五代目春風亭柳朝師匠のご命日
今日は、五代目春風亭柳朝師匠のご命日だそうです。
お弟子さんの春風亭正朝師匠がツイートされています。
53歳で脳梗塞で倒れ、闘病生活を続けられるも、結局高座に復帰できずに61歳でお亡くなりになりました。
昭和の四天王の一人と評価された、江戸っ子気質のテンポのある明るい芸風の師匠でした。
「花色木綿」のマクラの泥棒の小噺など、さんこうにさせていただいた記憶があります。
私の父と同い年だったんですね。
53歳で倒れて、61歳で亡くなるなんて、早すぎる。
1950年3月、五代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)に入門し小照。
1951年に一旦は転職するも、1952年に再入門し林家正太。
1953年5月、二つ目に昇進し照蔵に改名。
1962年5月、真打に昇進し五代目春風亭柳朝を襲名。
亭号が「春風亭」になったのは、師匠が「林家正蔵」の名跡を七代目正蔵の遺族である初代林家三平より一代限りの条件で借り受けていたことから、三平を配慮して自分の弟子が真打に昇進した時は他の亭号に変えさせていたため。
「春風亭」の名跡は落語協会にもあったが、八代目春風亭柳枝没後封印されていた。
そのため師匠は日本芸術協会(現:落語芸術協会)会長の六代目春風亭柳橋に面会し、柳朝を名乗ることの了承を得た。
1960年代はテレビ、ラジオでも顔を売り、七代目(自称五代目)立川談志、三代目古今亭志ん朝、五代目三遊亭圓楽と共に「落語若手四天王」と呼ばれた。
1972年、五代目柳家小さんが落語協会会長に就任すると同時に、同協会専務理事に就任。後に常任理事に就任。
1980年、2番弟子の春風亭小朝が36人抜きで真打昇進。
このことは当時の大ニュースとなり、柳朝は押しも押されもせぬ大幹部となる。
1982年1月、師匠彦六と死別。
同年12月には脳梗塞に倒れ、高座復帰も叶わぬまま、1991年2月7日に死去。
・・・そうそう、「四天王」と言われたり、「小朝さんの師匠」と言われたり。
古今亭志ん朝師匠との二人会「二朝会」は、伝説になっています。
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