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2019年2月 1日 (金)

乱志十八番②「帯久」

大岡裁きの一席「帯久」です。
乱志十八番「帯久」
落語国でもヒーローの「大岡越前守」の見事な人情お裁き。
講談の大岡政談ものと、随筆「明和雑記」中の名奉行曲淵甲斐守の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。
「名奉行」と題して、明治末に「文藝倶楽部」に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭圓生師匠が東京風に改作。
昭和32年10月に上野の本牧亭での独演会で初演。

https://www.youtube.com/watch?v=dYw18jwbN70
圓生師匠没後は、圓窓師匠が復活して演っています。
https://www.youtube.com/watch?v=T3BcXFG7u8A&t=42s
しかし、圓窓師匠がお演りになったから、という訳ではないんです。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2013/01/post-c882.html
・・・何か、落語が業の肯定だと思った時、世の不条理や不合理に憤りながら、でも絶対にそんなことがまかり通る訳がないと、悶々としていたんだと思います。
落語は、必ず助けてくれる。
それが「帯久」で、偶然にも、師匠の十八番の一つだった。
どうも、私は、「これは」と思うと、師匠のCDがあったりする。
「明烏」「子別れ」「ねずみ」「子別れ」「不孝者」。
堂々と?稽古をつけていただいた度胸というか無茶ぶりは、後で冷汗が出ます。
約7年ぐらい前、「一番丁はずみ亭」でネタ下ろしをしました。
一番丁はずみ亭の映像もも
本町四丁目に呉服屋を営む和泉屋与兵衛は好人物といわれ、評判も高い。
近くの本町二丁目の同業の帯屋久七は、陰で売れず屋と言われているほどなので、資金繰りに苦しんでいる。
享保六年二月二十日。
帯屋は和泉屋へ「金を貸してくれないか」とやってきた。
人のいい和泉屋は「あるとき払いの催促なしでいいですよ」と二十両貸してやった。
帯屋は二十日ほどで返金した。その後、五月に三十両、七月に五十両、九月に七十両と借りに来て、ちゃんちゃん二十日後には返金した。
十一月に百両借りにきたが、二十日経っても返金はなく、十二月の大晦日に返しに来た。
和泉屋は奥座敷でその百両を受け取り、「お客さまがいらっしゃいました」という内儀の知らせに部屋を出て行った。
部屋には帯屋が一人になった。目の前に返金した百両が置かれている。
帯屋はその百両を自分の懐へ入れると、店の者に挨拶もそこそこに帰って行った。
後刻、和泉屋は百両紛失に気が付いたが、忙しさに取り紛れてついついそのままにしてしまった。
帯屋はその百両を基にして商品に手拭い、布巾、晒し、袱紗、足袋、半衿などの景品を付けることを思い立った。
皮肉にも、これが人気を呼び、売れず屋が売れる屋になった。
一方、和泉屋は運から見放されたように、翌年三月、一人娘を亡くし、五月に内儀を亡くした。
その年十二月十日、神田三河町から出火。着の身着のままで焼け出されて、逃げるときに腰を打ったのか、満足に歩けなくなった。
和泉屋は以前、暖簾分けをしてやった分家の和泉屋武兵衛に救われた。
しかし、その武兵衛も人に騙されて店はなく、今は日雇いをしている身の上。それでも、恩返しのつもりで必死になって和泉屋の面倒を看た。
十年経ったが、和泉屋の生活は同じようなもので、相変わらず武兵衛の家の居候。

もももも
ある日、和泉屋は和泉屋本家を興こし、武兵衛にも楽をさせようと考えて、帯屋に金を借りに行った。
しかし、けんもほろろに断られて、その上、店の者に引きずり出され、塩まで撒かれる扱いであった。
あまりの悔しさに和泉屋は普請中の帯屋の裏手へ回り、見越しの松の枝を目にして首を括ろうとした。
今生の最後の一服と煙草を吸う。その吸い殻が普請場の鉋屑に転がっていき、燃え出してしまった。
大事には至らなかったが、帯屋の訴えで火付けの罪で捕われ、大岡裁きになる。

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奉行は部下の者につぶさに調べさせて、何度か取り調べを重ねて、いよいよ今日はその判決。
「さて、帯屋久七。そのほうは和泉屋から再三に亘って金子を借りておったのぅ」
「お奉行さま。ものには順がございます。火付けの罪として和泉屋を訴えたのは私でございます。火付けの件を裁いていただきとう存じます」
「ものには順があるか。そうであるの。帯屋からよいことを教わった。 しからば、和泉屋。そのほうの行いは火付けにあらず。煙草の火の不始末による失火である。しかし、失火であろうとも帯屋にとってみれば迷惑なこと。重罪も同然であろう。よって火炙りの刑に処す」
この判決に帯屋は大喜び。
「さて、帯屋。ものの順に従って取り調べる。そのほうは和泉屋より再三、金子を借りて返済はしておるようじゃが、最後に借りた百両は?」
「それも大晦日に返済いたしました」
「確かに和泉屋へ返済に行ったようじゃが、大晦日、店は忙しさに取り紛れている最中、来春に改めて返済をしようと思い立ち、返済はせずに帰宅したのではないか。しかし、春になって、今度はそのほうの店が多忙となり、つい、返済を忘れてしまったのであろう」
「いえ、そのようなことはありません」
「忘れたようじゃの。思い出すためにまじないがある。手を出せ」
帯屋の右手の人さし指と中指の二本に紙縒り(こより)を捲いてきつく縛り付けて封印をした。
「思い出すまじないじゃ。思い出すまで取ってはならんぞ。勝手に取ったならば、打ち首じゃ」
さぁ、帯屋は困った。
右手の指、二本が使えないので、物を持つことも容易ではなく、また濡らすと切れる恐れがあるので、風呂も入れない、顔も洗えないという始末。

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この様子を見た帯屋の番頭が「どうせ、和泉屋は火炙りで死ぬのですから、『思い出した』と言って百両を返したほうが楽ですよ」と知恵を付けた。
帯屋は奉行にそのことを申し出ると、「やっと思い出したか。正直になったな。でかした」と褒めながら奉行は封を切ってくれた。
「帯屋。十年経ったのであるから百両には百五十両の利子を付けて、計二百五十両を返済せよ」
「お奉行さま。それはあまりにも法外な金額」
「黙れ。世間の相場である。しかし、情けを持って、利子の内、五十両は一遍でなく ともよい。年に一両ずつでよい」
「温情ありがとう存じます。では、とりあえず二百両は払います。それでは和泉屋の火炙りを」
「ものには順がある。貸し借りが先にあり、火の不始末はその後。利子の返済を終えた後、火炙りの刑をいたす」
「それでは、五十年後となり、あたしも生きているかどうか、わかりませんで」
「ならん。ものには順があると申したのはそのほうじゃ。火炙りは五十年後に執行する」
「では、五十両の件、年に一両ずつの返済はなかったことにして、即刻に払いますので」
「では、五十年後の火炙りもなかったことを、即刻に決めよう」
帯屋は青菜に塩で、なにも言い出せなくなってしまった。
奉行が和泉屋に言った。
「これ、和泉屋。帯屋から二百両受け取れ。そして和泉屋を興せ。長生きしてよかったのぅ。何歳に相成る?」
和泉屋も涙をこぼしながら言った。
「六十一で……、おかげで本家(本卦)帰りができます」

・・・圓窓師匠は、悪人の帯屋久七の名がタイトル[帯久]になっているのが、ちょいと気になるが、「髪結新三」の例もあるので、我慢をしようと。
圓生師匠のは、和泉屋が本当に火付けをするという筋ですが、和泉屋を悪人にしたくないので、失火に変えたそうです。
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舞台の火事は享保(1721)年12月10日、神田三河町から出た大火事としています。
火元の神田三河町は現在名称はなく、神田錦町一丁目と二丁目 の境の道路両面。
噺では、当時はなかった神田駅の西側(現在の神田錦町)から出た火事は、神田駅の東側現在の室町まで火炎を伸ばしたことになります。
本庁二丁目の売れず屋の帯久は被災せず、本庁四丁目の和泉屋与兵衛は類焼してしまった。
この年は火事が多くて1月から3月にかけて連続して6件の火災が発生し、江戸の延べ3分の2が焼失したと言われています。
・・・この噺は、私は、失火を出した和泉屋を町役人が番屋へ連行し、身の上話を聞いて涙しながら、和泉屋から受けた恩を語る部分に力をいれました。
この部分は、いつ演っても、涙が止まりません。
また、オチに関連して、「本卦還り(返り)」がキーワードになる噺。
本卦返りというのは、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。
現在では、「還暦」の方がポピュラーかもしれません。
陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支を組み合わせ、その(10と12の)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる数え61(満60)歳を本卦返りとして、赤い着物を贈って祝う。

この風習は今でもあります。
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因みに、今年は36番目の「己亥(つちのとい)」です。
・・・この噺は、是非何かのタイミングで再演したいと思います。
創部60周年=本卦還り・・・ですね。

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