乱志十八番「身延詣り」三題
江戸時代の庶民が楽しんだ旅。
信心を建前に、人気のあるツアーがあっは訳ですね。
「成田詣で」「大山詣り」「富士詣り」、そして「身延詣り」。
この中で、法華(現在の日蓮宗)の総本山「身延山久遠寺」へのお参りが、直接間接に出て来る噺。
「甲府い」「鰍沢」「笠と赤い風車」ですが、「笠と赤い風車」だけは、主人公は身延山までお参り出来ていません。
恐らく、後日、亡き父親と継母の冥福を祈るために、お参りはしていることでしょうが。
【身延山久遠寺】
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした「日蓮聖人」は、三度にわたり幕府に諫言を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。
当時、身延山は甲斐の国波木井郷を治める地頭の「南部実長」の領地でした。
日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山の麓の西谷に構えた草庵を住処としました。
このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢の日としています。
日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始し、1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名しました。
翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国に向かいましたが、同年10月13日、その途上の武蔵の国池上にて、その61年の生涯を閉じました。
そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という遺言のとおり、その遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。
その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、「日向上人」とその門流によって継承され、約200年後の1475(文明7)年、第11世「日朝上人」により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍の整備がすすめられました。
のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。
日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、法灯は綿々と絶えることなく、廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよんでいます。
日蓮聖人が法華経を読誦し、法華経に命をささげた霊境、身延山久遠寺。
総本山として門下の厚い信仰を集め、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。
・・・というのが、お寺の説明文です。
日蓮を招いたのが「南部氏」で、我が町の「南部」の由来であり、奥州の南部氏のルーツと言うことになります。
「文永」と「弘安」という元号から思い出されるのは、そう「元寇」です。
当時の日本は、大国「元」の脅威にさらされていて、世の中全体が不安になっていたんでしょう。
私にとっては、宗旨でもあり、とても身近なお寺です。
小さい頃から、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えていました。
この身延山が、落語の中にはたくさん出て来ます。
それがとても嬉しくて。
これらは絶対にやらなくては・・と思っていました。
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