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2019年2月28日 (木)

乱志十八番「人が死ぬ」三題

落語が人々に支持される理由の一つは、「与えられた命を自然体で生き抜く」ということが、落語国の全ての人たちに刷り込まれているからだと思います。
簡単な言えば、自分の生まれや境遇などを恨んだり、他人と比較したりせずに、自分の身の丈で生きているからです。
乱志十八番「人が死ぬ」三題
だから、どんなに貧乏でも、愚かしくても、病気であろうとも、世を儚んだり、恨んだりしない。
「生きていれば何とかなる」「死んだらお終い」・・・だから「生きる」。
死ぬのは、天寿を全うするか、生まれついての運命(さだめ)に従うだけ。
武士も、貧乏長屋の町人も、糊屋の婆さんも、与太郎も、定吉も、権助も、自分の命をけなげに生きている。
ところが、登場人物が、亡くなったり、殺されたり、自ら命を絶ったりする噺もある。
「笠と赤い風車」では、母親が身を挺して息子の命を守る。
「浜野矩髄」でも、母親が息子の大成を信じて自ら命を絶つ。
「牡丹燈籠」では、人間の欲望が渦巻いて、多くの人が殺される。

「なんだよ。落語でも人が死ぬじゃないか」と言われるかもしれません。
いやいや、そんなことはありません。
例えば、この3題を見て、共通点があります。
それは、元々「落とし噺(滑稽噺)」ではないと言うことです。
「笠と赤い風車」は、小説家の平岩弓枝さんの原作。
「牡丹燈籠」は、ご存じ三遊亭圓朝創作の怪談。
そして、「浜野矩随」は、講談から翻案されたもの。
ただし、「唐茄子屋政談」や「人情八百屋」なども、子どもを残して親が自ら命を絶つ場面がありますから、絶対に死なないということではありません。
でも、生きなくっちゃあね。

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