乱志十八番「圓朝もの」三題
落語好き、落語を演ろうと思うとき、三遊亭圓朝が作った噺を演るのは、夢みたいなものです。
「いつか圓朝物を」と夢見る人は多いと思います。
学生時代の私がそうでした。
現実に、学生時代には演ることはありませんでしたから、文字通り夢で終わりました。
圓窓師匠にご指導いただき、一層その気持ちが強くなりました。
圓窓師匠をずっと辿って行くと、圓朝に繋がっているんですから。
そして、「文七元結」「鰍沢」「怪談牡丹燈籠(お露と新三郎)」を高座にかけることが出来ました。
【三遊亭圓朝】
天保10年(1839年)4月1日:初代橘屋圓太郎(初代圓橘)の息子
として江戸湯島切通町で生まれる。母の名は、すみ。
弘化2年(1845年)3月3日:初代橘家小圓太で江戸橋の寄席の
「土手倉」で初高座。
弘化4年(1847年):父圓太郎と同じ二代目三遊亭圓生門下。
嘉永2年(1849年):二つ目昇進。
嘉永4年(1851年):玄冶店の一勇斎歌川国芳の内弟子となり、
画工奉公や商画奉公する。
安政2年(1855年)3月21日:三遊亭圓朝で真打昇進。
安政5年(1858年):鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げ。
元治元年(1864年):両国垢離場の「昼席」で真打披露。
明治元年(1868年):長子の朝太郎誕生。
母は御徒町住の同朋倉田元庵の娘、お里。
明治5年(1872年):道具仕立て芝居噺から素噺に転向。
明治8年(1875年):六代目桂文治と「落語睦連」相談役就任。
明治10年(1877年):陸奥宗光の父で国学者の伊達千広による
禅学講義の席で知己となった高橋泥舟により、
義弟の山岡鉄舟を紹介される。
明治13年(1880年)9月24日:山岡鉄舟の侍医である千葉立造
の新居披露宴で、同席していた天龍寺の滴水和尚
から「無舌居士」の道号を授かる。
明治19年(1886年)1月8日:井上馨の共をして身延山参詣。
井上の北海道視察(8月4日より9月17日)にも同行。
明治20年(1887年)4月26日:井上馨邸(八窓庵茶室開き)での
天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも
益田孝らと共に招かれる。
明治22年(1889年)
4月:向島の木母寺境内に三遊派一門43名を集め、
三遊塚を建立。
初代および二代目三遊亭圓生を追善記念する。
6月30日:各界人士を集めて、初代二代目 圓生の
追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の
43名が小噺を披露し、記念誌を配布した。
朗月散史編「三遊亭圓朝子の傳」が三友舎から出版。
圓朝自身の口述に基づく自伝。
明治24年(1891年)6月:席亭との不和で寄席の出演を退き、
新聞紙上での速記のみに明け暮れる。
明治25年(1892年):病のために廃業。
明治30年(1897年)11月:弟子の勧めで高座に復帰。
明治32年(1899年)
9月 発病。
10月 木原店での「牡丹燈籠」が最後の高座となる。
不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。
明治33年(1900年)8月11日午前2時:死去。
病名は「進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。
法名は「三遊亭圓朝無舌居士」。
墓は谷中の臨済宗国泰寺派全生庵。
東京都指定旧跡となっている。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2015/09/post-121c.html
圓朝ものの高座、あるいは稽古の度に、谷中の全生庵のお墓にお参りをしています。
「文七元結」は、人の情けに身体が震えました。
「鰍沢」では、吹雪で道に迷い、寒さで身体が震えました。
「怪談牡丹燈籠」では、あまりの怖さに身体が震えました。
圓朝ものではまだまだ演りたい噺がたくさんあります。
「死神」「芝浜」や「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」「江島屋騒動」。
勿論、「牡丹燈籠」も、さらに違う場面を。
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