日本大震災」で埋め尽くされることでしょう。
あれからちょうど8年が経ちました。
日本経済新聞の記事を見ると、インフラの整備は進んでいるようにも思えます。
津波などで大きな被害を受けた東北沿岸部では、住宅をはじめとした生活インフラの整備は完了まで秒読み段階に入った。
東京電力福島第1原発事故の影響が残る福島県でも、避難指示解除の動きは広がりつつある。
一方で公的支援が届かない被災者の存在など、新たな課題も浮き彫りになっている。
復興庁によると、1月時点で直轄国道は99%が復旧し、復興支援のために計画された復興道路や復興支援道路も62%が完成した。
鉄道はバス専用路線での運行再開を含め97%が再開した。
岩手県ではJR山田線の宮古―釜石間が23日に運転を再開。
既存路線と合わせた総延長は第三セクターで日本最長の163キロとなり、三陸鉄道「リアス線」に生まれ変わる。
住宅地の再建も進み、高台移転を中心とした住宅用地造成も戸数ベースで93%が完了し
た。
自力での住宅再建が難しい人らを対象にした災害公営住宅は3万戸余りの計画に対し、今年1月時点での工事完了戸数は98%に達する。
しかし、住民の帰還は遅れている。
震災で死者・死亡認定者が800人を超えた宮城県女川町。
災害公営住宅の整備は完了しているが、震災前に1万人あった人口は、今年1月末時
点では6500人弱にまで減少した。
被災者が帰還をあきらめた町は、今後も人口減少という重い課題に向き合うことになる。
発生直後に最大約47万人いた避難者は減少しているが、復興庁によると、2月時点で全
国で5万1778人が避難生活を続けている。
原発事故の影響が続く福島県では、いまだに約3万3千人が県外への避難を続け、その減少ペースは鈍い。
3県によると、プレハブ仮設住宅での暮らしを余儀なくされている被災者は計3073人(1573戸)。
仮設住宅は集約され規模が小さくなっており、仮設に残る少数の被災者のケアが課題になっている。
被災者を取り巻く新たな課題も明らかになっている。
宮城県石巻市は昨年から在宅被災者を対象にした新たな補助制度を始めた。
様々な事情で震災後も被災した住宅に住み続けたり、避難所から短期間で自宅に戻ったりしたため、現行の支援制度からこぼれ落ちてしまった人たちだ。
市は戸別訪問し、職員が被災家屋の被害状況を調査するとともに、健康状態など生活環境も調べる。
被災家屋の応急修理などが必要な在宅被災者を約4000世帯と推計。
隠れた被災者にも、支援の手が届こうとしている。
政府は2021年3月に設置期限を迎える復興庁の後継組織を設置する基本方針を決定。継続的な支援の重要性を強調している。
だが、震災以前から人口減少や急速な高齢化など構造的な課題を抱えていた被災地にとって、「復興」は決して容易な道のりではない。
・・・大災害に直面して、住民の心にも大きな変化が起きているようです。
都会に出て行こうとしていた若者たちが、復興のために、故郷に残ったり、Uターンして来たり。
別の面で問題になっている、過疎化の問題も含めて、地方が活性化出来れば・・と思います。
故郷(生まれて育った所)というのは、かけがえのないものです。
大阪府知事と大阪市長が入れ替わろうという、とんでもない税金の無駄遣いの企みに誘われた、高学歴タレント元祖としても有名な「辰巳琢郎」さん。
自民党から大阪府知事選への立候補を要請されていましたが、要請を断ったそうです。
おだてに乗って、ピエロになってしまったり、間違えて当選してしまったりするタレント候補が多い中で、まさに卓見だと思います。
「辰巳琢郎」ではなくて「巧み卓見」さんですね。
恐らく、その見識にさらに人気が上昇するでしょう。
宮沢賢治かく語りき。
「・・・北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ」
「西におだてられて出馬しようとする者あれば つまらないからやめろと言い」を守りました。
「卓見」とは、物事を正しく見通す、すぐれた意見・見識。
午後から外出して、夕方両国へ。
圓楽一門会の「両国寄席」に師匠がご出演されるので。
開場時刻の5分前に「お江戸両国亭」に着くと、既に10人ぐらい並んでいました。
開場して中に入り、木戸銭を払って会場へ。
やはり、客席の中に大きな柱があるのは変わりませんね。
両国亭に来るのは何年ぶりでしょうか。
基本的には昔と変わっていませんが、寄席の雰囲気は出て来た感じです。
定刻のちょっと前に前座さんが上がりました。
◇「寿限無」 三遊亭じゅうべえ
青い目の噺家さん。
好楽師匠10番目のお弟子さんでスウェーデン人だそうです。
身体も大きく、元気一杯の寿限無でした。
◇「ん回し」 三遊亭鳳月
「ほうづき」さんと読むそうです。
鳳楽師匠のお弟子さん。
工業高校土木学科の卒業だそうです。
なかなか雰囲気がありますが、髪型がちょっと違和感あり。
片方の髪が長く膨らんで、いまにも堕ちて来そうな。
噺家さんの髪型は、基本的には短い方が良いと思います。
鳳楽師匠も、後ろを刈り上げずにやや長めですが。
◇「王子の狐」 三遊亭遊史郎
独特の語り口調ですね。
語る、喋るというよりは、流暢に読むタイプみたいです。
清潔感のある噺家さんでした。
◇「売り声」 立川志遊
ベテランですが、師匠はあの談志師匠です。
今日はマクラの部分だけでした。
◇「しの字嫌い」 三遊亭好太郎
確か、好楽師匠の一番弟子だったはずで、評価の高い噺家さんだったはず。
後で調べたら、二つ目の時に一度廃業したことがあるようです。
◇「洒落番頭」 三遊亭圓窓
師匠が、マクラで駄洒落のことを仰ったので、「鼓ヶ滝」かと思いましたが、今日は「洒落番頭」でした。
釈台を置いて、丸椅子に腰かけて。
さすがに大看板、高座に出ただけで、何とも言えない緊張感というか、高揚感みたいなものが、客席に広がりました。
日曜日なので、師匠の中入りで、帰宅することにしました。
竜楽さん、申し訳ありません。
明日も仕事がありますので。
とうとう開通しました。
建設が進められている中部横断自動車道の南部区間で、富沢IC(山梨県南部町)―新清水JCT(静岡市)の20.7キロと、六郷IC(市川三郷町)―下部温泉早川IC(身延町)の8.4キロが開通。
山梨県が他県と高速道路でつながるのは、1989年に東富士五湖道路山中湖IC―須走IC(静岡県)が開通して以来となる。
国土交通省の試算では、今回の開通で山梨県庁から静岡県庁までの所要時間が30分短縮し2時間5分になる。
南部区間が全線開通すれば1時間40分になる。
六郷―下部温泉早川間は、国と県が事業費を負担する新直轄方式のため、通行料はかからない。
南部区間の未開通区間は残り20キロ。
南部IC―富沢ICは今年夏、下部温泉早川IC―南部ICは2019年度中の開通を予定する。
全線開通すれば中央自動車道と新東名、東名高速道路と高速ネットワークでつながり、大幅に物流が改善する。
・・・実家に帰るには遠回りになり、普段使うことは少ないと思いますが、今度帰省の時は通ってみようと思います。
この道路のキャッチフレーズが、いかにも山があっても山梨県らしいんです。
「君は太平洋を見たか 僕は日本海を見たい」って。
確かに、全線が開通すれば、太平洋側と日本海側が複数の自動車道によって繋がることになります。
まだお昼前だというのに、今日開幕の大相撲大阪場所はもう前相撲の取組が始まっているんです。
元大関で、両膝のけがなどにより西序二段48枚目にまで転落した照ノ富士が、若野口をはたき込みで退け、西十両5枚目だった昨年春場所11日目以来、354日ぶりの白星を挙げたようです。
本場所の出場は、昨年夏場所以来。
序二段ですから、まだ観客もまばらな中、両膝に大きなサポーターを巻いた照ノ富士が土俵に上がると、大きな拍手とともに、あちこちから「照ノ富士!!」の駆け声が沸き上がったそうです。
両膝のサポーターが痛々しいと言うか、レッグウォーマーみたいだと言うか・・・。
更に痛めないように、大事に取って行って欲しいものです。
今日は、今のところは晴れていますが、午後から下り坂、夜には雨になるそうです。
◇「嘘つき村」 三代目三遊亭金馬
困った時の金馬師匠頼み?
文化放送の常套手段ですね。
今朝も三代目金馬師匠です。
◇「猫の皿」 桂米朝
こういう番組に米朝師匠が登場するのに、まだ慣れていませんが。
海は、波や風などの嵐ではない、別の危険もあるようです。
昨日、佐渡島沖を航行していた高速ジェット船「ぎんが(277トン)」がクジラなどの海洋生物とみられる物体と衝突。
衝撃で乗客121人のうち87人が負傷し、うち5人が重傷。
乗員4人にけがはなかった。
ぎんがは午前11時半に新潟港を出港し、午後0時半に両津港に到着予定だった。
衝突で停船した後、自力で航行を再開し、午後1時半ごろ、両津港に入港。
船尾の外板に約15センチの亀裂、水中翼も損傷。
ぎんがはジェットエンジンで海水を噴き出して進む「ジェットフォイル」と呼ばれる水中翼船。
最高速度は時速約85キロで、加速すると揚力で浮き上がるため「海の飛行機」とも呼ばれる。
着席している間はシートベルトを着けなければならない。
現場は佐渡島の姫埼灯台から東北東に約4.5キロの海域。
・・・例えば、新幹線が象にぶつかったという感じ?
しかし、陸上と違い、何にぶつかったかわからない、何がなんでもいる(ある)のか見えないのは、とても恐ろしい。
本当にクジラ?
どんなクジラでしょうか?
正面からぶつかったなら、マッコウ(真っ向)クジラでしょう。
「おい、松公!危ねぇじゃねぇか!」
・・・洒落にならない。陸上でも、車とシカがぶつかると、車の方が大破して、人が死亡する事故も起こっています。
新東名高速など、シカ出没に注意を促す標識があるぐらいです。
JR身延線でも、線路にイノシシが出て来て、ダイヤに影響が出ています。
車や電車や船などを破壊するのは、決してゴジラのような怪獣ばかりではないんです。
今日は良い天気で、明日は下り坂になるというので、愛車での徘徊を思い立ちました。
別に目的地もなく、何故か水戸街道を下っていました。
気がつくと土浦を過ぎていたので、そろそろUターンしようかと思っていたところに、曽谷公民館の方からメールがありました。
先日の「そや寄席」の時に、百梅さんが、着物用のハンガーを忘れて、預かってもらっていたんですが、「(私の)自宅へ届けましようか?」と。
「あぁ、そうだった!」と、こちらから受け取りにお邪魔することにしました。
常磐道から外環道経由して、何と40分ぐらいで到着。
昨年開通した外環道ので市川北インターからすぐの場所です。
自宅からでは30分かからないことが分かりました。
幸い、館長さんもいらっしゃったので、改めてお礼を言って、
忘れ物を受け取りました。
明日から、もう大相撲が始まります。
3月場所は大阪。
貴景勝の大関獲りがいちばんの注目です。
一方、元大関で序二段の照ノ富士が5場所ぶりに復帰します。
元大関が序二段で相撲を取るのは初めてのことになるそうです。
両膝の負傷に加え、糖尿病、腎臓結石など内臓系の病気も発症。
昨年7月の名古屋場所で幕下に落ち4場所連続全休。
今場所、西序二段48枚目まで番付を落としていました。
今場所前は土俵での稽古も行っており、師匠の伊勢ケ浜親方に寄れば「状態は戻っていない。完璧じゃない。この辺(序二段)なら足を使わなくていいから。悪化しないように」と、慎重に実戦の中で様子を探っていく状況。
まだ27歳ですから、もう一度上に上がってもらいたいものです。
怪我をする前の強さは、少し荒っぽいところはあるものの本物でしたから。
しかし、最近は怪我をする力士も多く、1場所15日を年6場所というのも過密ですから、減らすのも一案だと思います。
休場にともなう地位陥落のペースも検討して欲しいところです。
「そや寄席」を思い出して。
千公さんが、撮影、編集して「そや寄席」のDVDを送ってくださいました。
早速、4人全員を通して視聴しました。
それぞれの噺の出来具合については、それぞれが反省や分析をしていると思いますが、みんなとても良い表情で素晴らしいと思いました。
一方で、別の観点から感想を述べると、当日の控室でも話題になりましたが、高座へ上がって、座って、お辞儀をするという一連の動作を、もう少し見映え良くしたいということです。
やはり、お客さまから見えた時(舞台に出た瞬間)から演技は始まっていますから、着物の裾さばきや座り方やお辞儀の仕方もしっかり練習する必要があります。
会場の高座の造りによって高さや広さが違います。
中にはよじ登るように、いざり寄るようにしないと正座出来ない場合もあります。
深川三流亭の会場の古石場文化センターの高座は、そういう障害はありませんので、次回は、噺以外に、美しい所作もテーマ(宿題)にしたいと思います。
特に男性メンバーは、普段着物を着る機会は限られているはずですから、これも稽古のうちですね。
ユーチューブなどで、プロの噺家さんの動画で確認することも大事だと思います。
僭越ですが、師匠の所作はきれいだと思います。
プロの噺家さんでも、雑な人もいますから、良い手本を選ぶ必要もあります。
今日、3月8日は「サバの日」だそうです。
多くの人にサバについて興味、関心をもってもらい、日本人が古くから恩恵を受けているサバへの感謝を示すとともに、サバについて深く考える日とすることを目的として制定されました。
サバは古くは縄文時代から食べられていたという、日本人にはなじみ深い魚です。
近海でとれるサバですが「サバの生き腐れ」という言葉があるように、急速に鮮度が落ちやすいという扱いにくい面があります。
年齢をごまかすことを「サバを読む」と言いますが、これは鮮度が落ちやすいサバを大量に売りさばく際、漁師や魚屋がろくに数も数えずに売り買いしたことに由来するそうです。
DHAが豊富な食材として、とても有難い魚ですよ。
日産のゴーン元会長の保釈の際の変装脱出作戦は、見事に大失敗でした。
この脱出爆笑作戦を考えて実行した、弁護団の弁護士が謝罪しているそうです。
自身のブログで「すべて私が計画して実行した。彼が生涯をかけて築き上げてきた名声に泥を塗った」と。
仮に、完璧な変装をしていたとしても、周囲にこんなに多くの拘置所の職員が囲んでいたら、バレバレです。
「禁酒番屋」で、水かすてらを「どっこいしょ」と持ち上げたみたいなものです。
そして、大手自動車メーカーのトップにいた人が、他社の、しかも軽のワンボックスに乗って拘置所を出るという・・・、これは何とも哀れになってしまいます。
ところで、幸い、私には縁のない場所なので知りませんが、拘置所の前の店の看板が面白い。
「〇〇屋 差入店」ですって。
収監されている人への差入品を売っているんでしょうか?
昔、免許証更新に行くと、門前に代書屋(行政書士)さんの事務所が並んでいたみたいなものですね。
ところで、落語には、脱出作戦大成功の噺があります。
弁護士の先生も、この落語を知っていれば・・・、こんなに恥をかくこともなかったかもしれません。
「風呂敷」という、五代目古今亭志ん生師匠の十八番です。
お崎が夫の熊五郎の帰りを待つ長屋に、幼なじみの半七が遊びに来る。
ふたりで語り合っていると、「おい、今帰った」と戸を叩く熊五郎の声がする。
熊五郎は飲み込みが悪く、嫉妬深く、粗暴であったため、お崎は「不倫と勘違いされて殺されかねない」と恐れるあまり、とっさに半七を押し入れに隠す。
お崎は、熊五郎が眠った隙に半七を逃がそうと考えたが、酒に酔っている熊五郎は、「なぜ予定より早く帰って来たの」と問うお崎に対し、「貞女は屏風にまみえず(=貞女は両夫にまみえず)」「女は三階に家なし(=女は三界に家なし)」などと、覚え間違いの訓戒を垂れるうえ、押し入れをふさぐような形で横になり、寝込んでしまう。
困ったお崎のもとに、鳶頭(かしら)の政五郎がやって来る。ことの次第を聞いた政五郎は、隣の家から1枚の風呂敷を借り、お崎を外出させ、熊五郎をゆさぶり起こす。
「ああ、かしら。お崎はどうしました」
「買い物に行ったよ。ところで、面白い話があるんだ。今日、友達の家(うち)に行ったらな、おかしな話があったんだよ。そこのカミさんが留守番をしていると、そこへ、幼なじみが遊びに来た。乱暴者の亭主の手前、追い返そうとしたカミさんだが、結局男を家に入れた」
「悪いアマ(=女)だ! 俺が亭主だったら、張り倒してやりますよ」
「そうか。まあ、その幼なじみと一献まじえていると、亭主が不意に帰ってきたと思え。で、そのカカアがあわ食って(=あわてて)、押し入れに男を隠しちまった。すると、亭主が酔っぱらって、その前に寝ちまった」
「そりゃ、困ったろうな」
「そこで、俺がカミさんに頼まれて、そいつを逃がしてやったんだ」
「どうやったんです」
「寝ころんでたやつを、首に手をかけて起こして、よそ見をされちゃいけないから、脇から風呂敷を持ってきて亭主の顔へ……」
政五郎は、熊五郎の顔に「こう巻き付けて……」と言いながら風呂敷を巻く。
「そこでな、俺は戸を、こういう塩梅に、ガラリ、と開けた」
戸が開け放たれ、半七が転がり出る。
「おい、拝んでねえで早く逃げろ、……と目で合図をして。下駄なんかを忘れるな! ……と声をかける」
「へえ」
「そいつが影も形もなくなったら、戸を閉めて、それから亭主にかぶせた風呂敷を、こうやって……」
政五郎が熊五郎の顔から風呂敷を取ると、熊五郎は膝をたたき、「なるほど、そいつはいい工夫だ」
ゴーンさんも、風呂敷がなかったからしくじったんですね。
弁護士は変装の目的について「素顔をさらして住居に向かえば膨大な数のカメラが追いかけ、住居が全世界に知れ渡り、家族や近隣住民の生活も脅かされる」と、メディアの追跡を避けるためだったと説明。
その上で「私の頭にひらめいたのが昨日の方法だった。しかしそれは失敗した」と釈明。
メディアに対しては「著名人にも身近な人と心安らぐ場所が必要」と、取材への配慮も求めた。
・・・確かに、メディアのレベルが低すぎる。
「はちこう」と言えば、落語では「八五郎」という長屋の住人。
熊さんと八っつぁんと言われる落語国のヒーローの一人。
ところが、一般的には、人様ではなくて犬の名前として有名です。
「ハチ公」「忠犬ハチ公」と言われる犬。
ハチは、死去した飼い主の帰りを渋谷駅の前で約10年間、迎えに通ったという犬。秋田犬で、名前は「ハチ」ですが、敬称がついて「忠犬ハチ公」と呼ばれています。
「公」が付くなんて大したものです。
豊臣秀吉公、徳川家康公・・と同じなんですから。
渋谷駅前にはハチの銅像が設置されていて、「忠犬ハチ公像」は渋谷のシンボルともなっているのを知らない人はいないでしょう。
今日は、そのハチ公の命日だそうです。
ハチの飼い主は東京府豊多摩郡渋谷町大向(現:東京都渋谷区松濤一丁目)に住んでい
た東京帝国大学教授の上野英三郎。
彼は大変な愛犬家で、出かける時には渋谷駅までハチを伴うことも多かった。
しかし、ハチを飼い始めた翌年の1925年(大正14年)に急死。
上野の死後も、渋谷駅前で亡くなった飼い主の帰りを毎日待ち続けたハチの姿は、新聞記事に掲載され、人々に感銘を与えたことから「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。
そして、1934年(昭和9年)には、渋谷駅前にハチの銅像が設置されることとなり、その
除幕式にはハチ自身も参列した。
同年の尋常小学校2年生の修身の教科書には、「恩ヲ忘レルナ」の話題としてハチの物語が採用された。
ハチの銅像は第二次世界大戦中の金属供出によって破壊されましたが、戦後再建され、現在に至るまで渋谷のシンボルとして、また渋谷駅前における待ち合わせの目印となって
いる。
飼い主だった上野が死去してから10年近く経った1935年(昭和10年)3月8日午前6時過ぎ、ハチは渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口で死んでいるのを発見された。
渋谷駅の反対側で、普段はハチが行かない場所だった。
(現在の渋谷警察署向かい側あたり)
ハチの死後、渋谷駅では12日にハチの告別式が行われ、上野の妻や、駅や町内の人々など多数参列した。
また、渋谷・宮益坂にあった妙祐寺の僧侶など16人による読経が行われ、花環25、生花200、手紙や電報が180、200円を超える香典など、人間さながらの葬儀が執り行われた。
ハチは上野と同じ青山霊園に葬られ、その墓は亡き主人の墓のすぐ隣に寄り添うように立てられた。
死体は剥製にされ、上野の国立科学博物館に所蔵されている。
・・・本人、じゃなくて本犬は、どんな了見で毎日駅まで通い続けたのかは知りませんが、真実はともかく、ハチの行動は、人々の胸を打つものだったんですね。
今、渋谷駅前のハチ公像のまえで待ち合わせをする若者たちの多くは、こういうことを知らずに、単なる目印にしているんでしょう。
4年とちょっと、毎日ハチ公像を横目に見て、仕事に通いました。
20年以上前のことですが。
久しぶりになぞかけをやっちゃいました。
「ハチ公」とかけて
「先輩の長老が大勢いて目立たない噺家」と解く
その心は「いつまでたっても忠犬(中堅)でしょう」。
テレビが家に来て間もない頃、私の田舎で隔週金曜日の夜8時に放送されていた「プロレス」が大人気でした。
まだ、終戦から何十年も経っていた訳でもないので、日本人レスラーが、反則技や凶器攻撃に、流血しながら苦労して、外国人(=悪役)レスラーに勝つシーンに、みんなが興奮したものです。
力道山、豊登、吉村道明。大木金太郎、ジャイアント馬場、アントニオ猪木・・・。
そんな外国人のレスラーの中で、一番インパクトがあったのが、デストロイヤーでしょう。
何と言ったって、怪しい覆面レスラーで、必殺「四の字固め」がすごかった。
あの頃は、必殺技を日本語で表現していました。
例えば、「バックドロップ」は「岩石落とし」とか。
ジャイアント馬場の、頭頂部を狙う空手チョップを「脳天唐竹割り」なんて。
その、憎き悪役レスラー「ザ・デストロイヤー」が亡くなったそうです。
享年88歳。
米バファロー出身のデストロイヤーは、1954年に素顔でデビューしていたが、62年に白地に赤の縁取りを付けたマスクを装着し、覆面レスラーの「デストロイヤー」として変身後に大ブレーク。
同年にブラッシーを下してWWAヘビー級王座を獲得。
63年には日本プロレスに初来日し、力道山と対戦。
以後、ジャイアント馬場のライバルとして大きな注目を集め、アントニオ猪木とも対戦。
その後、日本テレビのバラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にレギュラ
ーで登場して、お茶の間の人気を集めた。
93年に現役を引退。
たびたび来日し、17年には外国人叙勲者として旭日双光章を受章。
・・・ところで、プロレス中継のスポンサーは「三菱電機」でした。
メインイベントの試合の前には、三菱電機の電気掃除機がリングの掃除をするシーンがありました。
三菱電機掃除機「風神」でした。
プロレス中継のない金曜日は、「ディズニー」の番組でした。
男の子にとっては、あまり興味がなく、毎週プロレスになればいいと思っていました。
神戸の「北野町山本通り(異人館)」。
息子の嫁と次男(天使④)の2人が、遊びに行った様子。
いつもなら、お兄ちゃん(天使②)と3人ですが、珍しく2人だけ。
お兄ちゃんは幼稚園だったのかな?
我が天使たち4人は、それぞれ個性がありますが、どうしても長男が目立ちがちですが、どうしてどうして、娘の次男(天使③)のほんわか感と、この天使④のわんぱく感も、頼もしい限りです。
お母さんを独占出来て、とても楽しかったことでしょう。
会う機会は限られますが、新しい写真を見る度に、成長に驚かされます。
【北野町・山本通】
北野町および山本通界隈には、明治20年代から大正期(19世紀末~20世紀初)にかけて建設された洋風住宅(いわゆる異人館)が多数残り、それらが和風住宅と混在して調和のとれた街並みを形成している。
神戸市は文化財保護法及び神戸市都市景観条例に基づき、こうした伝統的建造物群が集中して残る、東西約750メートル、南北約400メートルの地区を伝統的建造物群保存地区に定めている。
江戸幕府は、1858年、アメリカと結んだ日米修好通商条約など5ヶ国と安政の五か国条約を締結し、箱館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の5ヶ所の港を開くことになった。
条約では、開港地には外国人居留地を設けることが義務付けられ、兵庫では近くの神戸村の海岸沿いの地区が居留地と定められた。
しかし、この居留地の整備が思うように進まなかったことから、周辺地区にも外国人住宅の建設が進められた。
外国人居留地の北方、六甲山麓に位置する北野町山本通はそうした地区の1つである。神戸の中心部である商工業地域とはやや離れており、また外国人居住区ということで神戸大空襲の対象とされなかったことが幸いし、垂水区のジェームス山などと並んで、戦前の神戸の優雅な雰囲気を残す稀少な街並みとなっている。
・・・そうか長男の嫁は、長崎にも住んでいたことがあるそうだから、神戸の街も親しみがあるのかもしれません。
春に3日の晴れなし。
今週は雨の日が続きますが、今日は雨の心配はなさそうです。
通勤電車の窓の外をボーッと眺めていると、綾瀬駅を通過すると見えて来る大きな建物。
一昨日、作業着の変装した、「日本仮装大賞」に出たら絶対に予選落ちという、ゴーンさんが出て来たところ。
ここで、昨年11月から3ヶ月以上(108日)も暮らしていたんです。
近くに住む人は、有名人の収監や出所の際のマスコミの大騒ぎで、ヘリコプターが飛び交うなど、大迷惑だそうです。
確かに、虎ノ門でも、政治的な出来事が起こった場合には、霞ヶ関の上空が騒がしくなりますから、これを住宅地でやられたらうるさいことでしょう。
東京拘置所は、法務省東京矯正管区に属する拘置所。
通称「東拘(とうこう)」、所在地である「小菅(こすげ)」と呼ばれることも多い。
全国に8ヶ所(東京・立川・名古屋・京都・大阪・神戸・広島・福岡)ある拘置所の一つ。
松戸拘置支所を所管。
・・・それにしても、ゴーンさんの変装は大笑いでしたね。
「M-1グランプリ」や「R-1グランプリ」なら、予選を突破したかもしれない。
今日は、母の検査のため、富士に帰省しました。
朝から雨模様でしたが、4時過ぎの帰り道、富士インターで東名高速に乗った途端、雷と物凄い雨になりました。
沼津から裾野、御殿場までの間では、今まで経験したことのないような、とにかく物凄い降りでした。
恐らく、1時間当たり50ミリを超えるぐらいの激しい雨量(雨勢)だったと思います。
さらに、その後は都心に向かっての大渋滞で、帰宅したのは7時半近くになっていました。
実は、今日は家内の誕生日で、マンネリの花のアレンジメントを手配しておいたので、帰宅すると花屋さんから届いていて、リビングにデンと飾ってありました。
こういう"もの日"は押さえておかないと、しくじりますからね。
外さないようにしないと、後が怖い。 ((( ;゚Д゚)))
春はおめでたいことが多いです。
落語芸術協会のこの春の新真打です。
めでたく新真打の3名は、瀧川鯉斗さん、女流の橘ノ双葉改め三遊亭藍馬さんと立川吉幸さん。
【瀧川鯉斗-たきがわ こいと】
05年3月鯉昇に入門し鯉斗。
09年4月二ツ目。
19
年5月同名で真打、名古屋出身。
【三遊亭藍馬-さんゆうてい あいば】
05年3月橘ノ円に入門し美香。
09年4月二ツ目で双葉。
14年5月師匠没後は一門の兄弟子圓馬門下となる。
19年5月真打で藍馬。東京都出身。
【立川吉幸-たてかわ・きっこう】
97年10月快楽亭ブラックに入門しブラ房。
05年8月立川談幸門下となり吉幸。
07年7月二ツ目。
15年7月師匠と落語芸術協会へ移り前座修業から始める。
19年5月同名のままで真打昇進。千葉県勝浦市出身。
・・・吉幸さんだけは聴いたことがあります。
鯉斗さんは元暴走族のリーダー、藍馬さんは2人の子どものお母さんだそうです。
改元と同時に真打披露興行がスタートするそうです。
日産の元会長のカルロス・ゴーン被告が、保釈された際に乗った車は、日産車ではなく、「スズキエブリイ」という軽のワンボックスでした。
日産車には乗りたくなかったかな?
関係者は、元社長なんだからプレジデントに乗ったフーガ良いとシーマいまでセドリック(説得)しまティアナ、シルフィとぞ知るシルビアな考えの人だから、プリメーラ(てめえら)の意見にはノート言いました。
うるセレナぁ、マーチょっと、検察とのスタンザのサニーは、ゼットく力はないけれども、ジュークりょして、無罪判決をキューブ九厘エクストレイル十分なジーティアール(自信ある)から、。
・・・このスズキエブリイは、「仲村工業」という、埼玉県に本社のある会社が所有する、春日部ナンバーの車だそうです。
しかし、茶番ですね。
でも、マスコミの責任も大きいと思います。
京本色々ありがとうございます、なことがありましたが、何と言ってもゴーンさんでしょう。
笑っちゃいましたから。
日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告が、10億円の保釈金を支払って保釈されました。
108日にも及ぶ勾留でした。
どんなに意図があるのか、スーツ姿ではなくて作業員に変装して、乗った車もリムジンではなく脚立をルーフに積んだ軽のワンボックスだったそうです。
目を見れば、すくにバレるのに。
このニュースを見て大笑い(ノ∀≦。)ノ
ところで、皮肉と言うか、洒落にならないと言うか、「株式会社日産が破産」したというニュースが、各信用調査会社から流されたそうです。
ネット掲示板では早速、「日産、破産」の見出しが立ち、ネタにされているようです。
「早速フランスからの報復か」などとネタになっているということで。
帝国データバンクと東京商工リサーチのネット配信ニュースによると、兵庫県西宮市内のマンションデベロッパーと関連会社2社が2019年2月5日に神戸地裁尼崎支部へ自己破産を申請し、2月18日に破産手続き開始決定を受けたそうで、その後関連会社の1社が「株式会社日産」でした。
にっさん、よさんはずれて、むざんにも、はさんして、とうさん、とにかく大変、どうしよう。
2・4・6・8・10・12・14の二目上がりですね。
それから、108日の勾留は意味がありますね。
被告の「ごーん」さんが音を上げたから。
煩悩を払いましょう。
瀧口雅仁さんのツイートで知りました。
ボーイズの大御所「灘康次とモダンカンカン」のリーダーの灘康次さんがお亡くなりになったそうです。
♪地球の上に朝が来る♪
この歌い出しがトレードマークのボーイズグループ。
https://www.youtube.com/watch?v=OJCu-BakHaE
「灘康次とモダンカンカン」は、1958年に結成。
リーダーの灘康次は「あきれたぼういず」創始者の川田晴久の直弟子。
「地球の上に朝が来る」でお馴染みの「川田節」など、川田やあきれたぼういずの芸を継承してきた。
現在、グループとしては休止状態で、メンバーの川田恋さんがソロで活動中。
灘康次さんは、1929年3月生まれ、東京都洲崎遊郭出身。
モダンカンカンの
リーダーでありリードギター・ボーカル。
関東商業学校在学中に予科練を経て戦後「劇団新生」に入団し歌と芝居を習う。
ギターは上原げんとに指導を受けた。
1947年頃に元あきれたぼういずの川田晴久の弟子になり「川田義雄とダイナ・ブラザース」のメンバーになる。
横浜国際劇場でボーイズデビュー。
1956年、川田義雄の病気療養(翌年死去)に伴い、西方健と「カンカンコンビ」を結成(のちに解散し西方は「ぴんぼけトリオ」(のちの「ザ・ぴんぼけ」)を結成した)。
灘は1958年にモダンカンカンを結成。
メンバーチェンジを繰り返しながら、2010年代まで長く活動した。
第42回芸術祭賞受賞。
1995年にボーイズバラエティ協会会長就任。
2018年現在は同協会名誉会長。
高齢のため、グループとしての活動は休業中だった。
・・・昭和ですね。
そうそう、「ボーイズ」というのは、、演芸の一種で、楽器を使用した音楽ショウを言います。
漫才師の行う音曲漫才や、コミックバンドが演ずる音楽コントとは異なる、独特の形態を持つ。
1937年に浅草公園六区の浅草花月劇場(吉本興業直営)における演目「吉本ショウ」で、あきれたぼういず(東京吉本所属)が行ったのが端緒。
この伝統を受け継ぎ「ボーイズ」の名は主に東京芸界で用いられる。
中国や韓国の大気汚染が深刻だそうです。
「PM2.5」って、「午後2時50分」ではありません。
韓国のソウルでPM2.5の濃度が観測史上最悪を記録。
韓国では自動車の排ガスや中国から大気汚染物質が飛来していることなどを受け、大気汚染が深刻化。
ソウルでは、昨日PM2.5の平均濃度が1立方メートルあたり135マイクログラムとなり観測史上最悪を記録。
日本の基準では1日の平均が70マイクログラムを超えると見込まれる場合、外出を控えるなどの注意が呼びかけられるが、昨日のソウルはその倍近くの濃度。
…以前、北京でもそうでしたが、写真で街中が霧で霞んでいる。
写真を見ただけで、息苦しくなります。
日本では、最近は見られない光景です。
韓国の大気汚染は暫く続く恐れもあり、抜本的対策が必要です。
偏西風に乗り日本にも影響が出て来るのではと、心配・・・。
【PM2.5】
粒子状物質のうち、粒径が2.5マイクロメートル(マイクロは100万分の1)以下のもの。
微小粒子状物質という呼び方もある。
ディーゼル車などから直接排出される「1次粒子」と、大気中での光化学反応などによって、窒素酸化物などのガス成分から作られる「2次粒子」に分類される。
粒が小さいため肺の奥深くまで入り込みやすく、ぜんそくや肺がんなどのほか、不整脈や心臓発作、花粉症など循環器への影響も指摘されている。
大気汚染の原因物質とされている浮遊粒子状物質(SPM)は、環境基準として「大気中に浮遊する粒子状物質であってその粒径が10マイクロメートル以下のものをいう」と定められているが、それよりもはるかに小さい。
いよいよ「三遊亭圓歌」の四代目誕生です。
四代目襲名披露パーティが、帝国ホテルで開かれたそうです。
3月下席、鈴本演芸場の芝居から襲名披露興行が始まります。
【三遊亭歌之介改め四代目三遊亭圓歌】
鹿児島出身。1959(昭和34)年4月8日生まれ。
誕生日が来て満60歳。
78年(昭和53年)3月先代圓歌に入門、前座名歌吾。
82年4月きん歌で二ツ目、87年10月真打昇進し、歌之介。
19年(平成31年)3月圓歌を襲名。
師匠の三代目圓歌は2017年4月23日に亡くなった。
師匠の遺言を受けて四代目襲名が決まった。
落語協会・柳亭市馬会長は「この場所で亡くなる4か月前、3年前の暮れの総寄り合いの時に隣でグッと手を握りまして、真剣なまなざしで『俺が死んだら歌之介を4代目にしてやってくれ』とおっしゃった」と・・・。
歌之介さんは「気持ちの中では400メートルリレーのアンカーの覚悟で師匠のバトンを受けました。師匠がものすごい速さで第3コーナーを駆け抜けてくれたので、恩返しは全力疾走しかない」と決意を語った。
例によって、襲名披露は3月下席(21〜30日)の鈴本演芸場から、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場を経て改元後の5月中席では国立演芸場と50日間行う。
4月8日生まれの四代目は期間中に還暦となり、三代目の3回忌、さらに改元もある。
「師匠は最短距離で笑わせろと言っていた。なるべく笑わせる噺をしたい、常連さんも多い
のでネタを代えたい」と話した。
以前は50日間ですべてネタを代えると公言していたが「そういう気持ちもあったんですけど…」と言葉を濁して笑わせていた。
・・・順調に、名跡が継承されるのはいいですね。
最近の噺家さんは、ほとんどが地方出身者ですが、東京で活躍していても、郷里との繋がりもしっかりしていて、観光大使などを務めたり、お祝い事は、地元の応援も物凄い。
町興しの頼もしい存在でもあるのでしょう。
歌之介さんも、「幕末竜馬伝」とか「B型人間」などのオリジナルの爆笑ネタもあり、さらに大きな看板になることと思います。
十八番には、名人が3人出て来ます。
「浜野矩随」は、浜野矩随。
「ねずみ」は、左甚五郎。
そして「抜け雀」は、・・・あれっ?何て言うんでしたっけ?
【浜野矩随】
江戸中期の装剣金工家。通称を忠五郎といい,江戸神田小柳町に住したといい,浜野政随の門下で学び,15歳から17歳ごろ,師から矩随の名を許された。
浜野の苗字は師の流名を許されたもの。
蓋雲堂,望窓軒,青柳軒,生寿軒などの号銘がある。
浜野派の豪快な彫法を修得するとともに,後藤乗意風の肉合彫りの研鑽にもはげみ,色絵を施した独自の境地を創りあげ,師と共に浜野流の興隆に大きく貢献した。
実子の松次郎も上手として知られ,二代矩随を継いでいる。
【左甚五郎】
江戸時代初期の建築,彫刻の名工。
出生地は一説に播磨といわれるが、紀伊、讃岐ともいわれる。
本姓は伊丹、あるいは河合。
「左」は左ききだったため,また右腕をなくし左手で仕事をしたためと伝えられるが、生涯は未詳で伝説的要素が強く諸説がある。
寛永の頃京都で禁裏の大工棟梁となり、法橋に叙されたともいう。
日光東照宮の「眠り猫」、上野寛永寺鐘楼の「登り竜」などが有名。
彫刻の名人としての左甚五郎には、江戸時代の講談、歌舞伎による虚構の部分が多い。
落語の場合は、実在の人物とは言え、フィクションの部分が多いので、整合性のない部分も多くあります。
「抜け雀」は、特に著名人にはしていませんが、間違いなく、親子揃って名人です。
・・・先月から続けて来た「金願亭乱志十八番一覧」のシリーズは、これで一段落とさせていただきます。
讀賣新聞夕刊に「史書を訪ねて」というシリーズがあり、今日は「更級日記」をテーマに、富士市と富士宮市を取り上げているようです。https://www.yomiuri.co.jp/stream/47/11024/4/
「更級日記」では、平安時代に菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が「その山のさま、いと世に見えぬさまなり」と富士山を表現しています。
噴火していたといわれる当時の富士山は神だった・・・。
富士山の今の姿をドローンなどで撮影し、荒ぶる神を見た13歳の少女の感動について触れているようです。
ところで、昨日までの雨で、富士山には雪が降り、静岡県側も新たに雪化粧したようです。
オリコンが定期的にリリースしている、様々なランキングのうち、
オジサンが好きな演歌で。
見事にトップになっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=U9avQf1eOik
今回の新曲は、ハッピーで、ややパンチに欠けるかな?と思いましたが。
そういえば、この間、ある人気コメディアンの番組のコントで、ビールをかけられてびしょ濡れになっていました。
人気が出て来ると、色々なところで揉まれますね。
昔は、牛乳と言えば、こんな瓶入りでした。
明治は、乳製品と果汁を合わせた瓶入り清涼飲料「明治フルーツ」(180ミリリットル)の販売を4月1日で終了すると発表。
「フルーツ牛乳」の名で昭和33年9月に発売して以来60年余り、銭湯の「風呂上がりの味」として親しんだ人も多いが、販売は苦戦が続いていた。
明治フルーツはリンゴやバナナなど計6種類の果汁入り。
銭湯の定番品となったほか、家庭向けの宅配で扱ってきた。
味を改良して栄養価の高さをPRしたものの、販売数量は上向かなかった。
明治では「長くご愛飲いただきありがとうございます」と話した。
瓶入り飲料「明治コーヒー」の販売は続ける。
あんまりフルーツ牛乳は飲みませんでしたが、白い牛乳、コーヒー牛乳、そしてフルーツ牛乳のトリオは、未だに目に浮かびますね。
自分たちの成長とともにリアルタイムだったものがなくなるのは、やはり寂しいものです。
落語には、お金が出て来ます。
それも、一文などの少額なものだけでなく、何両、何十両、何百両という・・・。
「千両みかん」などは、その名のとおり千両。
そういう意味では、非常に景気が良いというか、インフレと言うか。
私の十八番でも、高額なものが出て来ます。
尤も、演者によって、同じ噺でも金額が違う場合もあります。
まずは「帯久」。
帯屋久七が和泉屋与兵衛から借りる金額は、10両・30両・50両・70両・100両・・・。
残高の最高は、元金100両が最高ですが、借り入れた元金の総額は、260両になります。
さらに、大岡越前が裁きの中で、帯久に課す利息が、年6分で10年ですから60両。
次に「浜野矩随」。
矩随が命を懸けて彫った観音像を、若狭屋は50両と評価します。
さらに、矩随の評判が全国に広がると、上方の商人の手代が来て、矩随の作品を欲しがりますが、若狭屋は下手だった頃の失敗作「河童狸」を500両と吹っかけます。
そして「文七元結」。
左官の長兵衛が佐野槌から借りたのが50両、文七が掏られたと思った売掛の回収額が50両。
さらに、近江屋がお久を身請けした額は、恐らく50両のはずです。
都合150両の現金が動くことになります。
所謂「切り餅」と言われる25両の包み。
これでちょうど100両ということになります。
当時の金額を現在に引き直してみると、これも諸説あるようですが、どうやら1両は現在の8~10万円程度だと思われます。
ということは、帯久が一旦返したものの、盗んだのは1000万円ほど。
矩随の観音像とお久が佐野槌に身を売った金額は500万円ということになります。
「河童狸」は5000万円と言うことになりますが、なんでも鑑定団の先生の評価額はどうでしょうか?
昨日帰省した時に、いつも実家の様子を見ていただいている近所のご夫妻と話をしていて。
ご夫妻のお孫さん(婿養子に行った長男の息子さん)のこと。
この孫の「Mくん」は、ただいま中学3年生。
Mくんは、小学生の頃から野球に打ち込んでいて、町のジュニアチームに入り、6年生の時は、エースで4番。
全国大会へも出場して、パーフェクトを達成したりの大活躍でした。
中学生になっても勿論野球を続けていて、静岡市のシニアチームに入っていたそうです。
昨年出場した全国大会では、ホームランを打つ大活躍。
そして、この3月にあっと言う間に中学を卒業です。
大活躍のMくんですから、全国の有名高校の野球部からの引く手数多で、何と甲子園に何度も出場している、私も名前を知っている高校への進学が決まったそうです。
こりゃあ、単なる野球が上手な少年ではありません。
私は、小学生の頃に、何度か会ったことがある程度ですが、俄然応援したい気分になります。
全国から、同じような少年たちが集まって来ますから、ますます競争は熾烈になると思いますが、怪我に気をつけて頑張って欲しいものです。
中学を卒業してすぐに親元を離れて遠くの学校に行くなんて、私など3日でホームシックで戻って来そうですが、彼らにはきっと大きな夢と目標があるから、凡人とは違うのかなぁ。
昨日は東京マラソンでした。
日本人選手のことばかりで大騒ぎしていますが、とても良いタイムで優勝したのは、外国人選手。
私は帰省していたので、中継は見られず、結果しか知りませんが、改めてレベルが違いすぎるのを目の当たりにさせられましたね。
7分も8分も差があって、来年のオリンピックでメダル?
瀬古さん、そういうミスリードをしてはいけないと思いますが・・・。
何故、もっとレース全体を報道して、まずは(どの国の選手であれ)勝者を称えるのがスポーツマンシップではないのかなぁ。
その後で、「レベルがあまりにも違いますが、日本人選手のトップは・・・」でしょ?
どこかの若旦那の国ではないのですから、客観的な報道をして欲しい。
それから今、SNSで大顰蹙なのが、この景色だそうです。
左から3番目の都知事は、確か「都民ファースト」とか「アスリートファースト」とかを声高に叫んでいたはずですが。
「4番・ファースト・王」じゃありませんよ。
何よりも都民が大事(一番)、アスリートのことを最優先する・・・という意味でしょ?
しかも、ご自身は映像の世界のご出身で、見せ方(見え方)を気にする人ではなかったのかな?
東京マラソンの表彰式に出席した際の都知事の態度をめぐり、インターネット上で波紋が広がった。
都知事は表彰式に臨んだ際、着用していたブルゾンのポケットに両手を入れたまま立っていた。
雨の中の表彰式だったが、優勝した選手はずぶ濡れ、知事(たち)は傘も関係者にさしてもらっていた。
この様子がテレビにも映ったこともあり、ネット上では、「それはダメでしょ」「(表彰されるランナーに)失礼極まりない」など、都知事の対応を疑問視する声が上がった。
表彰式後、この点について記者に指摘された都知事は、「すみません。失礼いたしました」と、陳謝。
・・・普段言っていることが、いかに虚言か・・・こういうさりげない時に露呈するものですね。
寒けりゃ手袋でも何でも付ければいい、それに何時間も立ちっぱなしにさせられるわけでもない。
しかし、それにしても無礼で不遜な・・・。
2013年3月4日の早暁、父が息を引き取りました。
夜が明けると、とても良い天気で、病院の窓から見える身延山をくっきりとみることが出来ました。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2013/03/post-329d.html
朝の9時頃に、私と母と妹と、父と一緒に実家に戻りました。
生家は、暖かく父を迎えました。
庭の梅の蕾も大きくなり、前の川のせせらぎも迎えてくれました。
春の息吹が感じられる頃に、父は還らぬ人になりました。ふきのとうも顔を出して。
・・・あれから6年経ちました。
「父と子」「母と子」という観点で、十八番の噺の話題に触れましたが、「夫婦と子」という観点でも、十八番の中にあります。
父親と母親との、子どもに対する考え方や対応が違うという。
「甲府い」と「火事息子」と「藪入り」を挙げてみました。
噺の中で、子どもについて、夫婦の会話がある噺です。
このほかに「文七元結」もありますが、何度かコメントをしているので、ここでは外しました。
(↑間違えて「抜け雀」にマークしましたが、「藪入り」です。)
「甲府い」では、娘に対する父親と母親の距離、目立ちませんが母親の娘に対する気持ちが際立つ部分があります。
父親は、商売を継いでくれる婿が欲しい。
母親は、娘には好きな人と結ばれて女の幸せを掴んで欲しい。
この噺では、この両親と娘本人の望みを全て叶えてくれる善吉が現れて、ハッピーハッピーになりました。
「火事息子」では、家長制度の狭間で、父親の見栄と意地、母親の悲しみと愛情が交錯します。
でも、お父っつぁんも、自分がお父っつぁんでなければ、可愛い一人息子を抱きしめたい。
情で接することの出来る母親に対しては、実のところ羨ましい。
しかし、ここで甘い顔をしたら、家族だけでなく、奉公人をも路頭に迷わせてしまうかもしれない。
だから、涙を振り切って、厳しく当たる。
「藪入り」では、母親の方が冷静で、父親の子どもに対する思いが爆発している。
実は、これが父親の本当の気持ち、本当の姿なのかもしれない。
私も、もういい歳になる息子を、未だに思い切り抱きしめたいと思う。
でも、父親の立場上、なかなか出来ないし、そもそも倅が気持ち悪がるでしょう。
そういうものだと思います。
子どもは、息子も娘も、とにかく理屈抜きに可愛い。
百梅さんが、昨日の「そや寄席」の写真を送ってくれました。
体育館のような大きな場所に、館のスタッフの皆さんの力作の会場です。
会場が広い(天井が高い)く、高齢のお客さまが多いので、高座にはピンマイクを付けて上がりました。
◇「開口一番」 三流亭流三
思わせ振りに「開口一番」として、ネタ出しをしませんでしたが、結局「長短」を選びました。
そや寄席は3回目になりますが、前2回もご来場くださった方も両手で足りないほどいらっしゃいました。
何と言っても、事前の往復葉書での応募が必要ですから、本当に聴きに来てくださっている方々です。
心から感謝して、一生懸命やりました。
◇「粗忽長屋」 三流亭千公
千公さんも、マクラを工夫して、客席の反応を計りながらの高座。
ゆっくり余裕を持って語るのは、会場の大きさと相俟って、とても良かったと思います。
◇「親子酒」 三流亭学津
食いつきの学津さんも、客席の反応も良く、今までの屈指の出来(受け)だったと思います。
今までの甘さは、少し分かりかけて来たかもしれません。
ただし、今日の高座が受けた要因の分析が出来ないのは、これからもっと勉強が要ると思います。
◇「野ざらし」 三流亭百梅
今日の主任は百梅さんの「野ざらし」。
出前落語は、稽古の発表会ではなくて落語会です。
自分たちの稽古の発表ではなくて、お客さまに喜んでもらうのが目的です。
その主任を勤めるのは、落語会を締めるという大任もあります。
マクラにも工夫をして、仕草も会場に合わせて大きく。
その成果は十分に出たと思います。
こういう機会をいただけるのは、大変ありがたいことです。
稽古のおさらいではなくて、一つのショーとして、チームワークで作ることの重要さを、メンバーが感じてくれていたら、我々にとっても大成功ということです。
男の子は皆、マザコンだと言われます。
落語に出て来る母親にも2種類あるかもしれません。
昔の制度の中で、自分を犠牲にしても息子を助けようとする母親。
ただただ、可愛い息子に対して愛情を注ぐ。
「浜野矩随」の母親は、色々議論のあるところですが、息子矩随を奮い立たせるために、我が身を捧げる。
「笠と赤い風車」でも、息子(実は本当の息子ではない)常吉の旅の無事をひたすら祈る。
「火事息子」の母親は、大事な息子を勘当されてしまうが、ひたすら息子藤三郎を思う。
これは、理屈を超越したもので、善悪としいう次元のものではありません。
我が身を分けた子というのは、父親には絶対に理解できない領域です。
だから、息子も感情で接する。
ところが、母親の深い愛を息子が知るのは・・・。
落語の中の母と子も、悲しい。
少し早いですが、重たい鞄を肩に掛けて出かけました。
集合時刻厳守と言っている手前、私が遅れる訳にいきません。
待ち合わせの市川駅には、松戸駅から路線バスがあります。
先日、車椅子の人を乗車拒否して問題になったバス会社です。
「国府台」と書いて「こうのだい」と読みます。
市川と松戸は、隣同士の街なのに、南北の交通手段が限られているので不便です。
電車を横目に、通称矢切街道を南に向かいます。
途中、昨年開通した外環道の松戸インターチェンジを左に、バスは順調に進みます。
テレビ番組のように、乗り継ぐ心配はありません。
北総線の矢切駅を過ぎると、間もなく市川市内に入ります。
矢切は「野菊の墓」で有名ですから、「初恋のまち」だそうですよ。
しかし、「矢切の渡し」もあるから、連れて逃げますか?
野菊のような君を。
この噺は「ザ・古今亭」という噺です。
五代目古今亭志ん生師匠の十八番中の十八番です。
古道具屋の甚兵衛は、商売人と思えないほど呑気でお調子者の商い下手である。
儲けが出そうでも正直に話してふいにしてしまう一方、家の火鉢を後先考えずに売ってしまい寒くて困っているという有様だった。
そんな甚兵衛が商売を続けられるのも、抜け目ない女房がいるからだった。
ある日、甚兵衛は古く汚い太鼓を安く仕入れてくるが、それを見た女房はまた売れそうにないものを仕入れてきたと甚兵衛に嫌味を言う。
甚兵衛は丁稚の定吉に店先でハタキをかけるよう言いつけるが、定吉は調子に乗って太鼓をドンドコと叩いて遊び始める。
そのため、甚兵衛が定吉を注意していると、一人の侍が店に駆け込んで来て、先程聞こえた音の太鼓をぜひ屋敷に持ってきて欲しいという。
聞けば、侍はさる大身の武家である赤井御門守に仕えており、たった今、赤井がこのそばを通っている最中に、その太鼓の音が耳に入り、大変気に入ったということであった。
侍が去った後、甚兵衛は喜ぶが、妻はこの汚い太鼓が本当に売れるのかと疑い、むしろ、実物を見た殿様が怒って甚兵衛を庭の松の木に縛り付けるのではないかと軽口を言う。戦々恐々としながら甚兵衛が屋敷に太鼓を持参すると、それを見た殿様はすぐに気に入り買いたいと申し出る。
殿様によれば、この太鼓は、火焔太鼓という国の宝といって差し支えない一品だという。
そして、売値はいくらかと問う家臣とのしばし問答の末、300両と決まり、あまりの大金に甚兵衛は150両まで数えたところで泣き出す始末だった。
ほくほく顔で店へと帰ってきた甚兵衛は300両で売れたと女房に報告し、信じない彼女の前に小判を積み上げる。
ようやく事実だと知った女房は、甚兵衛を褒める。
そして、興奮冷めやらぬ2人は次は何を仕入れるかという話になり、やはり音の出るものがいいという事になって、甚兵衛は火の見櫓の半鐘を仕入れようと言う。
それに対し女房は言う。
「半鐘はいけないよ、おジャンになるから」
この噺の中に出てくる太鼓は「楽太鼓」と呼ばれる雅楽に使う打楽器で、平たい形状を持ち、垂直に立てて演奏するのが特徴。
3メートルを越える巨大なものから、神社・仏閣で使われる持ち運びにも適した小型のものまで様々な大きさがあるそうです。
この噺は、江戸時代から伝わる小さな噺を、明治末期に初代三遊亭遊三が少し膨らませて演じた。
この遊三の高座を修行時代に楽屋で聴き覚えた五代目古今亭志ん生師匠が、昭和初期に多量のくすぐりを入れるなどして志ん生の新作といってもよい程に仕立て直し、現在の形としたもの。
そういう意味で、古今亭のお家芸になっている訳です。
父親と息子と言うのは、近くて遠い存在だと思います。
父親は、見栄を張りながらも、可愛くて仕方のない息子を、ある時は谷底に落としたり、陰で見守ったりするものです。
持ちネタに人情噺が多い私ですが、やはり「親子」というのは、大きなテーマになります。
乱志十八番の中で、「ねずみ」「藪入り」「抜け雀」は、父親と息子です。
「火事息子」も、父と子を描きますが、母と子の要素も持っているので、ここでは上の3題で語ろうと思います。
父親と言うのは、母親と違って、優しさやスキンシップで愛情を表現できる存在ではありません。
自分のコピーでもありますから、歯痒くもある。
「藪入り」の熊さん。
自分が奉公して苦労したから、それだけに、同じ苦労を味合わせることがつらい。
私の父は、熊さんに近かったかもしれません。
演じていていつもそう思っていたものです。
「抜け雀」の親子は、谷底に落とし落とされ・・。
しかし、底では、それぞれを理解し評価している。
我が子を突き放す辛さ、親を客観的に見て評価する息子。
紆余曲折はあっても、ある意味で理想の親子かもしれない。
「ねずみ」の親子は、賢い息子に救われる。
親子というより、親孝行で聡明な息子が描かれます。
・・・自分が人の親になって、息子と接する時に、どんな親父でいるべきか。
いろいろやり方はあるのでしょうが、自らの経験で言えることは、自分の息子を信じて肯定することだと思います。
地元山梨県のニュースです。
地方の地盤沈下は、全国でさらに加速しているようです。
山梨県の県庁所在地甲府市の甲府駅前には、昭和29年に創業した甲府駅前の「山交百貨店」があります。
この山交百貨店が、今年9月30日に閉店するそうです。
1階出入口に、「営業終了のお知らせ」が掲示されました。
客の減少や郊外のショッピングモールなど他の大型店との競合が激化。
減収減益が続き、収支改善の見込みが立たないと判断。
地元客だけでなく、駅を利用する旅行客などの利用も多かったのですが、甲府の玄関口の賑わいが一つ消えます。
創業65年の当百貨店の前身は「甲府松菱」。
昭和36年7月、国際興業グループに入り、40年11月に今の商号に変更。
「山交」というのは、国際興業グループの「山梨交通」の略称。
店舗は甲府駅南口ロータリーに面し、地上5階、地下4階。延べ床面積3万9383平方メートル、売り場面積1万6445平方メートル。
ピーク時に100店を超えたテナントは現在、67店に減少。
・・・私の実家は山梨県ですが、気候も経済的にも静岡県エリアにありますので、甲府にはあまり馴染みがありませんが、小学校5年生の遠足は、身延線に揺られること2時間近く、山梨県庁と舞鶴城(甲府城)跡と山交百貨店がメインでした。
(4年生の時は、清水港と静岡駅前の駿府城公園と松坂屋。)
閉店後はどうなるんだろう?
駅前がますます寂しくなって、信玄像も心細くなるでしょう。
今から11年前の3月1日は土曜日でした。
私の落語徘徊の大きな一里塚の日になりました。
この日、私は大きなボストンバッグを肩に掛けて、JR大塚駅に降り立ちました。
そして、駅で待ち合わせをした人たちと向かったのは、東京都立文京高校でした。
実は、この前年の12月にとても悲しいことが起こっていました。
我が落研創部のリーダー(初代部長)のOさん(初代麻雀亭駄楽師匠)が、外出先から帰宅された直後に急逝されてしまいました。
私は、この2週間前に、とある落語会で駄楽師匠と一緒になり、その後2人だけで盃を重ねました。
この1年前ぐらいから、OBの先輩方との交流が始まっていました。
この時、落語が好き、落語が演りたい2人は、「駄楽乱志二人会」をやろうじゃないかと約束して別れました。
駄楽師匠は、大手企業の役員にまで登りつめただけでなく、落語だけでなく多趣味な方だったようで、母校の文京高校で、同窓の方々と「笑涯学習」と称して楽しんでいらっしゃったそうです。
このメンバーの中心にいらっしゃったのが、文京高校OBの三遊亭圓窓師匠でした。
落語の米朝は国の宝でしたが、こちらの米朝は・・・。
落語的には、大統領は「穴泥」に登場する(店に出入りする)鳶頭の熊さんで、委員長は
「幇間腹」に登場する若旦那に見えて仕方ありません。
こりゃあ、進む話もなかなか進まないでしょう。
鳶頭の熊さんは、"向こう見ずの熊"と呼ばれて身体中彫り物だらけでいかにも強そうですが・・・実はとても臆病で、虚勢を張ってばかり。
若旦那は、幇間の一八の腹に針を刺したまま逃げてしまう。
この二人が拙速に・・・と心配しましたが、"上手く決裂"して大事に至らなくて良かった。
これで、中途半端に動きでもしたら、この後起こるであろうことの方が恐ろしい。
「米朝会談」ではなくて「米朝怪談」になって、地獄の亡者が戯れてしまう・・・のは「米朝怪談」・・・じゃおんなじで、もう訳が分からない。。
海の向こうのフランスの学校では「お母さん、お父さん」ではなく、「親1号、親2号」と呼ぶ。
最近、こんな条項を盛り込んだ法案がフランスの下院で可決されたそうです。
なんだか「パーマン」「サイボーグ009」みたい。
この法律が成立した背景は、同性婚家族への差別解消のため。
現政権の与党議員が要求し、左派野党も支持。
フランスでは同性婚が合法化され、養子縁組も可能。
同性カップルの子どもは20万人を超えると推計。
PTA代表は「社会の現実に沿った措置。子供が"普通と違う"とイジメにあうこともなくなる」と法案を歓迎。
保守派からは「家族制度が崩壊する」「どちらが1号かをめぐって夫婦の争議になる」との反対が続出。
国民教育相も「父、母の呼称を消す必要はないのでは」と注文を付け、今後国会論議で再検討される見通し。
・・・う〜ん。
これでいいのかなぁ。
何か・・・違和感があるなぁ。
フライスだけに、ぶつぶつ(仏々)言ってしまいますが。
あの「左甚五郎」も、落語国のヒーローの一人です。
「三井の大黒」「叩き蟹」「頂き猫」「ねずみ」そして「竹の水仙」。
藤沢宿(あるいは神奈川宿)のとある宿屋の二階に、一銭も払わず暴飲暴食し、長逗留している男がいた。
はじめは「宿賃は去る時に支払ってもらい、それまでは何があっても取り立てはしない」という約束だったが、宿の予算も食材も底をついてきたため、宿の主人・大黒屋金兵衛(大松屋佐兵衛とも)は、妻にせっつかれて、しぶしぶ勘定を取り立てることにする。
すると、男は「一文無しだ」と言う。
怒った主人が「どうするつもりなのか」となじると、男は「上方の番匠(大工)だ」と名乗り、「算段(=計画)がある。よく切れるノコギリを持って宿の裏にある竹やぶについて来い」と言う。
主人は「ノコギリでバラバラにされて殺されるのでは?」と疑いつつも、言われたとおりについて行く。
竹やぶに着くと男は、たくさん生えている孟宗竹のうち何本かを指さし、「これとこれを切れ」という。
主人は、釈然としないながらも、言われたとおりに竹を切る。
男はその竹で、水仙のつぼみの彫刻と、花立てを作りあげる。
男は主人に「これが売れたら、売り上げを宿賃として支払う」と言って、主人を呆れさせる。主人は男がさらに指示するとおりに、その花立てに水をたっぷり入れ、竹の水仙をさし、「売物」と書いた紙を貼って軒先の目立つ場所に一晩置く。すると、明け方につぼみが割れ、竹でできた水仙の花が見事に開く。
そこを偶然、肥後熊本の細川越中守(長州の毛利とも)の大名行列が通りかかる。
越中守はたちまち軒先の竹の水仙に心を奪われる。
側用人の大槻刑部が宿を訪ね、「値は?」と聞く。
主人は二階に上がり、「相手はお大名だ。ちょっと高く取って、1朱ぐらいで売るか?」と男に提案する。
ところが男は「200両で売ってこい」と言う。
主人は狼狽するが、意を決して男に言われた通りに伝える。
しかし、刑部は「たかが竹細工に払える値ではない。足元を見るな」と激怒し、主人を殴って出て行ってしまう。
主人は男に、せっかくの買い手を逃した上に理不尽に殴られたことを強く当たるが、男は「まだ表に立っておけ。あの御用人は、すぐに顔を真っ青にして戻ってくるから」と言う。
一方その頃刑部は、本陣で休んでいた越中守に「買わずに戻ってまいりました」と報告する。
すると、越中守は「あの竹の水仙は、今世に名を轟かせる名人左甚五郎が作った貴重なものであり、あの他には京にしかない。また甚五郎は、いくら金を積まれても、気が向いた時にしかあれを作らない」と言う。
それを刑部が「200両は高い」として帰ってきたことに越中守は激怒し、「もう一度宿屋に行き、もし買えなかった場合は切腹を命ずる」と言ったため、刑部は大あわてで宿へと走る。
主人は戻ってきた刑部に「さっき一発叩かれたから、値段を300両に上げる」と言い放つ。
それでも買おうとする刑部を不審に思い、「なぜ竹細工にそんなに大金を払えるのか」と聞いたところ、甚五郎の正体を知ることになる。
竹の水仙を売ったあと、主人夫妻は甚五郎に今までの無礼をわび、売り上げの300両を渡そうとする。
売り値を200両と決めていた甚五郎は差額の100両を夫婦に渡し、宿賃と迷惑料としてさらに50両を渡す。
夫妻は宿を去ろうとする甚五郎を止め、「どうかこのあとも、300両の竹の水仙をこの宿で作り続けてもらえないか」と聞くが、甚五郎はそれを拒む。
理由を聞くと、「竹に花を咲かせると、寿命が縮まるから」。
左甚五郎は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。
落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。
講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。
日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。
しかし、その製作年間は安土桃山時代 - 江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。
・・・ こういうスーパーマンを待望するのは、今も昔も変わらないということですね。
人気落語家による、お役立ち(?)悩み相談。
「春風亭一之輔 師いわく: 不惑・一之輔のゆるゆる人生相談 」
すっかり大物になった一之輔さん。
本もたくさん出していますが、今回は、人生相談ですか。
小学館のウェブマガジンP+D MAGAZINEで人気連載中『師いわく ~不惑・一之輔の「話
だけは聴きます」』の書籍化です。
「我らが師」こと春風亭一之輔は日本一の高座数(年間900席以上)をこなしていながら、「最もチケットの取れない噺家」のひとりとされる人気落語家。
すごい若手真打が現れた…と言われたのは2012年のことでしたが、2018年1月にいよいよ不惑を迎えました。
孔子いわく「四〇にして惑わず」と。
しかし落語会ではまだまだ若手でもあり、同時に弟子たちを抱える師匠でもある立場。
また私生活では3人の子を育てる父でもある我らが師、春風亭一之輔。
そんな師匠が自らの経験を活かしたり活かさなかったりしながら、迷える読者のお悩みにゆる~く答えます。
聞き役は本業・写真家のキッチンミノル氏。
ふたりのオフビートなやりとりと、そこから滲み出てくる、人気落語家・春風亭一之輔の人柄もお楽しみください。
・・・こういう本もあるということで。
二つ目の頃に聴いていた頃が懐かしい。
落語では、決して通り過ぎることが出来ないのが「吉原」。
私は今まで「廓噺」は意図的に避けていましたが、やはり逃げる訳には行かないと「明烏」にチャレンジしましたが、吉原が出て来る話はたくさんあります。
「明烏」は、日向屋の堅物の若旦那「時次郎」が、吉原の花魁の「浦里」に籠絡されます。
「文七元結」は、左官の長兵衛の娘のお久が、大店の「佐野槌」に身を売ります。
「鰍沢」は、お熊はかつて吉原(熊蔵丸屋)の売れっ子(月の兎)の花魁でした。
吉原遊廓は、江戸幕府によって公認された遊廓。
始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。
元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。
「吉原」の語源は遊廓の開拓者である庄司甚内の出身地が東海道の吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。
いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七ヶ丁もの広大な面積を誇る遊郭があった。
吉原はその内の五ヶ丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりである(二丁町遊郭)。
庄司甚内へ5か条の許可の条件が示されたが、徳川幕府は遊興にふけり犯罪を犯すもの、浪人悪党の逮捕を考慮した。
明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。
幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田圃に移転を命じられた。
以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。
江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」または「北州(ほくしゅう)」の異名もある。
周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる大溝があり、新吉原初期の頃には幅5間(約9m)、江戸末期から明治初期には縮小され幅2間(約3.6m)、明治36年頃には3尺(約90cm)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されていた。
遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列があった。
大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。
江戸前期の一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったという。
遊女や吉原風俗は浮世絵や黄表紙・洒落本等の題材にもなった。
吉原が女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことは疑いもないが、文化の発信地という側面も持っていた。
1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可された。
また、しばしば大火に見舞われた。
主な大火は1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、1862年、1864年、1866年。
吉原が再建されるまでの間、浅草周辺などに仮宅が設けられることがあった。
明治以降、芸娼妓解放令が出され、1875年には遊女屋は「貸座敷」と名を変えたが、遊女は相変わらず「籠の鳥」であり、自由な外出もできず、人身売買の実態は江戸時代と同様、旧態依然の状態であった。
明治の吉原風俗は「ヰタ・セクスアリス」(森鴎外)や「たけくらべ」(樋口一葉)といった作品からも窺える。
特に一葉は吉原近くの竜泉に小間物屋を構えるなど当地との縁が深い。
1903年には、写真指名システムがはじまり(「写真見世」)、1916年には、張店が禁止された。
近代以降も1911年4月9日に大火が発生した(「吉原大火」)。
また、関東大震災、東京大空襲でもほぼ全焼し、多くの犠牲者を出したが、そのたびに不死鳥の如く復活した。
第二次世界大戦後、GHQの指令により公娼廃止となり、営業形態も民主化され、特殊飲食店街、いわゆる赤線となった。
・・・「文七元結」で、長兵衛は50両の金を懐に、吉原(佐野槌)を出て、住まいの長屋のある本所の達磨横丁まで、こんなコースで歩いたはずです。
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