乱志十八番⑧「ねずみ」
恋しい「第二の故郷」仙台が舞台になっている唯一の噺。
当然、大学3年生の時に、この噺にチャレンジしました。
この噺は、三代目桂三木助師匠が、浪曲師の広沢菊春に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものです。
だから、純然たる古典落語ではないんですね。
「甚五郎の鼠」で、昭和31(1956)年7月に初演。
「竹の水仙」「三井の大黒」などと並んで、三木助師匠得意の名工左甚五郎の逸話ものです。
三木助師匠は、昭和を代表する噺家さんの一人ですが、あの「芝浜」の今の原型を作ったり、勿論この「ねずみ」もそうですが、脚色・演出家としても、大きな足跡を残していると思います。
ある評論によれば、音源を聴いてみると、三木助師匠が、特に子供の表現に優れていたことが分かると言われています。
お涙頂戴に陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところがこの人のよさでしょう、と。
https://www.youtube.com/watch?v=XhR1gHno6QE
・・・確かに、人情噺なんですが、重たくしていない。
演っていても、それは感じます。
ほろりとするところは、1ヶ所だけ。
「お父っつぁん、おっ母さんは何故死んじまったんだよう」。
それから、私がもう一点関心・感服したのは、言葉遣いです。
この噺は、舞台が仙台ですから、落語のパターンであれば、甚五郎を除いて全員が田舎言葉になるはずです。
宿外れで卯之吉が、「オジサンは、旅の人かねぇ。おらの家さ泊まってけさい」って。
しかし、地元の人の会話は田舎言葉にしますが、卯兵衛も、卯之吉も、生駒屋も、番頭の丑蔵も、普通の言葉遣い(江戸弁)。
ところが、1ヶ所だけ、三木助師匠は、地元の人の言葉に卯兵衛が返す場面で、こんなやり取りにしています。
「んじゃあ旦那ぁ、甚五郎名人と心安いだかねぇ?」
「んにゃ心安いなんてはぁ、おしょしい(おしょすい)がね」
・・・「おしょしい(おしょすい)」というのは、どういう意味でしょうか?
何と、「恥ずかしい、照れくさい」という意味なんです。
この一言を、三木助師匠は、噺(会話)の中に、さりげなく入れているんです。
しかも、前後の脈絡から何となく意味が想像できる。
日本橋橘町の大工の棟梁、政五郎の家に居候の身の左甚五郎。
見聞を広めるためか、ただの物見遊山か奥州への旅へ出る。
仙台城下で客を引いている子どもに、「おじさん、うちに泊まっておくれよ」と袖を引かれて鼠屋という宿に入る。
使用人などはいなく腰の立たない卯兵衛と十二になる子どもの卯之吉二人だけでやっている宿とは名ばかりで物置小屋のような粗末な家だ。
足をすすぐのは裏の小川、夕飯は父子二人分込みの出前の寿司、布団は貸布団という宿らしからぬことばかりで、甚五郎が二分払うと卯之吉は酒を買いに行った。
甚五郎「なぜ、女中などを置かないのか?」と、卯兵衛に問うと、
卯兵衛「もとは向かいの虎屋の主人でしたが、五年前に女房を亡くしました。古くからいる女中のお紺を後添えにいたしましたが、これが番頭の丑造とくっついて私をないがしろにし、卯之吉につらく当たっていじめました。ある時、二階の座敷で客同士の喧嘩の仲裁に入ったところ、喧嘩の巻き添えで階段から転がり落ちて、こんな身体になってしまいました。お紺と番頭は私たちが邪魔になり、ここへ追いやりました。ここは元は物置で、友達の生駒屋の計らいで宿を始めました。ここは鼠が多いので鼠屋という名にしました」
話を聞き終えた甚五郎は、適当は木端を持って二階に上がった。
卯兵衛が宿帳を見ると天下の彫り物師でびっくり仰天。
甚五郎はその晩、精魂込めて一匹の小さな鼠を彫り上げた。
翌朝、甚五郎は木の鼠を盥(たらい)に入れて竹網をかけると、”左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧になりたい方は、土地の人、旅の人を問わずぜひ鼠屋にお泊りください”と書いた札を入口に揚げさせ、「あるじ、卯之吉、世話になった」と出発した。
すぐに通り掛かった近所の百姓が札に気づく。
むろん甚五郎の名は百姓までにも知れ渡っている。
早速、鼠を見せてもらうと、あな不思議、盥の中の鼠がちょろちょろと動き回った。
びっくり仰天、さすがは甚五郎と感心だが、家はすぐ近くだが鼠屋に泊まるハメになった。
さあ、この噂はすぐに広がって鼠を一目見ようと、次から次へと見物人が押し寄せ、それがみんな泊って行くから鼠屋は大繁盛。
裏の空き地に建て増し、使用人も何人も置くようになった。
それに引き替え向かいの虎屋には悪い評判が広がり、客足は遠のく一方で閑古鳥が鳴く有り様だ。
困った丑造は仙台城下一の彫刻名人・飯田丹下に頼んで、大金を払って大きな木の虎を彫ってもらって、二階に手摺り置いて鼠を睨ませた。
大きな虎の威力に怯えたのか鼠はピタッと動かなくなった。
卯兵衛「畜生、こんなことまでしやがって・・・」と、怒ったとたんに腰が立った。
ずっと立たないと思って立とうとしなかったから立てなかっただけで、立とうと思えばとっくに立てただけなのだが。
卯兵衛は江戸に帰っている甚五郎に、「おかげさまで私の腰が立ちましたが、鼠の腰が抜けました・・・」と手紙を送った。
どうしたのかと不思議に思った甚五郎は二代目政五郎を連れて仙台へやって来た。
卯兵衛に言われ虎屋の二階を見ると大きな虎がこちらを睨んでる
甚五郎「なあ、政五郎、あの虎をどう思う?」
政五郎「金で作らされて魂が入ってないうつろな、卑しい目をしてまさぁ。立派な虎は額に”王”という字が浮かぶと言いやすが、あのトラには何の風格もありゃしません。ちっともいい虎とは思いやせん」」
甚五郎「そうだろう。あたしもいい出来とは見えない。おい、ネズミ、俺はお前を彫る時に魂を打ち込んで彫り上げたつもりだけど、お前はあんな虎がそんなに恐いか」
鼠「えっ?あれは虎ですか。てっきり猫と思いました」
・・・やはり、先代ご当地噺なので、OB落語会でもやらせていただきました。
そして、2011年7月に、「学士会落語会会員落語会」で、「ねずみ」を口演しました。
圓窓師匠の出囃子「新曲浦島」に乗って高座へ。
代わる代わる色々な顔をご覧に入れまして、お力落としもございましょうが、私が高座の掃除番でございまして・・・。
「旅人は 雪呉竹の群雀 止まりては発ち 止まりては発ち」
「ここが虎屋か。木口といい仕事といい、実に見事だ。」
「さぁさぁ、どうぞお入りください。」
「子どもの喧嘩でそんな傷がつくか。正直に言え。」
私の学生時代の人情噺御三家は、「ねずみ」「浜野矩随」「藪入り」です。
・・・それにしても、今は東京から新幹線で1時間半で仙台ですが、昔は「奥州街道」をひたすら北に向かったという訳で、本当に江戸からは遠い場所でした。
仙台で旅人が草鞋を脱ぐ場所は、今の「芭蕉の辻」あたりだったようです。
この辺りには、旅籠がならんでいたそうです。
当時、旅籠の客引きたちは、どの辺りまで出て、街道を下る旅人に声をかけたのでしょうか?
長町から広瀬川を越えてすぐの所までは行ったんでしょうか?
広瀬橋を渡ったら、卯之吉が声をかけてくれたんでしょうか。
想像するだけでも楽しかった。
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