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2019年2月 6日 (水)

乱志十八番⑦「明烏」

やはりとても難しかった「明烏」。
私にとっては、初めての「廓噺」でした。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/04/post-02c0.html
乱志十八番「明烏」
「明烏」と言えば、八代目桂文楽師匠でしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=HHiXe0TWLWE
文楽師匠が、二ツ目時代に初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝師匠が台頭するまで、文楽師匠以外は演り手がないほどの十八番にしていました。
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寄席で、「甘納豆」が飛ぶように売れたという逸話もあり。

それ以前は、オチ近くが、艶笑がかっていたのを改めて、父親が主人公の若旦那(時次郎)を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出でした。
噺の時代設定は、明治中頃とし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっているようです。
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「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764~72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。
その発端は、明和3年(1766)旧暦6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。
それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。
事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。
第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。 
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現行の「明烏」は恐らく幕末に、発端を独立させたものでしょう。
噺の中に、「明烏」が出て来ないこともあり、この噺の題名が分かりにくくなっていますが、何となく色っぽいニュアンスは感じることが出来ます。
私は、3年前に「深川三流亭」でネタ下ろしをしました。

日本橋田所町三丁目、日向屋半兵衛の倅の時次郎。
晩熟(おくて)なのか女嫌いなのか品行方正で堅過ぎる真面目男。
今日もお稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになり、子どもたちと太鼓を叩いて遊んで来たと、半兵衛に得意げに報告する。
まさに色気より食い気で、おやじは跡継ぎとしてこれからの世間付き合いができるだろうかと、道楽息子を持つ親よりも心配だ。
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そこで、町内の札付きの遊び人の源兵衛と太助を引率者・指南役として、時次郎に吉原で遊びの実地授業を受けさせることにした。
本人にはお稲荷さまのお籠りと偽り、お賽銭が少ないとご利益(りやく)が少ないから、向こうへ着いたらお巫女(みこ)さん方へのご祝儀はおまえが全部払ってしまえと忠告し送り出した。
大門をくぐって吉原へ入った時次郎、お茶屋まではよかったが、大見世に入れば遊女たちが廊下を草履でパタパタ歩いている。
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いくら初心(うぶ)でも、ここがどこで、何をする所くらいは書物で知っている。
お稲荷さまとだましてこんな悪所へ連れて来られたと泣いて騒ぎ出し、子どもみたいに帰るとごね出した。
源兵衛と太助は大門を三人で入ったのに、一人で出て行くと怪しいやつ思われて会所で留められ、縛られてしまうとおどして、やっと部屋に上がらせる。
時次郎だけ座敷の隅で、そっぽを向いてうつむいている。
深川三流亭グラフィテイ
芸者連が来て賑やかな酒の座敷のはずが、お通夜みたいな空間になってしまった。
こともあろうに、時次郎は「女郎なんか買うと瘡をかく」なんて場所柄をわきまえない禁句まで口走る始末で、どっちらけだ。
早いことお引けと、いやがる時次郎を敵娼(あいかた)の待つ部屋へ引きずり押し込む。
時次郎の敵娼は十八になる浦里という絶世の美女。
色男で初心な時次郎に惚れたのか、いつもと違う珍しい客が気に入ったのかその夜はサービス満点。
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むろん、木石ならぬ時次郎もすっかりメロメロ、トロトロ、グニャグニャになって、お稲荷さんなんかはどうでもよくなった。
烏カァで夜が明けて、「振られた者の起し番」で敵娼に振られた源兵衛と太助はぶつぶつ言い、甘納豆をやけ食いしながら、時次郎を起しに来た。
「けっこうな、お籠りで・・・・」なんて時次郎はしゃあしゃあしている。
源兵衛 「そろそろ帰るから、早く起きてください」
浦里「若旦那、早く起きなんし」
時次郎「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、足であたしの体(からだ)をぐっと押さえて・・・・」とノロケまで飛び出すほどの遊びの上達ぶりだ。
頭に来た太助、「じゃ、おまえさんは暇な体、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
時次郎「あなた方、先へ帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」。

流三の「明烏」流三の明烏
私が、それまで「廓噺」を演っていなかったのは、どうも、廓や女郎などに嫌悪感があったからです。
私も、時次郎だったんです。
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しかし、落語を演る者が、あれが嫌だ、これはやらないというのでは駄目ですし、ましてや落語に廓噺は不可欠ですから、宗旨替えをしたということです。
この噺も、さらに磨き上げたい素敵な宝物です。

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