乱志十八番⑨「火事息子」
十八番一覧の中でも、比較的新しい持ちネタです。
とは言え、とても手強い噺でした。
落語も、演者によって、同じ噺でもニュアンスが変わるものです。
この噺も、どちらかと言うと、バリバリの人情噺というよりも、前半の近火のお店のドタバタに力点が置かれることが多い気がする。
しかし、例によって、圓窓師匠の高座本をベースに、後半の父母(老夫婦)の会話にスポットを当てて、人情噺仕立てにしました。
江戸時代の消防組織には、町火消と若年寄直轄の火消屋敷があった。
神田の質屋伊勢屋の一人息子の藤三郎は子どもの頃から火事が好きでしょうがない。
ついには火消しになりたくて町内の鳶頭のところへ頼みに行くが断られ、他所へ行っても鳶頭から回状がまわっていてだめ。
仕方なく火消屋敷の火事人足、臥煙になる。体中に刺青(ほりもの)をし、家(父親)から久離を切って勘当されてしまう。
今では親と喧嘩をして「おまえなんか勘当だ」と家を追い出されても法律上は親子のままですが、江戸時代は、連帯責任が及ばないように子を籍から除いて、親子の縁を完全に切ることができました。その手続きを「久離を切る」と呼びました。キュウリを輪切りにした訳ではありません。
ある北風が強い日に、店の近くから火事が出た。
質蔵の目塗りをしようと左官の親方を呼んだがこっちまで手が回らないという。
さいわい火元からは風上だが万一人様の物を預る質蔵に火が入っては一大事と、あるじは高い所を怖がる番頭を蔵の屋根へ上げ、定吉に土をこねさせ屋根へ放り上げるが番頭は怖がって上手く受け取れない。
顔に土が当たって顔に目塗りをしている有様だ。
するとこれを遠くから見ていた一人の臥煙が屋根から屋根を伝わってきて、番頭の帯を折れ釘に結んだ。
これで両手が使えるようになり、番頭はこれで踊りでも何でもなんて両手をひらひらさせている。
やっとのことで目塗りも出来上がる。ちょうどその頃、火が消えたという知らせ。
そうなると今度は火事見舞いの人たちが入れ替わり立ち替わりやってきて忙しい。
紀伊国屋さんからは風邪をひいた旦那の代わりにせがれが来た。
思わず自分の息子と比べ羨ましいかぎりで思わず愚痴も出る。
そこへ番頭がさっき手伝ってくれた臥煙が旦那に会いたいと言っていると取り次ぐ。
旦那は店に質物でも置いてあるのだろうと思い返しあげなさいと言うが、番頭は口ごもってはっきりしない。よくよく聞いてみると臥煙は勘当した息子だという。
もう赤の他人なんだから会う必要なんかないという旦那を、他人だからこそお礼を言うのが人の道だと諭され、それも道理、一目会って礼を言おうと台所へ行く。
竈(かまど)の脇に短い役半纏(やくばんてん)一枚で、体の刺青を隠しようもない息子の藤三郎が控えている。
お互いに他人行儀のあいさつをかわし、旦那は息子の刺青を見て、「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始なり」と教えたのに親の顔へ泥を塗るとはお前さんのことだと嘆く。
旦那が「お引取りを」、「それではこれでお暇を」と息子が言うのを番頭が引きとめ、おかみさんを呼ぶ。
奥から猫を抱いたおかみさんが出てくる。火に怯えずっと抱いたままだという。
番頭「若旦那がお見えでございます」
おかみさん せがれの寒そうななりを見たおかみさん、蔵にしまってある結城の着物を持たせてやりたいと涙ぐむ。
旦那「こんな奴やるくらいなら打っちゃってしまったほうがいい」
おかみさん「捨てるぐらいならこの子におやりなさい」
旦那「だから捨てればいい。捨てれば拾って行くから」
おかみさん「よく言っておくんなさった。捨てます、捨てます、たんすごと捨てます。この子は粋な身装(なり)も似合いましたが、黒の紋付もよく似合いました。この子に黒羽二重の紋付の着物に、仙台平の袴をはかして、小僧を伴につけてやりとうございます」
旦那「こんなやくざな奴にそんな身装をさしてどうするんだ」
おかみさん「火事のおかげで会えたから、火元に礼にやりましょう」
「お江戸あおば亭」の終演後の楽屋で、ある先輩が、「人情噺にしたんだね」と仰いましたので、「はい。圓窓師匠が人情噺でお演りですので」と答えました。
私は、後半の父親と母親の、息子に対する対照的な姿を描こうと思いました。
父親の「前へ出ろ!」と、母親の「(彫り物が)綺麗だね」をキーワードにしました。
息子を思う父と母の違いを明確に描きたかった。
そして、それぞれを聴き手に納得していただきたかった。
父親の業、母親の業の違いを人情噺にして語りたかった。
「理」と「情」、「厳格」と「寛容」。
親ゆえに、根底に流れる、形こそ違え、子に対する深い思いを。
・・・この噺では、若旦那の藤三郎は、「町火消」ではなく「定火消」、すなわち武家屋敷専門の火消人足になる設定です。
この人足を「臥煙(がえん)」と言いますが、身分は旗本の抱え中間(武家奉公人)で、飯田町(今の飯田橋辺)ほか、10ヶ所に火消屋敷という本拠がありました。
もっぱら大名、旗本屋敷のみの鎮火にあたり、平時は大部屋で起居して、一種の治外法権のもとに、博徒を引き入れて賭博を開帳していたため、その命知らずとガラの悪さとともに、町民の評判は最悪でした。
目に入れても痛くない、歳を取ってから授かった大事な一人息子が臥煙にまで「身を落とした」ことを聞いたときの父親の嘆き。
しかも、臥煙は、町火消のような刺し子もまとわず、法被一枚で火中に飛び込むのを常としたため、死亡率も相当高かったので、親の心配は大変なものだったことでしょう。
若旦那の藤三郎は、番頭を折れ釘にぶらさげて動けるようにしてやるだけで、目塗りを
直接には手伝わず、また父親も、必死にこみあげる情を押さえ通して、最後まで「勘当を許す」と自分では口にしません。
単なるお涙頂戴にならないような、父と息子、父親の意地、男の見栄が交錯する展開を描きたいものです。
そして、母親は、ただひたすらに息子の無事を祈る。
そんな人情噺に出来ればと思います。
この噺は、明治期には初代三遊亭圓右の十八番でした。
昭和に入って、八代目林家正蔵師匠をはじめ、六代目三遊亭圓生師匠、五代目古今亭志ん生師匠、三代目桂三木助師匠など、名だたる大看板が競演しています。
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