乱志十八番「大川端」三題
江戸と言えば「隅田川(大川)」です。
山や川や海というのは、時には、「父なる・・」「母なる・・」という、人にとってはなくてはならないもの。
同時に、一旦猛り狂うと恐ろしい「地」でもあります。
落語にも、大川が舞台になっている噺がたくさんあります。
そして、大川に架かる橋、大川を横断する渡し船も、大切な要素になっています。
江戸時代が舞台になっている噺では、上流から「吾妻橋(大川橋)」「両国橋」「新大橋」「永代橋」が登場します。
中でも、「吾妻橋」が一番頻度が高い気がします。
江戸時代には、隅田川に5つの橋が架かったそうです。
「吾妻橋」はその中で唯一民間によって架橋された橋で、かつ江戸時代最後の架橋だそうです。
1594(文禄3)年、関東郡代伊奈忠次が家康の命を受けて千住大橋を架橋
1661(寛文元)年、明暦の大火(「振袖火事」)を受けて江戸幕府は隅田川の架橋を認め、両国橋(大橋と通称)を架橋
1694(元禄6)年、5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院のすすめで新大橋を架橋
1698(元禄11)年、5代将軍・徳川綱吉の50歳を祝して永代橋を架橋
1774(安永3)年、町方により吾妻橋が架橋
・・・という訳です。
「吾妻橋」は、1769(明和6)年4月、浅草花川戸の町人「伊右衛門」と下谷竜泉寺の「源八」の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年を経た1774(安永3)年10月17日に完成。
架橋当初の橋は、長さ84間(150m)、幅3間半(6.5m)で、武士以外からは2文の通行料を徴収した有料橋だったそうです。
技術的にも優れていて、1786(天明6)年7月18日の洪水時(寛保2年、弘化3年、天明6年の水害=江戸三大水害)には、「永代橋」「新大橋」があえなく流出、「両国橋」も大被害を受けたのに対して、民間架橋の「吾妻橋」は無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったそうです。
そうか、浅草と向島や本所という、落語の舞台そのものであると同時に、町人が作った、しかも堅牢な橋ということで、人気があるんでしょう。
明治9年2月に木橋として最後の架け替えが行なわれた際に、「吾妻橋」と命名。
その木橋も明治18年7月の大洪水で流出。
明治20年12月9日に隅田川最初の鉄橋(鋼製プラットトラス橋)として再架橋されましたが、脇には鉄道橋、人道橋が並んで架けられていました。
吾妻橋の下流側には「竹町の渡し」があり明治9年まで運航されていました。
んっ
「吾妻橋」という名称は、明治になってからの命名ですって
ということは、噺の中では「吾妻橋」と言ってはいけないのではありませんか?
橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれた。
これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなむ。
しかしながら、俗に江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説がある。
いずれにしても、1876年(明治9年)2月に木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された。
・・・とあります。
町人たちは、「大川橋(おおかわばし)」とは言わず、「東橋(あずまばし)」と言っていたということでしょうか?
そうすれば、落語は語りの演芸ですから、「文七元結」で、左官の長兵衛が文七を助けたのは、「あずまばし」で良いということになります。
ただし、字で書いたら「吾妻橋」ではなくて「東橋」あるいは「あずまばし」としなくてはいけない訳ですね。
一方で、その大川の下流には、「石川島」や「佃島」という島がありました。
東京都中央区南東部,隅田川河口の島。
江戸時代初期,摂津国佃村の漁師が拝領して造成した漁村であったので,この名があり,明治になって北の石川島を合併して町名となる。
初期の佃島は現在の佃1丁目にあたる。
江戸時代からの名産佃煮の製造が現在も行われる。
北部の石川島播磨重工業跡地に高層住宅が建設されている。
埋め立てによって、「石川島」「月島」と地続きになっていますが、昔は島でした。
摂津の国の小さな村の漁師たちが、なぜ江戸に領地を拝領出来たのか?
本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢とともに大坂、堺にいた。
家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。
そこに救世主のごとく現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供した。
その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができた。
後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えた。
「佃祭」に出て来る「佃の渡し」は、なんと佃大橋完成前の1964年まであったそうです。
「エジプトはナイルの賜物」なんていう言葉があります。
ナイル川が運ぶ肥沃な土のおかげで、エジプトの壮大な文明や国家が築かれたのと同様に、「江戸は隅田川の賜物」かもしれません。
・・・大川(隅田川)、大川に架かる橋、大川を渡る渡し船、河口にある島々・・・、そういうものを思いながら、噺の舞台設定をして行きたいものです。
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