« 稽古フォトギャラリー | トップページ | 節分 »

2019年2月 3日 (日)

乱志十八番④「浜野矩随」

野球で言えば「4番バッターのエース」です。
私の落語徘徊の頂点に位置する、私の至宝の噺です。
乱志十八番「浜野矩随」
この噺について語り始めたら、もう何時間でもという。
学生時代に、上野鈴本演芸場で聴いた「五代目三遊亭圓楽」師匠。
この噺との衝撃的な出会いでした。
uu
そして、4年生の時に公演して以来、現在に至るまで暖めて来ています。
2009年の「創部50周年記念OB落語会」も、当然この噺をやりました。
突然、「今ここでやってみなさい」と言われても、すぐに全編(約40分)を演ることが出来ます。
uu
母親と息子との繋がりを語る人情噺です。
ただし、現代っ子には受け入れられづらいかもしれない。
hh
浜野矩安は、名人といわれた刀剣の付属品の腰元彫り師だったが、息子の浜野矩随(のりゆき)は、足元にも及ばないへたくそで、父親が死んでからは、得意先からどんどんと見放され、芝神明の骨董屋の若狭屋甚兵衛だけが、矩随のへたな作品を義理で一分で買ってくれるだけ。
tt
今は露月町の裏長屋での母親と細々と暮らしている。
ある日、矩随が馬を彫って持って行くと、若狭屋は「足が3本しかないではないか」と怒り、手切れの五両をやるから、母親に渡してお前は吾妻橋から身を投げるか、芝増上寺の山門の松の枝に首をくくって死んでしまえと冷たく言い放った。
uu
そこまで言われた矩随は死ぬ覚悟を決め、母親に若狭屋から伊勢参りを勧められて路銀をもらったと嘘を言う。
uuhh
矩随の様子から若狭屋での一件を見抜いた母は、「死んでおしまいなさい」と突き放し、その前に形見に観音様を一体彫ってくれと頼む。
母親からも見捨てられたと思った矩随は、水垢離をしてこれが最後の作と、一心不乱にまる4日間、観音像を彫り続けた。
隣の部屋では母親が一生懸命に念仏を唱え続けていた。
彫り上がった観音像を母親に見せるとその出来栄えの良さに驚き満足し、若狭屋に持って行って三十両で引き取ってもらえという。
uu
そして矩随に碗の水を半分飲ませ、残りは自ら飲んで見送った。
矩随はおそるおそる観音像を若狭屋へ持って行くと、一目見た若狭屋が「まだ父親の作が残っていたのか」と見間違えたほどの立派な観音像だ。
三十両で買い取るという若狭屋は観音像の足裏に「矩随」の銘があるので、「何でこんなことをしたんだ」と怒る。
矩随は母とのやりとりからの顛末を話すと、若狭屋も納得、碗の水のことを聞いて水杯とピンと来た若狭屋は急いで家に帰れという。
裏長屋に駆け戻った矩随だが、家に代々伝わる短刀で母親は自刃していた。
hh
これをきかっけにして開眼した矩随はさらに精進し、後に父にも劣らぬ名人と言われるようになったという一席。
怠らで 行かば千里の 果ても見む 牛の歩みの よし遅くとも

uuuu
「浜野矩随」は実在の人です。
三代続いた江戸後期の彫金の名工。
初代(1736~87)と、二代目(1771~1851)が有名だが、この噺のモデルは初代だと言われる。
初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随(しょうずい)に師事して浜野派彫金の二代目を継いだ。
細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住んだ。

・・・ただし、この噺のストーリーとは必ずしも一致していませんから、実在の人物とは言え、実名を借りたフィクションなのかもしれません。
この噺は、五代目古今亭志ん生師匠の十八番でした。
元々、講釈(講談)を元に作られた噺ですから、講釈師のキャリアもある志ん生師匠がお演りになるのは自然だと思います。
明治期には初代三遊亭圓右の十八番だったようです。
圓右は、あの四代目橘家圓喬と並び称されたほどの人情噺の大家で、若き日の五代目古今亭志ん生師匠が、この圓右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしたということでしょう。
しかし、私は、圓楽師匠の口演がベストだと思います。
hh
ストーリー、テンポ・・・、今まで色々な噺家さんを聴きましたが、圓楽師匠に勝るものはないと思います。
立川志の輔さんも十八番にしていますが、ベースは明らかに圓楽師匠のものです。
そこで、ストーリーの中で、よく話題になるのは、矩随の母親の演じ方です。
講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。
(「唐茄子屋政談」でも2パターンあります。)
ところが、志ん生師匠は、これをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しました。
ご子息の古今亭志ん朝師匠も同様にしています。
圓楽師匠も、やはり母親が自害するやり方でした。
(その後、死なせない演出のものもありますが。)
言うまでもなく、老母の死があってこそ、矩随の悲壮な奮起が説得力を持つ訳で、こちらの方が優れていると思います。
今から7年前に、「番外OB落語会」でやっています。
hh
その時に、「浜野矩随」への質問なんていうことで、アップしています。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/02/fw-2671.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/02/post-a0c0.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-6a5f.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-891e.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-891e-1.html

http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-a2cb-1.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-a2cb.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-d97c.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-891e-2.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-9f28.html

本当に思い入れの強い噺だということですね。
これからも、ずっと機会があれば演り続けたいと思います。
・・・ところで、「初代三遊亭圓右」についてちょっと。
この人が「二代目三遊亭圓朝」だということは、知らない人が多いと思います。
圓朝は初代だけでなく、本当に二代目だったんです。
初代三遊亭圓右(万延元年(1860年) - 大正13年(1924年))は、四代目橘家圓喬と並び称される明治期から大正期にかけての名人。
幕府の御家人だった伯父が風流人で笛を得意とし、初代三遊亭圓朝のお囃子をしていた関係で、幼いころから楽屋に出入りする。
1872年頃に二代目三遊亭圓橘門下で橘六、1877年に二つ目で三橘、1882年に圓右となり、1883年真打昇進。
1897年上方にも活動を始め、上方ネタを多く改作。
1924年10月24日、大師匠三遊亭圓朝27回忌に、二代目圓朝の名跡を管理していた藤浦三周からその年の秋に名乗ることを許されるが、既に身体は肺炎に冒されていた。
結局病床で襲名するも間もなく死去。
享年65。
二代目圓朝となったのは事実であるが、圓朝としてはほとんど活躍せずに没したため「幻の二代目」と言われる。
一方、圓右時代の功績が華々しかったためか、一般には「初代圓右」として認識される。「名人圓右」といえば、初代圓右のことを指す。

・・・「二代目圓朝」は実在したんです。

« 稽古フォトギャラリー | トップページ | 節分 »

らんしのしんら」カテゴリの記事