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2019年2月11日 (月)

乱志十八番⑫「薮入り」

この噺は、私にとって、永年"トラウマ"になっていました。
学生生活最後の「卒業生追い出し落語発表会」のトリで、大変な失態をやらかし、永年の心の傷になっていたんです。
そのリベンジのために、約40年近くかかりました。
乱志十八番「薮入り」
永年の呪縛から解放されたのが、2011年の「お江戸あおば亭」。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/11/post-29fb.html
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そして、第一次落語っ子連の最後の発表会で再演したのが、2012年3月でした。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-8c01.html
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「薮入り」というのは、かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が実家へと帰ることのできた休日のことを言います。
旧暦1月16日と旧暦7月16日がその日に当たっていて、7月のものは「後(のち)の藪入り」とも言うそうです。
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この噺は、滑稽噺「お釜さま」の、初代柳家小せんによる改作「鼠の懸賞」を、さらに三代目三遊亭金馬師匠が人情噺に改めた演目だと言われています。
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従って、演者はまず、明治期のペストの流行と、警察が実施していた懸賞金付きの駆除届出制度について触れることによって、オチの仕込みをします。
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商家に奉公している亀ちゃんが3年ぶりに実家へ帰る藪入りの前日の夜。
息子の帰りを待ちきれない父親の熊さんは「あいつの好きなウナギを食わしてやりたい。ああ、あとお汁粉を食わしてやりたい、それから天ぷら、刺身、シャモ、寿司を……」とおかみさんに提案し、「そんなに食べられやしませんよ」とたしなめられる。

「今日は湯に行かせたら、本所、浅草に連れて行きたい。ついでに品川で海を見せて、羽田の穴守様にお詣りして、川崎の大師様に寄って、横浜、横須賀、江の島、鎌倉。ついでに名古屋のシャチホコを見せて、伊勢の大神宮様にお参りしたい。そこから京、大阪を回って、讃岐の金比羅様を……」と。
藪入りの当日。
両親は、玄関で立派に挨拶をする、身長が伸びた亀ちゃんを見て感涙する。

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母は湯屋に出かけた亀ちゃんの荷物をふと見て、財布に高額の紙幣が3枚も入っているのに気付く。
奉公先に持たされた小遣いにしてはあまりに高額なため、両親は、「亀が何か悪事に手を染めたのでは」という疑念を抱く。
父親は気を落ち着かせて待とうとするが、いら立ちがつのる。

帰ってきた亀に対し、父親は「このカネは何だ」となじる。
亀は、「人の財布の中を見るなんて。これだから貧乏人はいやなんだ」と言い返したので、熊さんはすかさず殴り飛ばしてしまう。
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母親は父親を制止し、「じゃあ、どうやって手にしたおカネなのか」と泣きながら問いただすと、亀は「そのおカネは、いやしいことで手にしたものではなく、店で捕まえたネズミを警察に持って行って参加した懸賞が当たって、店のご主人に預けていたもので、今日の藪入りのために返してもらってきたところだ」と答える。
両親は安心するとともに、我が子の徳と運をほめたたえる。
父親は「これからもご主人を大事にしろ」と亀吉に教え、次のように言う。
「これも忠(チュウ)のおかげだ」(=ネズミの鳴き声と掛けた地口オチ)。
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http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-4.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-8c01.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-b2f8-1.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-abdf.html
・・・ところが、圓窓師匠の高座本は違っていました。
師匠は、もう「鼠の懸賞」も、「忠」と言う言葉も分からない。
オチとしても、あまり良くない地口だから、という訳で、ストーリーを変えています。
それから、これは私のこだわりですが、舞台を明示でなく江戸時代にしました。
亀ちゃんが財布に入れていたのは、3両にしました。
今の貨幣価値でいうと、20~30万円のイメージです。
そして、そのお金は、懸賞の当選金ではなくて、遣いの途中、吾妻橋で拾って届けた物が、持ち主が見つからなくて亀の物になったという設定。
それから、実は、亀は夫婦の本当の子どもではなく、熊さんが、吾妻橋で捨てられていた赤ん坊を拾って来て、こどものいない夫婦が我が子のように育てていたと。
拾った子を大事に育てる、拾った金を大切にする・・・。
オチは「亀、拾ったものは大事にしろよ」。
これから、もっと練っていく必要が゜あります。
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「藪入り」の習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代だそうです。
本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされますが、都市化の進展に伴い、商家の習慣へと転じたようです。
関西地方や鹿児島地方ではオヤゲンゾ(親見参)などと呼ぶところもあり、六のつく日に行われることから、関西では六入りとの呼び名もあるそうです。
藪入りの日がこの二日となったのは、旧暦1月15日(小正月)と旧暦7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先や奉公先での行事を済ませた上で、実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされています。 
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そのうちに、地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる賽日であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになりました。
藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出します。
実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しみました。
また、遠方から出てきた者や成人した者には、実家へ帰ることができない者も多く、彼らは芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだそうです。
藪入りは正月と盆の付随行事であったため、明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われると、藪入りも正月と盆に連動してそのまま新暦へと移行。
文明開化後も商家の労働スタイルにはそれほどの変化はなく、さらに産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となりました。
藪入りの日は、浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって大きく発展。
第二次世界大戦後、労働基準法の強化などにより労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると藪入りはすたれ、正月休みや盆休みに統合されるようになりましたが、藪入りの伝統は正月や盆の帰省として名残を残しています。
・・・生まれ故郷を離れて、仙台で初めて一人暮らしをした時のホームシックを思い出しながら、この「藪入り」を心を込めて演り続けたいと思います。

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