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2019年2月10日 (日)

乱志十八番⑪「佃祭」

圓窓師匠に稽古を付けていただいた噺も、少しずつ増えて行きました。
当時は、今のような高座本ではなく、私は、学生時代のネタ本を再度作ったりしていました。
柳家権太楼師匠と五街道雲助師匠のCDも参考にしました。
そして、ネタ下ろしは、「第2回お江戸OB落語会(現・お江戸あおば亭)」の主任でした。
乱志十八番「佃祭」
学生時代に、十代目金原亭馬生師匠をラジオで聴いたことがあって、心に留まっていた噺でした。
ただ、元々は、人情噺の色合いの少ない噺で、唐突に与太郎と戸隠様が出て来るのには違和感がありました。
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明治28年7月、「百花園」掲載の名人四代目橘家圓喬の速記が残っているようです。
そして、戦後、若き日に円喬に私淑した五代目古今亭志ん生師匠が、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ、十八番にしていました。
それからもう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬師匠で、こちらは圓喬→三代目圓馬と継承された人情噺の色濃い演出でした。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/05/post-ae37-1.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/05/post-ae37.html
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神田・お玉ヶ池で小間物問屋を営む甚兵衛さんは、夏の佃島で開かれる祭りを楽しみにしていた。

その当日、妻から「祭りが紅白粉付けて待ってるんでしょ?」などとヤキモチを焼かれながらも「暮6つ(現在の18時頃)の終い船(渡し船の最終便)に乗って、今日中には必ず帰る」と言って出掛ける。
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佃島に着いた甚兵衛さんは祭りを存分に楽しんで、気が付くともう暮6つ。
急いで船着場に行き、乗客でいっぱいの終い船に乗ろうとすると、突然見知らぬ女に袖を引かれる。
行こうとする甚兵衛さんと引き留めようとする女、お互い揉めているうちに終い船は出発してしまう。
船に乗り損ねてがっかりする甚兵衛に対し、女曰く「3年前、奉公先の金を失くして途方に暮れた末に吾妻橋から身を投げようとしていたところ、見知らぬ旦那様から5両のお金を恵まれまして、おかげで
が助かりました。何とかお礼をしたくずっと探し回っておりましたところ、ようやくここでお会いすることができましたので、夢中で引き留めてしまいました」
「ああ、そう言えばそんな事もあったな…。でも、今日中に帰らなければうちの女房がうるさくて…」
「夫が漁師をやっておりますので、帰りの船はいつでも出せます。是非我が家へどうぞ」
いつでも帰れると聞いてようやく安心した甚兵衛さん、女の家へ招かれてお酒や佃煮など
料理をご馳走になっていると、やがて外がにわかに騒がしくなる。
聞けば、先ほどの終い船が客の乗せすぎで沈没し、乗客が全員溺れ死んでしまったとのこと。
甚兵衛さんはこれに仰天。
もし3年前に彼女を助けていなければ、そのままあの船に乗って死んでいただろう…と、自分を引き留めてくれた女に感謝する。
一方、甚兵衛さんの自宅では終い船沈没事故の話が伝わって大騒ぎ。
妻と近所の長屋の連中は甚兵衛さんが死んだと勘違いし、遺体の確認をする前から葬式の準備を進め、一同お悔やみの後にお坊さんを呼んで仮通夜を営んでいると、何も知らない当の甚兵衛さんが戻ってきたものだから「ヒィーッ!ゆ、幽霊?」と、一同腰を抜かしてしまう。
でも、甚兵衛が事情を説明すると誤解が解けて一安心。
最早出番の無くなったお坊さんも「これぞ因果応報。甚兵衛さんはかつて女の命を救った為、それが今、自らの命を救う形で戻って来たのです…」と長屋の連中に説いて回った。
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皆が次郎兵衛の無事を喜んでいる中、ただ1人与太郎だけは「身投げをしようとしている女に5両あげれば自分の命が助かる」と思い込んでしまい、家財道具を売り払って5両の金を工面し、毎日
の上や川沿いで見張っていると…或る日、袂に何か重そうなものを詰めた女が涙をためながら川へ向かって手を合わせているのが見えた。
与太郎、これぞ身投げだと大喜びで女を捕まえて、
「これこれ身投げはよしなさい、5両あげるから」
「身投げじゃないよ!あたしゃ
が痛くて戸隠様にお願いしていたんだ」
「だって、袂にたくさんの石が…」
「これは、お供え物の梨だよ」

・・・という。
私は、権太楼師匠と同様、人情噺仕立てにして、与太郎の梨の部分はなしにしました。
ただ、権太楼師匠はオチを付けていなかったので、雲助師匠のオチを拝借しました。
ところで、明和6(1769)年旧暦3月4日、佃島の住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆・沈没し、乗客三十余名が溺死する大惨事にあったそうです。
翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押込など、町役にも相応の罰が課されたそうです。
噺は、この事件の実話を元にできたものかもしれません。
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佃の渡しは古く、正保年間(1644~48)以前にはあったといわれます。
佃島の対岸の鉄砲洲船松町一丁目(現中央区湊町三丁目)が起点でした。
千住汐入の渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、300年以上も存続しましたが、昭和39(1964)年8月に佃大橋完成とともに廃されました。
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私は、落語の空間を想定するのに、実際の距離感と言うのが物凄く重要だと思います。
例えば、神田の住人が吉原や品川に遊びに行く距離感。
吾妻橋から吉原を見た時の距離感。
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この噺を演る時には、佃に行きました。
そして、この「佃島渡船」の碑から、対岸(明石町)方面を。
それは、佃の渡し船の大川(隅田川)での距離感をイメージするためです。
勿論、現在と当時とはかなり違っているはずです。
しかし、対岸を望む角度、川の幅、波の高さ・・・。
落語の語りには出て来ませんが、私の頭の中には、この空間がビルトインされています。
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これは、別にこの噺だけではなくて、「文七元結」でも、「ねずみ」でも、「火事息子」でも、すべて空間設定をしています。
「佃祭り」は、佃住吉神社の祭礼です。
旧暦で6月28日、現在は8月4日で、天保年間(1830~44)にはすでに、神輿の海中渡御で有名だったそうです。
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ところで、この噺の原話を遡ってみると、どうやら中国・明代の説話集「輟耕録」中の「飛雲の渡し」に至るようです。
名奉行としても知られた根岸鎮衛(肥前守、1737-1815)が、著書「耳嚢」(文化11=1814年刊)巻六の「陰徳危難を遁れし事」として翻案したものが原話だということです。
サゲの部分の梨のくだりは、式亭三馬(1776-1822)作の滑稽本「浮世床」(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたもの。
中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋ですが、これは、落語「ちきり伊勢屋」の原話でもあります。
「耳嚢」の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。
筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに佃渡船の惨事を前提にしているものでしょう。
ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあって、「老いの長咄」という随筆(筆者不明)中に、主人の金を落して身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという
実話として紹介されています。
いずれにしても、「情けは人のためならず」ということでしょう。

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