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2019年2月25日 (月)

菅原道真の命日

大変艶やかな記事に目が留まりました。
菅原道真の命日
京都の北野天満宮で、菅原道真の命日にちなんだ「梅花祭」が開かれ、境内では上七軒の芸妓さんらがお茶をふるまう「野だて」も行われ、訪れた人々は満開の梅の下で茶会を楽しんだそうです。
へぇぇ、今日は菅原道真公の命日なんですね。
考えてみれば、道真に関する知識がありません。
845年、菅原道真は学者の家系に生まれました。
幼少の頃から学問の才能を発揮し、5歳の時には和歌を詠み、11歳の時には漢詩を作り、神童と称されていました。
そして、平安時代を代表する学者・詩人となり、祖父清公(きよとも)、父是善(これよし)に継ぎ、「文章博士(もんじょうはかせ)」になりました。
「文章博士」と言うのは、朝廷の役人の養成機関である大学寮で歴史や詩文を教える教官。学問界の最高の位の人だそうです。
その後、道真は宇田天皇の信頼を受け、彼の政治を支ええる一人となります。
醍醐天皇の即位後、右大臣となりますが、左大臣藤原時平によって謀反の罪がきせられ(讒訴=虚偽告訴罪)、大宰府権師に左遷されてしまいます。
大宰府に流されて2年後の901年、2月25日に59歳で亡くなりました。

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道真の死後、左遷に追い込んだ人物が相次いで早世したり、都では疫病や洪水、飢饉など不穏な出来事が続いたり、世間の人々は道真の怨霊の祟りだと噂しました。
さらに、宮中の清涼殿に雷が落ちたことで、京都・北野の地主神である「火雷天神」と結びついて、「道真=雷神」と考えるようになりました。
朝廷は道真の祟りを鎮めようと北野天満宮を建立。

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道真が亡くなった大宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮を建立しました。
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時が経つにつれて、道真の怨霊に対する恐れがなくなり、道真が生前すぐれた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになりました。
室町時代には和歌や連歌、芸能の神として崇められ、江戸時代になると、学問の神として藩校や寺子屋で祀られました。
そして、現在でも学業成就の神として親しまれているのです。

・・・なるほど、そういうことですか。
さて、天満宮にも「日本三大天満宮」と称されているようです。
日本人の大好きな「日本三大〇〇」ですね。
【太宰府天満宮】(福岡県・太宰府市)
道真の死後、本来であれば故郷で埋葬するところなのですが、故人の遺言に従い門弟の味酒保行(うまさけのやすゆき)によって太宰府の地に墓所が定められたのがその始まりです。その後は前述した通り、道真の怨霊の祟りを鎮めるため、天皇の勅命によって社殿が建立されました。
勅命を出した天皇こそが、道真を左遷した醍醐天皇であり、建立の責任者となったのが、道真を左遷に追いやった張本人左大臣藤原時平の弟、仲平でした。
【北野天満宮】(京都府・上京区)
京都北野ではその土地を守る神(地主神)として火雷天神が祀られてきました。平安時代中期、多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、私邸に火雷天神を祀ったことが北野天満宮の始まりといわれています。
【大生郷天満宮】(茨城県・常総市)
太宰府で没した道真の遺言で、第3子景行が遺骨を奉持し諸国遍歴した後、常陸介として赴任。現在の地に社殿を建てて、遺骨をご神体として祀りました。

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・・・前の2つは知っていましたが、恥かしながら「大生郷(おおのごう)天満宮」は知りませんでした。
しかも、関東のさほど遠くないところにあるんですね。
社伝によりますと、菅原道真公の三男景行公は、父の安否を尋ね九州大宰府を訪れた時、道真公自ら自分の姿を描き与え「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と言われ、延喜3年(903)2月25日に亡くなりました。
景行公は、遺言どおり遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、常陸介として常陸国にやって来た景行公は、延長4年(926)に現在の常総市真壁町羽鳥に塚を築き、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納め、一旦お祀りしましたが、3年後の延長7年(929)、当時飯沼湖畔に浮かぶ島(現在地)を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城(墓)と定め、社殿を建て、弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、祀ったとされています。
日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あるといわれる中で、関東から東北にかけては最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、遺族によって祀られたのはここだけであることなどから日本三天神の一社に数えられ、「御廟天神」ともいわれています。

・・・本当ですか?という気もしますが。
菅原道真が出て来る噺には「質屋蔵」というのがあります。
最後のオチの部分だけですが・・・。
すると今度は、棚の上の横町の藤原さんの質物の天神さまの掛け軸がするする~と下がって開いた。
びっくりして怖さも忘れて見ていると、梅の小枝を持った天神さまが、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」と歩み寄り、
天神さま 「そちがこの家(や)の番頭か、藤原方に参り利上げせよと申し伝えよ」
番頭 「はっはぁ~」
天神さま 「どうやら、また流されそうだ」
やはり、菅原道真公には、悲運と言うか、左遷のイメージが強いんですね。

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