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今年もはや2ヶ月が過ぎてしまいます。
そして、平成も残すところあと2ヶ月ということになります。
今月は、高座の機会はなく、やや落ち着いた1ヶ月でした。
と言っても、3月2日の「そや寄席」と23日の「千早亭落語会」が迫っていますが。
「雪が降るぞ」と言われましたが、幸いほとんど影響はありませんでした。
落語っ子連の稽古は、2回とも月の前半でした。
10日の稽古では、夢学さんから、義理チョコをいただきました。
15日の「東京落語会」では、正蔵さんの「子は鎹」が聴けました。
外野で色々言う人はいますが、正蔵さんの姿勢には、応援したいと思います。
越児さんから、先月の「深川三流亭」のBDが届きました。
来月の「そや寄席」のチラシとプログラムを完成させました。
3月の落語会なので、館長さんからは「雛祭り」に関わる噺をというリクエストを頂戴したのですが、「雛人形」というフレーズが出て来る噺はありますが、お雛さまが出て来る噺が見当たらなくて・・・。
せめて雰囲気だけでもと、プログラムに雛人形を入れました。
「そや寄席」は、今回で3回目となりますが、今回は、「和太鼓&よさこい踊り」とのコラボになるそうです。
千公・百梅・学津さんと4人で頑張りたいと思います。
このほかにも、3月23日(土)の「千早亭落語会」と、4月21日(日)の「おひろめ寄席」の準備もしなくてはいけません。
◆3月23日(土)13時 「千早亭落語会」
◆4月21日(日)13時 「おひろめ寄席」
5月の「お江戸あおば亭」のチラシも完成しました。
「創部60周年」になります。
◆5月25日(土)13時 「お江戸あおば亭」
平成最後の如月も、あっと言う間に過ぎて行きます。
最近師匠は、寄席や落語会への出演をセーブされています。
と言うより、落語の授業と我々のような素人グループへの落語指南で多忙をきわめていらっしゃいます。
最近は、「紀伊國屋寄席」「東京落語会」など、それからお弟子さんたちとの「圓窓一門会」ぐらいでしょうか。
3月に「両国寄席」にご出演されるようです。
「五代目圓楽一門会」の芝居です。
かつては兄弟弟子(兄弟子)だった、先代の圓楽師匠が、例の落語協会分裂騒動の後、一部の噺家さんは落語協会に復帰しましたが、圓楽師匠はそのまま戻らずに独自に一門を継続していました。
落語協会分裂騒動で、本流の「三遊亭」だけが、文字通り分裂してしまいました。
最近は、かなり雪解け状態になって来ていますので、何よりです。
師匠は、3月10日(日)の中入り前のご出演です。
あ、この日は、午前中は我々「落語っ子連」の稽古です。
2・3日前の話題ですが。
昨年8月に山口県で行方不明の男児を救出した、スーパーボランティアの尾畠さん。
1月18日に都内の中学校で講演した後、約1100キロ離れた大分県日出町の自宅に徒歩で向かっていました。
ところが、途中で断念せざるをえなくなってしまいました。
今月23日に静岡県浜松市で徒歩帰宅を断念したようです。
尾畠さんは「歩道にも車道にも車を止める人がいて、人も歩けない自転車も通れない状態となり“これは異常事態”だな」と感じ、「私は来てくれた人が悪いとか、なんだかんだじゃないんです。総合的に見て交通事故になるなと思ったから。人の命にはかえられないから。幼い子ども、高齢者の命にしても。もう、今回はこれで打ち切ろうと思いやめました」と断念理由を語っているそうです。
そして、「本当にすまない気持ちと嬉しい気持ちといろんな思いが入り混じって…。皆さんからの励ましの言葉を頂いたのに途中でもうやめてこんなになって逃げ帰ったみたいな状態になった。本当に申し訳ないなって気持ちでいっぱいです。だけど、受けた恩は絶対に忘れない」と涙ながらに語っていたと。
・・・周りが騒ぎ過ぎた結果だと思います。
おはり、徒に煽ったマスコミの責任は重たいと思います。
なぜ、静かに見守るということが出来ないんだろう・・・。
煽るマスコミ、その話題に安易に集る衆愚・・・。
ハロウィンで渋谷のスクランブル交差点で騒ぐ輩と、そんなに変わらない気がします。
何事にも、適当な距離感、関り具合を弁えるのは、品格と言うものだと思います。
マスコミに期待できなければ、自律するしかありません。
それこそ「民度」が高いと言われるでしょう。
「民度」というのは、先日、在位30周年記念式典の際に、天皇陛下もお使いになりました。
特定の地域に住む人々の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を表す言葉。
また、その個人あるいは集団のマナーや言葉遣い、言動の一つ一つを対象にすることもある。
そこから、その個人や集団を評価する一つの言葉として使われている。
浮世絵を使った「お江戸あおば亭」のチラシを少し遡りました。
「江戸」をキーワードにすると、やはり歌川広重や葛飾北斎に行きつく気がします。
落語の舞台の雰囲気や風俗みたいなものも垣間見ることが出来ますから。
本来、チラシは不特定多数の方に分かりやすくということですが、「お江戸あおば亭」は、ご贔屓(リピーター)の比率が高いと思われるので、最低限、日時と場所だけ伝われば十分だと思われるので(勝手に思っているので)。
【第12回】2017年5月「人情八百屋」
名所江戸百景 「水道橋駿河台」
本郷台地から見た、駿河台の端午の節句の有様を描いた図。
手前を流れるのが神田川で、この下流に市中に供給される飲料水用の樋があったので、近くの橋が「水道橋」と呼ばれるようになった。
【第13回】2017年11月「試し酒」
名所江戸百景 「深川洲崎十万坪」
深川は江戸時代に造成された埋め立て地で、深川八幡宮をはじめ岡場所ができ発展していった町で、その先には江戸湾を一望できる行楽地であった洲崎があり、初日の出や汐刈り月見などで四季折々賑わっていた。
そのはずれにあった十万坪は広漠とした土地で人が生活できる場所ではなかった。
【第14回】2018年5月「火事息子」
名所江戸百景 「する賀てふ」
日本橋三越の前身である「越後屋呉服店」は駿河町の通りの両側を占拠する程の規模を誇っていた。
多くの絵師が浮世絵の題材にし、庶民の憧れの場所でもある。
町名の由来は富士の眺望が良ったので、その所在地である駿河国からとった。
【第15回】2018年11月「短命」
富嶽三十六景 「江都 駿河町三井見世略図」
「東都 駿台」「江戸 日本橋」「東都浅艸本願寺」
(江都駿河町三井見世略図)軒先にかかる看板には、「現金掛け値なし」と有り、当時呉服業界では珍しかった現金支払いで、良質な商品を必要な分だけ販売していたのが三井越後屋。
(東都駿臺)駿臺とは駿河台の略称。
今の御茶ノ水駅付近の、神田川の南側の台地のこと。
この辺りに幕臣が多く住んでいたことから駿河台と名づけられた。
(江戸日本橋)日本橋の中央から、遠く千代田城と富士を望む。
橋上には、魚河岸の若い者たちが飽や魚を担ぎ、あるいは天秤棒を持つ者などで、江戸市中に魚を配給する拠点として賑わった。
(東都浅艸本願寺)現在の東京浅草本願寺のこと。
元は神田明神下にあったが、明暦3年の大火後、浅草へ移転。
大屋根をもつこの壮大な建築は、江戸庶民を驚愕させた。
【第16回】2019年5月「未定」
名所江戸百景 「堀切の花菖蒲」
江戸郊外にあった百姓伊左衛門が作り上げた菖蒲畠を描いたもので、庶民に大変人気があった。
堀切の一帯は元々湿地帯で、水を大量に必要とする菖蒲の栽培には適していた。
・・・暫く、このパターンを続けるつもりです。
このイラスト・・・、ちょっと引いてしまいましたが。
「元犬」でいいんでしょうか?
ただ、ほとんどが人間になっていますが、白くないのが・・?
まぁ、絵のことを言うのが趣旨ではありませんから。
この噺も、女性や若い人に人気がありますね。
動物が出て来るので、親しみやすいのでしょう。
私は・・・、気味が悪いと思いますが。
「白犬は人間に近く、信心すれば来世には人間に生まれ変われる」。
近くに住む(人間の)ご隠居からそんな話を聞き、一念発起して蔵前神社にお百度を踏みに来た白い犬。
「できれば、今生のうちに人間になりたいと思います」 満願の日、一心不乱に祈っているとにわかに毛が抜け、あっという間に人間の姿になった。
大喜びした犬は、たまたま通りかかった件の隠居に事情を話し、「ただ四郎」という名前を付けてもらって仕事の世話をしてもらう。
奉公をすることになった彼だが、つい犬の習性が出て失敗ばかり。
「焙炉(ほいろ)を火にかけてくれ」と言われ、「吼えろ」と聞きちがえて「ワンワン!」。
そのうち、女中のお元さんに用事ができ、旦那が「お元はいぬか?」と声をあげるとただ四郎が勘違いして
「元は犬でございましたが、今朝がた人間になりました」。
・・・やや分かりづらいのは、「焙炉」と「吠えろ」・・は、「焙炉」があまりお馴染みではないこと。
それから、「もと」というのは固有名詞なので、「おきよ」では成り立たないというのは・・・?
落語が人々に支持される理由の一つは、「与えられた命を自然体で生き抜く」ということが、落語国の全ての人たちに刷り込まれているからだと思います。
簡単な言えば、自分の生まれや境遇などを恨んだり、他人と比較したりせずに、自分の身の丈で生きているからです。
だから、どんなに貧乏でも、愚かしくても、病気であろうとも、世を儚んだり、恨んだりしない。
「生きていれば何とかなる」「死んだらお終い」・・・だから「生きる」。
死ぬのは、天寿を全うするか、生まれついての運命(さだめ)に従うだけ。
武士も、貧乏長屋の町人も、糊屋の婆さんも、与太郎も、定吉も、権助も、自分の命をけなげに生きている。
ところが、登場人物が、亡くなったり、殺されたり、自ら命を絶ったりする噺もある。
「笠と赤い風車」では、母親が身を挺して息子の命を守る。
「浜野矩髄」でも、母親が息子の大成を信じて自ら命を絶つ。
「牡丹燈籠」では、人間の欲望が渦巻いて、多くの人が殺される。
「なんだよ。落語でも人が死ぬじゃないか」と言われるかもしれません。
いやいや、そんなことはありません。
例えば、この3題を見て、共通点があります。
それは、元々「落とし噺(滑稽噺)」ではないと言うことです。
「笠と赤い風車」は、小説家の平岩弓枝さんの原作。
「牡丹燈籠」は、ご存じ三遊亭圓朝創作の怪談。
そして、「浜野矩随」は、講談から翻案されたもの。
ただし、「唐茄子屋政談」や「人情八百屋」なども、子どもを残して親が自ら命を絶つ場面がありますから、絶対に死なないということではありません。
でも、生きなくっちゃあね。
地元の「中部横断自動車道」が、いよいよ来月、富沢ICから新清水JCTまでの区間開通しますが、これを前に、報道各社に公開されたそうです。
中部横断道は山梨県甲斐市の双葉JCTから静岡県の新清水JCTを結ぶおよそ74キロの高速道路で、現在、六郷から南側の区間で工事が進められています。
来月10日の開通が予定されている富沢から新清水までのおよそ21キロの区間が報道各社に公開されました。
この区間は、およそ6割がトンネルで、単調な景色が続くため、ドライバーの集中力を切らせないよう、一部のトンネルの天井に青や紫色といった特徴のある照明が使用されています。
また、トンネル内の火災や事故を想定し、車両も通れる緊急用の避難口も設けられています。
富沢ー新清水間の開通で、山梨と静岡が高速道路で結ばれることになり、六郷ー下部温泉間も同じく来月10日の開通予定で、物流や観光面でも効果が期待されています。
中部横断道で残る工事区間は、下部温泉早川から富沢までのおよそ20キロで2019年度中の完成を目指しています。
・・・開通したら、かなり遠回りにはなりますが、一度走ってみよう。
「ほうら、消えるぞ。消える、消える・・・消えたぁ」・・・。
三遊亭圓朝作の「死神」。
オチの演出は、噺家さんによって色々工夫されていますが。
やることなすこと失敗続きで金もなく、ついに自殺しようとしている男が老人に声を掛けられる。
老人は自らを死神だと言い、男はまだ死ぬ運命にないこと、また自身との数奇な縁を明かして助けてやるという。
死神によれば、どんな重病人であっても死神が足元に座っていればまだ寿命ではなく、逆に症状が軽そうに見えても枕元に死神が座っている場合は死んでしまうという。
足元にいる場合は呪文を唱えれば死神は消えるので、それで医者を始めると良いと助言し、死神は消える。
半信半疑で家に帰ってきた男が試しに医者の看板を掲げると、さっそく、さる日本橋の大店の番頭がやってきて主人を診て欲しいという。
既にほうぼうの名医に診せたが匙を投げられ、藁にもすがる気持ちで男の家に来たという。
男が店に行き、主人を見ると足元に死神がいたので、これ幸いと呪文を唱え死神を消して病気を治す。
またたく間に元気になった主人は、男を名医を讃え、多額の報酬を払う。
この一件がまたたく間に広まり、男は名医として数々の患者を治し、その報酬で贅沢な暮らしを始める。
しかし、それからしばらく経つと、男が訪問する病人はみな枕元に死神がいて治すことができず、しまいにヤブ医者と言われるようになって再びお金に困るようになってしまう。
そんな折、大きな商家から声がかかる。
男が病床の主人を見れば、また枕元に死神がおり、諦めるよう諭すが、たった一ヶ月でも延命できたら大金を出すという。
積み上がる大金に目がくらんだ男は、一計を案じ、店の男手を集めると、主人の布団を持たせ、頭と足の位置を逆転させた瞬間に呪文を唱え、死神を消した。
これによって主人はみるみる病状が改善し、大金の約束を果たすと男に言う。
その帰り道、男はあの死神に再び声をかけられる。
どうしてあんなことをしたんだと非難する死神に対し、男は言い訳するが、死神はもはやどうでもいいと答え、男をたくさん火のついた蝋燭がある洞窟へと連れてくる。
死神は、この蝋燭の1つ1つが人の寿命だといい、男の寿命は、間もなく死ぬ主人を助けてしまったために入れ替わってしまったと、今にも消えそうな蝋燭を指し示す。
驚いた男が助けて欲しいと懇願すると死神は新しい蝋燭を差し出し、これに火を継ぐことができれば助かるという。
そして、男は今にも消えそうな自分の蝋燭を持って、火を継ごうとするが、「アァ、消える・・・」の一言で、演者がひっくり返り、演目は終わる。
・・・この噺の面白さは、「オチ」の演出と、呪文の唱え方です。
噺家さんによって違っています。
◆継ぐのに成功するが死ぬパターン
①主人公が風邪気味になるという伏線が張られる。
死神が登場し「お前はその風邪が原因で死ぬ」との言葉があり、ろうそくの継ぎ足しの話となる。
いったんは成功するが、喜悦満面となったところでくしゃみ、ロウソクは消え、無言のまま演者が舞台で倒れこむ(柳家小三治師匠のパターン)。
②継ぎ足した後に安心して気が抜け、思わず出したため息で消してしまう。
死神が呆れ返って「てめぇで消しちまいやがった」と悪態をつく(三遊亭好楽師匠バージョン)。
③継
ぎ足したロウソクを持ってその明かりで洞窟を戻り、その後死神が「もう明るいところだから消したらどうだ」と言われて自分で消して死ぬ(立川志の輔師匠バージョン)。
◆失敗するが生きているパターン
ロウソクが消えても生きているパターンもある。ただし、この場合も実際には死んでいるか、まもなく死ぬようなサゲになる。
また、この後、死んだ男が死神となり、また別の男に対し自分に儲け話を持ってきた死神と同じように儲け話を持っていくという、エンドレスな展開を予想させるオチ(回りオチ)も存在する。
「アァ、消える……」と男が叫んだところで目が覚め、妻が「何を寝ぼけてるんだい、行灯の火が消えたんだよ!」と男の夢だったというもの。
◆その他
①(立川談志)自著の中で、死神が、せっかくついた火を意地悪で吹き消してしまう。
②(立川志らく)一度は火がつくことに成功するが、死神が「今日がお前の新しい誕生日だ。ハッピバースデートゥーユー」というと、男がつられてバースデーケーキのように火を吹き消してしまう。
③(六代目三遊亭円楽)火をつけるのに成功し「これで枕を高くして眠れる」と喜ぶ男に、死神が「ゆっくりお休み、そして目を覚まして枕元を見てみろ。俺が座ってらぁ」と語る。
・・・次に面白いのが、呪文のバリエーションです。
死神から伝授される呪文は「アジャラカモクレン、○○○、テケレッツのパー」というもので、「○○○」の部分が演者によって異なる(省略される場合もある)ということ。
圓朝の原典に近いと思われる角川書店版の「三遊亭圓朝全集」にはこの呪文は載っていないそうです。
この呪文は話が暗すぎて客受けが悪いことを懸念した六代目三遊亭圓生師匠が、敢えて笑いを取るために付け加えて定着させたものだそうです。
ただし、「死神」に限定しなければ、この呪文自身はさらに遡り、 四代目立川談志の「アジャレン、モクレン、キンチャン、カーマル、セキテイ喜ぶ、テケレッツのパア」がある。
この談志は、明治の「珍芸の四天王」と呼ばれた人で、この言い立ては、「郭巨の釜掘り」のものだと思います。
①(三遊亭圓生)「アジャラカモクレン、アルジェリア、テケレッツのパー」や「アジャラカモクレン、ハイジャック、テケレッツのパー」・「アジャラカモクレン、セキグンハ、テケレッツのパー」・「アジャラカモクレン、キュウライス(キューライソ)、テケレッツのパー」といった録音が残っている。
他にも文化大革命の頃には「コーエイヘイ」、ロッキード事件の頃は「ピーナッツ」など、その時々の時事ネタにあわせさまざまな呪文が考案されている。
②(立川志の輔)「アジャラカモクレン、ダイオキシン、テケレッツのパー」。
他にも「チチンブイブイ・ダイジョーブイ・テケレッツのパー」がある。
③(三遊亭好楽)「アジャラカモクレン、NHK、テケレッツのパー」または「アジャラカモクレン・虎ノ門・テケレッツのパー」。
これは、演じた場所を入れていたのかもしれません。
「地震」・・・やはり、間違いなく起こるんでしょうね。
政府の地震調査研究推進本部は、青森県東方沖から房総沖にかけての日本海溝沿いで、今後30年以内に地震が発生する確率を公表。
宮城県沖などでマグニチュード(M)7級の地震が発生する確率は90%で、東日本大震災より小規模でも被害が出る恐れのある地震には、引き続き注意が必要としているそうです。
この海域の評価は、2011年11月以来。
今回は、その後の地震活動や地殻変動、過去の津波堆積物の情報を活用。現在の科学的知見の範囲で発生し得る超巨大地震などを評価し直した。
東日本大震災のように、岩手県沖南部から茨城県沖まで連動するような超巨大地震(M9級)は、津波堆積物の痕跡から過去約3千年間に5回発生したとして平均発生間隔を推定。
直近の発生から8年しか経過していないため、確率はほぼ0%。
津波から地震規模を推定する方法で、大きな揺れを伴わずに津波が発生する明治三陸地震(1896年)のような「津波地震」の規模は最大でM9、確率は30%とした。
一方、M7級の地震は「青森県東方沖及び岩手県沖北部」で90%以上、「宮城県沖」は90%、「茨城県沖」は80%など、広い範囲で高い値になっている。
「宮城県沖」のうち、震災前に確率が99%とされていた陸の近くで起こる地震は50%とした。
この領域は前回は「不明」としたが、地殻変動の観測結果などから、次の地震発生サイクルに入ったと判断した。
M7級の地震は、過去に観測された津波は高さ数十センチ程度が多い。
M9級(10メートル超)や、M8級(数メートル)に比べて小さいが、波打ち際ではさらわれる危険がある。
78年の宮城県沖地震(M7・4)では、ブロック塀の倒壊などで28人が死亡し、安全基準が見直されるきっかけとなった。
このほか、東日本大震災型以外の場所で起きる超巨大地震も否定できないが、確率は不明とした。
また、地震発生リスクを認識しやすいよう、発生確率が高い順に四つのランクに分け、併せて表記した。
地震本部地震調査委員会の委員長は「東北の太平洋沿岸ではしばらく大きな地震はないと思う方もいるかもしれないが、M8、7クラスの確率は高い。津波や強い揺れに備えることが必要」と話している。
・・・起こるんだろうなぁ・・。
よく、「足が地についていない」なんて言います。
浮かれていて落ち着きのないさま、または冷静さを欠いたさまなどを意味する表現ですが、そもそも「地」が揺れて不安定なんだから・・・。
「ふらりと寄席に行ってみよう」という寄席案内本。
東京かわら版の編集長の佐藤友美さんの著書。
最近、落語や講談にハマリはじめた…そんな人は寄席に出かけよう!東京にある5つの定席から、寄席の裏側、落語や講談の楽しみ方、寄席で出会いたい芸人さん、古典落語のあらすじまで、寄席の楽しみ方を徹底ガイド!
【目次】
寄席の魅力を聞きました!特別インタビュー
(柳家喬太郎;瀧川鯉昇;林家正楽)
1 寄席の基本を教えます!寄席を知る
(寄席ってどんなところ?;新宿末廣亭に行ってみよう!ほか)
2 いろいろな寄席に出かけよう!寄席で観る
(上野の森近くに鎮座 鈴本演芸場
: 浅草演芸ホールは肩肘張らずに ほか)
3 寄席の伝統芸能を堪能!寄席で味わう(落語;講談 ほか)
4 さらなる寄席情報を紹介 寄席をもっと楽しむ
(寄席によく出る寄席で観られて嬉しい落語家さん&色物さん
;キャラクター診断で選ぶあなたにおすすめの落語 ほか)
江戸と言えば「隅田川(大川)」です。
山や川や海というのは、時には、「父なる・・」「母なる・・」という、人にとってはなくてはならないもの。
同時に、一旦猛り狂うと恐ろしい「地」でもあります。
落語にも、大川が舞台になっている噺がたくさんあります。
そして、大川に架かる橋、大川を横断する渡し船も、大切な要素になっています。
江戸時代が舞台になっている噺では、上流から「吾妻橋(大川橋)」「両国橋」「新大橋」「永代橋」が登場します。
中でも、「吾妻橋」が一番頻度が高い気がします。
江戸時代には、隅田川に5つの橋が架かったそうです。
「吾妻橋」はその中で唯一民間によって架橋された橋で、かつ江戸時代最後の架橋だそうです。
1594(文禄3)年、関東郡代伊奈忠次が家康の命を受けて千住大橋を架橋
1661(寛文元)年、明暦の大火(「振袖火事」)を受けて江戸幕府は隅田川の架橋を認め、両国橋(大橋と通称)を架橋
1694(元禄6)年、5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院のすすめで新大橋を架橋
1698(元禄11)年、5代将軍・徳川綱吉の50歳を祝して永代橋を架橋
1774(安永3)年、町方により吾妻橋が架橋
・・・という訳です。
「吾妻橋」は、1769(明和6)年4月、浅草花川戸の町人「伊右衛門」と下谷竜泉寺の「源八」の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年を経た1774(安永3)年10月17日に完成。
架橋当初の橋は、長さ84間(150m)、幅3間半(6.5m)で、武士以外からは2文の通行料を徴収した有料橋だったそうです。
技術的にも優れていて、1786(天明6)年7月18日の洪水時(寛保2年、弘化3年、天明6年の水害=江戸三大水害)には、「永代橋」「新大橋」があえなく流出、「両国橋」も大被害を受けたのに対して、民間架橋の「吾妻橋」は無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったそうです。
そうか、浅草と向島や本所という、落語の舞台そのものであると同時に、町人が作った、しかも堅牢な橋ということで、人気があるんでしょう。
明治9年2月に木橋として最後の架け替えが行なわれた際に、「吾妻橋」と命名。
その木橋も明治18年7月の大洪水で流出。
明治20年12月9日に隅田川最初の鉄橋(鋼製プラットトラス橋)として再架橋されましたが、脇には鉄道橋、人道橋が並んで架けられていました。
吾妻橋の下流側には「竹町の渡し」があり明治9年まで運航されていました。
んっ
「吾妻橋」という名称は、明治になってからの命名ですって
ということは、噺の中では「吾妻橋」と言ってはいけないのではありませんか?
橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれた。
これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなむ。
しかしながら、俗に江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説がある。
いずれにしても、1876年(明治9年)2月に木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された。
・・・とあります。
町人たちは、「大川橋(おおかわばし)」とは言わず、「東橋(あずまばし)」と言っていたということでしょうか?
そうすれば、落語は語りの演芸ですから、「文七元結」で、左官の長兵衛が文七を助けたのは、「あずまばし」で良いということになります。
ただし、字で書いたら「吾妻橋」ではなくて「東橋」あるいは「あずまばし」としなくてはいけない訳ですね。
一方で、その大川の下流には、「石川島」や「佃島」という島がありました。
東京都中央区南東部,隅田川河口の島。
江戸時代初期,摂津国佃村の漁師が拝領して造成した漁村であったので,この名があり,明治になって北の石川島を合併して町名となる。
初期の佃島は現在の佃1丁目にあたる。
江戸時代からの名産佃煮の製造が現在も行われる。
北部の石川島播磨重工業跡地に高層住宅が建設されている。
埋め立てによって、「石川島」「月島」と地続きになっていますが、昔は島でした。
摂津の国の小さな村の漁師たちが、なぜ江戸に領地を拝領出来たのか?
本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢とともに大坂、堺にいた。
家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。
そこに救世主のごとく現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供した。
その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができた。
後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えた。
「佃祭」に出て来る「佃の渡し」は、なんと佃大橋完成前の1964年まであったそうです。
「エジプトはナイルの賜物」なんていう言葉があります。
ナイル川が運ぶ肥沃な土のおかげで、エジプトの壮大な文明や国家が築かれたのと同様に、「江戸は隅田川の賜物」かもしれません。
・・・大川(隅田川)、大川に架かる橋、大川を渡る渡し船、河口にある島々・・・、そういうものを思いながら、噺の舞台設定をして行きたいものです。
地元のバスで起きた、悲しく、情けない出来事。
松戸新京成バスの路線バスの50歳の男性運転手が、車椅子の男性の乗車を拒否。
運転手は「あと30秒で発車するので無理」とマイクで伝え出発。
男性は約10分後、後続のバスに乗った。
車いすの男性は22日、松戸市のバス停から午前10時46分発の路線バスに乗るため、約1分30秒前に到着。
運転手は出発約30秒前に男性と付き添いの女性に気付いたが、スロープや固定ベルトの準備が間に合わないことを理由に乗車を断った。
運転手は「発車時刻に遅れると思った。誤った判断で後悔している」と話している。
自分がどういう立場で、何が一番優先されるのか・・・、それが分かっていないんでしょう。
やはり、社員教育なのかなぁ。
そういう点では、他人事とは思えない。
今度の土曜日(3月2日)に、市川市の曽谷公民館にお邪魔して「そや寄席」を開催します。
おかげさまで、今回が3回目になります。
館長さんから、季節柄、雛祭りの噺、あるいはテーマにして・・というリクエストを頂戴しました。
第1回目は8月だったので「怪談」、第2回目は「節分」だったので、今回は「お雛さま」ということです。
ところが、残念なことに「雛祭り」「雛人形」の噺が見当たりません。
「道具屋」には首の抜ける雛人形、「雛鍔」はお雛様の刀の鍔と、ちょっと出て来る噺はあるのですが・・・。
一方で、端午の節句に関わる噺は、「五月幟」「人形買い」など、いくつか思いつく噺があります。
・・・どうしてだろう。
まず考えたのは、落語が男が男の目で見て男が作り男が演じるものだからかなぁと。
そんなことが、落語っ子連の稽古で話題になりました。
すると、先日、蝶九さんから、こんなメールがありました。
ちょっと調べてみたんですが、雛人形の買い物は、お父っつぁんではなく、母親が赤ん坊や女の子と一緒に買いにいっていたようです。
江戸名所図絵に出ている十軒雛市を見ても、お客は女の人と女の子が多いです。
(男が中心の)落語にならないわけですね、
お父っつぁんは一緒に行かないから、様子がわからないわけです。
五月人形の市は時期がずれていますから、そっちがお父っつぁん担当だったんでしょう。
・・・なるほど、そういうこともあったんですね。
だから、落語のテーマにはなりづらかったということか。
蝶九さんが、その後でこんなコメントをしてくれました。
もしも落語にするなら、雛人形を買うおっかさんと娘ですね。
初天神の母子版、みたいにできそうですね。
「あれ買って〜」
「あれは看板だから、売りませんよねぇ」
「お嬢様お目が高い!」
「お内裏様だけって言っただろ」
「五人囃子も買って〜〜」とか?
・・・このコメントを効いて、思わず「そこだ!」と思いました。
話は少し変わりますが、最近は、女性のプロの噺家さんが増えて来ました。
また、アマチュアの世界では、女性の勢いが物凄い。
師匠は、女性プロが増えて来たんだから、女性にしか出来ない噺をやってもらいたいが、なかなか・・・と仰って、自作の「救いの腕」をおやりになりました。
この噺は、主人公は女性で、噺の半分以上が、主人公と主人公の姉との会話になっていて、亭主の愚痴が語られます。
師匠は、ある女性作家の短編を元に創作されたということでしたが、まさに、女性にやってもらいたいと思っていたようです。
ところが、古典落語をそのままやったり、登場人物を女性に変えたり、元々は男の論理で出来上がっている噺なのに表面のストーリーだけを追いかけたりするばかりなのが、物足りないとおっしゃっていた気がします。
落語は、男が・男の目で・男を描き・男が演じるものです。
女性の落語は、女が・女の目で・女を描き・女が演じるものであるべきだと。
全く道灌・・じゃなくて同感で、女性に安易に「紺屋高尾」や「お見立て」や「厩火事」などをやって欲しくないと思います。
蝶九さんに、ただ男の子を女の子にするだけでは・・と返すと。
だから、「初天神」を単純に女の子にするんじゃなくて、(例えば)「雛市」っていう、全く別の噺にするんです。
(その噺には)「凧買って」も、団子も出て来ないでしょう。
根本のシチュエーションを変えれば、普遍的な噺にできると思う。
そして、おっ母さんならば、結局買わないで帰って来る、っていう噺にもなりそう。
男と女は違うから。
copyをやっていても、限界もあるし、聴きたくないから。
・・・その通りだと思います。
別に、初天神の翻案でなくても、五月人形を雛人形に変えるのではなく、オリジナルな女性の視点からの噺が必要だと思うのです。
そうですね。
古典の、面白さも残しつつ。
・・・蝶九さんに、自作自演して欲しいなぁ。
16歳の女の子の台詞とは思えない・・・。
フィギュアスケートで、今季シニアデビューしてから、国際大会では6戦負けなしの紀平梨花選手。
オランダのハーグで行われたチャレンジ・カップ。
SPでは冒頭のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)が2回転半になるなどミスが重なって得点は伸び悩んだそうですが、フリーでは巻き返し。
冒頭のトリプルアクセルを成功させると連続ジャンプも鮮やかに決めて大きなミスなくまとめ、演技後は右手でガッツポーズをつくったそうです。
この後のコメントが物凄い。
「私の今できる最高かなというくらいの演技だった」と振り返り、来月の世界選手権へ
向けて「今日のような気持ちでSP、フリーとも演技したい」と。
「今できる最高の演技」を、実感出来る次元(領域)というのは、凡人には想像出来ません。
それとて、ただ天性のものではなく、努力の賜物のようです。
過去に紀平選手は、スケート靴は、左足は4ヶ月、右足は半年くらいもつとコメントしていましたが、全日本選手権後の1ヶ月間で、普段のの4ヶ月に匹敵する練習量をこなしていたそうですから・・・。
名人は 上手の坂を ひと上り
私も「今できる最高の高座」と、一度でいいから味わってみたい。
そのためには、つべこべ言わずに、ひたすら稽古すること。
「天災」は天のなせる災い、「天才」は努力のなせる技です。
この噺も傑作だと思います。
物の価値というのを考えさせられる噺です。
ある呉服屋の若だんなが急に患いつき、「明日をも知れぬ重病」になった。
医者が言うには、「これは気の病で、何か心に思っていることがかないさえすれば、きっと全快する」のだとか。
しかし、いくら父親が尋ねてみても、若旦那は首を横に振るばかりで答えようとしない。
数日後、若旦那は、とうとう飯も喉に通らないほど衰弱してしまう。
みかねた父親は番頭の佐兵衛を呼び出し、「何が何でも若旦那の悩みを聞きだせ!」と厳命。
「きっと、好きな女の子でもできたに違いありません」
なかなか口を割らない若旦那を、「必ずどうにかするから」とようやく白状させてみると…。 「実は、……ミカンが食べたい」
あっけに取られた番頭。「座敷中ミカンで埋めてあげます」と請け合って、大旦那にご報告。
「まずい事をいったものだな」
「どうしてです?」
「どこにミカンがあるんだ?」
その通り。
冬場の出盛りならいざ知れず、今は真夏、土用の八月。
はっと気づいたがもう遅い。
「もしミカンがないと言えば、せがれは気落ちして死んでしまう。そうなったら、お前は「主殺し」で磔だ。それが嫌なら…」
主に脅され、番頭は大慌てで外に飛び出していった。
あちこち探してみたものの、やはりミカンは見つからない。
磔柱が目の前にチラチラ…。
「ミカン、ありますか!?」
「あるわけないでしょ、ここは金物屋ですよ?」
なんて事になるぐらい、番頭はパニックになっていた。
「え? 若旦那が重病で、みかんが見つからなかったら磔?」
昔見た引き回しや、磔の場面を聞かされて、番頭はその場に卒倒してしまう。
同情した主人は、番頭を介抱して「神田多町の問屋街…万屋惣兵衛の所に行けばあるのでは」と教えてあげた。
藁をも掴む思いで問い合わせると、幸運にもミカンはあった!
「ちょっとお待ちください」
蔵の扉を開け、山積みになった木箱を引きずり出すと、次々と開けていく。
「ありました!」
「え、ある? ね、値段は?」
「千両!」
こっちも遊びで店を出しているわけではない。どうしても食べたいと言うお方のために、腐るのを承知で上物ばかりを選んで貯蔵しているのだ…と言うのが向こうの弁。
主に報告すると「安い。倅の命が千両で買えれば安いもんだ」。
番頭は目を白黒、千両出して蜜柑を買う。
「あー、もったいない。
皮だって五両ぐらい。
スジも二両、一袋百両…」
美味そうにミカンを食べる若旦那を横目に見ながら、番頭は事の成り行きに呆れてしまう。
喜んで食べた若旦那は、三袋残して、これを両親とお祖母さんにと番頭に手渡した。
「一房百両。三つ合わせて三百両…。このままずっと奉公していたって、そんなお金は手に入らない。旦那様には悪いが…」
この番頭、ミカン三ふさを持って失踪した。
・・・という、気持ちはよくわかるが・・というオチです。
さて、これは江戸バージョンで、上方バージョンがあるそうです。
番頭、探し疲れて八百屋と間違えて鳥屋に飛び込んでしまう。
昔見た引き回しや、磔の場面を聞かされて、番頭はその場に卒倒してしまう。
同情した主人は、番頭を介抱して「天満の青物市場に行けばあるのでは」と教えてあげた。
藁をもつかむ思いで問い合わせると、「ああ、ミカンでっか。おます。」との返事。
「へっ!あるんでっか。売ってもらえまへんやろか。」
「よろしおま。」と問屋は番頭を蔵へ連れて行く。
蔵の扉を開け、山積みの木箱を引きずり出し、次々と開けていく。
だが、箱の中のミカンはことごとく腐っている。
番頭は再び絶望のどん底へ 。
気の毒に思った問屋は「蔵中の木箱あけまっさかい、待っておくんなはれ。」と番頭を落ち着かせる。
ついに最後の一箱になる。
「おました!底にたった一つ残ったある。」見れば傷んでいない。
問屋が同情してタダでくれると言うのを、番頭が大店の見栄で「金に糸目はつけない」と見得を切る。
そのあまりのしつこさに、問屋もつい意地になって一つ千両とふっかけ、「毎年腐るの承知で蜜柑を囲います。みな腐ってもたら今年も暖簾に入れたとあきらめますが、一つでも残って買い手付いたら、千箱あった蜜柑の全部の値掛けさせてもらいま。商人冥利ビタ一文も損させまへん。」とキッパリ言われる。
びっくりした番頭、店に飛んで帰る。
「ああ、番頭どん。さいぜんは無理言うてすまなんだ。つい親心がでてしもて堪忍しとくなされ。」
「旦那さん、それどころやおまへんで。蜜柑ありました。」
「何じゃと!」
「天満の青物市場にあるんやけど、値が千両。何と馬鹿にしてるやおまへんか。」
一部始終を語ると、この父親も商人だ。
「ウム。青物問屋、そう言うたかい。せがれの命、千両なんて安いもんじゃ。これ!千両箱もっといで!番頭どん、御苦労じゃがその千両箱持って買ってきとくんなされ。」 と言われ、番頭、目を白黒。千両出して蜜柑を買う。
若旦那は十袋ある蜜柑をうまそうに食べ、「さ、三袋残ったさかい。これはお父はんとお母はん、そして番頭、お前三人で分けて食べ。」と渡す。
番頭、三袋の蜜柑を手に考えた。
「金持ちっちゅうんは勝手なものや。こげなミカン一つに千両か。俺も来年暖簾分け、あの渋ちんがくれるのは、どう見積もっても五十両。…この蜜柑一袋百両、三つあるから三百両…ええいっ!あとは野となれ山となれ!」
蜜柑三袋持って逐電した。
・・・なるほど、上方らしいかもしれません。
江戸バージョンに出て来るのが、「万屋惣兵衛」こと「万惣」。
神田多町の果物問屋で、1846年(弘化3年)に創業した実在の果物問屋です。
「万惣」は、2012年までは「万惣商事」として、高級果物の販売やフルーツパーラーの経営を行っていました。
私も、パーラーレストランには何度か行ったことがあります。
また、かつての神田多町には幕府公認の青果市場があり、駒込や千住と並ぶ江戸三大青果市場の一つとして賑わっていました。
「神田青果市場発祥之地」(神田須田町)の碑文によると・・・
この市場は慶長年間に今の須田町付近、当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥した。
(中略)江戸、明治、大正、昭和まで続き、この地を中心に神田多町二丁目、通り新石町、連雀町、佐柄木町、雉子町、須田町にわたる一帯となる。
震災で全滅したが復興し東洋一となったが、昭和3年12月1日に閉鎖、秋葉原北側に移転した。
・・・番頭さん、どうなったかなぁぁ。
落語にも悪人は登場します。
「花色木綿」は、空き巣ですから、窃盗罪と不法侵入罪。
落語の泥棒は、有名どころは出て来ません。
石川五右衛門の子分の、子分の、また子分の石川一衛門半。
何をやってもうまく行かないから、泥棒でもやってみようという「でも泥」。
親方から仕事のやり方を教わっても、いつもドジばかり。
法律上は罪になりますが、やっていることは罪のない・・・。
「帯久」は、現金を盗む窃盗罪とお白州で虚偽を陳述する偽証罪が成立するかな?
落語には珍しい悪人です。
「そちも悪よのう・・」も、何れは、しっぺ返しを食うというのが常道。
これで、聞き手の溜飲が下がるというものです。
こういう、因業な人物は、「唐茄子屋政談」「匙加減」「人情八百屋」「鹿政談」など、大家や商人や役人・・。
落語国では、必ず懲らしめられます。
「花筏」は、偽の大関で興行する詐欺罪。
最近でも、昔の人気タレントや歌手を語る輩がいますが、この情報化社会では、すぐにばれてしまいます。
ところが、昔は、大関に仕立てられた提灯屋さんも、最後までバレませんでした。
むしろ、「さすが大関!」と感動されるほど・・・。
とんでもない詐欺ではありますが、誰も不幸になっていないというのが、この噺、この落語の物凄いところだと思います。
本物の大関は病気で大変ですが、他の人たちは、みんなハッピーです。
大関花筏の部屋の親方を詐欺罪で立件しますか?
大変艶やかな記事に目が留まりました。
京都の北野天満宮で、菅原道真の命日にちなんだ「梅花祭」が開かれ、境内では上七軒の芸妓さんらがお茶をふるまう「野だて」も行われ、訪れた人々は満開の梅の下で茶会を楽しんだそうです。
へぇぇ、今日は菅原道真公の命日なんですね。
考えてみれば、道真に関する知識がありません。
845年、菅原道真は学者の家系に生まれました。
幼少の頃から学問の才能を発揮し、5歳の時には和歌を詠み、11歳の時には漢詩を作り、神童と称されていました。
そして、平安時代を代表する学者・詩人となり、祖父清公(きよとも)、父是善(これよし)に継ぎ、「文章博士(もんじょうはかせ)」になりました。
「文章博士」と言うのは、朝廷の役人の養成機関である大学寮で歴史や詩文を教える教官。学問界の最高の位の人だそうです。
その後、道真は宇田天皇の信頼を受け、彼の政治を支ええる一人となります。
醍醐天皇の即位後、右大臣となりますが、左大臣藤原時平によって謀反の罪がきせられ(讒訴=虚偽告訴罪)、大宰府権師に左遷されてしまいます。
大宰府に流されて2年後の901年、2月25日に59歳で亡くなりました。
道真の死後、左遷に追い込んだ人物が相次いで早世したり、都では疫病や洪水、飢饉など不穏な出来事が続いたり、世間の人々は道真の怨霊の祟りだと噂しました。
さらに、宮中の清涼殿に雷が落ちたことで、京都・北野の地主神である「火雷天神」と結びついて、「道真=雷神」と考えるようになりました。
朝廷は道真の祟りを鎮めようと北野天満宮を建立。
道真が亡くなった大宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮を建立しました。
時が経つにつれて、道真の怨霊に対する恐れがなくなり、道真が生前すぐれた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになりました。
室町時代には和歌や連歌、芸能の神として崇められ、江戸時代になると、学問の神として藩校や寺子屋で祀られました。
そして、現在でも学業成就の神として親しまれているのです。
・・・なるほど、そういうことですか。
さて、天満宮にも「日本三大天満宮」と称されているようです。
日本人の大好きな「日本三大〇〇」ですね。
【太宰府天満宮】(福岡県・太宰府市)
道真の死後、本来であれば故郷で埋葬するところなのですが、故人の遺言に従い門弟の味酒保行(うまさけのやすゆき)によって太宰府の地に墓所が定められたのがその始まりです。その後は前述した通り、道真の怨霊の祟りを鎮めるため、天皇の勅命によって社殿が建立されました。
勅命を出した天皇こそが、道真を左遷した醍醐天皇であり、建立の責任者となったのが、道真を左遷に追いやった張本人左大臣藤原時平の弟、仲平でした。
【北野天満宮】(京都府・上京区)
京都北野ではその土地を守る神(地主神)として火雷天神が祀られてきました。平安時代中期、多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、私邸に火雷天神を祀ったことが北野天満宮の始まりといわれています。
【大生郷天満宮】(茨城県・常総市)
太宰府で没した道真の遺言で、第3子景行が遺骨を奉持し諸国遍歴した後、常陸介として赴任。現在の地に社殿を建てて、遺骨をご神体として祀りました。
・・・前の2つは知っていましたが、恥かしながら「大生郷(おおのごう)天満宮」は知りませんでした。
しかも、関東のさほど遠くないところにあるんですね。
社伝によりますと、菅原道真公の三男景行公は、父の安否を尋ね九州大宰府を訪れた時、道真公自ら自分の姿を描き与え「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と言われ、延喜3年(903)2月25日に亡くなりました。
景行公は、遺言どおり遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、常陸介として常陸国にやって来た景行公は、延長4年(926)に現在の常総市真壁町羽鳥に塚を築き、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納め、一旦お祀りしましたが、3年後の延長7年(929)、当時飯沼湖畔に浮かぶ島(現在地)を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城(墓)と定め、社殿を建て、弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、祀ったとされています。
日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あるといわれる中で、関東から東北にかけては最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、遺族によって祀られたのはここだけであることなどから日本三天神の一社に数えられ、「御廟天神」ともいわれています。
・・・本当ですか?という気もしますが。
菅原道真が出て来る噺には「質屋蔵」というのがあります。
最後のオチの部分だけですが・・・。
すると今度は、棚の上の横町の藤原さんの質物の天神さまの掛け軸がするする~と下がって開いた。
びっくりして怖さも忘れて見ていると、梅の小枝を持った天神さまが、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」と歩み寄り、
天神さま 「そちがこの家(や)の番頭か、藤原方に参り利上げせよと申し伝えよ」
番頭 「はっはぁ~」
天神さま 「どうやら、また流されそうだ」
やはり、菅原道真公には、悲運と言うか、左遷のイメージが強いんですね。
最近の女性アスリートの活躍には、ただ驚くばかり。
体格や体力には、外国選手に比べてハンディはあると思いますが、それも完全に克服している。
2人とも、連戦連勝というところです。
スピードスケート世界スプリント選手権で、小平奈緒選手が2年ぶり2度目の総合優勝を飾り、高木美帆選手も2位に。(小平選手)
フィギュアスケートのチャレンジ・カップは、女子フリーが行われ、ショートプログラム2位の紀平梨花選手がフリー1位の141・90点をマーク、合計208・34点で逆転優勝。
(紀平選手)
今季出場した国際大会はすべて優勝という快挙。
3月の世界選手権への期待も高まります。
・・・凄いなぁ、頼もしいなぁ。
このペースを、次回のオリンピックまで持続していて欲しい。
清水の舞台から飛び降りたつもりで・・・足を挫きました?
「欲しい」と思うと、もう気になって、気になって。
とうとう、居ても立ってもいられず、ソニーストアWEBサイトから、注文してしまいました。
2019年、ソニー・ミュージックダイレクトの落語専門レーベル『来福』が発足から10周年を迎えました。
それを記念してウォークマン®とコラボレーションが実現。
人気噺家たちの名演200席をプリインストールしたウォークマン®Sシリーズ「落語三昧200席」が、2月21日(木)13時よりご注文の受付がスタートいたしました。
桂歌丸、春風亭一之輔、立川志の輔、立川志らく、柳家花緑(50音順)ほか、『来福』の保有する人気噺家たちの落語音源の中から選りすぐりの200席がプリインストールされているウォークマン®Sシリーズには、専用のスピーカーが付属しており、届いたその日からお部屋でも、ヘッドフォンでも楽しむことが可能です。
また、演者・演目・口演日を一覧できる特製冊子も同梱され、聴きたい噺をすぐに見つけることができます。
なお、本商品は受注生産品となっており、お届け日は3月中旬以降を予定しています。
・・・この宣伝文句に負けました。
<商品概要>
モデル名:ウォークマン®Sシリーズ「落語三昧200席」
NW-S315K/RKG(スピーカー付き)
容量:16GB
カラー:ブラック
販売価格:39,880円+税
注文受付開始日:2019年2月21日(木)13時~
※お届け日は、3月中旬以降を予定しています。
・・・高い、高いけど、CDを10~15枚買うのを考えると、ウォークマンで聴くことが出来るから・・・。
<ウォークマン®Sシリーズ「落語三昧200席」の主な特長>
過去にソニーミュージックグループからリリースされた数々の名演の中から総勢33名の噺家による選りすぐりの200席(約100時間分)を収録。今年20周年を迎える老舗のホール落語会「朝日名人会」の口演も数多く収録しています。普段落語を聴いて楽しんでいる方から落語初心者まで、充実した名演集となっています。
(収録噺家)
入船亭扇橋、入船亭扇辰、入船亭扇遊、桂歌丸、桂小金治、桂南喬、桂文治、桂文朝、金原亭馬生、五街道雲助、古今亭菊之丞、古今亭志ん輔、三遊亭圓窓、三遊亭円楽、三遊亭兼好、三遊亭小遊三、三遊亭白鳥、春風亭一之輔、春風亭一朝、春風亭昇太、隅田川馬石、橘家文蔵(文左衛門)、立川志の輔、立川生志、立川志らく、桃月庵白酒、林家彦いち、柳家花緑、柳家喜多八、柳家喬太郎、柳家権太楼、柳家さん喬、柳亭市馬(50音順)
*演者・演目・口演日を一覧できる特製冊子が同梱されます。
*パッケージにオリジナルスリーブを装着してお届けします。
https://www.sony.jp/walkman/store/special/s-rakugo200/list.html
・・・これで、完全に落ちました。
何と言っても、「朝日名人会」の音源がかなり多く収録されているのがいい。
既に、CDで噺家さん毎に発売されている演目もあります。
最近は、「朝日名人会」にもご無沙汰です。
年間(半年)通し券は当たらないし、各回ともすぐにチケット完売になるし、土曜日は帰省することも多いし。
注文手続きをしていたら、以前、ポータブルブルーレイプレーヤーを購入した時に、「My Sony ID」とやらを登録していたようで、少し割引になりました。
「どんな夢を見た?」と尋ねられても、夢を見たのは承知していても、内容は全く覚えていないなんて言うこともありますよ。
家で寝ていた八五郎が妻に揺り起こされる。
「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」
八五郎は何も思い出せないので「夢は見ていなかった」と答えるが、妻は納得せず、隠し事をしているのだと疑う。
「夢は見ていない」「見たけど言いたくないんだろう」と押し問答になり、夫婦喧嘩になってしまう。
長屋の隣人が夫婦喧嘩に割って入るが、経緯を聞いた隣人も夢の内容を知りたがる。
「そもそも夢は見ていないので話しようがない」と八五郎は言うが隣人は納得せず、またも押し問答から喧嘩になってしまう。
今度は長屋の大家が仲裁に入った。
大家もやはり八五郎の夢について知りたがる。
八五郎は「夢を見ていない」と弁解するが大家には信じてもらえず、「隠し事をするような奴はこの長屋から出て行け」と言われる。
八五郎が立ち退き拒否したため、奉行所で詮議されることになる。
奉行は八五郎に好意的だったが、やはり八五郎の夢に興味を持ち、見た夢を聞き出そうとする。
八五郎は「夢は見ていない」と答えるが奉行の怒りを買い、縛り上げられて奉行所の庭木に吊るされてしまう。 吊るされた八五郎が途方に暮れていると、突風が吹いて八五郎の体が宙に浮く。
気が付くと山奥にいて、目の前には大天狗が立っている。
奉行所の上空を飛翔中、理不尽な責苦を負わされている八五郎に気が付いたので、助け出したのだと大天狗は言う。
大天狗もまた八五郎の夢のことを聞きたがる。
「夢を見ていないので話しようがない」と八五郎は今まで同様に弁解するが、やはり信じてもらえない。
大天狗は怒り出し、八五郎の喉元につかみかかる。
首筋に大天狗の長い爪が食い込み、八五郎は苦しみ悶える。
気が付くと八五郎は家で寝ていて、妻に揺り起こされていた。
うなされていたようだ。
「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」
・・・この噺も、同じパターンを繰り返します。
展開は分かっちゃいるけど、笑っちゃうという噺。
噺としては、上方から江戸に移植されたものですが、さらに遡ると、長編の江戸落語「羽団扇」の前半が独立したもの。
ルーツは各地に残る天狗伝説ということでしょう。
「羽団扇」は、女房が亭主の初夢をしつこく尋ね、もめているところに天狗が登場して女房に加勢。
鞍馬山までひっさらっていき白状させようとする設定で、大家や奉行は登場しません。
後半は、亭主が墜落したところが七福神の宝船で、弁天さまに酒をご馳走になり、うたた寝して起こされたと思ったら今のは夢。
女房が吸いつけてくれた煙草を一服やりながらこれこれと夢を語ると、七福神全部そろっていたかと聞かれ、数えると一人(一福)足らない。
「ああ、あとの一福(=一服)は煙草で煙にしてしまった」
という他愛ないオチです。
落語には、「天狗」「河童」「うわばみ」などの、架空の生き物が出て来ます。
狸と狐が化けるのも、不思議な世界です。
でも、いずれもみんないい人・・じゃなくていい生き物です。
飲む、
打つ、
買うのいずれもやらない私は、
ゴルフもやりません。
ゴルフ場の数やのべ利用者の減少が続いているそうです。
ゴルフ場の倒産件数も増加しており、厳しい経営環境におかれているんでしょう。
一般社団法人日本ゴルフ場経営者協会が公表した資料「利用税の課税状況からみたゴルフ場数、延利用者数、利用税額等の推移」によると、平成29年度のゴルフ場数は前年度比25施設減の2,257施設で、8年連続で減少。
平成元年度のゴルフ場の数は1,772施設で、平成14年度には2,460施設まで増加。
その後はしばらく横ばいで推移していたものの、平成22年度の2,432施設から8年連続で減少を続けている。
平成29年度のゴルフ場ののべ利用者数は前年度比0.3%減の8,553万8,000人で4年連続で前年度を下回った。
平成元年度の延利用者数は8,996万3,000人で、平成4年度には1億232万5,000人まで増加。
その後はしばらく1億人を下回り、平成9年度に1億52万9,000人に回復したものの、その後は減少傾向が続いている。
平成になって最も延利用者数が少なかったのは、平成23年度の8,432万7,000人だった。
・・・誰もがゴルフ、ゴルフって、そんなに楽しいかなぁ?
朝早くから、重たい荷物を持って・・・。
安くなったとは言え、かなりお金もかかるし。
ゴルフ人口も減ると思います。
かつてのサラリーマンの必須だとも言われた麻雀のように。
面倒くさがりの私には、理解出来ない部分です。
それじゃぁ、お前の道楽は何なんだ?
1人で引きこもって。
落語を聴きながら。
こんな空間に埋もれています。
・・・寂しい人生です。
文藝春秋の「2019年の論点100」の中に、昨年亡くなった桂歌丸師匠を軸にした評論があるようです、
噺家・桂歌丸が亡くなった。
寄席や落語という娯楽をテレビを通じて全国津々浦々まで浸透させ、「落語を聞きに行く人」を数多く作り出したその功績は絶大だ。
初めて落語を聞きに行くとき、知らない噺家の名前が並ぶ興行よりも、「桂歌丸」の名前があることで得られる安心感は計り知れない。
そうやって生の落語に接した人の中の何割かは、そのままのめり込んで落語好きになる。
勢い余って噺家になってしまう者もいる。
でも、元をたどればきっかけとして、「笑点で見た桂歌丸」が何らかの形で関与しているケースは少なくない。
そんな大きな存在を失った東京の落語界は、いったいどうなってしまうのか――と心配する向きもあるが、じつは、特に変わる気配はない。
歌丸は、きちんと準備をして旅立っていったのだ。
初めて寄席に入った客は、お目当ての歌丸が高座に上がると喜ぶ。
しかし、その興行をすべて観て、あとでどの演者がよかったかを訊ねると、意外に歌丸の名前を挙げる人は少ない。
出てくる名前は、昔昔亭桃太郎であったり、古今亭寿輔であったり、三遊亭笑遊であったり、その日初めて知った噺家の名前を挙げることが多いのだ。
そして、次回はそこで興味を持った噺家の落語を聞こうと寄席に行き、そこでまた気になる芸人を見つける。
そんなことを繰り返すうちに、本当に自分に合った噺家を見つける。
これは歌丸に限ったことではなく、「笑点」のメンバーに総じて言える傾向である。
彼らは寄席や落語会への集客という面において、圧倒的な力を持っている。
しかし、彼らが呼び込んだ客を「ファン」として根付かせる役割は、また別の芸人が担当することが多い。
一種の連係システムがそこにはあるのだ。
歌丸は、客を寄席に引き込む役割を見事に務め上げた。
しかも、自分亡きあともそのシステムが機能し続けるように、春風亭昇太にその任を譲ってもいた。
今後は昇太目当てに寄席や落語会に行く人の中から、落語ファンや新しい噺家が生まれてくるのだろう。
そんな落語界も世代交代が進み、落語そのものも進化している。
といっても、古典落語が衰退して新作落語ばかりになる――というわけではない。
古典は古典として受け継がれている。「へっつい」や「長火鉢」「煙草盆」など、もはや古典落語でしか耳にすることのない単語もそのまま使われている。
それらの単語が示す実体は知らなくても、「そういうものがあるんだ」と納得することでストーリーを成立させる、という客側の暗黙の了解も従来と変わらない。
それでも落語は進化している。
たとえば「江戸弁」へのこだわりが薄れてきているのも、そのあらわれだ。
「ひ」と「し」が入れ替わるなど、独特の発音と言い回しを持つ江戸弁は、江戸落語の根底にあるものと考えられてきたが、近年はそこに重きを置く噺家は減ってきた。
より現代的に、より分かりやすい言葉を選ぶことで、若い世代の支持を得ている。
聖書は口語訳が普及し、森鷗外も現代語版のほうが読みやすい。
落語だって同じことだ。
こうした変化を「進化」と呼ぶか「劣化」と考えるかは聞く側の自由だが、後者を選ぶ人は寄席に行くよりも、家で古今亭志ん朝のDVDボックスを観ているほうがストレスを感じなくて済む。
逆に、そうした変化を受け入れられる人は、今も寄席を楽しめるはずだ。
志ん朝の名前が出たので白状するが、昭和40年生まれの筆者は志ん朝至上主義だった。
17年前に彼が亡くなった時には、もう落語界は終わりだと悲嘆に暮れ、落涙した。
ところが、志ん朝が死んでも落語界は平穏だった、終わるどころか隆盛に転じた。
落語が「ブーム」として扱われるようになり、寄席の前には行列ができた。
今、若い噺家や落語ファンに志ん朝の録画を見せても、大して感動しないらしい。
「ああ、上手いですね……」といった程度で、あまり興味を持たないというのだ。
まあ、それもわからないことではない。
筆者の世代の多くは、名人と言われた三遊亭圓生や先代桂文楽の生の高座には接していない。
「圓生はよかった」「文楽はすごかった」と熱く語る当時のオールドファンに、「ああ、そうですか……」と生返事をしていたのと同じことなのだ。
「昔はよかった」は、いつの時代も嫌われる。
今、寄席のプログラムを見ると、古い世代が喜ぶ落語を演じる噺家は全体の3割で、残り7割は若い世代に支持される芸人で構成されている。
この割合は、噺家の年齢とは関係がない。
年配の噺家にも若い世代に親和性のある噺をする者もいれば、逆に頑ななまでの「古さ」が若い層に支持される者もいる。
したがって、年配の客が寄席に行くと3割しか楽しめない、というものではないのだ。
3割のほうにも7割のほうにも、「面白い噺家」「上手い噺家」は一定数いるし、その逆もいる――ということを念頭に、反対意見もあるだろうがお薦めの噺家を列挙する。
落語協会からは柳家さん喬、五街道雲助、柳家権太楼、春風亭一朝、入船亭扇遊、柳家小ゑん、林家正蔵、林家しん平、柳亭市馬、橘家圓太郎、柳家喬太郎、三遊亭白鳥、橘家文蔵、桃月庵白酒、隅田川馬石、春風亭百栄、蜃気楼龍玉、古今亭志ん陽。
落語芸術協会からは昔昔亭桃太郎、三遊亭笑遊、瀧川鯉昇、桂南なん、春風亭柳好、三遊亭遊雀。
円楽一門会からは三遊亭兼好。
落語立川流からは立川生志。
これらの芸人を入口に、寄席や落語会に出かけてみてはどうだろう。
きっと今の時代の、自分に合った噺家が見つかるはずだ。
・・・特に目新しいことは書いていませんし、歌丸師匠だけがやってていた訳でもありません。
どこの世界でも、それを継承し発展させる努力は、みんなそれぞれでやっています。
圓窓師匠の「五百噺」も、「落語の授業」も、全く同じだと思います。
歌丸師匠は、本当に運良く時流(マスコミ)に乗っている目立つところで努力をされていました。
落語は、自然体で続いて行くと思います。
社会人には、仕事のやり方だけでなく、礼儀やマナーなどというものも必要です。
ところが、中には必要性に疑問を感じるようなものもあります。
例えば、「お辞儀ハンコ」。
そういう名前だとは知りませんでしたが。
「お辞儀ハンコ」というのは、稟議書など社内で複数人の承認が必要な書類に押印する際、「部下が上司にお辞儀をしている」ように「左斜めに傾けて」ハンコを押すという、金融業界など一部で重んじられているビジネスマナーです。
こんな例があるそうです。
「朝の4時半頃、請求書の判子がお辞儀していないのは失礼だ」と、カンカンに怒った電話がかかってきて、請求書の再作成をさせられたと。
これがツイートされて、驚嘆と呆れの声が多く寄せられたそうです。
「都市伝説かと思っていました」
「ほんまアホな習慣やな」
「部族の掟(社内ルール)を外部にもちだすなよ」・・・。
私の経験から言えば、確かに、印鑑はほんの少し左側に傾けて(右肩上がりに)押すのが無難だとは言われたことがありますが、そんなにエキセントリックなものではありませんでした。
勿論、逆さまだったり、横になったりは注意されましたが。
へぇ、「お辞儀はんこ」って言うんですか。
寄席の高座の動画がアップされていました。
真打が、座布団の両側をつまんで、寄席の舞台の端から端まで、ゴロゴロ横転しています。
客席の反応はどうなんでしょう。
元々、基本やセオリーを無視している人だから、呆れられながらも喝采を浴びているのでしょうか?
落語は喋り芸ですから、騙りやストーリーが破天荒なのは、まだゆるされるでしょう。
しかし、高座(座布団)をおもちゃにするようなやり方は、甚だ疑問に思います。
高座で寝たり、立ったり、後ろを向いたりする人もいますが、これさえも違和感がありますから。
能狂言も歌舞伎もそうだと思いますが、ある部分がリアルではない前提(設定)で、聴き手は想像しながら観賞してこそのものです。
違う気がするなぁ。
・・・ところで、こんな動画が撮影されて良いのでしょうか?
寄席では、基本的には録画録音は禁止しているはずですが。
男と女が好いて好かれて結ばれる。
そのパターンにも色々あります。
ごくごく自然でハッピーなカップルもあれば、どろどろした因縁に巻き込まれる不幸なカップルもある。
「甲府い」は、「善吉とお花」。
甲州から出て来た善吉は、浅草の観音様にお参りをして、仲見世で財布を掏られてしまい、路頭に迷います。
あくる朝、空腹でフラフラになった善吉は、思わず豆腐屋の店頭にあったおからを食べてしまう・・・。
「法華豆腐」と言われる信心深い主の店で奉公をする。
ここには、一人娘のお花がいる。
主夫婦が善吉をお花の婿にという気持ちに先んじて、二人はお互いに好き合っているという、ハッピーエンドを絵に描いたような噺。
「文七元結」は、「文七とお久」。
博打にはまってみを持ち崩した父親のために、自ら吉原に身を売ったお久。
お久が身を売って作ってくれた大事な大事な金を、吾妻橋で掛け取りの金を掏られたと思い込んで身投げをしようとしていた文七に恵んでやる父親。
文七の勘違いで金が出て来て、恵んでもらった金の出所も分かって、やれやれ・・・と言うのが本題。
この後、文七とお久が夫婦になるという後日譚、文七が独立して元結屋を開き繁盛したという、ハッピーエンドな噺。
そして、「怪談牡丹燈籠」は、「新三郎とお露」。
山本志丈に連れて行かれた飯島平左衛門の下屋敷(別荘)で出会った、萩原新三郎と飯島の娘お露。
お互いに一目惚れをして、恋煩い。
そんな2人に降りかかる、親の因縁。
2人の純粋でひたむきな恋は、この世では成就することが出来ず。
この世では結ばれないまま死んでしまう。
お露と新三郎の純愛物語は、この世ではハッピーエンドとはなりませんでした。
落語は庶民が主人公の演芸ですから、基本的にはハッピーエンドですが、圓朝の怪談や人情噺は、冷酷無残な結末のものも多くあります。
憂鬱な日曜日の夜。
「ラジオ寄席」は唯一の楽しみかもしれません。
今夜のラジオ寄席は「十代目金原亭馬生特集」です。
◇「初天神」 十代目金原亭馬生
元々は上方落語の演目。
毎年1月25日に天満宮で行なわれる年の初めの祭りに出かけた、父親と息子の絆を描いています。
松富久亭松竹の作と伝わっており、三代目三遊亭圓馬が大正期に東京落語に移植した。
また、上方落語でもこの演目は演じられ続けている。
息子に振り回されて困惑気味の父を、やや冷めた目線でシニカルかつ風刺的に描いている。
それぞれのエピソードごとにオチがあり、どの箇所でもサゲられるようになっていて、時間調整が効く噺という利点もある。このため最後のエピソードまで演じられることは多くない。
◇「甲府い」 十代目金原亭馬生
両親を早くになくし、伯父夫婦に育てられた甲府生まれの善吉。
江戸へ出て奉公して一旗揚げようと決意。
身延山に願掛けをして江戸へ着いたが、浅草寺の仲見世の人混みで巾着をすられて無一文。
葭町の口入屋の千束屋を目指すうち、あまりの空腹さに耐え兼ねて豆腐屋の店先で卯の花を盗み喰い。
店の金公に殴られそうなところを、親方が止めて事情を聞く。
親方は善吉と同じ法華宗の信徒で、今日はお会式の日というのも何かの因縁と、豆腐の売り子として奉公させることにする。
喜んだ善吉は来る日も来る日も休まずたゆまず、荷をかついで美声を張り上げ、「豆腐ぃ~、胡麻入りぃ~、がんもどき~」と売って回った。
「先々の時計になれや小商人」、得意先も増え店は繁盛。
三年が経ち善吉の働きぶりと人柄に惚れ込んだ豆腐屋の親方夫婦は、善吉を娘のお花の婿にした。
今まで以上に稼業に励み、隠居させた老夫婦に親孝行をつくす伝吉は、育ててくれた伯父夫婦へのお礼と、身延山に願ほどきに行きたいと申し出る。
むろん老夫婦に異存はない。
喜んで旅支度してやり、ついでに二人であちこちと名所見物でもして、美味い物を食べて来いと小遣いをごっそりと渡した。
思い立ったが吉日と、若夫婦そろって翌朝出発する。
善吉の売り子姿しか見たことがない近所のおかみさんたちは珍しがって、
「善吉さん、夫婦おそろいでどちらへ?」
善吉「甲府ぃ~ お参りぃ~、願ほどき~」
「金原亭馬生」という名前の由来は、野馬の生産地として有名な金原(こがねはら:小金原とも書き下総中野牧の一部)で馬が生まれるという意味の地口だそうです。
我が松戸市の「小金原」のことですよね。
それから、私の「金願亭」も、この「金原亭」の地口です。
馬生師匠、懐かしいですね。
思えば、私が初めて師匠を直接拝見したのは、師匠が50歳になるかならないかの頃でした。
しかし、失礼ながら10歳以上老けて、60歳を優に超えているように見えました。
実際には、還暦を迎える前にお亡くなりになりました。
・・・さて、この番組も、プロ野球のシーズンが始まる4月からは、また向こう半年はお休みということになります。
部屋の掃除に疲れて居間のテレビを見ると、天皇陛下の在位30年記念式典が中継されていました。
天皇陛下の在位30年を祝う政府主催の記念式典は、三宅坂の国立劇場で、天皇皇后両陛下を迎えて開催。
天皇陛下は「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」と自らの歩みを振り返り、今後の皇室に向け「次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と語られました。
憲法論や制度論はさておき、日本の(平和の)象徴として、この30年間のお務めには、本当に敬意を表したいと思います。
あの「穏やかさ」「奥ゆかしさ」は、政治や経済の次元を超えた別次元にあり、世界広しと言えども、こういう佇まいを見ることが出来る国は少ないと思います。
昨日家内から、「今度の金曜日は年に一度の消防点検で、家の中に検査員が入るから、部屋を片付けて」と言われて大慌て
えぇ今度の金曜日
おいおい、火曜日から木曜日までは大阪出張だから、掃除する日が、今日ぐらいしかないじゃないか。
それこそ自慢になりませんが、自室は文字通りのゴミ屋敷状態。
もう、本当に足の踏み場もありませんから、検査員が入れませんし、作業も出来ない状態。
それよりも、みっともない( ^ω^)・・・
ということで、今朝は早くから、やっつけ仕事の掃除です。
掃除というよりも、ゴミの処分です。
整理整頓というよりは、対消防点検受け入れ対応という、究極の対症(にわか)療法です。
溜まりに溜まったゴミは、何とゴミ袋数個分。
・・・何とか袋詰めをして、処分出来そうですが、あくまでも対症療法に過ぎず、襖を開けたらゴミが崩れ落ちて来ますから、いずれは抜本的に捨てないといけません。
掃除や整理整頓が出来ない私でも、足の踏み場が見えて来ると、「さぁ、これからは心を入れ替えて、毎日ちゃんと整理整頓するぞ」とは思うんですが・・・。
・・・そうか「断捨離」ということか。
O型には、なかなか向かないですが(*´・ω・`)b
【断捨離】、
「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、
断:入ってくるいらない物を断つ。
捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
離:物への執着から離れる。
として不要な物を断ち、捨てること。
物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的。
単なる片付けとは一線を引く。
・・・しかし、私は「もったいない」ではなくて、「めんどうくさい」んですけどね。
学士会落語会の代表委員が、急逝されたという連絡をいただきました。
えっ?
1月の例会では、いつもどおりにご挨拶をされ、新春交歓会でもお元気に歓談されていたのに、後日、ご入院されていたそうです。
享年80歳。
いつも笑顔で、何度かの会員落語会での私の高座の批評をしてくださいました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
日曜日の朝のささやかな楽しみです。
◇「反対車」 十代目桂文治
元々は、上方噺だったようですが、明治になってからの東京が舞台の噺です。
男が終電の時間までに上野駅に行きたいと思い、車屋を探していると、ちょうどいいところに一人の車屋が見つかる。
しかし、この車屋、人力車は酷くオンボロで先頭の提灯は近くの稲荷神社から盗んだものであり、おまけに車屋自身もついさっきまで心臓病で入院しており、医者の制止も聞かずに治療費のために働いているといういつ死んでもおかしくないようなやつであったため、目的地まで行けないばかりか、乗車代だけをムダに取られてしまう。
タチの悪い半病人から解放されたはいいが、終電の時間が迫っているためより速い車屋を探す必要が出てきたところへ今度は捻り鉢巻を締めた見るからに速そうな車屋が捕まったため、今度は男はこの車屋の世話になる。
しかしこの車屋、曲がったことが嫌いだからとどんな障害物があっても直進するため、男はぶつからないように車から何度もジャンプする羽目になる。
そんなこんなで着いたはいいが、目的地はとっくに通り過 間にか仙台まで来てしまっていた。
男が目的地は上野駅だと伝えるとこれまでにないような速さで戻ってはくれたが、当然終電の汽車はもう出てしまっていた。
男が文句を言うと車屋は「大丈夫です、始発には間に合います」
・・・先代の文治師匠、懐かしいですね。
早くから噺家志望であったが、1944年に召集令状を受け、終戦後帰国後の1946年6月、二代目桂小文治に師事し、父の名であった柳家小よしを名乗るが、後に師の亭号が桂だったために桂小よしに改名。
1948年10月、2代目桂伸治に改名し二つ目昇進。
1958年9月、真打昇進。
1960年代の演芸ブームでテレビ・ラジオに多く出演。
フジテレビ「お笑いタッグマッチ」の回答者やこの番組の提供スポンサーでもあった丸美屋食品工業のふりかけ「のりたま」のテレビCMで売れる。
1979年3月、前年亡くなった九代目桂文治の盟友である八代目林家正蔵(後の林家彦六)の推薦で十代目桂文治を襲名、桂派宗家となる。
1996年、芸術選奨文部大臣賞受賞。
1999年9月、四代目桂米丸の後任で落語芸術協会会長就任。
2002年11月勲四等旭日小綬章受章。
2004年1月急性白血病に倒れ、同月31日芸協会長の任期満了日に死去。
享年80歳。
会長職は、既に翌日の昇格が内定していた副会長の桂歌丸が就任。
正調の江戸弁を大切にしていた噺家であった。
得意ネタは、「掛取り」「源平盛衰記」「親子酒」「お血脈」「長短」「蛙茶番」「義眼」「鼻ほしい」「火焔太鼓」「道具屋」「替り目」「ラブレター」「あわて者」「猫と金魚」「二十四孝」などであり、五代目柳家小さんと並んで滑稽噺のスペシャリストであった。
芸風は極めて自由闊達で、晩年に至るまで客席を爆笑の渦に誘ったが、その芸の根底には本人も認めるように戦前の爆笑王の一人であった初代柳家権太楼の影響がある。
◇「寄合酒」 三代目桂文朝
ある夏の日、町内の若い衆のひとりが暑気払いにみんなで集まって酒宴を開くことを思いつくが、酒や酒肴を買う金がない。
仕方がないので、めいめい酒肴を持ち寄ることにしたが、料理が不慣れな男ばかりが集まったために、以下のような混乱をきたす。
ある男は、底に穴をあけた一升徳利を桶の中に入れて酒屋へ行き、そのまま徳利に酒を注がせる。
「金を支払う前に、米屋に用がある」と言って、栓をした徳利を酒屋に預け、徳利を通過して桶にたまった酒を持ってくる。
与太郎は、原っぱで味噌・塩・酢などを「拾ってきた」というが、包みに伝票がくっついていた。
ある男は、乾物屋の子供に鬼ごっこをやろうと誘い、「鬼の角の代わりにする」と言ってかつお節2本を持ってこさせ、怖がらせて退散させる。
しかし男はかつお節の使い方を知らず、全部削って煮立てた上で、出し殻を皿に盛って運んでくる。
だし汁は「行水や洗濯に使ってしまった」と言う。
ある男は、乾物屋で棒鱈の値段に難癖をつけるふりをして盗んでくる。
水で戻して煮付けるなどして食べるものだが、かつお節削り器で全部削ってしまう。
ある男は、乾物屋で数の子の上に風呂敷を広げて「小豆をくれ」と聞く。
乾物屋に小豆はないため、男は風呂敷をたたみ、そのまま数の子を隠すようにつかんで持ってきた。
そのまま食べることができるものだったが、煮てだめにしてしまう。
ある男は、山芋をぬか味噌に漬け込んでしまう。
ある男は、犬が魚の行商人のカゴから盗んだ鯛を、隣町まで追いかけて奪い取る。
料理していると、その犬がうなり声をあげて男の元へ戻ってきた。
兄貴分に報告すると、兄貴分は「そんなのは頭でもしっぽでも、一発食らわして追っ払え」と返事をする。
兄貴分は「蹴りを食らわせろ」と言ったつもりだったが、男は鯛の頭やしっぽを文字通り食べさせてしまい、鯛は全部なくなってしまった。
・・・と噺は続き、さらに「
ん回し」という噺に繋がって行きます。
1952年7月 - 2代目桂小南(当時山遊亭金太郎)に入門。
前座名は山遊亭タア坊。
1955年 - 山遊亭金時に改名。
1959年1月 - 二ツ目昇進。
桂小西(前年に師匠が小南を襲名したため)に改名。
1970年4月 - 真打昇進。桂文朝を襲名。
1975年 - 文化庁芸術祭優秀賞を受賞。
1975年4月 - 柳家小三治・入船亭扇橋と「三人ばなし」
をスタート。(~1997年8月)
1978年 - 放送演芸大賞落語部門賞を受賞。
1984年1月 - 桂文生、桂南喬とともに落語芸術協会を
脱退し、落語協会に移籍。
2005年 - 死去。享年63歳。
・・・文朝師匠、好きな噺家さんでした。
早く亡くなってしまい、本当に残念です。
これはよく描けていると思います。
ただし、八っつぁんと熊さんの顔は、逆の方がイメージに合う気がします。
八っつぁんが兄貴分で、まごまごする熊さんを無理やり連れて来るので。
そんなことはどうでも良いのですが、これも落語らしい噺です。
ただいま、落語っ子連では、千公さんがチャレンジしています。
浅草観音詣でに来た八五郎は、昨晩、身元不明の行き倒れが出た現場に出くわす。
役人たちは通行人らに死体を見せ、知り合いを探していた。
死体の顔を見た八五郎は、同じ長屋の熊五郎だと言うが、同時に「今朝、体調が悪いと言っていた」というので、周りの人たちは、行き倒れが出たのは昨晩だから人違いだと指摘する。
しかし、八五郎は聞く耳を持たず、熊五郎本人を連れてくると言って長屋へと引き返す。
長屋へ帰ってきた八五郎は、熊五郎に対し、お前が浅草寺の近くで死んでいたと言う。
熊五郎は自分はこの通り生きていると反論するが、八五郎はお前は粗忽者だから死んだことに気づいていないなどと言い返し、最終的に熊五郎は言いくるめられ、自分は死んでしまったと納得する。
そして熊五郎は自分の死体を引き取るために、八五郎と共に浅草寺へ向かう。
浅草観音に着いた熊五郎は、死人の顔を改めて間違いなく俺だと言う。
周囲の者たちはそんなわけはないと呆れるが、熊五郎も八五郎も納得せず、しまいに熊五郎は自らの死体を担いで帰ろうとする。
役人たちが止めに入り、喧々諤々の押し問答となる。
そしてそのやり取りが佳境に入ったころ、熊五郎は「どうもわからなくなった」とつぶやく。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」
・・・逆さオチと言うのでしょうか?
「やい、この…俺め」と、熊さんが言うセリフが最高ですね。
自分が良く知っている場所が゛出て来る、舞台になっているから、是非演りたい!
「甲府い」「ねずみ」「鰍沢」です。
要するに、故郷と第二の故郷に関わる噺ということです。
「甲府い」は甲府、「ねずみ」は仙台、「鰍沢」は鰍沢。
現在の正式な市町村名で言えば、山梨県甲府市、宮城県仙台市、山梨県富士川町鰍沢。
【甲府】
山梨県の中部に位置する同県の県庁所在地。
2000年(平成12年)11月1日に特例市に指定され、現在は施行時特例市であるが、2019年(平成31年)4月中核市移行予定。
2018年4月現在、全国の県庁所在地の中で人口が最も少ない。
甲府盆地からも、富士山が見えます。
甲府駅前に鎮座する、名将武田信玄像。
武田神社(北)を背に、南側をじっと睨むように座っています。
【仙台】
宮城県の中部に位置する同県の県庁所在地かつ政令指定都市。
また東北地方最大の都市でもある。
広瀬川が蛇行して流れる杜の都。
メインストリートの一つ「定禅寺通り」の欅並木。
青葉城址から、仙台の街を見下ろす、藩祖伊達政宗像。
【鰍沢】
南巨摩郡の北側に位置し、西側に日本二百名山の一つ櫛形山がそびえ、東側に日本三大急流の一つ富士川が流れる。
江戸時代には富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸が設置され栄える。
近代には鉄道や道路など交通機関の発達に伴い商業圏の拠点としての役割は低下し、近年は過疎化が進行している。
大法師公園の桜は日本さくら名所100選に選ばれている。
富士川の起点、北に甲府盆地、西側には南アルプス。
富嶽三十六景色「甲州石班澤(かじかざわ)。」
日蓮宗「妙法寺」、「毒消しの護符」がいただける。
ご当地噺は、こんな景色を思い出しながら演じています。
今日は皇太子殿下の59歳の誕生日だそうです。
マスコミの扱いも、例年以上に大きい気がします。
何と言っても、来年は「天皇誕生日」になるんですから。
ところで、実は、今日はある知人の誕生日でもありました。
今までやったことはありませんでしたが、今年はお祝いのメールをしようと思いましたが、なかなか実行出来ずにいました。
突然メールというのも、先方に唐突で失礼かなと、夜まで迷っていました。
やっと決心して(それほどのことでもありませんが)メールすることにしました。
今日を逃したら来年まで出来ませんから。
そこで、こんな文にしてメールしました。
「(夜分突然すみません)
今日2月23日は富士山の日だそうです。
今日はほかにも何の日というのがあるのでしょうか?」
・・・と「私の誕生日」という返信を期待して。
すると、作戦?が当たって、期待していた反応ありました。
そこで「今日は、皇太子さまの誕生日だと思っていました。
やんごとない方と一緒なんですね。
来年からは、天皇誕生日ですよ。
私は、金正恩という、隣の国の若旦那と誕生日が同じです。」
・・・と返信。
何とか意は伝わりました。
この接点は、失わないようにしておきたいと思います。
垂涎の落語音源が発売されたようです。
過去にソニーミュージックグループからリリースされた数々の名演の中から総勢33名の噺家による選りすぐりの200席(約100時間分)を収録。
今年20周年を迎える老舗のホール落語会「朝日名人会」の口演も多く収録しています。
普段落語を聴いて楽しんでいる方から落語初心者まで、充実した名演集となっています。
(収録噺家)
入船亭扇橋、入船亭扇辰、入船亭扇遊、桂歌丸、桂小金治、桂南喬、桂文治、桂文朝、金原亭馬生、五街道雲助、古今亭菊之丞、古今亭志ん輔、三遊亭圓窓、三遊亭円楽、三遊亭兼好、三遊亭小遊三、三遊亭白鳥、春風亭一之輔、春風亭一朝、春風亭昇太、隅田川馬石、橘家文蔵(文左衛門)、立川志の輔、立川生志、立川志らく、桃月庵白酒、林家彦いち、柳家花緑、柳家喜多八、柳家喬太郎、柳家権太楼、柳家さん喬、柳亭市馬(50音順)
・・・これは良い!
「朝日名人会」の音源も多く、勿論ですが、圓窓師匠も何席もあります。
しかも、ウォークマンに入っているから、CDのように、ディスクの出し入れも必要ないし、持ち運びも便利です。
NW-S315K/RKG(スピーカー付き)
容量:16GB
カラー:ブラック
販売価格:39,880円+税
注文受付開始日:2019年2月21日(木)13時~
・・・う~ん、欲しいなぁ。
現役最高齢の芸者さんの訃報です。
現役最高齢の芸者、浅草ゆう子さん。
享年96歳。
大正12年、東京生まれ。
数え13歳で浅草の芸者置屋「新菊の家」に奉公に上がり、16歳で芸者デビュー。
20歳で独立し、昭和27年には「新菊の家」の看板を譲り受け、川端康成や田中角栄、美空ひばりなど各界名士のお座敷を務めた。
平成13年度優良芸妓顕彰。
花街芸能継承に尽力し「ゆう子姐さん」と親しまれた。
著書に「いつでも今がいちばん。いきいきと、90歳の浅草芸者」。
最後のお座敷は一昨年の12月。
最近は体調を崩し、横浜市内の病院に入院していたそうです。
・・・この世界は知りませんが、どの道も「この道ひとすじ」は凄い。
東京メトロも色々考えますね。
ちょっと風変わりな自動販売機が東京メトロの溜池山王駅に設置されたそうです。
「THE VENDING TRAIN」と名付けられた、サントリーコーヒー「BOSS」を販売するその自動販売機。
その一部に使われているのは、ほんの数年前まで東京メトロ銀座線を走っていた電車。
1984年1月1日、戦前から走るものもあった営団地下鉄銀座線の旧型車両を置き換えるために登場した01系電車。
半蔵門線用の8000系電車までの実績に加えて新しい技術を導入した、銀色に光るアルミ合金製の車両は、それまでの黄(黄橙)色1色の車両とは違う軽快な印象を利用者にもたらしました。
1993年に旧型車両の置き換えを完了し、開業当時から使用されてきた打子式ATSから車上信号式のCS-ATC方式に信号方式が変更されてからは、所要時間の短縮も実現しています。
東京メトロとサントリーコーヒー「BOSS」は、引退した銀座線01系を使用して制作した自動販売機「THE VENDING TRAIN」を、2月22日より銀座線溜池山王駅に設置。
「THE VENDING TRAIN」は、この01系の先頭車両をイメージしたインパクトのある外観で、商品購入時に点灯する車両を模した疑似フロントライト、東京メトロ現役車掌の声で様々なフレーズを話す「ボイス機能」も搭載。
車両が「THE VENDING TRAIN」として生まれ変わるまでの物語をスペシャル動画「働くって、いいもんだ。THE VENDING TRAIN」として、特設ウェブサイトや東京メトロの駅構内、車内ビジョンで公開。
設置場所は11番、12番出口中央付近で、台数は1台。
設置場所付近にはグラフィック広告も掲載する。
これは上野大仏。
・・・顔だけ残っているのは、まるで上野公園の「上野大仏」みたいです。
これもまた有名な噺。
最近では、町興しにも一役買っていようかというんですから、実に立派ななものです。
落語の演目がお祭り(イベント)の名前になっているんですから。
殿様が目黒まで遠乗り(あるいは鷹狩)に出た際に、供が弁当を忘れてしまった。
殿様一同腹をすかせているところに嗅いだことのない旨そうな匂いが漂ってきた。
殿様が何の匂いかを聞くと、供は「この匂いは下衆庶民の食べる下衆魚、さんまというものを焼く匂いです。決して殿のお口に合う物ではございません」と言う。
殿様は「こんなときにそんなことを言っていられるか」と言い、供にさんまを持ってこさせた。
これは網や串、金属、陶板などを使わず、サンマを直接炭火に突っ込んで焼かれた「隠当焼き」と呼ばれるもので、殿様の口に入れるようなものであるはずがない。
とはいえ食べてみると非常に美味しく、殿様はさんまという魚の存在を初めて知り、かつ大好きになった。
それからというもの、殿様はさんまを食べたいと思うようになる。
ある日、殿様の親族の集会で好きなものが食べられるというので、殿様は「余はさんまを所望する」と言う。
だが庶民の魚であるさんまなど置いていない。急いでさんまを買ってくる。
さんまを焼くと脂が多く出る。
それでは体に悪いので脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、さんまはグズグズになってしまう。
こんな形では出せないので、椀の中に入れて出す。
日本橋魚河岸から取り寄せた新鮮なさんまが、家臣のいらぬ世話により醍醐味を台なしにした状態で出され、不味くなった。
殿様はそれがまずいので、「いずれで求めたさんまだ?」と聞く。
「はい、日本橋魚河岸で求めたさんまにございます」
「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。
・・・それで、「目黒のさんま祭り」ですよ。
目黒駅周辺で毎年行われています。
さんまを焼く煙と香ばしい香りが、街中に広がります。
そして、落語会も開かれて、わらいも広がろうという・・・。
当時の目黒は、江戸のはずれのはずれだったんですね。
今なら・・・、湘南から箱根に行くぐらいの感じなのかなぁ。
目黒の里・・・実に遠出だったわけですよ。
2024年のパリ五輪組織委員会は、国際オリンピック委員会(IOC)に開催都市枠で
提案する追加種目の候補を発表。
20年東京五輪で3大会ぶりに復活する野球・ソフトボールや沖縄発祥の空手が落選。
東京大会で初採用となるスケートボード、スポーツクライミング、サーフィンは候補に
入り、昨年の夏季ユース五輪で初めて実施されたブレークダンスも選ばれた。
日本にとっては金メダル有望競技の野球・ソフトボールや空手が外れるというのは、とても大きな打撃です。
ベースボールというのは、グローバルではマイナーなスポーツなんですね。
最近台頭して来た種目よりも、優先度は低いんですね。
前回の東京五輪で初めて採用された柔道は、その後ずっと続いています。
かえって、レスリングがピンチになったことがありました。
この世界でも、流行り廃りがあるんですね。
落語好き、落語を演ろうと思うとき、三遊亭圓朝が作った噺を演るのは、夢みたいなものです。
「いつか圓朝物を」と夢見る人は多いと思います。
学生時代の私がそうでした。
現実に、学生時代には演ることはありませんでしたから、文字通り夢で終わりました。
圓窓師匠にご指導いただき、一層その気持ちが強くなりました。
圓窓師匠をずっと辿って行くと、圓朝に繋がっているんですから。
そして、「文七元結」「鰍沢」「怪談牡丹燈籠(お露と新三郎)」を高座にかけることが出来ました。
【三遊亭圓朝】
天保10年(1839年)4月1日:初代橘屋圓太郎(初代圓橘)の息子
として江戸湯島切通町で生まれる。母の名は、すみ。
弘化2年(1845年)3月3日:初代橘家小圓太で江戸橋の寄席の
「土手倉」で初高座。
弘化4年(1847年):父圓太郎と同じ二代目三遊亭圓生門下。
嘉永2年(1849年):二つ目昇進。
嘉永4年(1851年):玄冶店の一勇斎歌川国芳の内弟子となり、
画工奉公や商画奉公する。
安政2年(1855年)3月21日:三遊亭圓朝で真打昇進。
安政5年(1858年):鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げ。
元治元年(1864年):両国垢離場の「昼席」で真打披露。
明治元年(1868年):長子の朝太郎誕生。
母は御徒町住の同朋倉田元庵の娘、お里。
明治5年(1872年):道具仕立て芝居噺から素噺に転向。
明治8年(1875年):六代目桂文治と「落語睦連」相談役就任。
明治10年(1877年):陸奥宗光の父で国学者の伊達千広による
禅学講義の席で知己となった高橋泥舟により、
義弟の山岡鉄舟を紹介される。
明治13年(1880年)9月24日:山岡鉄舟の侍医である千葉立造
の新居披露宴で、同席していた天龍寺の滴水和尚
から「無舌居士」の道号を授かる。
明治19年(1886年)1月8日:井上馨の共をして身延山参詣。
井上の北海道視察(8月4日より9月17日)にも同行。
明治20年(1887年)4月26日:井上馨邸(八窓庵茶室開き)での
天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも
益田孝らと共に招かれる。
明治22年(1889年)
4月:向島の木母寺境内に三遊派一門43名を集め、
三遊塚を建立。
初代および二代目三遊亭圓生を追善記念する。
6月30日:各界人士を集めて、初代二代目 圓生の
追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の
43名が小噺を披露し、記念誌を配布した。
朗月散史編「三遊亭圓朝子の傳」が三友舎から出版。
圓朝自身の口述に基づく自伝。
明治24年(1891年)6月:席亭との不和で寄席の出演を退き、
新聞紙上での速記のみに明け暮れる。
明治25年(1892年):病のために廃業。
明治30年(1897年)11月:弟子の勧めで高座に復帰。
明治32年(1899年)
9月 発病。
10月 木原店での「牡丹燈籠」が最後の高座となる。
不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。
明治33年(1900年)8月11日午前2時:死去。
病名は「進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。
法名は「三遊亭圓朝無舌居士」。
墓は谷中の臨済宗国泰寺派全生庵。
東京都指定旧跡となっている。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2015/09/post-121c.html
圓朝ものの高座、あるいは稽古の度に、谷中の全生庵のお墓にお参りをしています。
「文七元結」は、人の情けに身体が震えました。
「鰍沢」では、吹雪で道に迷い、寒さで身体が震えました。
「怪談牡丹燈籠」では、あまりの怖さに身体が震えました。
圓朝ものではまだまだ演りたい噺がたくさんあります。
「死神」「芝浜」や「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」「江島屋騒動」。
勿論、「牡丹燈籠」も、さらに違う場面を。
上方落語の最長老の訃報です。
とぼけた味わいや明石家さんまさんの師匠としても有名な「笑福亭松之助」師匠がお亡くなりになりました。
享年93歳。
神戸市生まれ。
1948年に五代目笑福亭松鶴に入門、二代目松之助を名乗る。
松鶴がすぐに他界したこともあって、演劇の分野にも進出。
宝塚新芸座や吉本新喜劇で喜劇役者として舞台を踏んだほか、明石光司のペンネームで脚本や新作落語なども創作。
一番弟子のさんまさんが落語家よりもタレントに向いていることを見抜き、活動しやすいよう、「笑福亭」の亭号を返上させる代わりに、自分の本名から「明石家」の亭号を授けたんだそうです。
落語の得意ネタは「三十石」「らくだ」「野崎詣り」。
俳優としてはNHK連続テレビ小説「まんてん」「わかば」や映画「学校の怪談4」「パッチギ!」などに出演。
90代を迎えてからも、半生をつづった「草や木のように生きられたら」を出版するなど、お元気だったようですが。
見事に小惑星への着陸に成功した「はやぶさ2」が、小惑星「リュウグウ」の岩石を採取する仕組みが面白い。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、小惑星「リュウグウ」へ着陸した探査機「はやぶさ2」が、試料を採取するための弾丸を発射したことを確認したと発表。
弾丸の発射装置付近の温度が、着陸した時間に約10度上昇しており、弾丸を発射する火工品が発火したと考えられるという。
先代「はやぶさ」では弾丸が発射されず、採取できた試料はごく微量だった。
弾丸が発射できたことによって、「はやぶさ」以上の分量の小惑星の物質採取が期待できる。
「愛宕山」の一八が、谷底から戻って来るシーンを思い出しました。
でも、一八のように、一番肝心な物を置き忘れないように。
探査機「はやぶさ」が着陸に成功した模様です。
さぁ、岩石は採取できたでしょうか?
それにしても、何億キロも離れた6メートル程度の目標に着陸するなんて・・・。
想像を絶する緻密さです。
ただただ感服。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)は22日午前7時50分すぎ、探査機「はやぶさ2」が小惑星「りゅうぐう」の着地に成功したと発表した。
「はやぶさ2」は21日午後1時15分に高度2万メートルから「りゅうぐう」に向かって降下を開始し、22日午前7時48分ごろに表面の半径3メートルという極めて狭い目標にピンポイントでのタッチダウンを決めた。
表面の岩石や砂の採取を試み、数秒後に表面から離れたことが確認された。
小惑星への着陸は05年の初代「はやぶさ」以来の快挙。
小惑星探査における緻密で精度の高い制御技術を示した。
・・・後は、無事の帰還を望みます。
落語と言えば「寿限無」でしょうか?
言えるかは別として「寿限無」を知らない人は少ないでしょう。
このイラストだと、ちょっと分かりづらいかもしれませんが。
「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところにすむところ やぶらこうじのぶらこうじ ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんのぐーりんだい ぐーりんだいのぽんぽこぴーの ぽんぽこなーの ちょうきゅうめいのちょうすけ」
「 寿限無、寿限無
五劫の擦り切れ
海砂利水魚の
水行末 雲来末 風来末
食う寝る処に住む処
藪ら柑子の藪柑子
パイポ パイポ パイポのシューリンガン
シューリンガンのグーリンダイ
グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの
長久命の長助 」
・・・ さぁ、皆さんも覚えてください。
今年の桜の開花予想が更新されているそうです。
前回に比べて早まっているようです。
桜の予想開花日は、全国的に平年より早いところが多いでしょう。
前回(2月7日)の予想より3日前後早まり、九州の一部を除いて平年より2日から1週間ほど早い見込みです。
桜の開花は福岡で3月16日にスタートし、17日に熊本と高知で開花するでしょう。
19日
には松山と名古屋、岐阜、20日には東京と長崎、佐賀で開花する予想です。
3月末までに西日本から東日本の広い範囲で開花するでしょう。
4月上旬には新潟や長野、東北南部で、4月中旬には東北北部で開花し、4月末には北海道の函館でも4月27日に開花する見込みです。
・・・東京の開花は3月20日(水)の見込みです。
すると、「千早亭落語会」が23日(土)ですから、4分から5分咲きぐらいでしょうか?
なんといっても「長屋の花見」をネタ出ししていますから。
ちょうどよいタイミングになりそうです。
自分のカーライフに、間接的ではありますが、関りがありそうなので。
新東名高速道路の厚木南インターチェンジ-伊勢原ジャンクション間約4キロが、3月17日午後3時に開通する。
新東名の全線開通は2020年度の予定。
19年度開通予定で、神奈川県伊勢原市上粕屋で建設が進むICの名称は「伊勢原大山IC」に決まった。
新東名は、海老名南JCT-豊田東JCT間約253キロを結ぶ。
神奈川県内では海老名南JCT-厚木南IC間約2キロ、静岡愛知両県では御殿場JCT-豊田東JCT間約200キロが開通済。
今回の開通で全線の約8割が完成することになる。
残る区間は伊勢原JCT-御殿場JCT間約47キロとなった。
この区間を利用することはありませんが、例えば東名高速を都心に向かうのに、御殿場JCT・伊勢原JCT・海老名JCTの3ヶ所で、新東名と圏央道に分散出来ることになりますから、伊勢原バス停あたりの渋滞は緩和されるでしょう。
あとは、大和トンネルの渋滞が緩和されれば、本当にストレスがなくなると思います。
コンビニエンスストアと言えば、「24時間365日営業」というイメージが定着していますが・・・。
大阪府東大阪市の「セブン―イレブン東大阪南上小阪店」が、今月から未明の営業を取りやめた。
アルバイトが足りなくなったためだ。だが、セブン―イレブン・ジャパンの本部は、「24時間営業が原則だ」として営業時間の短縮を認めておらず、対立している。
セブンのフランチャイズ(FC)契約では、オフィスビル内にあるなどのケースを除き、営業時間を変えることを認めていない。
だが、南上小阪店は1日から、午前1~6時に店を閉め、1日19時間営業にしている。オーナーは、アルバイトの時給を引き上げて募集したものの、24時間営業を維持するだけの人員は集まっていないという。
セブン本部はオーナーに対し、営業時間を戻さない場合はFC契約を解除すると連絡。その場合、1700万円の違約金が発生することも伝えた。
24時間営業が契約だというのなら、確かに契約を履行出来ていないことになりますが、どうも、違約金をちらちかせたりするのは、多分にセブン側に「優越的地位の濫用」がある気がします。
セブンの看板がなければ商売が出来ないのは確かでしょう。
しかし、看板料をもらうだけなら、現実的な運営をさせれば良いし、24時間体制を維持させたいのなら、もっと支援やサポートをするべきだと思います。
セブンの広報担当者は、「オーナー様とは適切な意思疎通がとれていなかった。今後はしっかりと話し合い、地域社会に必要な店舗として24時間営業を継続できるよう本部としても店内態勢を整えるためサポートする」と話す。
・・・だとしたら、人材確保まで責任をもって対応すべきだし、それが出来ないなら、24時間返上も仕方ないと思います。
そもそも、「セブン・イレブン」て、開業当時の営業時間ではなかったのですか?
朝の7時から夜の11時まで。
元祖のアメリカのことを調べると、名称の由来は、アメリカでは当初、「トーテムストア」という名前だったが、1946年に「朝7時から夜11時までの営業時間」にちなんで店名を「7-Eleven」に変更したことによる。・・・とあります。
それでは、日本ではどうだったか。
1974年(昭和49年)5月15日
- 東京都江東区に第1号店「豊洲店」を出店
6月 - 相模原市に相生店を出店し、神奈川県へ出店開始
9月 - 福島県へ出店開始。
1975年(昭和50年)4月 - 長野市に出店し、長野県へ出店開始
6月 - 福島県郡山市・虎丸店で24時間営業開始
・・・24時間営業は、途中からですよ。
何となく、「セブン-イレブン」なのに24時間営業するんだ、と思ったことを覚えています。
「セブン-イレブン、いい気分!」「あいてて良かった」なんていうCMのキャッチコピーを覚えています。
そう、24時間営業の走りの業界ですね。
そのうちに、無人対応ではあるものの、銀行のATMも24時間営業になりました。
実に無駄だと思いました。
・・・世の中も変わり、成功して一時代を築いたビジネスモデルですが、もうそろそろ限界だと思います。
時間というサービスではなくて、バカッターが生まれないようなサービス環境を作ることが、これからは必要でしょう。
"レンポーさん"ではありませんが、「セブン-イレブンじゃいけないんですか?」
とにかく、オーナーさんに同情しますね。
尤も、コンビニの数も多過ぎると思います。
「セブンイレブン、やな気分」「開いてても良くなかった」ですから。
旅の噺、あるいは地方が舞台になっている噺も多くあります。
そこで、旅人が泊まる旅籠(宿)も重要な役割を果たします。
質屋と呉服屋と並んで、落語によく出て来るのが宿屋です。
「乱志十八番」では「笠と赤い風車」「ねずみ」「抜け雀」。
「笠と赤い風車」は、身延詣りの途中、東海道を上る常吉が泊まる箱根湯本の宿。
「ねずみ」は、奥州を旅する左甚五郎が、仙台の宿外れで卯之吉に客引きをされて泊まることになる「ねずみ屋」。
上の写真の「小田原遊郭」は仙台の遊郭です。(紛らわしい)
「抜け雀」は、東海道小田原宿で、一番流行らない「相模屋」。
今は、どこに行っても、旅館やホテル綺麗ですが、昔はそんなことはなかったと思います。
こんな感じじゃなかったのかと・・・。
特に、「ねずみ屋」と「相模屋」は、片や物置で鼠の棲み処だったし、片や小田原で一にを争わず・・・・の宿ですから。
「宿」が出て来る噺を挙げてみました。
「宿屋の仇討ち」「宿屋の富」「お神酒徳利」「竹の水仙」「三人旅」「茗荷宿「大山詣り」・・・。
たくさんありますね。
扇子っ子連の千早亭早千さんからの情報で、以前、千早亭のメンバーだった人の本の話題。
2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。
その2日後に「千早亭落語会」を予定していた扇子っ子連ですが、2ケ月延期して開催することになりました。
その時の様々な出来事がきっかけとなって、師匠の「揺れるとき」が創作されました。
当時のメンバーの一人だったのが、「千早亭小倉」さんでした。
延期して開催した落語会で、「干物箱」をお演りになりました。
小倉さんは、国際的なボランティア団体に所属されていて、その後、震災の復興に関わることになり、東北に赴任されたため、扇子っ子連を休会されました。
その小倉さんが、東北での経験をまとめられたのが「ただ傍にいて~東日本大震災7年間に聞いた心の声」という冊子だそうです。
是非拝読したいものです。
・・・東日本大震災から、間もなく8年が経ちます。
「働き方改革」を意識してしまう噺です。
現在なら、さしずめ「ブラック隠居」ですね。
本所の割下水に住む元御家人で一人暮らしの隠居の吉田さんは、人使いが荒く使用人が居つかない。
ここへ日本橋葭町の桂庵の千束屋の紹介で、隠居の人使いの荒いのを承知で、杢助さんという無骨な男がやって来た。
隠居は、「今日はもうやる事はない。ゆっくり骨休みしてくれ」と言いながら、薪割り、炭切り、縁の下の掃除、天井の掃除、塀洗い、草むしり、どぶ掃除から向い両隣の家の前までも掃除させ、さらに手紙を品川の青物横丁まで届けさせ、ついでに千住まで回らせる。
こんな調子では3日も持たないと思いきや、杢助さんは3年間も隠居の家で働き続けている。
ところが、隠居は化物屋敷と噂される家に引っ越すことになった。
人間は恐くないが、化物は大嫌いで苦手な杢助さんは暇を取って国元へ帰ってしまった。
さて困ったのは隠居だ。
人使いが荒い上に、化物屋敷では千束屋に頼んでも使用人など来るはずがない。
急に杢助がいなくなって不便は承知だがなぜか一人はさびしく、早く化物でも出てくれないかと心待ちにしている。
夜が更けると、背中がぞくぞくっとしたと思ったら、お待ちかねのお化け、一つ目小僧の登場。
早速、晩飯の片づけ、台所で洗い物、水汲み、布団敷き、肩たたきと、あれこれと用事を言いつけこき使う。
こんなはずじゃなかったと泣きっ面をしている一つ目小僧に、「明日は用事がごっそりあるから昼間から出て来い。”ぞ~っ”とさせるなよ」と言ってさっさと寝てしまった。
翌晩の大入道には一つ目小僧と同じ仕事をさせ、庭の石灯籠を直させ、屋根上の草むしりの超過勤務させた。
「お前は十日に一辺でいいから普段は一つ目を早い時間に来させな。来るときは”ぞ~っ”とさせるな言っとけ」と、贅沢な注文をしていると大入道は消えてしまった。
三日目はのっぺらぼうの女だ。
隠居にジロジロ見られて女はモジモジと恥ずかしそうにしている。
隠居は「恥ずかしがることなんかないよ。なまじ目鼻があるために苦労している女は何人もいるんだから」と優しい言葉をかけ、「糸を通してあげようか」と気を使って裁縫などをやらせる。
やっぱり女のお化けの方が家の中が華やいで明るくなっていいと、明日からは主にお前が出てくれとラブコールだ。
図に乗って顔を書いてやろうかなんて言い出す始末だ。
見るとのっぺらぼうの女は消えていた。
隠居はすっかり化け物使いに味をしめた。
なにせ何も食べずによく働き無給金で、毎晩日替わりメニューでお化けのオンパレードを見られるのだから言うことはない。
さて、次の晩はどんなお化けが出て来るかと心待ちにしていると、障子の向こうから大きな狸が現れた。
この狸が毎晩化けて出ていたのだ。
狸は涙ぐんで、「お暇を頂きたいのですが」
隠居「なに、暇をくれ?」
狸「こう化け物使いが荒くちゃ辛抱出来かねます」
・・・狸が化けていたんですね。
京都新聞に載っていた記事です。
コンビニエンスストア前にある灰皿の周囲でたばこを吸う人が多く、煙で迷惑している−。
そんな声が、京都新聞社の双方向型報道「読者に応える」に届いた。
オフィス街などのコンビニでは、どこからともなく集まってきた愛煙家が一服する姿がよく見られる。
一方、国の受動喫煙対策が進む中、灰皿を撤去すべきとの意見は強まっている。
コンビニが灰皿を置く理由や撤去に向けた課題について、京都市中心部の店に取材した。
中京区で「路上喫煙等禁止区域」になっている御池通。
あるコンビニでは、入り口から少し離れた店の軒下に灰皿を置き、喫煙場所が線や鎖で仕切られていた。
約1・5メートル四方の狭いスペースで、複数人がたばこを吸いながらスマホを見入っている。
「指定場所以外での喫煙はご遠慮ください。守られない場合一時灰皿の撤去をいたします」と記した注意書きも張ってあるが、風向きによっては漂う煙が気になる。
店のマネジャーに聞くと、「現状が良いとは思いませんが…」と困り顔だ。
同店では煙を嫌う人からの苦情を受け、3年ほど前に灰皿を撤去したことがある。
だが、空き缶を灰皿代わりにして店先で吸ったり、ごみ箱に火が消えていない吸い殻を捨てたりする客がいたため、やむなく現在の形にしたという。
「過去には夜だけ灰皿を撤去するなど試行錯誤している。でも、灰皿がないとたばこのポイ捨てが増えて近隣から苦情が出る」と明かす。
近くの別のコンビニでは、煙が店内に入るとの声を受け、2年ほど前に灰皿を撤去した。
本部からも置かないよう指導を受けているという。
オーナーの男性は「店の敷地内で吸うことを禁止しているわけではないので、結局は路上や溝などに捨てる人が増える。客から『どこで吸えばいいのか』との相談もある」と打ち明ける。
そもそもなぜコンビニ前の灰皿があるのか。
多くの店は「客が店内に入る前にたばこを消すため」と説明する。
だが愛煙家から見れば、「灰皿=喫煙場所」ととらえるのも無理はないだろう。
一方、「たばこを販売しているので、灰皿を置いている」と話す店もある。
オフィスでは禁煙が普通になり、屋外でも路上喫煙を禁止する条例が広がっている。
「ほかに吸える所がない」として、結果的に灰皿のあるコンビニ前に愛煙家が集まる構図が垣間見える。
喫煙スペースの整備に苦悩するコンビニのマネジャーは、「(愛煙家と嫌煙家)双方の意見が届く」とした上で、「京都市が責任を持って御池通に喫煙スペースを設けてほしい」と訴える。
・・・特別目新しい内容ではありませんが、原則は「受益者負担」。
要するに、「喫煙」という「利益」を享受する側が、第三者の権利を侵害(受動喫煙)しないようにするのが大原則です。
当然、煙草を販売して利益を得ている人(店)にも、同様の責任があるでしょう。
煙草を吸わない人が、煙たい思いをすることが問題ですから。
ほとんど下戸の私が、酔っ払いを演りました。
まぁ、とにかく演っていて、面白いのなんの・・・。
「一人酒盛」「二番煎じ」「試し酒」ということですが、登場人物の酒の強い順で行くと、ダントツで「試し酒」の清蔵さんでしょう。
それから・・・、次は、番小屋に集まった町内の旦那衆ですかねぇ・・?
「一人酒盛」は、飲んだ酒の量は5合です。
「二番煎じ」は、個人差があると思いますが、どれぐらいの酒量になるのでしょう。
「試し酒」の清蔵さんは、5升(旦那の前で飲んだ分)+5升(試しに酒屋で飲んだ分)で、何と1斗を飲み干した勘定になります。
酒量に差はあっても、みんな酒を飲んで上機嫌、都々逸が出て来ます。
「一人酒盛」では、定番を入れました。
この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わしておくれ
まさか素面じゃ いいにくい
葱の間に肉を挟んで食べようという、「二番煎じ」では・・・、
明けの鐘 ごんと鳴るころ 三日月形の
櫛が落ちてる 四畳半
・・・よく意味が分からない?
田舎者の清蔵が、「試し酒」では粋な都々逸を披露します。
三味線の 三の糸ほど 苦労をさせて
今更切れるとは 罰当たり
・・・これもよく分からない・・?
・・・酔った勢いで、都々逸を歌う(叫ぶ)ところは、何れの噺でも痛快でした。
お酒飲みが演るよりも、下戸の方が、酔っ払いは上手いかもしれません。
今日は「歌舞伎の日」だそうです。
今から約400年前の1607年2月20日に、「ややこ踊り」を基にして「かぶき踊り」を創始した「出雲の阿国」が、江戸城で徳川家康らに「かぶき踊り」を披露したそうです。
これが、「歌舞伎」が誕生した記念すべき日ということです。
その後、歌舞伎は、「江戸歌舞伎」と、大阪の「上方歌舞伎」に分かれて行きました。
・・・落語は、江戸・京都・大坂で、同時発生的に起こりました。
「江戸落語」と「上方落語」も、それぞれ特徴や違いがあります。
さて、「歌舞伎」の江戸と上方の違いは、どんなものなんでしょう。
当時の土地柄によって、文化や風習、言葉などが違いますから、歌舞伎の演目も同様に、それぞれの土地で愛される内容が異なったそうです。
当時の人口の比率でいうと、男性が圧倒的に多かった江戸(関東)では、男性に好まれる演目が重視されました。
これは、今風にいう「ヒーローが活躍」する内容。
強い男が派手に戦うといった勧善懲悪ものが人気で、そうした演目を「荒事」と呼びました。
荒事を代表する役者といえば、「市川團十郎」。
花道に引っ込む際の「飛び六方」が披露される演出や、歌舞伎には欠かせない「隈取り」は、代々の市川團十郎が生みだしたもの。
市川團十郎は、江戸歌舞伎の代表的な存在です。
一方、大坂は商人の街。
物語に登場する主人公は庶民的な町人が多かったため、荒事を得意とした江戸とは異なり、「人間の情愛」が好まれたようです。
「人間の情愛」を主とした演目は、人間の恋模様に加え、生き死にが関わってきますから、どちらかというと「ドロドロ系」。
江戸の「荒事」とは対照的に、上方では「和事」と呼ばれる演目に人気が集まりました。
そんな上方歌舞伎のスターは、上方歌舞伎の創始者の一人でもある「坂田藤十郎」。
派手な動きを得意とする江戸の市川團十郎と対照的に、独白を得意とする写実的な台詞まわし。
歌舞伎の2大勢力であった江戸と上方ですが、様々な産業の中心が関西から東京に移っ
たことで勢力図も変わり、役者も東京に移り住む者が増え、上方歌舞伎はだんだんと衰退して行きます。
・・・このあたりも、事情こそ違え、上方落語と通じる部分があるかもしれません。
最近では、十三代「片岡仁左衛門」らが中心となって、「関西で歌舞伎を育てる会」などの存続活動が続けられているそうです。
ところで、歌舞伎というのは、大袈裟で、とにかく派手なイメージ。
あの「隈取り」というのも、何が何だか分かりません。
調べてみると、色によって意味が違うそうです。
紅(赤)色→ 正義や勇気を表し、「善」を意味する役
藍(青)色→ 冷酷かつ強い敵役を表し、「悪」を意味する役
茶色 → 神霊鬼、妖怪など、人間以外の不気味な役
・・・なるほど。
世の中には、太っ腹な人がいるものです。
ある所にはあるものなんですね。
戦国武将真田幸村の父、真田昌幸が築城した長野県上田市の上田城の櫓の復元に役立ててほしいと、市民1人から、10億円の寄付があったそうです。
上田城にはかつて7つの櫓がありましたが、現在残るのは3棟で、市では全てを復元する計画もあることから、基金として積み立てることにするそうです。
寄付した人の名前などは本人の強い希望で明らかにされていないそうです。
ちょっと儲けたからと、湯水のように無駄遣いして、マスコミからチヤホヤされて悦に入っている、成金たちとは違いますね。
あの下品な顔を見ただけでも、ゾゾ~とします。
真田なだけに、一(六)文銭が、何と10億円に増えました。
写真は、先週の土曜日のものです。
例によって、道の駅「富士川楽座」の駐車場からの富士山です。
写真ではちょっと見づらいのですが、手前の山(岩本山)の麓の堤防近くに、重機が見えます。
実は、この場所で、富士川を渡る新しい橋の工事が行われています。
この辺り、富士川には、新東名、東名、旧東海道、東海道線、東海道新幹線、国道1号線等々、多くの橋が架かっています。
古い言葉ですが、「東海道ベルト地帯」ですから。
旧東海道の富士川橋が老朽化したのと、渋滞の緩和と、富士川上流(山梨県側)へのアクセス改善などの事情から、さらに橋が架かることになりました。
いずれ、この景色の下側を、橋が横切ることになります。
景観的には・・・、どうなりますか。
この噺も有名だと思います。
暇をもてあました街の者が数名集まり、それぞれ嫌いなもの、怖いものを言いあっていく。「クモ」「ヘビ」「アリ」などと言い合う中にひとり、「いい若い者がくだらないものを怖がるとは情けない。
世の中に怖いものなどあるものか」とうそぶく男がいる。
他の男が「本当に怖いものはないのか」と聞くと、うそぶいていた男はしぶしぶ「本当はある」と白状する。
「では、何が嫌いなのか」と念を押され、男は小声で「まんじゅう」とつぶやく。
男はその後、「まんじゅうの話をしているだけで気分が悪くなった」と言い出し、隣の部屋で寝てしまう。
残った男たちは「あいつは気に食わないから、まんじゅう攻めにして脅してやろう」と、金を出し合い、まんじゅうをたくさん買いこんで男の寝ている部屋へどんどん投げ込む。
目覚めた男は声を上げ、ひどく狼狽してみせながらも、「こんな怖いものは食べてしまって、なくしてしまおう」「うますぎて、怖い」などと言ってまんじゅうを全部食べてしまう。
一部始終をのぞいて見ていた男たちは、男にだまされていたことに気付く。
怒った男たちが男をなじり、「お前が本当に怖いものは何だ!」と聞くと、
「このへんで、濃いお茶が1杯怖い」。
・・・ まぁ、笑いの多い噺です。
直接の原話は1768(明和5)年に出版された笑話集「笑府」の訳本からと見られる。
中国における似た笑話は宋代の葉夢得の随筆「避暑録話」や、明代の謝肇淛「五雑組」にもある。
(↑1776年刊風来山人編「刪笑府」より「まんじゅうこわい」)
日本の小咄・軽口集では他に1662(寛文2)年刊の「為愚痴物語」に御伽衆・野間藤六のエピソードとして登場するほか、1776(安永5)年刊の「一の富」、1779(安永8)年刊の「気のくすり」、1797(寛政9)年刊の「詞葉の花」に同型のものがあるそうです。
由緒正しい?噺なんですね。
・・・落研先輩の「二代目狐狸亭酔狂」師匠の十八番でした。
プロレスのジャイアント馬場さんの没後20年をしのぶ「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」が、両国国技館で行われたそうです。
ここで、馬場さんの好敵手だった“黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーの引退セレモニーが開かれたそうです。
ブッチャー・・・。
77歳で、まだ健在だったんですね。
セレモニーには、ドリー・ファンクJr、スタン・ハンセン、ミル・マスカラス、ドスカラス、坂口征二、初代タイガーマスクの佐山サトルらがリング上で花束を贈呈。
セレモニーの最後にマイクを持ったブッチャーは、ファンへ感謝の思いを伝えた上で「ここにジャイアント馬場がいてくれたら完璧です」と天国の馬場さんへの思いを明かした。
その上で「若い人たちに言いたい。自分の親が年取っても決して老人ホームにぶち込んで忘れるようなことだけはするな!いずれお前たちも年取ってそうなるんだから。ちゃんと親を大事にしろ!忘れるんじゃないぞ!」と呼びかけていた。
最後は「サンキュー」を6回連呼し引退の10カウントゴングを鳴らし、リングに別れを告げた。
・・・まぁ、とにかく気味の悪い、憎きレスラーでした。
あの頃、プロレスが熱かった頃です。
アメリカから来日した外国人レスラーを、ジャイアント馬場やアントニオ猪木が倒す快感。
まだ、どこかに敗戦のトラウマがあった時代です。
江戸時代の庶民が楽しんだ旅。
信心を建前に、人気のあるツアーがあっは訳ですね。
「成田詣で」「大山詣り」「富士詣り」、そして「身延詣り」。
この中で、法華(現在の日蓮宗)の総本山「身延山久遠寺」へのお参りが、直接間接に出て来る噺。
「甲府い」「鰍沢」「笠と赤い風車」ですが、「笠と赤い風車」だけは、主人公は身延山までお参り出来ていません。
恐らく、後日、亡き父親と継母の冥福を祈るために、お参りはしていることでしょうが。
【身延山久遠寺】
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした「日蓮聖人」は、三度にわたり幕府に諫言を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。
当時、身延山は甲斐の国波木井郷を治める地頭の「南部実長」の領地でした。
日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山の麓の西谷に構えた草庵を住処としました。
このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢の日としています。
日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始し、1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名しました。
翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国に向かいましたが、同年10月13日、その途上の武蔵の国池上にて、その61年の生涯を閉じました。
そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という遺言のとおり、その遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。
その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、「日向上人」とその門流によって継承され、約200年後の1475(文明7)年、第11世「日朝上人」により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍の整備がすすめられました。
のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。
日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、法灯は綿々と絶えることなく、廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよんでいます。
日蓮聖人が法華経を読誦し、法華経に命をささげた霊境、身延山久遠寺。
総本山として門下の厚い信仰を集め、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。
・・・というのが、お寺の説明文です。
日蓮を招いたのが「南部氏」で、我が町の「南部」の由来であり、奥州の南部氏のルーツと言うことになります。
「文永」と「弘安」という元号から思い出されるのは、そう「元寇」です。
当時の日本は、大国「元」の脅威にさらされていて、世の中全体が不安になっていたんでしょう。
私にとっては、宗旨でもあり、とても身近なお寺です。
小さい頃から、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えていました。
この身延山が、落語の中にはたくさん出て来ます。
それがとても嬉しくて。
これらは絶対にやらなくては・・と思っていました。
最近は、テレビ番組で「路線バス」に乗る企画が多くなりました。
バス会社の定期バスや自治体が運営するコミュニティバスなど、様々な種類のバスがあるようです。
しかし、全体としては、人口減少、都会への偏重、過疎化などで、路線バスはどんどん少なくなっています。
尤も、鉄道も状況は同じで、ローカル線廃線や減便など、これまた凄まじいものがあります。
中学生の頃には、こんな田舎でも、山梨交通のバスが町内や近隣の市や町に通っていました。
また、甲府と静岡の間には、静岡鉄道と山梨交通が共同で、急行バスが運行されていました。
急行バスは、間もなく廃止され、町内のローカルバスもなくなりました。
そして、様々な試行錯誤から、今は、どこにでもあるようなコミュニティバスが循環しているようです。
時刻表を見ると、1日3~4便です。
帰省する時間も長くないので、ほとんど走っているのを見たことがありません。
バスと言っても、ミニバン程度の車両だと思いますが。
田舎は「クルマ社会」で、70歳代の高齢者も、当たり前のように運転しています。
母も、自ら運転して出かけ、出先で体調を崩してしまいました。
その時、82歳でした。
これも一目で、「らくだ」の「かんかんのう」だと分かります。
長講の「らくだ」は、大看板のやるトリの噺のイメージです。
「らくだ」というのは、江戸ことばでは、体の大きな乱暴者を意味しました。
明治・大正の滑稽噺の名人三代目柳家小さんが、上方から東京に移植した噺です。
聴きどころは、気の弱い紙屑屋が次第に泥酔して、抑圧被抑圧の関係がいつの間にか逆転する面白さ。
乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬が、フグに当たってあえない最期を遂げた。
兄弟分のこれまた似たような男が、らくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。
通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。
そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。
みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないので、しぶしぶ赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。
それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜にそんなものは出せねえ」と突っぱねられる。
「嫌だと言ったら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」
と言っても「おもしれえ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てえもんだ」
と、大家は一向に動じない。
紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。
横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、
紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。
酒をのんでいけと言う。
女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。
もう一杯、もう一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、立場は完全に逆転。
完全に酒が回った紙屑屋が、「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、
俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」。
相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。
お近づきの印に安公と三人でのみ始めたが、いざ焼く段になると死骸がない。
どこかへ落としたのかと、もと来た道をよろよろと引き返す。
願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。
「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋(ひや)だ」
「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」
・・・あんまり好きなパターンの噺ではありませんが、好きな人は好きなんでしようね。
「お店噺」・・というか、舞台背景が大店(おおだな)になっていて、そこにいる(関わる)人々の悲喜こもごもが描かれます。
いずれも、笑いと涙の大作です。
店(たな)と言っても、扱っている物は違っています。
「帯久」は、帯屋と和泉屋いう日本橋の2軒の呉服屋。
この2軒の旦那に、大岡越前のお裁きが下ります。
「文七元結」は、近江屋という横山町の鼈甲問屋。
お店はあまり表には出ませんが、重要なポイントになります。
ストーリーでは、奉公人の文七と、道楽者の左官の長兵衛のやり取りがクライマックス。
歌舞伎の狂言にもなっている名作です。
「火事息子」は、伊勢屋という神田の質屋。
家出して町火消になった若旦那に父親と母親の思いが交錯します。
お店噺の超大作と言えば、やはり「百年目」「ちきり伊勢屋」あたりでしょうか?
「百年目」は、そうですねぇ、何か記念になるようなタイミングで、演ってみたいですね。
「盗人猛々しい」という言葉の意味を、改めて調べました。
「盗人猛々しい」とは、悪事を働きながら平然としていることを貶して言う言葉。
また、それを咎められて開き直ったり逆ギレしたりすること、あるいはその人。
・・・日本(人)は、盗人(悪者 )で、開き直っていますか。
個人的にどう思うかは勝手ですが、一律に他国やその国民の尊厳を傷付ける人は、どんな立場の人であっても、それ以下の人だと思います。
啖呵を切るなら、もっと美しい言葉使いでやって欲しいもの。
結局、自分の国を自ら辱しめているのが、分からないかなぁ。
悲しいなぁ。
実家の仏壇に鎮座する祖師像が腹籠りで、中に大金が入っていないかなぁ。
でも、大金が入るほど、大きな像ではないから。
とことん良い人しか登場しないという、極楽で起きた話なのではないかという。
だから、老若男女、この噺を聴いたらすぐに演りたがる。
ところが、そんなに簡単に演れるような柔な噺じゃない。
初心者が「面白いから演ろう」なんて、10年早いと言いたい噺。
私も、そろそろチャレンジさせていただいてよろしいかなぁと。
屑屋の清兵衛は、通称「正直清兵衛」と呼ばれるほどの正直者だった。
ある日、「屑ぃ、お払い」と屑屋の特有の掛け声で流し歩いていると、なりは粗末なものの器量のよい上品な娘に声をかけられる。
招かれて裏長屋へ行くとその父親で、うらぶれているが品のある浪人・千代田卜斎から、屑の他に仏像を引き取ってもらいたいと頼まれる。
元は良い武家の出ながら、今は年頃の娘と2人で貧乏長屋に暮らす千代田は、昼は素読の指南、夜は売卜して糊口を凌ぐ生活を送っていたのだが、昨今の長雨で商売ができず、少しばかり金が入用だという。
目利きに自信がなく、仮に相場より安く買っても千代田に悪いと清兵衛は正直に断るが、その対応を千代田はむしろ気に入り、しばし問答の末、清兵衛が200文で引き取り、それ以上売れたら、儲けを折半する形で互いに納得する。
その後、清兵衛は仏像を籠に入れて歩いていたが、目黒白金の細川屋敷の長屋下を通りかかったところ、高窓から外を眺めていた若い勤番の高木佐久左衛門が籠の中の仏像に気づく。
興味を持った高木は清兵衛に声を掛けて屋敷に招き入れ、仏像を手に入れた経緯を聞き、さらに仏像が腹籠り(仏像の中に更に小さな仏像がある縁起物)だと知って、これを気に入り、300文で買い上げる。
清兵衛が帰った後、高木が仏像を一生懸命磨いていると、台座の下の紙が破れ、中から50両もの小判が出てくる。
中間の良造は運が良いと喜ぶが、高木は自分は仏像を買ったのであって中の50両を買ったわけではない、だから元の持ち主に返すべきだと言う。
ただ、持ち主の手がかりは清兵衛のみなので、翌日から高木と良造は、長屋下を通る屑屋に声をかけては顔を改める生活を始める。
やがて屑屋達の間で、高木の顔改めが話題となり、仇を捜しているなどの噂が飛び交う。
そこへ清兵衛が現れ仏像の件を話すと、仲間は仏像の首が折れて縁起が悪いから、それを売った屑屋の首を打とうしているのではないかと無責任なことを言う。
否定もできないため、清兵衛は次から細川屋敷を通る時は掛け声をせずに素通りするようになるが、ある日、うっかり掛け声を出してしまい、高木に気づかれる。
怯えながらも高木に招かれた清兵衛は、そこで50両のことを明かされ、快く高木の頼みを引き受けて50両を千代田の家へ持っていく。
話を聞いた千代田は、気づかなかったのは自身の不徳であって既に自分のものではないと言い、頑として受け取らない。
清兵衛もしつこく諭すが、終いには無礼討ちにすると千代田が怒りだし、清兵衛は高木の元へ帰る。
しかし、高木も頑として受け取らず、清兵衛は再び千代田の長屋に行かされ、仕事にならない。
そこで、長屋の家主が仲介を買って出て、千代田に20両、高木に20両、苦労した清兵衛に残りの10両でどうかと提案する。
高木は承諾するも、それでも千代田は拒絶し、そこで家主は何か20両の形になるものを高木に渡して商いという形ならどうかと千代田に再度提案する。
さすがに千代田も折れ、父の形見として残っていた小汚い茶碗を高木に譲ることで、騒動は一件落着する。
後日、この話が細川家中に広まり、ついに細川侯の耳にも入る。
細川侯は高木の目通りを許し、その際に茶碗も見たいというので高木は茶碗を一生懸命磨く。
謁見の日、細川侯は高木の茶碗を見て、これが井戸の茶碗であることに気づき、300両で買い上げる。
300両を前にして、やはり高木は茶碗はあくまで20両の形だから割に合わないとし、少なくとも150両は千代田に返すべきだと、再び清兵衛を呼びつける。
だが、清兵衛の予想通り、千代田はこれを断り、そこで前みたいに何か150両の形はないかと尋ねるが、そんなものはあるわけないという。
そして思案する2人は、娘を高木に嫁がせ、その支度金とすることを思いつく。
清兵衛から話を聞いた高木は、この提案を快く受ける。
そこで清兵衛が、今は裏長屋で粗末ななりをしているがこちらへ連れてきて一生懸命磨けば見違えるようになるだろうと娘のことを話す。
すると高木は言った。
「いや、磨くのはよそう、また小判が出るといけない」
・・・実に、みんなが潔い噺です。
「芝浜」のオチが「よそう、また夢になるといけない」
「火焔太鼓」のオチが「よそう、おじゃんになるといけない」
そして、この噺のオチが「よそう、また小判が出るといけない」・・。
「よそう、・・・いけない」三題ですか?
それにしても、あのゴーンさんに聞かせてやりたい噺ですね。
オチは「よそう、また鐘が鳴る(金になる・ゴーン)といけない」
きっといぃつぅかは 君のパパもぉ 分かぁてくれぇるぅ・・
・・・唱歌や歌謡曲や演歌しか知らない田舎者には、物凄いインパクトのある歌でした。
というより、変な顔(失礼)顔をしたオジサンが、裏声を出して・・・、変なの。
これが、偽らざる感想でした。
https://www.youtube.com/watch?v=W2Yeiyaipz4
「グッド・ナイト・ベイビー」・・・、、1968年5月1日に日本グラモフォンから発売された「ザ・キング・トーンズ」のファーストシングル。
1969年、第2回日本有線大賞特別賞受賞。
「グッド・ナイト・ベイビー」などのヒット曲で知られる4人組コーラスグループ「ザ・キングトーンズ」のリーダーで、リードテナー担当の「内田正人」さんが亡くなったそうです。
享年82歳。
もう一曲、「暗い港のブルース」って言うのも良かった。
https://www.youtube.com/watch?v=KNJi-9VgPa4&app=desktop
“不滅のスカイテナー”と称賛された、昭和を代表するボーカリストが天国へと旅立った。
内田さんは2004年に脳梗塞で倒れたが、1年間のリハビリを経て、05年のフジロックフェスティバルでステージに復帰。
07年まで同フェスに3年連続で出演した。
関係者によるとその後、再び体調を崩し、約10年前から病気療養中だった。
昨年末までは大好きなステーキもたいらげていたが、今年に入ってから体調が良くなかった
という。
・・・ところで、「内田正人」という名前をきいた時に、去年大騒ぎをした某大学のアメフト部の監督の名前・・・、えっ?同じ?同姓同名?
うわぁ、かわいそう。
〇【内田正人】
内田 正人は日本のミュージシャン・歌手。
音楽家、作詞家、作曲家、詩人。
ザ・キング・トーンズの創設メンバーの一人で現メンバー。
リーダー、リードテナー。愛称はリーダー。
●【内田正人】
日本の元アメリカンフットボール選手、元アメリカンフットボール指導者。
元日本大学常務理事。パワハラー。(←私が名付けました)
〇内田さん、去年は、●内田さんのおかげで、さぞや肩身が狭かったことでしょう。
やはり良い人は早くに亡くなってしまい、◆◆はしぶとく残るんですかねぇ?
まぁ、年齢は違うけれども。
まだまだ続きます。
私は、ほとんど知っていますが。
現在放送中のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』で、ビートたけし演じる落語家・古今亭志ん生。
彼を語るうえで、芸の評価以上についてくるのが、彼の破天荒なエピソードの数々。
その中で、いかにも志ん生らしい話として語られるのが『酒』にまつわる逸話だ。
弟子や家族の証言によると、酒好きではあったが、宴席や人と飲むことを苦手にしていてすぐに帰ってしまっていたとか。
志ん生の逸話で真っ先に挙げられるのが、酔っ払って高座に上がり、途中で寝てしまったというもの。
前座が志ん生を起こそうとすると、客席から「いいから寝かせてやれ」「志ん生が寝てる姿なんてめったに見られるもんじゃない」などの声が上がったという、いかにも志ん生らしいエピソードとして語られるが、反面「志ん生らしさを例えた創作話」と見られる向きもある。
ただ、三代目三遊亭円歌が新富演芸場で目撃したという証言(「志ん生、語る。」岡本和明/アスペクト)や、今は無くなってしまった寄席・人形町末広で大喜利の最中に寝たという話(「志ん生一代(下)」結城昌治/中公文庫)、志ん生の長女、美津子さんの「高座で寝ちゃったことがあるの。新宿末広亭でのことだわね」という証言(「おしまいの噺」美濃部美津子/アスペクト文庫)も。
これだけの目撃談があるので、創作と断定するのは惜しい気がする。
志ん生なら寝てしまっても不思議ではないし、むしろ寝たことが本当であってほしいというファン心理を鑑みて、ここでは本当に寝たことにしたい。
関東大震災発生時、家で妻と一緒にいた志ん生。
家にある鏡台が倒れてくるほど大きな揺れを体験した瞬間、「東京中の酒が、みんな地面に吸い込まれちまう」という考えが頭をよぎり、妻の財布に入っていた金を握りしめて酒屋へ直行した。
酒屋の店主に「酒を売ってくれ」と言うが、店主もそれどころではなく、「好きなだけ飲んでくれ」と言い残して避難してしまった。
根っからの酒好きと、地震への恐怖からか店にある酒をがぶがぶ飲んでしまう。
やがて地震の揺れなのか酔っているからなのかわからなくなるまでフララフになって、ようやく帰宅。
そこで奥さんに「私の身にもなってみてよ、私は身重なんだよ」と言われ、初めて妻の妊娠を知ったという。
太平洋戦争も激しくなり、本土空襲が続く最中、満州へ兵士たちの慰問に行く話が舞い込む。
子供がいても一人で逃げ出すほど空襲におびえていた志ん生は「空襲もない、あっちへ行けば酒がある」からと慰問を買って出た。
当初ひと月ほどの予定だったが、それが伸び、さらに現地で敗戦を迎え、帰国が困難になってしまう。ようやく帰国できたのは旅立ってから2年後だった。
日本に到着し、家族へ送ろうとした電報が「サケタノム(酒、頼む)」だったが、これは職員に「酒とはけしからん」と止められたとか。
高座に上がらなくなってからも、毎日酒を飲んでいた志ん生。
晩年は体を心配した家族がこっそり水で薄めた酒を飲ませていた。
ある日、長女がなにかを感じ取って、薄めない酒を飲ませたところ、大いに満足し、翌日に亡くなったという。
十代で酒を覚え、最後まで酒を愛した人生だった。
・・・上方の初代春團治もそうですが、こんな生き方は今なら絶対に許されないでしょう。
あの写真週刊誌「フライデー」に、五代目古今亭志ん生師匠が紹介されているようです。
現在放送中のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』の中で、作中の現在と過去に登場し、物語の語り部としての役割を果たしているのが、ビートたけし演じる落語家・古今亭志ん生。
ご存知の通り昭和の名人の一人に挙げられる落語家で、現役当時だけでなく、没後何度も再評価され、そのたびに〝志ん生ブーム″を巻き起こしてきた。
金が入るとすぐに酒や遊びに使ってしまった志ん生。
そのため多くの貧乏エピソードや苦労話が語られる。
志ん生は50歳を目前にようやく売れっ子になるまで、ずっと貧乏暮らしをしていた。
方々に借金をしてはまったく返済をせず、そればかりか借金取りから逃れるために芸名を次々に変えていった。
三遊亭朝太から始まり、円菊、馬太郎、武松、馬きん、志ん馬、馬生…。
その後、講釈師になって小金井芦風、また落語家に戻って2回目の志ん馬、馬生を名乗り、改名すること16回。
昭和14年(1939年)49歳で五代目古今亭志ん生を襲名して、ようやく名前を変えずに人気落語家としての道を歩むようになった。
11~12歳のころに父親の年金証書を抵当にして金を借りたことに始まり、14~15歳ころにまたも父親が大切にしていたキセルを質入れ。
このことが父親にバレ、槍で突き殺される寸前で家出をして以来、実家に戻らなかったという志ん生。
その後も、結婚した妻の長持ち(衣類などを入れる箱)、箪笥、釡、琴を次から次へと質入れし、1ヵ月半で嫁入り道具がすべて無くなったとか。
さらに自分や妻の持ち物だけに収まらず、仕立ての仕事をしていた妻が預かっていた他人の着物、師匠の羽織までも質に入れ遊びに使っていた。
貧乏時代、「どこも家賃を払ったことがない」と語る通り、家賃を滞納しては、夜逃げ同然に引っ越しを繰り返してきた志ん生一家。
「家賃はタダでいいから住んでほしいという家がある」と聞き、喜んで引っ越したはいいが、そこがその後「なめくじ長屋」と呼ばれる家だった。
沼地を埋め立てた場所にあり、誰も住みたがらない家だったので、大家が「誰か住んでいればそれにつられて住んでくれるだろう」と志ん生一家を誘致。
実際に住んでみると一軒だけ灯かりがついている家に、周辺の蚊が一斉に集結。
「ただいま」と言ったそばから20~30匹もの蚊が口に入ってくるほどで、「蚊帳が命の次に大事」なものになっていた。
さらに一家を悩ませたのが、毎日ちりとりでさらわなければならないほどの巨大ななめくじの大群。
なめくじが這った跡はぬめぬめと銀色に光り、食べ物は片っ端から食べられ、おかみさんはかかとをかじられたといい、一家全員がなめくじの「ピシッ、ピシッ」という鳴き声を記憶しているという。
そんな「なめくじ長屋」があった場所のすぐ目の前に、現在は東京スカイツリーがそびえ建っている。
数々の貧乏エピソードが語られる志ん生。
当然、子供たちもその巻き添えを食らっていて、長男の十代目金原亭馬生は「(人のものもすぐ売るが)人にあげたものはいつまでも覚えている。親父(志ん生)からもらった煙草入れもすぐに取り返されて売られた」と言い、次男の二代目古今亭志ん朝は「親父は貧乏ではなかった。苦労したのは兄や姉だった」とのちに語っていたそう。
おかみさんや子供たちは、志ん生よりも貧乏に悩まされていたようだ。
「金願亭乱志十八番」は、図らずも同じ範疇に属すると思われる噺があります。
ややこじつけの部分もありますが、同じカテゴリーの噺の比較をしてみようということで。
まず最初のキーワード「若旦那」でやってみます。
「明烏」「火事息子」そして「抜け雀」です。
落語の「若旦那」というと、大店のボンボンで甘やかされて、親が苦労して蓄えた金を湯水のように使う放蕩息子が典型です。
「船徳」「湯屋番」「紙屑屋」「唐茄子屋政談」「不孝者」「干物箱」、まだまだあります。
それぞれこの3つの噺の若旦那は、背景がちょっと違います。いずれ放蕩を始める危うい予感がするのが、「明烏」の日向屋の若旦那の時次郎でしょう。
騙されて吉原に連れて行かれるまでは、木石を絵に描いたような堅物てしたが、売れっ子花魁「浦里」の手練手管にはまって、後は・・・道楽・・・勘当ということになることが予想されます。
噺によっては、綿旦那には、堅物が堕ちて行くパターン、道楽が止まないパターン、あることをきっかけに改心するパターンがありますから。
パターンは似ていますが、「湯屋番」の若旦那は箸にも棒にも、「船徳」の徳さんは原話ではいっぱしの船頭になり、「唐茄子屋政談」の若旦那は改心をして勘当が緩れることになります。さて、「火事息子」の伊勢屋の若旦那の藤三郎の道楽は、「飲む・打つ・買う」ではなくて、何と「火事(火消し)」だという、変わったもの。
一人息子を久離を切って勘当したお父っつぁんも凄いと思いますが、自分の好きな道に入って頑張るという意味でも、他の噺の若旦那とは違います。
以前、師匠と「藤三郎は家に帰ろうとするか(勘当は緩れるか)」・・・という議論をしたことがあります。
年老いた両親をそのままに、自分の好きな道に留まるのか。
自分の選んだ道にある程度区切りをつけて、親孝行をするのか。
この辺りを含んで、噺を組み立てると、それぞれ違った雰囲気の噺になるかもしれません。さぁ、もう1人は「若旦那」と言えるかどうか微妙ですが、圓窓師匠の高座本では、医者の一人息子ということになっていますから、一応若旦那みたいだということです。
絵師だった父親は今は医者。
絵を志して勘当され、旅に出て絵の修業をする息子。
この噺でも、息子は広く言えば放蕩かもしれませんが、所謂道楽者ではない。
そして、雀の絵を描いて、いずれ父の元に戻りそうで、一番ハッピーエンドな感じがします。
休日は、すぐに終わってしまいます。
一番憂鬱な時間帯でもあります。
◇「熊の皮」 柳亭こみち
真打に昇進して、子育てと両立させて頑張っています。
早く仕事を済ませた甚兵衛が長屋に帰ると、妻からたっぷり用事を頼まれた。
炊事や洗濯を終えると「近所のお医者の先生が出入りしているお屋敷でお祝いごとがあり、届いたお赤飯をお裾分けしてもらったので、お礼の挨拶に行っとくれ。くれぐれも『女房がよろしく申しておりました』と言うのを忘れちゃいけないよ」
医者宅を訪れた甚兵衛は妻から吹きこまれたお礼の口上も伝言もすっかり忘れてしまい、困り果ててしまう。
そのうち甚兵衛は、真っ黒いものが敷いてあるのを見つけた。
医者に訊くと「『熊の皮』という珍品であり、お屋敷から拝領したものだ」と言う。甚兵衛が「何に使うんです」と訊くと、医者は「尻に敷くものだ」と言う。
甚兵衛は急に思い出して「そういえば先生、女房がよろしくと言ってました」。
・・・小噺から発展したもので、江戸期の文献では、1773年(安永2年)に出版された笑話本『聞上手』の一編「熊革」、1779年(安永8年)『鯛の味噌津』の「熊の皮」、1818年(文化15年)『落咄口取肴』の「熊の皮」など、類話が多く存在するようです。
これら原話や演目の成立当初は、どちらかといえば艶笑の傾向が強かったようですが、現在広く演じられているものでは、エロティックな要素は排除されています。
だから女性の噺家さんでも出来るんですね。
◇「親子酒」 三遊亭歌武蔵
先月、学士会落語会に来てもらって、親しみが湧いています。
ある商家に、共に酒好きな大旦那と若旦那の親子がいた。
父親である大旦那は、息子の酒癖が非常に悪いことを心配し、「お前だけに酒を止めろとは言わない。
共に禁酒をしよう」と話をする。
息子も承知し、しばらくは何事もなかったが、2週間ほど経つと、他に楽しみのない大旦那は、酒が恋しくて仕方がない。
息子が出かけていたある晩、女房に頼み込み、遂に酒に手を出してしまう。
したたかに酔い、気分も良くなっているところへ、息子が帰ってくる。
慌てて場を取り繕い、父親は「酔っている姿など見せない」と、息子を迎えるが、帰ってきた息子も同様にしたたかに酔い上機嫌。
呆れた父親が「なぜ酔っているんだ」と問うと、出入り先の旦那に相手をさせられたと言い、「酒は止められませんね」などと言う。
父親は怒り、女房に向かって「婆さん、倅の顔がさっきからいくつにも見える。こんな化け物に身代は渡せません」
息子も「私だって、こんなぐるぐる回る家は要りません」
・・・この噺は、ストーリーは単純ですが、例えば、お父っつぁんがだんだん酔っ払って行く過程を演出したりすると、かなり濃い内容になります。
歌武蔵さんの台詞で、2ヶ所で気になった言葉がありました。
「傾ぐ・かしぐ」は「傾むく・かたむく」が一般的で、「はっきし言う」は「はっきり言う」が自然な気がしました。
越後湯沢で、「バックカントリースキー」に来ていた男性2人が行方不明になっているそうです。
バックカントリースキーって、海水浴で遊泳禁止エリアで泳ぐように、いわゆるスキー場のコースの外側に出て滑るスキーのことですよね。
そういう場所で、堂々と滑ることが出来るなんて、ちょっと違う気がしますが・・・。
スキー場によっては、バックカントリースキーのためにコース外に出られるゲートを設けているところもあるそうです。
バックカントリーでは事故の危険性も高くなるが、専用ゲートを設置して入山地点を限定することで、皮肉にも、下山ルートも絞り込むことができ、遭難の際の迅速な救助につなげるという役目もあるそうです。
ただし、バックカントリーはあくまでもコース外であるから、そのエリアで発生した事故は「自己責任」になります。
インターネットでも煽るから、知識や装備が不十分なままバックカントリーへ入山する、厄介な客も多いようです。
遭難した場合は、低体温症など深刻な状況に陥ることも。
バックカントリーで雪崩が発生することもあり、単独で滑走している場合はもちろん、複数人が同時に滑走している場合には捜索が難しくなるそうです。
また近年、バックカントリースポーツでは遭難者も増加し、山岳救助の対象として各自治体が注意喚起しています。
その場合捜索・救出費用はほぼ全額が自己負担になっており、かなり高額になります。
バックカントリーは整地されていないため、スキーやスノーボードなどでは、見えない起伏、岩、木の根などに気づかず転倒してしまう場合もあります。
速度をコントロールできなくなり立ち木に衝突する例も。
・・・よく「自己責任だから」と宣言?して、危険な場所に飛び込んだ結果、案の定遭難する人がいて、その時になって、家族や関係者が「助けてください!」と、人目も憚らずに訴えるシーンを見ます。
感情的には、こんな輩を助けることはないと思う部分もありますが、残念ながら?、いくら違法行為をしている輩でも、国は、この国民を助けなければいけません。
自分勝手な「違反者」に問いたい。
あなたのようなルール違反を平気で犯した輩を助けるために、(仕事とは言え)自分の命を危険に晒さざるを得ない人たちに対して、違反者のあなたの「自己責任」とやらが通用すると思いますか?
あなたは、その人たちの命の危険にまで、しっかりと責任を取ることが出来ますか?
あなたの命だけではありませんよ。
自己中心の自己責任ではなく、ルールや注意を無視した事故責任は、そんなに軽いものではありませんよ。
「お金が欲しいなぁ、宝くじ当たらせないかなぁ」と、宝くじも買わずに夢見ているのですが。
そりゃあ、50両も入った財布を拾ったら舞い上がりますよ。
今の価値で言えば、数百万円ということになりますか。
「芝浜」という噺は、「夢になるといけない」と言いながら、夢のような噺です。
天秤棒一本で行商(棒手振り)をしている魚屋の勝は、腕はいいものの酒好きで、仕事でも飲みすぎて失敗が続き、裏長屋の貧乏暮らし。
その日も女房に朝早く叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場(魚河岸)に仕入れに向かう。
しかし、時間が早過ぎたため市場はまだ開いていない。
誰もいない美しい夜明けの浜辺で顔を洗い、煙管を吹かしているうち、足元の海中に沈んだ革の財布を見つける。
拾って開けると、中には目をむくような大金。
有頂天になって自宅に飛んで帰り、さっそく飲み仲間を集めて大酒を呑む。
翌日、二日酔いで起き出した勝に女房、こんなに呑んで支払いをどうする気かとおかんむり。
勝は拾った財布の金のことを訴えるが、女房は、そんなものは知らない、お前さんが金欲しさのあまりに酔ったまぎれの夢に見たんだろと言う。
焦った勝は家中を引っ繰り返して財布を探すが、どこにも無い。
彼は愕然として、ついに財布の件を夢と諦める。
つくづく身の上を考えなおした勝は、これじゃいけねえと一念発起、断酒して死にもの狂いに働きはじめる。
懸命に働いた末、三年後には表通りにいっぱしの店を構えることが出来、生活も安定し、身代も増えた。
そしてその年の大晦日の晩のこと。
勝は妻に対して献身をねぎらい、頭を下げる。
すると女房は、三年前の財布の件について告白をはじめ、真相を勝に話した。
あの日、勝から拾った大金を見せられた妻は困惑した。
十両盗めば首が飛ぶといわれた当時、横領が露見すれば死刑だ。
長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、妻は勝の泥酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言いくるめる事にした。
時が経っても落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の勝に財布の金が下げ渡された。
事実を知り、例の財布を見せられた勝はしかし妻を責めることはなく、道を踏み外しそうになった自分を真人間へと立直らせてくれた妻の機転に強く感謝する。
妻は懸命に頑張ってきた夫をねぎらい、久し振りに酒でもと勧める。
はじめは拒んだ勝だったが、やがておずおずと杯を手にする。
「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」といったんは杯を口元に運ぶが、ふいに杯を置く。「よそう。また夢になるといけねえ」
・・・本当に泣かせる噺です。
この噺のおかみさんも、良妻、女房の鑑と言えるかもしれません。
なんだかんだ言っても、女房がいないと駄目だというのは、男は分かっているんですよね。
宝くじ、買った方がいいですかねぇ。
それにつけても、山手線の新駅の名前が「芝浜」にならなくて良かった。
朝寝をしながらスタッフラジオを聴くのも、贅沢かもしれません。
猫好きなゲストらしく、猫が題材の噺2題でした。
◇「猫の災難」 八代目三笑亭可楽
朝湯でさっぱりして長屋へ帰って来た熊五郎、酒は飲みたし銭はなし。
表を隣のおかみさんが鯛の頭としっぽを持って通った。
猫の病気見舞いにもらった鯛で、身の柔らかい所を食べさせて、残りを捨てに行くという。
熊さんは、もったいない眼肉が美味いんだと、頭としっぽだけの鯛をもらい受ける。
そこへ兄貴分が来て、胴の所にザルを被せた鯛を見つけ、尾頭つきの鯛で一杯やろう、酒は自分が買って来ると言って出て行く。
今さら頭としっぽだけの鯛とは言えず困った熊さんは、隣の猫に登場してもらうことににする。
兄貴分が一升の酒瓶を抱えて帰って来ると、熊さんは、おろした鯛の身を隣の猫がくわえて行ってしまったとごまかす。
隣に文句を言って来いという兄貴分に熊さんは、日ごろ隣には世話になっているから我慢してくれと言う。
しぶしぶ兄貴分は代わりの鯛を買いに行った。
さあ、目の前に酒瓶を置かれた熊さんは、もうどうにも止まらない酒好きだ。
兄貴はあんまり呑まないから、一杯ぐらいならと呑み始め、もう一杯、また一杯、そのうちにうっかり酒瓶を倒し、畳に口をつけちゅうちゅうと吸い出す呑兵衛ぶりだ。
もう酒瓶には少ししか残っていない、また隣の猫にお出まし願うしかなく、「隣の猫がまた来たから、追いかけたら座敷の中を逃げ回って、逃げるときに酒瓶を後足で引っかけて、全部こぼしちまった」と言いわけすることにし、そうと決まればこれっぽちの酒を残しておいてもしょうがないと全部呑んででしまった。
風呂上りですきっ腹に冷や酒を一升、すっかりいい気持ちになった熊さんはそのまま畳の上にゴロッとなって寝てしまった。
やっと鯛を見つけて買って帰った兄貴分は、酒が一滴もないのにびっくり、また隣の猫の仕業にする熊さんだが、へべれけに酔っぱらっている熊さんを見て、「てめえが呑んじゃったんだろ」に、熊さんは、「猫が倒してこぼれたのを吸っただけだよ」とまだ言い逃れしている。
兄貴分は「よーし、おれが隣にどなり込んで、猫に食うもの食わせねえからこうなるんだって文句を言ってやる」と息巻く。
そこへたまりかねた隣のおかみさんが来て、「ちょいと熊さん、いい加減にしとくれ。さっきから聞いてりゃ、隣の猫、隣の猫って。家の猫は病気なんだよ。お見舞いの残りの鯛の頭としっぽを、お前さんにやったんじゃないか」で、悪事露見、これで全部バレバレとなった。
兄貴分「この野郎、どうもようすがおかしいと思った。やい、おれを隣に行かせて、どうしようってえんだ」
熊五郎「だから、猫によ~く詫びをしてくんねえ」
・・・これは、酒を飲んでだんだん酔っ払って行く野を演じるのが難しいですが、恐らく、やっていて面白い噺だと思います。
いかにも落語らしい噺です。
◇「猫と金魚」 八代目橘家圓蔵(月の家圓鏡)
売れに売れていた圓鏡時代の音源です。
主人「番頭さんや、金魚鉢に入っている金魚、無くなってるんだけど、どうしたい?」
番頭「私ゃ食べませんよ」
「お前が金魚を食べたと誰がいったんだ」と主人は小言をいう。
主人によれば、金魚をとって食べるのは隣の猫に違いなく、猫が悪さをしないように金魚鉢を高いところに置いてほしい、と番頭に頼む。
番頭は「高いっていうと、銭湯の煙突の上とかですか?」とボケる。
主人は「バカなこと言うんじゃない、自宅の風呂場(湯殿)の棚の上に金魚鉢を置けばいいんだ」と命ずる。
番頭は、何を考えたか金魚をすべて金魚鉢から外に出し、金魚鉢だけを棚の上に置く。
主人は「おいおい、なぜ金魚を水から出すのだ、私ゃ金魚の干物を見たいんじゃないんだよ」と諭す。
番頭は金魚を金魚鉢の中に入れた。
するとさっそく猫が現れて金魚鉢に接近し、金魚をつかもうとしはじめる。
番頭はこの状況をゆっくりとした、慇懃な口調で主人に知らせる。
主人は番頭に猫を追い出すように命じるが、番頭は「自分の生まれ年がねずみ年なので、猫は苦手で、闘えません」という。
主人は当てにならない番頭を置いておいて、鳶頭のトラさんを呼びに行った。
虎だから猫より強いだろうという期待があったためだ。
トラさんはやたら威勢のいいおあにいさんで「世の中に怖いものなどない」と豪語する。
主人は風呂場の金魚鉢の猫を追い出すよう命ずる。
トラさんは風呂場で猫と争った挙句、悲鳴を上げた。
主人が風呂場に駆けつけると、棚は破壊され、金魚鉢は真っ逆さまにひっくり返り、トラさんは金魚鉢の水を頭からかぶって気絶している。
主人がたたき起こすと、トラさん曰く「猫に襲われて、心臓をかじられた。これは私の心臓のかけらです」と手の中に入っていたものを主人に見せる。
びっくりした主人は、トラさんの手の中にあるものを見て二度びっくりした。
「トラさん、それ金魚じゃないか、そんなに握ったら死んでしまうよ。どうしたいトラさん、早く猫を捕まえておくれ」と改めて主人は頼む。
今度はトラさんは「猫は怖いから嫌です」と打って変わって弱気である。
主人「猫が怖いって、おまいさんトラさんじゃないか」
トラさん「名前はトラですが、いまはこのとおり『濡れねずみ』になりました」。
・・・田河水泡作の名作。
こういう噺を覚えておくと、様々な場所で、気がるに受けますね。
「猫の皿」「猫怪談」「猫定」「猫久(猫は出ない?)」などの噺もありますし、例えば「火事息子」では、おかみさんが猫を抱いている場面も出て来ます。
仙台で生活を始めた時は、街の中を市電が走っていました。
頻繁に利用することはありませんでしたが、街の景色に溶け込んでいた気がします。
当時、運賃は50円だったと記憶しています。
ところが、市電とお付き合い出来たのはたった1年でした。
1976(昭和51)年3月末で、仙台の市電は廃止されました。
仙台の市電廃止後、市電の車両は、長崎市の長崎電気軌道に譲渡されたそうです。
知りませんでした。
そして、最後の1両が3月30日に引退することになったそうです。
52年に製造され仙台市電でデビューし、66年にわたり仙台と長崎で活躍しましたが、老朽化で維持管理が難しくなったそうです。
仙台の市電が廃止されて、45年近くになります。
この車両は、第2の人生の方が長かったんですね。
長い間、本当にご苦労さまでした。m(_ _)m
さて、「金願亭乱志十八番一覧」も、今回が殿(しんがり)、主任(トリ)ということで、三遊亭圓朝作「怪談牡丹燈籠」です。
…なんて言うと、あの超長編を語ったように思われますが、その短編の一部分のさらに抜き読みというところだということで、ご了承ください。
「牡丹燈籠」は、現代では「四谷怪談」や「皿屋敷」と並び「日本三大怪談」と称せられています。
中でも、広く知られているのが、お露の亡霊に取り憑かれた新三郎の悲劇です。
・・というか、これをもって「牡丹燈籠」の全容だと思われることもあります。
しかし、これは、本来の長編から前半の中心部分を切り取って仕立て直した短編にあたりますから、「忠臣蔵」で言えば「外伝」のような存在かもしれません。
浪人の萩原新三郎は、ふとしたことから旗本飯島平左衛門の娘、お露と知り合う。
お互いに一目惚れしたふたりは理無い仲となり、お露は夜ごと牡丹灯籠を下げて新三郎の元を訪れ、逢瀬を重ねる。
しかし、お露の正体は怨霊/亡霊だった。
日ごとやつれてゆく新三郎に旅の修験者/寺の和尚が真実とお札を授け、家中の戸にこれを貼って期限の日まで籠もり、夜が明けるまで決して出てはならない、と告げる。
言われたとおりに新三郎が閉じ籠もっていると、毎晩お露は家の周りを回りながら、中に入れず恨めしげに/悲しげに呼びかけてくる。
最終日、新三郎は、朝になったと騙されて/命よりお露への想いを優先して、自らお札を剥がして外へ出る。
・・・この怪談は、長編人情噺の形をとっており、多くの部分に分かれています。
六代目三遊亭圓生師匠は、このお露と新三郎の出会いを「お露新三郎」、お露の亡魂が新三郎に通い祟りをなすくだりを「お札はがし」、伴蔵の悪事の下りを「栗橋宿/おみね殺し」「関口屋のゆすり」にそれぞれ分けて演じています。
私のは、圓窓師匠の高座本「牡丹燈籠・下駄の音」としてまとめられたもので、20~25分程度のものです。
お露と新三郎の恋物語を、怪談風にまとめ、お札はがしのような因縁噺の要素は入っていません。
この噺、私の語り口調に合ったものか、「深川三流亭」での初演以来、何度も高座にかける機会に恵まれました。
口演回数でいえば、「花色木綿」「浜野矩随」に次ぐ回数になるかもしれません。
指折り数えただけでも、両手に近くなるほどですから。
ネタ下ろしの時の「深川三流亭」
南大塚ホールでの「おひろめ寄席」
千早亭早千さんとの二人会「烏楠落語」
そして、「学士会落語会・納涼寄席」
私がこの噺にチャレンジしたきっかけは、圓窓師匠の創作「揺れるとき」の存在がありました。
この噺の劇中劇に、この駒下駄のシーンが入っていたんです。
「揺れるとき」で、そのごく一部を演じて、それならと、師匠の高座本で稽古を始めました。
原作は長講で、しろうと風情がやらせていただく場はありませんが、師匠の高座本なら、コンパクトにまとまっていて、牡丹燈籠も駒下駄の音も、しっかり伝えることが出来ますから。
圓朝の「怪談牡丹灯籠」の速記本は22の章に分かれています。
各章の概要をまとめたものがありました。
1.飯島平太郎(のちの平左衞門)、刀屋の店先で酒乱の黒川孝藏に絡まれ、斬り殺す。(「発端/刀屋」)
2.医者の山本志丈の紹介で、飯島平左衞門の娘・お露と美男の浪人・萩原新三郎が出会い、互いにひと目惚れする。(「臥龍梅/お露新三郎」)
3.黒川孝藏の息子・孝助が、父の仇と知らず、飯島家の奉公人になる。平左衞門は気づいたが、黙って孝助に剣術を教える。
4.萩原新三郎、お露のことを想い、悶々とする。店子の伴蔵と釣りに出かけ、お露の香箱の蓋を拾う。
5.飯島平左衞門の妾・お国、平左衞門の留守中に隣家の息子・宮邊源次郎と密通。黒川孝助が見咎め、喧嘩になる。
6.死んだと聞いたお露が萩原新三郎の前に現れる。
7.相川新五兵衞が飯島平左衞門宅を訪れ、自分の娘・お徳と黒川孝助との養子縁組を持ちかける。
8.人相見の白翁堂勇斎が萩原新三郎宅を訪ね、死相が出ていると告げる。お露が幽霊であることがわかり、仏像とお札で幽霊封じをする。
9.宮邊源次郎とお国、邪魔な黒川孝助を消すため、一計を案じるが、失敗に終わる。
10.伴蔵と妻のお峰、百両で萩原新三郎の幽霊封じの仏像とお札を取り外してやる、と幽霊のお露に持ちかける。
11.飯島平左衞門の金百両が何者かに盗まれる。お国はこれを利用し、黒川孝助が疑われるように工作する。
12.伴蔵と妻のお峰、幽霊から百両を受け取り、萩原新三郎の身辺から仏像とお札を取り去る。(「お札はがし」)
13.飯島平左衞門の機転と計らいで黒川孝助の濡れ衣は晴れたが、孝助は平左衞門を間男の宮邊源次郎と間違えて刺してしまう。平左衞門は、自分が孝助の父の仇であることを告げ、孝助を相川家へ逃がす。(「孝助の槍」)
14.萩原新三郎死亡。
15.飯島平左衞門は深手を負いながらも、宮邊源次郎を殺しに行くが、反対に殺されてしまう。源次郎とお国は飯島家の金品を盗んで逃走する。黒川孝助はお徳と祝言をあげるが、亡き主人・平左衞門の仇を討つため源次郎とお国を追う。
16.萩原新三郎の葬儀を済ませたのち、伴蔵と妻のお峰は悪事がばれるのを恐れて、伴蔵の故郷・栗橋に引っ越す。
17.伴蔵は幽霊にもらった百両を元手に荒物屋「関口屋」を開き、成功し、料理屋の酌婦と懇ろになる。酌婦は、飯島平左衞門の元妾のお国だった。伴蔵は、お国との仲を咎めた妻のお峰を騙して殺す。(「栗橋宿/お峰殺し」)
18.死んだお峰が伴蔵の使用人たちに乗り移り、伴蔵の悪事をうわ言のように喋り出したので、医者を呼んだところ、その医者は山本志丈だった。事の次第を知った山本は伴蔵にお国の身の上を暴露する。お国の情夫宮邊源次郎が金をゆすりに来るが、逆に伴蔵に追い返される。伴蔵は栗橋を引き払い、山本と江戸に帰る。(「関口屋」)
19.仇が見つからず、孝助はいったん江戸へ戻り、主人が眠る新幡随院を参り、良石和尚に会う。婿入り先の相川家に戻ると、お徳との間に息子・孝太郎が生まれていたことを知る。
20.伴蔵は悪事の発覚を恐れて山本志丈を殺すが、捕えられる。孝助は良石和尚の予言に従い、人相見の白翁堂勇齋を訪ね、そこで偶然、4歳のときに別れた母親おりえと再会する。すると、孝助が探していたお国が、母親の再婚相手の連れ子であり、源次郎とともに宇都宮に隠れていることを知る。
21.母おりえがお国と源次郎の隠れ場所に手引きしてくれるというので孝助は宇都宮に出向くが、おりえは、夫に義理立ててお国と源次郎に事の次第を話し、2人を逃す。
22.母おりえは孝助に事の次第を話し、自害する。孝助は二人を追い、本懐を遂げる。
・・・発端から大団円まで、圓朝得意の因縁・怪談が続きます。
私の持ちネタでは、「怪談牡丹燈籠」「猫怪談」「笠と赤い風車」ず、「怪奇3題」ということになるでしょう。
以上、「金願亭乱志十八番」を紹介して来ました。
実は、続編で「三流亭流三十八番一覧」も書いていただけるそうです。
まだ確定ではありませんが、以下の噺を書いていただこうと思います。
順不同です。
「三方一両損」「三味線栗毛」「千早振る」「鬼子母神 藪中の蕎麦」
「救いの腕」「揺れるとき」「三井の貸し笠」「五百羅漢」「人情八百屋」
「猫怪談」「不孝者」「おせつ徳三郎(刀屋)」「厩火事」「子別れ」「長短」
「短命」「蒟蒻問答」「子ほめ」・・。
さらに、第3弾も書いていただけるよう、持ちネタ(しかも得意な)を増やして行きたいと思います。
昔、「お崎さんは、理想の女房像だ」などと言っていました。
男の身勝手な空想だと思います。
これ自体、今やセクハラだと言われるかもしれません。
働きがあって、面倒見が良くて、かわいげのある女房なんて、そうザラにはいません。
男には、プライドさえ捨てれば、紐のような生活がしてみたいという部分があると思いますから、お崎さんは、理想の女房におもえるという訳です。
髪結いで生計を立てているお崎の亭主は文字通り「髪結いの亭主」。
怠け者で昼間から遊び酒ばかり呑んでいる年下の亭主とは口喧嘩が絶えないが、しんから愛想が尽き果てたわけではなく、亭主の心持ちが分からないと仲人のところに相談を持ちかける。
話を聞いた仲人は、孔子が弟子の不手際で秘蔵の白馬を火災で失ったが、そのことを咎めず弟子たちの体を心配し弟子たちの信奉を得た話と、瀬戸物を大事にするあまり家庭が壊れた武家の話をする。
そして目の前で夫秘蔵の瀬戸物を割り、どのように反応するかで身の振り方を考えたらどうかとアドバイスをする。
帰った彼女は早速実施、結果夫は彼女の方を心配した。
感動したお崎が「そんなにあたしのことが大事かい?」と質問すると、「当たり前だ、お前が指でも怪我したら明日から遊んでて酒が呑めねえ」
・・・最後の台詞の本音、重きは、一体どこにあるのかです。
「色々言っちゃあいるが、やはり亭主は私のことを心配している(愛している)んだ」と思う人は、女性に多いかもしれません。
だから、この噺をやりたがる。
しかし、男の本音は違う。
「確かに心配はするが、それは、自分が遊んで酒が飲めなくなることが一番心配なんだ」。
昔の男尊女卑の時代に、男が、男を主人公に、男の視点で作られたのが落語です。
その源流は、まだしっかりと流れていますから、女性もそれを理解した上で、この噺の解釈をして欲しいと思います。
オチの台詞を言う亭主の口元は、「への字」ではなくて、片方の口元は上を向いて(うすら笑いをして)いるということです。
この噺は、古く文化年間(1804~18)から口演されていたようです。
演題の「厩火事」は「論語」郷党篇十二から。
厩(うまや)焚(や)けたり。 子、朝(ちょう)より退き、「人を傷つけざるや」とのみ言いて問いたまわず。
明治の速記では、初代三遊亭遊三、三代目柳家小さんのものが残っています。
戦後は八代目桂文楽師匠が、お崎の年増の色気や人物描写の細やかさで、押しも押されぬ十八番としました。
一方で、もう一人の名人の五代目志ん生師匠も、お崎さんのガラガラ女房ぶりで沸かせました。
当代桂三木助さんのツイート。
貴重な昔の写真。
やはり、斯界の若旦那ですから、昔の貴重な写真などは、たくさんお持ちなんですね。
この写真で、私が分かる師匠方は、右が2人目から、六代目三遊亭圓生、八代目林家正蔵、五代目古今亭志ん生、三代目桂三木助、八代目桂文楽の各師匠。
写真の当時、それぞれの留め名だったかは分かりませんが。
圓生・正蔵・志ん生は着物姿で、三木助・文楽は洋服姿。
三木助師匠は、パイプを咥えています。
煙管ではありません。
それぞれ、高価なお召し物だとは思いますが、今と違って、着物は緩く、洋服は皺っぽく、糊が効いていないような気がします。
この写真に限ったことではありませんが。
着物は、今と違って普段着に近かったから、箪笥から引っ張り出すという感じではなかったからでしょう。
洋服は、現在のような優秀な繊維がなかったからでしょうか?
いつ頃の写真でしょうか?
三木助師匠がお元気に映っているから、1955(昭和30)年前後でしょうか?
もう少し前かな?
圓生師匠は、1900年のお生まれだから、写真が1955年だと55歳ということになります。
NHKの大河ドラマで、最初の「(後の)箱根駅伝」が行われるシーンが撮影されたそうです。
これがそのスタートの場面だそうです。
確認した訳ではありませんが、一瞥して違和感を感じたのは、まずは横断幕でした。
「東京箱根間四大校驛傳競走」という・・・。
第1回大会は、アメリカ大陸の継走での横断を実施するための代表選考会という位置付けで、1920年2月14日に行われた。
これは、1912年のストックホルムオリンピックに出場した日本人五輪選手第1号の金栗四三が、「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」と発案したことがきっかけ。
別の説として、箱根駅伝は飛脚制度をもとに、手紙に見立てた襷を、東京から東海道の宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引き継ぎ、箱根町郵便局(箱根宿/箱根関所)まで届ける観光イベントだったという説も。
・・・1920年の頃は、横書きも右側から読んだ(書いた)のでは?
「走競傳驛校大四間根箱京東」なのではないかという疑問。
それから、もう一点は、地面(路面)は舗装されていたのか?
NHKのことですから、誤りはないとは思いますが、大正時代は、右側から書いたのではと、素朴に思います。
まぁ、私は視聴している訳ではないので、どうでも良いことですが。
でも、江戸時代を舞台にした落語に、言問橋が出て来たら、現代人は違和感はないかもしれませんが、間違っていますよね。
だって、言問橋が架けられたのは、明治以降なんですから。
ご当地中のご当地噺の「鰍沢」。
これも、ずっとずっと演ってみたかった噺でした。
折しも、地元の町興しに落語(鰍沢)に注目が集まりり始めました。
私にとって、「鰍沢と「甲府い」「笠と赤い風車」で「身延詣り3題」ということになるんです。
この噺は、三遊亭圓朝が三題噺として捜索した名作中の名作。
圓朝は維新後の明治5(1873)年、派手な道具入り芝居噺を捨て、素噺一本で名人に上り詰めましたが、「鰍沢」もその関係で、サスペンスがかった人情噺として演じられることが多くなりました。
圓朝門下の数々の名人連に磨かれ、三遊派の大ネタとして、戦後から現在にいたるまで
受け継がれてきました。
就中、明治の四代目橘家圓喬の迫真の名演は、今も伝説として語り継がれています。
昭和になって、六代目三遊亭圓生師匠、八代目林家正蔵(彦六)師匠に正統が伝わり、
五代目古今亭志ん生師匠も晩年好んで演じました。
また、元の形態の芝居噺として、正蔵師匠が復活させたものが、お弟子さんで山梨県出身の正雀師匠に継承されています。
ところで、この噺には続編があったそうです。
正式には「晦(みそか)の月の輪」といい、やはり三題噺(「花火」「後家」「峠茶屋」)から作られたものといわれます。
毒から蘇生した伝三郎が、お熊と信濃の明神峠で追剥を働いているところへ、偶然新助が通りかかり、争ううちに夫婦が谷底へ転落するという筋立てですが、明治以後、演じられた形跡もなく、芝居としての台本もないようです。
身延山(久遠寺)に参詣をしようと旅人は、大雪に遭って山中で道に迷い、偶然見つけた一軒家に宿を頼む。
そこにいた妙齢の美人・お熊に卵酒をすすめられるまま飲み、話をするうち、お熊がかつては吉原遊廓の遊女であり、現在は猟師の妻であることが分かる。
旅人は宿の礼として、お熊に財布の大金の中からいくらかを渡す。
お熊は、亭主の酒を買いに行くために外出する。
旅人は疲れと酔いのために、横になる。
そこへお熊の亭主が帰ってきて、旅人が残した卵酒を飲み、たちまち苦しみ出す。
帰ってきたお熊は亭主に「旅人にしびれ薬入りの酒を飲ませて殺し、金を奪い取る算段だった」と明かす。
その声を聞いた旅人は、すでに毒が回った体で吹雪の舞う外へ飛び出し、必死に逃げる。
お熊は鉄砲を持って旅人を追いかける。
旅人は、持ち合わせていた久遠寺の「毒消しの護符」を雪とともに飲み込み、その後、体の自由が利くようになるが、川岸の崖まで追い詰められる。
そこへ雪崩が起こり、旅人は突き落とされる。
運よく、川の中ではなく、岸につないであった筏に落ちるが、今度はその反動で、旅人を乗せたままの筏が流れ出す。
お熊の放った鉄砲の弾が旅人を襲うが、それて近くの岩に当たる。
急流を下るうち、綱が切れていかだはバラバラになる。
旅人は筏の一部だった1本の材木につかまり、懸命に題目をとなえながら川を流れていく。
そのうち旅人は、お熊の姿が見えないところまで流れ着き、窮地を脱する。
「この大難を逃れたも、お祖師様のご利益。お材木(=お題目)で助かった」
2014年の4月に、身延山の麓(身延町)で、叔父が会長を務めていた老人会で、「鰍沢」を演りました。
身延(山)で「鰍沢」を演るという夢が叶いました。
その前後に開催された「深川三流亭」と「お江戸あおば亭」でも、ご贔屓に披露することが出来ました。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/03/post-2845.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/03/post-9dd1.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/04/post-b14a.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/04/post-fb27.html
ところで、圓窓師匠が、この噺でコメントを記しています。
圓朝作の三題噺で「小室山の御封」「卵酒」「熊の膏薬」がお題。
旅人と元花魁との会話は妖艶であり凄味があるという聞きどころ。
落ちは[お節徳三郎下]と同じなのが気に食わないし、また、命拾いをした瞬間に駄洒落を口にするのも不自然。
あたしは以前、「卵酒を飲んだあと眠った新助の夢だった」と設定にして他の落ちを工夫したこともあったが、成功したとは思えないので、それは捨ててしまった。
いつか、工夫したいと思案している。
・・・師匠の構想に合わせて、鉄砲で追いかけられるのは、旅人の夢だという演出にしてみました。
「お江戸あおば亭」の時に、後輩にこんなコメントをもにいました。
今まで多くの噺家さんの「鰍沢」を聴いたが、旅人(新助)が身延参りをする背景や思いが描かれているのは初めてで、とても臨場感があった。
オチの演出も初めてのパターンで、勉強になった。
・・・これは、師匠のオリジナルの部分で、私が考えた訳ではありませんが、確かに、何故、どんな思いで旅をしているのかに触れているのはないかもしれません。
それから、元花魁のお熊を悪者で終わらせないというのは、私がこの噺にチャレンジしようと思った最大のポイントです。
それでないと、お熊という女が救われないし、信心が空しくなるし、何よりも悪者がいないという落語国の魅力が削がれてしまう。
「お材木(題目)」の地口は、古今の落語評論家の先生方からも稚拙なものだと言われ続けていますから、何か考える必要はありますが、この演出は物凄いものだと思っています。
もう一つ嬉しかったことは、会社の若手が来てくれていて、彼は落語のことはほとんど知らないのですが、「演技力は、落語の本筋ではないとおっしゃってましたが、芝居を観ているようでした。」と言ってくれたこと。
これは、ある程度、舞台設定・場面設定が出来ていて、お客さまにイメージしていただけたということなのでしょう。
「鰍沢」・・・、まだまだ未完成ですが、もっともっと練り上げて行きたいと思います。
◆2014年3月「深川三流亭」
◆2014年5月「お江戸あおば亭」
こんなに多くのお客様に聴いていただきました。
「鰍沢」・・・、この噺も宝物です。
毎月第3金曜日の夜は「東京落語会」です。
今日は、まずまず楽しむことが出来ました。
駒治さんは、この鉄道もので人気が出ていますが、勿論、受けてはいたものの、普段の客層とは違っていて、今一つ掴み切れなかったかもしれません。
相変わらずの勢朝節は健在でした。
正蔵さんは、色々言われていますが、真面目に丁寧に噺を作り上げる姿勢は素晴らしいと思いました。
自分の持ちネタでもあるので、大いに参考になりました。
中入り後のベテラン師匠お二人は、それらしく楽しい高座でした。
来月は、「子ほめ」「ねずみ」「明烏」と、持ちネタが3つもネタ出しされているので、今から楽しみです。
いつものように、いつもの店で、頓平師匠と一献。
「千葉都民」は、やっと知るに至りました。
松戸北部市場跡地に、大規模商業施設がオープンすると。
今年の秋開業予定の「テラスモール松戸」です。
あぁ、あそこか!
水戸街道からすぐの場所ですね。
やはり今春開業予定の松戸駅前の「キテミテマツド」と、新しい施設が出来ると言うのは、楽しみではありますが、とにかく何とか長続きして欲しいと思います。
かつての松戸は、江戸時代は水戸街道の江戸川河畔に開けた宿場、明治以降は千葉県北西部(東葛地区)の中心地でしたが、最近は、特に「つくばエキスプレス(TX)」が開通してからは、隣接する柏市や流山市の勢いに負けて、地盤沈下していますから。
なぞかけやっちゃいました。(久しぶり)
「新しい商業施設の開業間近」とかけて
「あみん」と解く
その心は「私、松戸(待つわ)・・・・」
「都立大学前」「学芸大学」「大泉学園」・・・。
東京には、実際にはそこにない大学などの名前が付いた駅があります。
神戸ポートアイランドのスーパーコンピューター「京(けい)」が、8月にも運用を停止し撤去されることを受け、インターネット上で最寄り駅の名称が注目されているそうです。
三宮と神戸空港のポートライナー「京コンピュータ前駅」。
「京」がなくなったら駅名はどうなるのか。
運行会社は「現時点では未定」だそうです。
例によって、SNSは無邪気というか無責任と言うか、
「京停止後に駅名の方がどうなるのかが気になる」
「『今は無き京コンピュータ前駅』とかかな」。
2006年の駅開設当時は「ポートアイランド南駅」でしたが、京の稼働に合わせて11年に現駅名に改称したそうです。
1番でないといけないスーパーコンピューター。
数の単位は、「一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、秭、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数・・・」。
またいつの日か再び、スーパーコンピューターが設置されるように、「京(けい・帰)って来いよ駅」なんて。
「れんぽー」って言うのもいいかも。
「不可思議コンピューター」なんて粋かなぁ。
はしかのおかげでバレンタインデー商戦が大打撃?
大阪の阿部野橋の超高層ビル「あべのハルカスに入る「近鉄百貨店本店」で働く10~40代の男女5人が、新たにはしかを発症し、20~30代の男女2人に感染の疑い。
不特定多数の客と接触した可能性が高く、保健所が注意喚起している。
近鉄本店では、ウイング館9階のバレンタインフェア会場で接客していた20代の女性2人がはしかを発症したと保健所が既に発表していた。
7人は近鉄本店で開かれたバレンタインフェアや別のフロアのイベントスペースなどで勤務。
いずれも医療機関で治療しており、重症化はしていない。
「あべのハルカス」ならぬ「あべのハシカス」になったかな?
それこそ洒落になりませんが。
大阪エリアで特に流行っているみたいです。
大阪府は昨日、40代の女性が、はしかに感染した状態で新大阪駅から新幹線に乗車したとして、同じ車両に乗り合わせた人たちに対し、発疹や発熱などの症状が出た場合は速やかに受診するよう注意喚起した。
うわぁ、かすっていますねぇ。大丈夫だろうか?
今、愛知県を中心に豚コレラの大感染で、自衛隊が出動するほどの騒ぎになっています。
ウィルスや細菌感染は、本当に恐ろしい。
圓窓師匠に稽古をつけていただいている人は外せません。
https://www.youtube.com/watch?v=YkxM2Ia6t3Y
教育出版の小学4年生の国語の教科書に、師匠の「ぞろぞろ」が掲載されています。
ですから、学校の先生を中心に、他の連も含めて「ぞろぞろ」を稽古する人が多いです。
我々の落語っ子連でも、千公さんと蝶九さんの両先生がやっています。
参詣客がまばらな稲荷神社の門前。
茶店を営む老夫婦の生活は苦しく、店主の老爺は妻の老婆に「売り上げがないため、仕入れもままならず、商品はわずかな駄菓子と、天井に吊るしたまま長く売れ残ったワラジ1足だけだ」と不満をぶちまける。
老婆が「なにごとも信心だから、お稲荷様にお参りに行ってはどうですか」とすすめるので、店主は言うとおりに神社へ行き、茶店の繁盛を懸命に祈った。
店主が店に戻って間もなく、雨が降り出し、ひとりの参詣客が雨宿りにやって来る。
茶を飲み終え、店を出ようとした客が引き返し、「地面がぬかるんでいて、おろしたばかりの自分の履物を汚したくない」と言い、ワラジを買う。
老夫婦が「ご利益だろうか」と感じ入っていると、別の客が来て「ワラジをくれないか」と店主に注文する。
「申し訳ありませんが、たった今売り切れてしまいまして」「何を言っている。
そこに1足吊っているではないか」店主が振り返ると、売り切ったはずのワラジがあるので、店主は大きく驚く。
「客がワラジを買うたび、新しいワラジがぞろぞろと下りてくる。下りたら下りるだけ、ワラジが売れていく。やはりお稲荷様のご利益だ。わたしたちはこれで生活が楽になる」
茶店の向かいの床屋の主人は、かつての茶店同様に寂れている。
茶店が繁盛していくさまを見聞きし、うらやましがり、稲荷神社に参詣して祈りをささげる。 床屋が店に戻ると、店は客であふれかえっている。
床屋は「さっそくのご利益だ」と喜び、カミソリで客のひげを剃る。
するとたちまち、新しいひげがぞろぞろと生えてきた。
・・・個人的には、あんまり面白い噺とは思わないんですが。
(ここだけの内緒の話・・・。)
「お参りで御利益を求めてはいけませんよ。こうしてお参りできることを感謝する、それが本当のお参りですよ」と、茶屋のおばあさんは、お参りに御利益を求めるおじいさんをたしなめます。
求めない心が幸せを呼ぶというのが、圓窓師匠の「ぞろぞろ」だと思います。
「俺が、俺が」じゃないんですよね。
この点が、教科書に最適だということでしょうか?
この噺は、元々は上方のもの。
登場するお稲荷さんは、元は大阪の赤手拭神社だったようですが、舞台を江戸に移して太郎稲荷となっています。
この太郎稲荷は、樋口一葉の名作「たけくらべ」の中で、主人公の美登里が商売繁盛を願ってお参りした神社です。
この辺りは、学校では教えてくれないかもしれませんね。
昔のアイドルは、3~4ケ月の間隔で新曲を発売していましたが、最近は、特に演歌は、1年1曲程度のペースが多いようです。
また、昔のようなテレビの歌謡番組がほとんどなくなったので、楽曲の拡散・認知に時間がかかるようになったかもしれません。
一昨日、約1年ぶりに新曲「紙の鶴」がリリースされました。
https://www.youtube.com/watch?v=rZM-kDnAURc&list=RDrL8kuE9lRGY&index=27
昨年は、ずっと「鳰の湖」を歌い続けて、紅白にも2年連続で出場出来ました。
NHKに好かれているのか・・・、まぁ結構なことです。
変化の激しい世の中ですから、飽きられないように、頑張って欲しいものです。
少し、殻を破ってみたくて。
酒飲みの噺は、「一人酒盛」「二番煎じ」で演っていますが、もっと大胆な噺をやってみようと思いました。
この噺は、本当に演っていて楽しい。
「試し酒」は、新作落語の範疇に入るのかもしれません。
この噺は、親子二代の速記者で、落語研究家の今村信雄(1894~1959)が昭和初期に創作した噺です。
ただし、この噺には筋がそっくりな噺もあるようです。
明治の異色の英国人落語家の「初代快楽亭ブラック」が、明治24年3月「百花園」に速記を残した「英国の落話」で、主人公が英国ウーリッチ(?)の連隊の兵卒ジョン、のむ酒がビールになっている以外、まったく同じだそうです。
この時の速記者が、父親の今村次郎ということもあって、このブラックの速記を日本風に改作したものだと思われます。
しかし、オリジナルのブラックの作または英国産の笑話かというと、それも違うようで、中国の唐代の笑話に同じようなパターンのものがあるそうですが、はっきりはしていないようです。
いずれにしても、現実感しともかくも、ダイナミックな噺です。
初演は七代目三笑亭可楽だそうで、その可楽の演出を戦後、五代目柳家小さん師匠が継承し、ほぼ古典落語化するほどの人気作にしました。
当の作者の今村自身も、著書「落語の世界」で、「今(注:昭和31年現在)『試し酒』をやる人は、柳橋、三木助、小勝、小さんの四人であるが、(中略)中で小さん君の物が一番可楽に近いので、今、先代可楽を偲ぶには、小さんの『試し酒』を聞いてくれるのが一番よいと思う」と、述べているそうです。
私は、「試し酒」を「一人酒盛」「二番煎じ」と酒3題としています。
この噺は、酒を飲む仕草が身上ですから、ちょっと見てみます。
ある大家の主人。
客の近江屋と酒のみ談義となる。
お供で来た下男久造が大酒のみで、一度に五升はのむと聞いて、とても信じられないと言い争い。
挙げ句に賭けをすることになる。
もし久造が五升のめなかったら近江屋のだんなが二、三日どこかに招待してごちそうすると取り決めた。
久造は渋っていたが、のめなければだんなの面目が丸つぶれの上、散財しなければならないと聞き「ちょっくら待ってもらいてえ。おら、少しべえ考えるだよ」と、表へ出ていったまま帰らない。
さては逃げたかと、賭けが近江屋の負けになりそうになった時、やっと戻ってきた久造
「ちょうだいすますべえ」
一升入りの盃で五杯、息もつかさずあおってしまった。
相手のだんな、すっかり感服して小遣いをやったが、しゃくなので
「おまえにちょっと聞きたいことがあるが、さっき考えてくると言って表へ出たのは、あれは酔わないまじないをしに行ったんだろう。それを教えとくれよ」
「いやあ、なんでもねえだよ。おらァ五升なんて酒ェのんだことがねえから心配でなんねえで、表の酒屋で、試しに五升のんできただ」
・・・「お前の噺は、長くて・暗くて・つまらない」と言われ続けて10年近くが経過し、それじゃあ、気軽な場所で人情噺以外のものをとチャレンジしたのが、2017年11月でした。
誰でも知っている噺で、オチも「あぁぁ」という感じですから、とても便利な持ちネタだと思います。
酒を飲む仕草で、どうやって絶妙の間を作るのか。
現実と非現実をどうやって結びつけるか。
飲む仕草で、客席から拍手がもらえるか・・・。
口うるさい先輩方にも、人情噺だけじゃないぞと。
八代目橘家圓蔵師匠は、寄席の楽屋で前座さんが煎れてくれるお茶には、絶対に口をつけなかったそうです。
その理由は、ご自身が前座の頃、嫌いな師匠に煎れたお茶に、フケや唾を入れて出していたからだとか。
先日も言ったとおり、私は、コンビニのおでんは、絶対に買って食べません。
あんなに不衛生な物はないと思うので。
またまたセブンです。
セブンイレブンの店員と思われる男による新たな不適切動画がネット上で拡散されているそうです。
問題の動画には、セブンイレブンの制服を着た男2人が、お笑いトリオのダチョウ倶楽部のネタをまねて、商品の「おでん」を口に含むも熱くて吐き出す場面が映されている。
吐き出されたおでんの具はそのまま鍋に戻されており、ネット上では「きたねぇ!」「セブンのおでんは食えないな」「まだやるか?呆(あき)れる」といった声が多数あがっている。
やはり、そんなこともやられているんだろう。
やはり、汚いんですね。
買わなくて正解だと思います。
・・・昔、喫茶店でジュース類を注文すると、真っ赤な缶詰のチェリーが入っていて、ほとんど食べられることはありませんでした。
その食べられなかったチェリーは、使い回しされているという"都市伝説"が語られていましたが、あれよりひどいかも。
落研のツイートです。
二つ目の入船亭遊京さんを仙台に招いて、落語の指導をしていただいたそうです。
大変ありがたいし、大変良いことだと思います。
やはり、世の中便利になったとはいえ、東京のような落語環境になく、正直なところ、レベルも高くないと思いますから。
基本からきっちり教えてもらえたなら、全体のレベルアップになることでしょう。
ん?
写真に、どこかで見たことのあるオジサンが2人映っていますが、もしかして落研OBの「愛し亭朝大」師匠と「初代多趣味亭こり生」師匠ではありませんか?
すると、このプロジェクトの仕掛人はこのお2人なのかな?
「遊京さん、落研現役部員のご指導にはいつ行ってくれたの?」
「今日だい(京大)」
遊京さんは、確か京大のご出身でしたからね。
・・・ベタな・・・。
最近、仕事の関係で、どうしても千早亭の稽古に行くことが出来なくなってしまいました。
平日(火曜日)の夜の稽古なので、特に月の後半は、頻繁に大阪出張があるので、重なってしまいます。
他のメンバーの皆さんにも大変申し訳なくて。
噺の稽古は、日曜日が稽古の三流亭でやっているので、何とかなるのですが。
当日も、出囃子のCDを持参して、本番でも操作を担当していたのですが、昨年の「お江戸あおば亭」の時、CDを会場に置いて来たようなので、今回の落語会では使えません。←出囃子のCD
メンバーの三味線の生演奏でやるかもしれませんが、一応別に準備してもらうよう、事前に伝えておくことにしました。
本番での操作も、誰か別の人にやってもらおうと思います。
落語会を進行する上で、出囃子の担う役目は重要ですから、コンダクターを経験するのも大切だと思います。
これもちょっと難しいかも・・・。
「猫の皿」でしょう。
欲深い人の心理戦を描いた面白い噺です。
旗師(はたし)という、無店舗の古美術仲買人を営んでいたある男は、地方に出かけて骨董品を見つけては所有者を言葉巧みに騙して、それを安値で買い叩き、高値で都市(江戸ないし大坂)の蒐集家に売りつけて生計を立てていた。
男は宿場町へ通じる街道沿いの茶店で、茶を飲みながら店主と世間話をしていた。
ふと店の隅で餌を食べる飼い猫を見ていると、猫が食べている餌受け皿が名品の「絵高麗の梅鉢」であることに気づいた。
男はこれを買い叩こうと企み、何気ない風を装って猫を抱き寄せ、「ご亭主の飼い猫がどうにも気に入った。3両で是非私に引き取らせてはくれないか」と持ちかけた。
店主が承諾すると男は、「猫は、皿が変わると餌を食べなくなると聞く。
この皿も一緒に持っていくよ」と、何気なく梅鉢を持ち去ろうとした。
店主はそれを制し、「猫は差し上げますが、これは捨て値でも300両、という名品でございますから売るわけにまいりません」と告げた。
驚いた男が「何だ、知っていたのか。これが名品とわかっていながら、何でそれで猫に餌をやっているのだ」と尋ねると、店主いわく、
「はい、こうしておりますと、時々猫が3両で売れます」。
・・・敵もさるものです。
データを改竄したり、ルール破りの調査をしたり、親父の恫喝に屈して資料を渡してしまったり・・・。
最近の役所や団体や公務員の失態・無神経・無責任には、目を覆うばかりですが、また・・・。
大阪府内で「はしか」の感染が相次いでいるそうです。
「はしか」・・・幼い頃、一番耳にした病気です。
最近は、ほとんどなくなったと思っていましたが、また流行し始めているようです。
「はしか」は、発熱や全身に発疹が出るウイルス性の感染症で、特効薬がないため重症化すると死亡することもあるほか、妊婦が感染すると流産や早産のおそれもあります。
そんな中で、先月、患者が出た大阪の箕面市の病院が、情報を公表しようとした際に、大阪府の保健所が公表しないよう伝えていたそうです。
大阪府内では今年に入ってから「はしか」の患者が急増していて、今月3日までのおよそ1か月間に報告された患者の数は、38人と、すでに去年1年間の2倍を超えているそうです。
箕面市立病院が先月下旬、2人の患者が出た時点で詳しい状況を公表し注意を呼びかけようとしたところ、大阪府の池田保健所から「患者が不特定多数の人に接触している状況ではない」などとして、公表しないよう伝えられたという・・・。
ただ病院側は、広く注意を呼びかける必要があると判断し、周辺の医療関係者に伝えた。
池田保健所は「ほかの医療機関に与える影響などを考慮して公表は感染のおそれが不特定多数になってからにしたいと考えた。ただ、保健所には情報の公表や非公表を指示する権限はなく、公表を拒否したつもりはない」と説明。
言うまでもなく、「速やかに情報公開する必要がある」と思います。
専門家は、「はしかは感染力が強いため速やかに情報公開する必要がある」
「感染症は、まだ感染していない人にできるだけ早く注意を呼びかける必要がある。また、医療機関にも状況を早く伝えないといけない。どのような状況ならどの程度の情報を公表するのか事前のルール作りが大切だ」と。
・・・そうですよね。
自己保身の屁理屈ばかり言わないで、ちゃんと仕事しろよと。
「三遊亭はこうやるんだね」と、2013年11月の「第6回お江戸あおば亭」の楽屋で、落研のある先輩から言われました。
確かに、この噺は古今亭の噺と言われています。
初めてこの噺を聴いたのは、大学1年生の時の、落研主催の「古典落語鑑賞会・金原亭馬生独演会」。
勿論、十代目金原亭馬生師匠の「抜け雀」です。
私は、これで人情噺に目覚めたと言って良いと思います。
馬生師匠・・・、とても素敵でした。
この噺は、「幾代餅」と同様に、古今亭(志ん生師匠)の噺というのが定着しています。
しかし、「抜け雀」という噺の出自は、はっきりしていないようです。
講釈ダネだという説もあり、また中国の黄鶴楼伝説が元だとの説もあり、誰か有名な絵師の逸話だとの説もありのようで・・・。
その中で、ネタ元としては確かだろうと思われるのが、京都の「知恩院七不思議」の一つで、朝に襖絵から雀が抜け出し、餌をついばむという伝説だそうです。
襖絵のある知恩院の大方丈は寛永18(1641)年の創建ですから、描いたのは恐らく京都狩野派中興の祖と言われる「狩野山雪」だと思われますが、不詳だそうです。
元ネタが京都ということですから、噺として発達したのは上方のようで、上方では昔から、多くの師匠が手掛けています。
東京では五代目古今亭志ん生師匠の独壇場ということです。
明治以後、志ん生師匠以前の速記は事実上ありません。
わずかに、明治末期から大正初期の「文芸倶楽部」に速記があるという曖昧な記述があるようですが、明治何年何月号で、何という師匠のものなのかは全く分からず。
大阪からいつごろ伝わり、志ん生師匠がいつ誰から教わったのか、ご当人も言い残していないので、永遠の謎となっています。
ということは、志ん生師匠が発掘し、育て、得意の芸道(名人)ものの一つとして一手専売にした、「志ん生作」といっていいほどの噺ということです。
そしてさらに、東京の噺家では子息の十代目金原亭馬生師匠と古今亭志ん朝師匠の兄弟が「家の芸」として手掛ていましたから、文字どおり古今亭の噺ということです。
志ん生師匠の「抜け雀」の特色は、芸道ものによくある説教臭がなく、笑いの多い、明るく楽しい噺に仕上げていることでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=YmeruOmVDxY
志ん朝師匠は、「志ん朝の落語・6」(ちくま文庫)の解説で京須偕充氏も述べている通り、
父親の演出を踏まえながら、より人物描写の彫りを深くし、さらに近代的で爽やかな印象の「抜け雀」を作っています。
小田原宿に現れた若い男、色白で肥えているが、風体はというと、黒羽二重は日に焼けて赤羽二重。紋付も紋の白いところが真っ黒。
誰も客引きはしないが、袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠の主人。
男は悠然と「泊まってやる。内金に百両も預けておこうか」と言った。
安心して案内すると、男は、おれは朝昼晩一升ずつ飲むと宣言。
その通り、七日の間、一日中大酒を食らって寝ているだけ。
こうなるとそろそろ、かみさんが文句を言いだした。
危ないから、ここらで内金の5両を入れてほしいと催促してこいと、気弱な亭主の尻をたたく。
ところが男「金はない」
「だってあなた、百両預けようと言った」
「そうしたらいい気持ちだろうと」。
男の商売は絵師。
「抵当(かた)に絵を描いてやろうか」
「絵は嫌いですからイヤです」。
新しい衝立に目を止めて「あれに描いてやろう」
それは、江戸の経師屋の職人が抵当に置いていったもの。
「だめです。絵が描いていなければ売れるんです」。
亭主をアゴで使って墨をすらせ、一気に描き上げた。
「どうだ」「へえ、何です?」
「おまえの眉の下にピカッと光っているのは何だ」
「目です」
「見えないならくり抜いて、銀紙でも張っとけ。雀が五羽描いてある。一羽一両だ」。
これは抵当に置くだけで、帰りに寄って金を払うまで売ってはならないと言い置き、男は出発。
とんだ客を泊めたと亭主にぼやくし、朝になっても機嫌悪く女房は起きない。
亭主が二階の戸を開けると朝日が差し込み雀が鳴きながら外に出て行った。
はて変だとヒョイと見ると、例の衝立が真っ白。
外から先程の雀が戻ってきて何と絵の中に納まった。
これが小田原宿中の評判を呼び、泊まり客がひっきりなしで、大忙し。
それから絵の評判が高くなり、とうとう藩主・大久保加賀守まで現れて感嘆し、この絵を千両で買うとの仰せ。
絵師が現れないと売れない。
数日後、六十すぎの品のいい老人が泊まり、絵を見ると
「さほど上手くは無い。描いたのは二十五、六の小太りの男であろう。心が定まらないから、この様な雀を描く。この雀はな、止まり木が描いていないから、自然に疲れて落ちて死ぬ」。
嫌がる亭主に書き足してやろうと硯を持ってこさせ、さっと描いた。
「あれは、何ですか」、「おまえの眉の下にピカッと光っているのは何だ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて、銀紙でも張っとけ。これは鳥かごだ」
なるほど、雀が飛んでくると、鳥かごに入り、止まり木にとまった。
老人、「世話になったな」と行ってしまった。
それからますます絵の評判が高くなり、また藩主・大久保加賀守が現れてこの絵を二千両で買うとの仰せ。
亭主は律儀に、絵師が帰ってくるまで待ってくれと売らない。
それからしばらくして、仙台平の袴に黒羽二重という立派な身なりの侍が「あー、許せ。一晩やっかいになるぞ」。
見ると、あの時の絵師だから、亭主は慌てて下にも置かずにごちそう攻め。
老人が鳥かごを描いていった次第を話すと、絵師は二階に上がり、衝立の前にひれ伏すと
「いつもながらご壮健で。不孝の段、お許しください」
聞いてみると、あの老人は絵師の父親。
「あー、おれは親不孝をした」
「どうして?」、
「衝立を見ろ。我が親をかごかきにした」。
・・・そんな古今亭の噺を、圓窓師匠の三遊亭は、どのように脚色したか。
圓窓師匠は、父親が絵に手を加えるところから、こんなふうに変えています。
ひと月後、六十歳ほどの上品な老医師が泊り、その抜け雀を見た。雀に元気がない
のを気にして言った。
「この雀には休むところがないので、雀はいずれ疲れて落ちる。
休むための所を描いてやろう」と。
宿の主人は折角の絵が台なしになるのを恐れたが、雀が死んでしまうのも困るので、
「ちょいと描いてくれ」と頼む。
老医師の描いたのは何本かの竹。
それに「宿の憩いも時にとりつつ」という讃を付けた。
雀は元気を取り戻したようなので、またまた評判になり、城主のつける値段も二倍の二千両にはねあがった。
半年後、あの雀を描いた若絵師が今度は立派な身なりで旅籠にやってきた。老医師が竹を描き加えた話を聞き、すぐさま衝立を見て、それに向かって平服して言った。
絵師「父上。ご不孝の段お許しください」
主人「この竹を描いたのはお父上だったのですか?」
絵師「父は絵師であったが『絵では人の命は救えない』と考えて医師になった人。子供の頃、父から絵の手ほどきを受けた。医師になった父の絵を見る目は衰えていないようだ」
主人「親子揃って大したものですね」
若者は「俺は親不孝だ。父を藪(藪医者)にした」
場面設定を変えた理由2点を仰っています。
あの世に行ってしまった柳家つば女(平成16年6月13日没)が生前にこんなことを言っていた。
「雀は籠に入れて飼うような高級な鳥ではない。絵師として駕籠入りの雀は描かないはずだ」と。
つば女はムサビ(武蔵野美術大)の出身なので、あたしは信憑性を感じた。
そこで、本文のような落ちに直したのである。絵の讃は茅野大蛇作。
既成の落ちは、老人が駕籠を描いたので、息子として「あたしは親不孝。父を駕篭かきにした」というのである。
しかし、この落ちの本来の意を知っている人は少ないようだ。
〔双蝶々曲輪日記 六冊目 橋本の段〕の吾妻の口説き句に「現在、親に駕篭かかせ、乗ったあたしに神様や仏様が罰あてて――」というのがある。
[抜け雀]を演るほうにも聞くほうにもその知識があったので、落ちは一段と受け入れられたものと思われる。
本来の落ちには隠し味ならぬ、隠し洒落があるのが、嬉しい。
知識として、その文句のない現代のほとんどの落語好きは、ただ単に「親を駕篭かきにしたから、親不孝だ」と解釈をしてるにすぎない。
胡麻の蠅と駕籠かきは旅人に嫌われていた。
その「駕籠かき」から「親不孝」と連想させての落ちになるのだが、悪の胡麻の蝿と同じような悪の駕篭かきもいただろうが、いとも簡単に駕篭かきを悪として扱うのはどうかと思う。
だから、浄瑠璃の文句の知識を念頭に入れない「駕篭かき」の落ちの解釈は危険そのものなのである。
・・・という訳で、鳥籠を描かず、医者の父親に竹やぶを描かせたので、藪医者とかけたオチにしてありました。
私も、絵心はありませんが、雀に鳥籠というのは・・・と思い、師匠の脚色で演りました。
冒頭に、先輩から「三遊亭の抜け雀」と言われたのは、この点もあったからでしょう。
最近、この時の動画を視聴したことがありましたが、数年前の私は、随分若かった。
それなりに乗っていた頃なのかもしれません。
今から5年前の2013年11月。
高座に上がるところから、下りて来たところまでの写真があります。
さぁ、いよいよ高座に向かいます。
高座に上がって、座布団に座ろうとしています。
座布団に正座して、客席を眺めます。
そして、深々とお辞儀をします。
これは、マクラを語っているのでしょうか?
この時は、最後まで羽織は脱ぎませんでした。
まだ髪も黒々としています。
高座を下りて、次の演者のめくりを出すところです。
この噺は、「ねずみ」と「猫怪談」と動物3題ということになります。
何れも、動物を間に挟んで、父親と子の情けを語るもの。
これも再演して磨きたい噺です。
池江璃花子選手が「白血病」と診断されましたが、白血病にはさまざまなタイプがあることから、詳しい診断結果が判明するまでには、2週間から3週間かかるようです。
白血病は骨髄性かリンパ性かなど、さまざまなタイプがあり、それにより治療方法が異なるそうです。
ご本人と同様に、ご親族の驚きも大変なものだと思います。
池江選手のおばあちゃんのコメントが報道されていました。
水泳なんてやんなくていいから、とにかく長生きして、私より先に逝っちゃうなんて、いやだから、とにかく長生きしてほしいです。
生きてさえいれば、私は・・・。
生きてください。
私が死ぬ前に死んでほしくない。
私だって80歳なんだから。
・・・とにかく治療に専念して欲しいものです。
この噺は、あまりポピュラーではないので、結びつかなかった方もいると思います。
「はてなの茶碗」は、上方(が舞台)の噺ですから。
不思議な茶碗が巻き起こす、スケールの大きいストーリーです。
米朝師匠が掘り起こした噺みたいです。
京都、清水の音羽の滝のほとりで、大阪出身の油屋の男が茶屋で休憩していた。
そこに京では有名な茶道具屋の金兵衛、通称「茶金」が、茶屋の茶碗のひとつをこねくり回しながら、しきりに「はてな?」と首をかしげた後、店を出た。
それを見ていた油屋は、あの茶金が注目していたことからさぞかし値打ちのあるものに違いないと考え、茶屋の店主にその茶碗を買いたいと申し出る。
断る店主であったが、油屋は最終的に2両を提示し、茶碗を手に入れる。
油屋はさっそく京の茶金の店へ押しかけ、千両の値打ちがあると言って茶碗を売り込むが、どう見てもただの茶碗に番頭は買い取りを拒否する。
しかし、自信がある油屋はごね、番頭と押し問答となり、最終的に金兵衛自ら出てくる。
茶碗について聞かれた金兵衛は、ヒビも割れもないのに、どこからともなく水が漏れるので、「はてな」と首をかしげていただけだと明かす。
意気消沈する油屋であったが、通人でもある金兵衛は、油屋から3両で茶碗を買い取り、親元に帰って孝行するように諭す。
後日、この話が評判となり、関白・鷹司公によって「清水の 音羽の滝の 音してや 茶碗もひびに もりの下露」という歌が詠まれる。
さらには時の帝も興味を持ち、茶碗には「はてな」の箱書きが加わった上に、好事家の鴻池善右衛門が千両で金兵衛から茶碗を買い取る。
思いがけない展開であったが、やはり通人である金兵衛はこれを自分だけのものとせず、油屋を呼び出すと半金の五百両を渡し、油屋は深く感謝する。
さらに後日、再び油屋が金兵衛の元に現れ、「十万八千両の大儲け」だという。
理由がわからない金兵衛が問いただすと油屋はこう答えた。
「今度は水の漏る瓶を持って来ました」。
・・・時の帝や関白や豪商も登場しますから。
私の持ちネタで、「一人酒盛」「二番煎じ」「試し酒」が、酔っ払い3題ということになりますな。
酔っ払って、都々逸も出て来て、どれも演っていて楽しい。
元々は上方落語で、酒のみの地を生かした六代目笑服亭松鶴師匠の十八番でした。
東京でこの噺を得意にしたのは、六代目三遊亭圓生師匠。
圓生師匠は、どちらかといえば、根は好人物という人物設定だったのに対し、松鶴師匠のは酒乱そのものだったようです。
大阪では、紙切りや記憶術などの珍芸を売り物にしていた桂南天(1972年83歳で没)という人が得意にし、そのやり方は桂米朝師匠が直伝で継承していたそうです。
米朝師匠のを聴くと、主人公は引っ越してきたばかりの独り者で、訪ねてきた友達に荷物の後片付けまですっかりやらせ、その後「一人酒盛」のくだりに入って行きます。
これも、東西の大きな違いでしょう。
先代の小さん師匠もお演りになっていますが、やはりちょっとストーリーが違う。
やはり、私は三遊亭になってしまいます。
この噺と圓朝との逸話を見つけました。
明治のジャーナリスト・山本笑月(1873~1936)著の「明治世相百話」という本に、明治28年秋、既に引退していた三遊亭圓朝が、浜町の日本橋倶楽部で催された「圓朝会」に出席し、トリで「一人酒盛」を演じたと書かれているそうです。
それによると、圓朝は、「被害者」の男を、後半まったく無言とし、顔つきや態度だけで高まる怒りを表現、圓朝の顔色が青くなって、真実怒っているように見えたそうです。
名人芸ということでしょう。
その後、圓朝の高弟・二代目三遊亭圓橘が最も得意とし、後の六代目圓生師匠は、子どものころ円橘の高座を聴いた記憶と、三代目蝶花楼馬楽の短い速記をもとにしていたようです。
そして、圓窓師匠の高座本は、その圓生師匠の「一人酒盛」をさらに練り上げて、何と、「一人酒盛」を、"一人芝居"風の演出にしてありました。
ですから、私が演った「一人酒盛」は、台詞を語るのは一人だけ。
これから仕事に出かけようという時に、急用だからとのみ友達の熊五郎に呼び出された留さん。
無理して来てみると、たった今、上方に行っていた知人から、土産に酒をもらったから、二人でのみたいと、誘ったという。
造り酒屋から直接、一升だけ分けてもらった酒の元(原酒)で、めったに手に入らないいい酒とか。
本当なら全部あげたいが、ほかに一軒世話になった家があって、そこへ半分持っていかなければならないから、五合で勘弁してくれと、置いていったという。
飲み友達は大勢いるが、留さんは一番気が合うから呼んだと、お世辞を言われ、酒に目がなく、お人よしの留公はニコニコ。
いい酒がのめると聞いて、仕事などどうでもよくなった。
熊が、炭火を起こして燗をつけてくれの、魚屋に行って刺し身を見つくろってこいのと、自分をアゴで使い始めたのもいっこうに気にせず、台所の板をひっぺがして漬物を出し、また燗をつけ、のみたい一心でかいがいしく動きまわる。
今か今かと、のめと言ってくれるのを待っているのだが、熊、一人でガブガブのみ、勝手な御託ばかり並べ立てるだけ。
ついにがまんしかねて「うまいかい?」と、せいいっぱいのカマをかけても、グイグイ一息にのみ干してから「のんでるときに、何か言っちゃいけねえ」と、耳にも入らない。
「いい酒だね、うまくって、酔い心地がよくって、醒めぎわがいい。七十五日どころか、三年ぐらい生き延びちゃった。おい、もう一度燗をつけてくれ」
いっしょにのみてえのは留さんだけだと、繰り返すので、ついまたつけてやってしまう。
そのうち刺し身をムシャムシャ食いだし、これも独り占め。
そろそろ完全にベロベロになってきて、何かうたえと、からむからぶつくさ言うと「なにもそもそ言ってるんだよォ。酒のんだら、のんだ心持になんなきゃいけないよォ」
留、カッカしてきて燗番を忘れ、酒が沸騰。
熊、どじ助の間抜け、こんなに煮っくりかえしちまってと毒づきながら、酒をフウフウ吹きながらのむ。
そこで五合はおつもり(終わり)。
無冠の太夫おつもり、などと一人駄洒落で悦に入り
「一人でのんじゃもったいないから、おめえを呼んでやったんだ。ありがたく思え。どうだ、うめえだろう」などと言うに及び、留の怒りが爆発。
「なにォ言いやがんでえ、ベラボウめ。うめえもまずいもあるかい。忙しいのに呼びに来やがって、てめえ一人で食らいやがって。てめえなんぞとは、もう生涯付き合わねえや。つらあ見やがれ馬鹿野郎ッ」
畳をけり立てて帰ってしまう。
隣のかみさんがのぞいて
「ちょいと熊さん、どうしたんだよ。けんかでもしたのかい?」
「うっちゃっときなよ。あいつは酒癖が悪いんだ」
・・・この噺は、3回高座にかけています。
◇2014年9月「千早亭落語会」
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/09/post-7688.html
◇2014年10月「深川三流亭」
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/10/post-8c01.html
◇2015年9月「学士会落語会」
学士会落語会の創立10周年記念落語会でした。
・・・この噺も、大切な、大切な噺です。
驚天動地、驚愕のニュース。
オリンピックでの活躍が期待されている、競泳の池江璃花子選手が、自身のツイッターで、「白血病」と診断されたことを公表。
「未だに信じられず、混乱している状況」と心境を・・・。
そう言えば、数日前のニュースで、海外での合宿を切り上げて帰国すると伝えられていました。
あぁぁ、ずっと試合が続き、注目もされ、さすがに疲労が蓄積してしまったんだろうと思っていました。
オーストラリアから緊急帰国し検査を受けた結果、「白血病」という診断が出ました。
未だに信じられず、混乱している状況。
しっかり治療をすれば完治する病気でもあります。
(今後の予定)日本選手権の出場を断念せざるを得ません。
今は少し休養を取り、治療に専念し、1日でも早く、さらに強くなった池江璃花子の姿を見せられるよう頑張っていきたいと思います。
これからも温かく見守っていただけると嬉しいです。
・・・神様は、何と皮肉な。
今では不治の病ではありませんから、まずは治療に専念して、是非復活して欲しいものです。
銀行強盗・・・。
日本の治安の良さは世界でも傑出しているそうです。
外国人旅行者が、その平和・平穏に驚くそうです。
が、かつては、随分物騒だった時代もありました。
空巣や置引、引ったくりや掏り・・・、それに銀行強盗。
国内の金融機関が被害に遭う強盗が過去最多だった平成13年の237件から、29年
には26件と9分の1以下に激減しているそうです。
金融機関側の防犯態勢が整ってきたほか、検挙率が高いことも要因とみられ、犯罪心理に詳しい専門家は「割に合わない犯罪になっている」と指摘。
一方で特殊詐欺や電話で資産状況を聞き出してから襲う「アポ電強盗」など高齢者を狙った犯罪は増加傾向にあり、新たな対策が求められている。
金融機関や郵便局を対象とした強盗事件はバブル崩壊後の不況で増加し、13年に237件の認知件数を記録した。土日や祝日などを除いた営業日でみると、ほぼ1日に1件の割合で発生していた計算になる。
しかし、14年以降はおおむね130〜140件台、20年以降は2桁台となり、29年は26件まで減った。
なかでも銀行強盗は7件で26年以降は10件以下にとどまっている。
・・・確かに、割に合わないでしょうね。
金融機関強盗の減少と入れ替わるように増加したのが、オレオレ詐欺などの特殊詐欺。
平成15年ごろから被害が目立ち初め、16年に認知件数は約2万5700件を記録。
21〜24年は1万件を下回ったものの、25年から再び1万件を超え、26年には被害総額が過去最悪となる約566億円に達した。
最近では、詐欺だけでなく高齢者宅に電話をかけて資産状況を聞き出したうえで直接、現金強奪に向かう「アポ電強盗」の手口も目立ち始めている。
・・・ところで、昔の映画などでは、銀行の金庫には、札束がぎっしり詰まっていましたが、これは全くの虚構。
写真は、銀行の金庫ではありませんが・・・・、
こんな状態ではありません。
せいぜいこんなもの。
・・・だから、割に合わないんですよ。
時代が変わると、犯罪も変わっていくんですね。
もう、「花色木綿」は古いかなぁ・・・。
今朝聴いた、芸能関連のニュース
野口五郎さん。
「新御三家」の一人で、私とほぼ同年輩。
食道がんで手術をされたそうです。
驚きました。
若くて、元気で、人気絶頂の頃をリアルタイムで知っている(一方的に)人なので、やはりショックです。
この人も知ってる。
昔、フジテレビのアナウンサーだった人です。
あぁ、今はお寺の住職になっていたんですね。
なんでも、車のボディに30センチ程度の傷を付けた容疑で逮捕されたとか。
「そんな程度で新聞・テレビ沙汰になるのか?」と思いきや、付近で同じような事件が頻発していて・・・、家族によれば認知症かも・・という。
私は、昔、アナウンサーに憧れていたことがありました。
ですから、学生時代は、夏休みのなどには、毎朝「小川宏ショー」などを視聴していました。
この番組に出ていた、フジテレビの三上彩子アナ、加賀富美子アナ、頼近美津子アナ・・など、女性アナウンサーにも憧れました。
今ほどのタレントではなく、あくまでも局のアナウンサーと言う立場でしたが。
その中で、若手の男性アナウンサーとして活躍していました。
定年を前に、奥さんのご実家の寺の住職になっていたんですね。
まだ70歳を超えたばかりだと思いますが、認知症の疑いがある・・というのがショックです。
自分のことではありませんが、心が折れそうになります。
これが老いということなんでしょうか?
聴くのと演るのとの違いを教えてくれた、とても難しい噺でした。
でも、とても楽しい噺です。
酒を飲んで、熱い鍋をつつくことが出来るんですから。
私にとっては、"脱・人情噺"の初期のチャレンジでした。
原話は、1690(元禄3)年に江戸で出版された小咄本「鹿の子ばなし」の「花見の薬」。
これが同時期に上方で改作され、「軽口はなし」の「煎じやう常の如く」になり、冬の夜回りの話となったようです。
従って、はじめは上方落語の演目として成立。
東京へは大正時代に五代目三遊亭圓生が移したと言われます。
上方では初代桂春團治、二代目桂春團治、二代目露の五郎兵衛らが、東京では、六代目春風亭柳橋、八代目三笑亭可楽、三代目三遊亭小圓朝が得意とした。
桂宗助の高座名は、この登場人物の名に由来するそうです。
圓窓師匠は、八代目可楽師匠が印象に残っているそうです。
先代可楽のこの噺が印象に残る。
師の風貌、声から冬の寒そうな江戸の街を想像できて、聞いていて嬉しさが込み上げてきたものだ。
役人に詰問されるたびに、みなが責任を転嫁するため、ことごとに「惣助さんが」「惣助さんが」と言うその間と惣助さんの困惑顔は他の噺家の追従を許さなかった。
しかし、私は、やはり古今亭志ん朝師匠のがいいですね。
「自身番」というのは、町内の防火のため、表通りに面した町家では、必ず輪番で人を出し、火の番、つまり冬の夜の夜回りをすることになっていました。
といっても、それはタテマエで、たいてい、「番太郎」と呼ぶ番人をやとって、火の番を代行させることが黙認されていました。
ところが、この噺はそろそろ物情騒然としてきた幕末の設定ということで、お奉行所のお達しで、やむなく旦那衆がうちそろって出勤し、慣れぬ厳冬の夜回りで悲喜こもごもの騒動を
引き起こします。
火事は江戸の華で、特に真冬は大火事が耐えないので、町内で自身番を置き、商家のだんな衆が交代で火の番として、夜巡回することになった。
寒いので手を抜きたくても、
定町廻り同心の目が光っているので、しかたがない。
そこで月番のだんなの発案で、二組に分かれ、交代で、一組は夜回り、一組は番小屋で
酒をのんで待機していることに決めた。
最初の組が見回りに出ると、凍るような寒さ。
みな手を出したくない。
宗助は提灯を股ぐらにはさんで歩くし、拍子木のだんなは両手を袂へ入れたまま打つので、全く音がしない。
鳴子係のだんなは前掛けに紐をぶら下げて、歩くたびに膝で蹴る横着ぶりだし、金棒持ちの辰つぁんに至っては、握ると冷たいから、紐を持ってずるずる引きずっている。
誰かが「火の用心」と大声で呼ばわらなくてはならないが、拍子木のだんなにやらせると
低音で「ひィのよォじん」と、謡の調子になってしまうし、鳴子のだんなだと「チチチンツン、ひのよおおじいん、よっ」と新内。
辰つぁんは辰つぁんで、若いころ勘当されて吉原の火廻りをしたことを思い出し、「ひのよおおじん、さっしゃりましょおお」と廓の金棒引き。
一苦労して戻ってくると、やっと火にありつける。
一人が月番に、酒を持ってきたからみなさんで、と申し出た。
「ああたッ、ここをどこだと思ってるんです。自身番ですよ。役人に知れたら大変です」とはいうものの、それはタテマエ。
酒だから悪いので、煎じ薬のつもりならかまわないだろうと、土瓶の茶を捨てて「薬」を入れ、酒盛りが始まる。
そうなると肴が欲しいが、おあつらえ向きにもう一人が、猪の肉を持ってきたという。
それも、土鍋を背中に背負ってくるソツのなさ。
一同、先程の寒さなどどこへやら、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。
辰つぁんの都々逸がとっ拍子もない蛮声で、たちまち同心の耳に届く。
「ここを開けろッ。番の者はおらんかッ」
慌てて土瓶と鍋を隠したが、全員酔いも醒めてビクビク。
「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」
「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」
役人、にやりと笑って
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」
しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ
「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。ところで、さっき鍋のようなものを」
「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ」
もう一杯もう一杯と、
酒も肉もきれいに片づけられてしまう。
「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」
・・・実は、この噺は、「千早亭永久」で、2016年3月に「千早亭落語会」で初演しました。
再演の準備をしているところです。
十八番一覧の中、「一人酒盛」と「試し酒」とで、「乱志の酔っ払い3題」として、これまた財産になっています。
この噺で難しかったのは、「謡」と「都々逸」です。
それから、登場人物が多いので、場面設定が大切です。
・・・この噺、今までの持ちネタの中で、難易度はかなり上位になると思います。
休日の常磐線。
今日午後2時すぎ、JR北千住駅で常磐線の上り普通電車が停車位置をおよそ2メートル通り過ぎて停車。
電車をバックさせると、すでに作動していた先の踏切が故障する可能性があったため北千住駅では乗客を降ろさず、次の南千住駅へ進んだ。
北千住駅で降りる予定だった乗客およそ80人は南千住駅で下り電車に乗り換えて戻った。
運転士は「ブレーキのタイミングが遅れてしまった」と話す。
・・・オーバーランはまずいと思いますが、2メートルの行き過ぎ(だけ)で、踏切が故障する可能性というのも、素人にすると・・・と思ってしまいますが。
我々は、実に微妙な制御システムに乗って守られているんだなぁとは思いますが。
それなら、手前で停めたらどうなるんだろう・・・?
前に進むだけだから、問題はないのでしょうか?
つい最近まで、何メートルかぐらいなら、ちょいとバックしていた気がしますが。
ITの世界になると、良くも悪くもドガチャガが出来なくなるのかな?
「まぁ、いいじゃないか」と、業の肯定は出来ない?
朝日新聞だそうです。
「落語は正面きって述べたてるものではない」桂米朝
落語は「汗を流して大熱演する芸」ではないと、噺家は言う。人の心を震わせ、引っぱり込みつつも、でもこれは「おどけ話」ですよと、外したり、かわしたり。
そして最後は「落ち」(サゲ)で決める。
そう、本気になったら台無しなのだ。
そういう遊びと軽みの感覚で、「大きなことは望まない」、みなが無事に生きられたらいいという、庶民の思いに寄り添う。(鷲田さんという人のコメントらしい。)
・・・なるほど、確かに。
そうなんです。
力の入れ具合が難しいんです。
でも、素人は、とにかく一生懸命にやるしかありません。
「たかが落語」かもしれませんが、「されど落語」でもあり。
米朝師匠だから言える境地と言うか、理想なのかも。
正面きった熱演も、聴き手に届いて疲れさせなければ、素人だとお許しいただきたいものです。
稽古会では、時々、稽古時間の関係で出来なかったり、カットしなくてはならないこともあります。
しかし、我が落語っ子連には遠くから参加してくれているメンバーが多いので、遠隔地のメンバーを優先しています。
一方、メンバーの都合で参加者が少ない時には、一通り稽古が終わっても時間が余ることもあります。
こういう時には、もう1席稽古をしていただくことでバランスを取っています。
他の連では1人何分と決めて、みんな中途半端な稽古になる場合もあるようです。
一度、他の連の稽古で、オチまであと1・2分という所で、「はい時間です」と言われて中断させられたことがありますが、通しでやらないと意味がありません。
今回は前回と同様時間があったので、「長屋の花見」の通しと、「百川」の前半の演読をさせていただきました
演読は、録音することにしています。
師匠から、活字で覚えないようにと言われていますし、もう覚えようという気力や力もありません。
師匠の高座本を、自分なりに演読する訳ですが、これは本息(本番と同じ)を心がけています。
そして、この録音した音源がバーチャルの高座本になって、いつでもどこでも聴き稽古。
英語を覚える"何とかラーニング"と同じです。
本息でやっていますから、スピード、リズム、トーンは、そのまま身体に覚え込ませます。
この段階では、覚えようとしていませんから、言葉は読まないと出て来ません。
聴いていて、直すところなどがあれば、次回の稽古で録音して、バーチャル高座本を更新します。
だから、演読(=稽古)は、いつも本番と同じです。
こうやって自分の噺にして行くのですが・・・。
前作「野ざらし」に続いて、仕草の多い噺を選んだのは、何か思いがあるのでしょうか?
それとも、「権助提灯」のお妾さんに味をしめたか、「紙入れ」も含めて、背徳の噺が好きなのでしょうか?
独身なのに。
「悋気の独楽」は、主人公が定吉です。
子どもだから、会話は声を高くしています。
前回も、師匠から声がひっくり返ると聴き辛いから、腹から声を出すようにとのアドバイスでした。
元々、百梅さんは声はしっかりしているので、あとは、出し方だと思います。
今回も、子どもを演じようと、声が高くなって、裏声になる部分が多くありました。
ここは、声の高さではなくて、語り口調と間で演じるべきなのかもしれません。
プロの噺家さんが、極端に言えば、老若男女、声の高さは変わらなくても、しっかり演じ分けられているのは、流れと口調と間、それから仕草や所作の妙だと思います。
そんなプロの技は簡単には出来ませんが、工夫の余地は十分あると思います。
登場人物を演じ分けるのは、聴き手に想像をしていただく点からも、大切なことだと思います。
3連休で雪ですから、自室に引きこもって、今までの高座のBDを視聴して過ごしています。
何だかんだ言っても、窓口さんとのお付き合いも10年以上にもなりますので、2人の当時の映像を視ると、お互いに月日の流れ(幾星霜)を感じます。
髪の色が黒かったり、体型が今よりはスリムだったり・・。
しかし、師匠の仰る"フラ"は相変わらずです。
今回は「青菜」。
今は真冬で季節外れですが、ネタ下ろしの頃はちょうど良い季節になるでしょう。
この噺も、前半と後半に分かれていて、付け焼き刃が剥がれてしまうパターンです。
この手の噺では、主人公のキャラを前後半で変えるのか、変えずに通すのかが悩ましい。
窓口さんの語り口調から出て来る人物の語りは、窓口さんの"フラ"で、そのまま違和感なく受け入れられる気がします。
稽古は9時から始まります。
仕事や義務ではないので、時間厳守とまでは言いません。
遠くから来る人もいるし、仕事や私用で遅れることもある。
しかし、いくら任意のこととは言え、やはり時間や時刻を守るのは、最低限のマナーだと思います。
学津さん、理由は分かりますが、2度続けて"遅刻"でした。
どこかに何となく甘えがあるのではと、ちょいとお小言を・・・。
社会人として、仕事や私生活でも非常に大事なことですから。
老婆心ながら。
「崇徳院」も、徐々に良くなって来たと師匠のコメント。
登場人物が多くて、キャラも被りますから、しっかりとした人物設定と口調、仕草が大事だと思います。
若さとは素晴らしく、また今夜も、ホームグラウンドの牛久亭の稽古だそうです。
それにしても、1日に2度も、師匠から稽古をつけていただけるなんて・・恵まれています。
こんな宝のような時間と空間を大切にして欲しいと思います。
夢学さんの次なる噺は「厩火事」だそうです。
いよいよ本格的な噺にチャレンジです。
女性が出て来るからか、女性はこの噺が好きなようで、やりたがる人が多いですね。
実は、この「お崎さん」と言う姉さん女房は、"紐"願望が根底にある世の男どもにとっては、理想(格好)の女房なんです。
男が作った落語国の男の論理を、このまま噺をお演りになる女性には、是非ともこの点を理解した上で、それでも構わなければやっていただきたいものだと思います。
単に姉さん女房と亭主の庶民的な愛情を語る噺ではないと。
従ってオチの台詞の言い方によって、男の魂胆が分かろうというものです。
夢学さんがこの噺を選んだのは、以前、越児さんがやっているのを聴いて、とても素敵だと思ったからだそうです。
確かにそれは否定しませんが、実は私もやっているんです・・(^^;
本格的な噺ですから、テンポが必要になります。
さて、どんな可愛い「お崎さん」になりますか。
9時を過ぎても師匠がいらっしゃらないので、雪の影響で道路が渋滞しているかと心配しながらも、稽古は始めていようと。
南房総の2人は所用で途中で退出することになっています。
千公さん、始まる前までは夢学さんに、「先にやっていいよ」と言っていたそうですが、「師匠が来ていないから」と、真っ先に手を挙げましたが、
どういう意図かな・・・?
「粗忽長屋」にチャレンジ中の千公さんは、江戸っ子言葉が課題で頑張っています。
勉強家なので、色々考えたり、工夫をしたりしていますが、要は江戸弁を喋ってなんぼと言うことで。
前回の稽古で気になっていた、「あのよぉ」とか、語尾に「よぉ」とか「よ」のつく台詞が多かったのは、しっかり直していて、随分聴きやすくなりました。
前回の稽古から僅か1週間で、大したものです。
途中で、師匠が入って来られました。
雪の影響ではなく、早めに家を出たら、渋滞もなく早く着いたので、駐車場で待っていたら、思わずうたた寝をしてしまったそうです。
事故やトラブルでなくて良かった。
師匠から、オチの場面の演出にアドバイスがありました。
さぁ「そや寄席」でどんな風に完成させるか・・楽しみです。
この噺は、私にとって、永年"トラウマ"になっていました。
学生生活最後の「卒業生追い出し落語発表会」のトリで、大変な失態をやらかし、永年の心の傷になっていたんです。
そのリベンジのために、約40年近くかかりました。
永年の呪縛から解放されたのが、2011年の「お江戸あおば亭」。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/11/post-29fb.html
そして、第一次落語っ子連の最後の発表会で再演したのが、2012年3月でした。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-8c01.html
「薮入り」というのは、かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が実家へと帰ることのできた休日のことを言います。
旧暦1月16日と旧暦7月16日がその日に当たっていて、7月のものは「後(のち)の藪入り」とも言うそうです。
この噺は、滑稽噺「お釜さま」の、初代柳家小せんによる改作「鼠の懸賞」を、さらに三代目三遊亭金馬師匠が人情噺に改めた演目だと言われています。
従って、演者はまず、明治期のペストの流行と、警察が実施していた懸賞金付きの駆除届出制度について触れることによって、オチの仕込みをします。
商家に奉公している亀ちゃんが3年ぶりに実家へ帰る藪入りの前日の夜。
息子の帰りを待ちきれない父親の熊さんは「あいつの好きなウナギを食わしてやりたい。ああ、あとお汁粉を食わしてやりたい、それから天ぷら、刺身、シャモ、寿司を……」とおかみさんに提案し、「そんなに食べられやしませんよ」とたしなめられる。
「今日は湯に行かせたら、本所、浅草に連れて行きたい。ついでに品川で海を見せて、羽田の穴守様にお詣りして、川崎の大師様に寄って、横浜、横須賀、江の島、鎌倉。ついでに名古屋のシャチホコを見せて、伊勢の大神宮様にお参りしたい。そこから京、大阪を回って、讃岐の金比羅様を……」と。
藪入りの当日。
両親は、玄関で立派に挨拶をする、身長が伸びた亀ちゃんを見て感涙する。
母は湯屋に出かけた亀ちゃんの荷物をふと見て、財布に高額の紙幣が3枚も入っているのに気付く。
奉公先に持たされた小遣いにしてはあまりに高額なため、両親は、「亀が何か悪事に手を染めたのでは」という疑念を抱く。
父親は気を落ち着かせて待とうとするが、いら立ちがつのる。
帰ってきた亀に対し、父親は「このカネは何だ」となじる。
亀は、「人の財布の中を見るなんて。これだから貧乏人はいやなんだ」と言い返したので、熊さんはすかさず殴り飛ばしてしまう。
母親は父親を制止し、「じゃあ、どうやって手にしたおカネなのか」と泣きながら問いただすと、亀は「そのおカネは、いやしいことで手にしたものではなく、店で捕まえたネズミを警察に持って行って参加した懸賞が当たって、店のご主人に預けていたもので、今日の藪入りのために返してもらってきたところだ」と答える。
両親は安心するとともに、我が子の徳と運をほめたたえる。
父親は「これからもご主人を大事にしろ」と亀吉に教え、次のように言う。
「これも忠(チュウ)のおかげだ」(=ネズミの鳴き声と掛けた地口オチ)。
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・・・ところが、圓窓師匠の高座本は違っていました。
師匠は、もう「鼠の懸賞」も、「忠」と言う言葉も分からない。
オチとしても、あまり良くない地口だから、という訳で、ストーリーを変えています。
それから、これは私のこだわりですが、舞台を明示でなく江戸時代にしました。
亀ちゃんが財布に入れていたのは、3両にしました。
今の貨幣価値でいうと、20~30万円のイメージです。
そして、そのお金は、懸賞の当選金ではなくて、遣いの途中、吾妻橋で拾って届けた物が、持ち主が見つからなくて亀の物になったという設定。
それから、実は、亀は夫婦の本当の子どもではなく、熊さんが、吾妻橋で捨てられていた赤ん坊を拾って来て、こどものいない夫婦が我が子のように育てていたと。
拾った子を大事に育てる、拾った金を大切にする・・・。
オチは「亀、拾ったものは大事にしろよ」。
これから、もっと練っていく必要が゜あります。
「藪入り」の習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代だそうです。
本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされますが、都市化の進展に伴い、商家の習慣へと転じたようです。
関西地方や鹿児島地方ではオヤゲンゾ(親見参)などと呼ぶところもあり、六のつく日に行われることから、関西では六入りとの呼び名もあるそうです。
藪入りの日がこの二日となったのは、旧暦1月15日(小正月)と旧暦7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先や奉公先での行事を済ませた上で、実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされています。
そのうちに、地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる賽日であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになりました。
藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出します。
実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しみました。
また、遠方から出てきた者や成人した者には、実家へ帰ることができない者も多く、彼らは芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだそうです。
藪入りは正月と盆の付随行事であったため、明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われると、藪入りも正月と盆に連動してそのまま新暦へと移行。
文明開化後も商家の労働スタイルにはそれほどの変化はなく、さらに産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となりました。
藪入りの日は、浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって大きく発展。
第二次世界大戦後、労働基準法の強化などにより労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると藪入りはすたれ、正月休みや盆休みに統合されるようになりましたが、藪入りの伝統は正月や盆の帰省として名残を残しています。
・・・生まれ故郷を離れて、仙台で初めて一人暮らしをした時のホームシックを思い出しながら、この「藪入り」を心を込めて演り続けたいと思います。
久しぶりの中継録音です。
◇「粗忽長屋」 柳亭小痴楽
今年の秋に真打昇進だそうです。
珍しく1人真打ですから、評価は高いのかな?
落語芸術協会だから、よく分かりません。
「抱いてる俺は一体誰だろう?」と言うオチの言い方は、圓窓師匠なら駄目出しされますね。
◇「雑俳 」橘家文蔵
強面でね。
悪い人じゃないと思いますが、イメージが悪い。
今日はいつになく?優しい雰囲気でやっていた気はしましたが。
2人とも、そこそこ人気のある噺家さんです。
が、まことに申し訳ありませんが、私は苦手な部類です。
キャラクターは違いますが、共通なのは、謙虚さがないから。
そのキャラが彼らの売りだという部分だというのも分かります。
それを否定はしませんが、私は理屈抜きに好きになれないのも本音です。
申し訳ないですが。
予報が当たらずに評判の悪いお天気関係者ですが・・・。
明日もまた雪が降るとのことです。
朝は神奈川・千葉など南部を中心に雪が降り、都心や埼玉でも雪の降る所がありそうです。
昼前は千葉の広範囲と東京23区が雪雲がかかりやすくなります。
降り方自体はきのうより弱い傾向ですが、千葉の内陸部ではうっすら積もるくらいの雪になり、路面が滑りやすくなります。
昼すぎは雪や雨を降らせる雲は東へ離れていき、ゆっくり天気は回復傾向です。
夕方は所々で晴れ間が出てきますが、雲が多く、気温も朝からほぼ横ばいです。厳しい寒さが続き、濡れた路面は乾きにくいでしょう。
・・・だそうです。
さぁ、狼はやって来るでしょうか?
私は、天気予報が外れた!とは思いません。
元々、将来のことなんですから、当たらなくて当然、出来るだけ近い予報があれば、まごついたりしない・・程度で良いんです。
3週連続の稽古会。
まず、夢学さんから、男性全員にバレンタインデーの大喜利・・ではなく大義理チョコをいただきました。
夢学さん、親戚でもないのにありがとうございます。
稽古は、6名参加でした。
◇「粗忽長屋」三流亭千公
◇「厩火事」三流亭夢学
◇「崇徳院」三流亭学津
◇「青菜」三流亭窓口
◇「悋気の独楽」三流亭百梅
◇「長屋の花見」三流亭流三
◇「百川」三流亭流三(途中まで)
昨日の雪の影響もほとんどなく、師匠が少し遅く着かれたのですが、早く駐車場に着いて、車内で居眠りをしていたためと分かり、一同、安心しました。
時間が余ったので、「百川」の途中まで演らせていただきました。
続けてやったので、足が痺れて、喉がガラガラになりました。
もう、どこでも何でもあり状態(`´)
←下手人はこいつです。
横浜市神奈川区のセブン―イレブン横浜高島台店の男性アルバイト店員が、店舗内で不適切な動画を撮影してネット上に投稿していたそうです。
7日未明、店員がおでんコーナーからシラタキを取り出して口にくわえ、はき出したりする様子を別の男性アルバイト店員が撮影。
その後、動画がSNS上に投稿された。
店のオーナーが2人を解雇。
セブンイレブンでは「お客様に大変不快で不安な思いをさせて深くおわびします」と謝罪。
こういうことをしでかす大バカな本人たちは、事の重大性を全く理解していません。
愚行のおかげで信用を失墜して、店や会社が休業や倒産に至ることもあります。
多額な損害賠償を請求されても、賠償する資力もなく、本人だけでなく一族もろともに負債を抱えることにもなります。
後になって反省し、事の重大性を知って謝っても、時既に遅し。
誰も同情しない、何の情状もない。
しかも、こんなにはっきり顔が拡散して・・・。
因みに、私はコンビニのおでんは買ったことがありません。
見るからに不衛生ですから。
置いてある場所も入れ物(鍋?)も、作り方も売り方も。
以前から見るのも嫌でした。
花見やお祭りなどの、砂まみれの団子や焼きそばみたいで。
【最近の不適切動画】
▼ビッグエコー(昨年12月)
従業員とみられる人物が唐揚げ用の鶏肉を床にこすり付け、フライヤーへ投入
▼すき家(先月21日)
アルバイト従業員が店内で氷を投げ合ったり、股間に調理用のおたまをあてがった
▼はま寿司(今月)
客がレーンを流れている寿司を素手でつかみ、わさびを盛り付け
▼くら寿司(4日)
アルバイト従業員が、ゴミ箱に捨てた魚を拾い上げ、まな板の上に戻そうとした
▼セブン―イレブン(7日)
アルバイト従業員がおでんのしらたきを口に入れて出した後、商品のタバコを触りながら満面の笑みで踊る
・・・氷山の一角でしょう。
富士山も活火山です。
昔は休火山て、有給休暇を取っているようでしたが、最近はいつ噴火してもおかしくない山だということになっています。
温泉やスキー場の近くに、活火山の火口があるかもしれない?
去年、群馬県の草津白根山のスキー場付近で発生した噴火。気象庁が重点監視していた火口とは別の“ノーマーク火口”で起きた突然の噴火だったそうです。
その後、同様のリスクは全国21の火山で確認されたそう。
気象庁は監視の強化に乗り出しましたが、この中に「富士山」も含まれているそうです。
ノーマーク火口は市街地からわずか1.5キロの場所。
富士山の最後の噴火は300年以上前の江戸時代。
数百年程度の活動休止は、火山の寿命の中で“束の間の眠り”だとして「過去1万年以内に噴火した火山は活火山」という考え方だそうです。
富士山で、将来、噴火の可能性が否定できない新たな火口と言うのは、「雁ノ穴火口」と呼ばれ、山頂から北東におよそ10キロ離れた自衛隊の演習場の中。
存在は以前から知られていましたが、最新の調査で約1500年前にも噴火が起きていたことがわかってきた。
この火口は、従来の想定火口域の外側にあるため、監視カメラも無く防災計画もない“ノーマーク火口”です。
富士吉田市の市街地までの距離はわずか1.5キロ。
気象庁は万が一の噴火を見逃さないよう、新たにカメラでの監視を行うことを決定。
富士吉田市なども今後「雁ノ穴火口」を想定火口域に含めてハザードマップの改定を進める。
日本はやはり火山列島なんですね。
今朝は、相撲の噺が2席でした。
相撲の噺もいくつかあります。
「阿武松」「佐野山」「花筏」「稲川」「大安売り」そして「半分垢」「素人相撲」「小田原相撲」・・・。
◇「半分垢」五代目古今亭志ん生
くだらないというか、荒唐無稽と言うか・・・。
江戸相撲へ修業に行っていた上方相撲の関取が3年ぶりに朝早く帰って来た。
これを聞いた金さんが関取の顔が見たいとやって来る。
金さんは関取のおかみさんに、江戸での修業でさぞかし立派に大きくなっただろうと言うと、おかみさんはおっちょこちょいの金さんをからかってやろうと、
おかみさん「3年ぶりに見違えるほど立派に、大きくなって帰ってきました。ズシン、ズシン、ベリバリボリバリと地響きをたて、大声で屋根の瓦は飛んでしまい、雨戸がはずれてしまいました。驚いて外へ飛び出した途端に大きな柱におでこをぶつけてしまいました。よく見ると関取の向うづねでした。背は2階の屋根より高く、頭は一斗樽のようで目玉は炭団くらいあります。家の中に裏の雨戸をはずして、這って入りました。帰る途中で牛を3頭踏み殺したそうです。朝飯を5升食べて、布団を3枚つなげて寝ていますが、へそまでしかかぶりません」。
これを聞いた金さん、驚いて目を白黒させて帰って行った。
奥で休んでいた関取が出てきて、「”卑下も自慢”というたとえがある。江戸から帰りの三島の宿で、日本一の富士山の大きな姿を見て宿の女中に、”朝夕雲の上の大きな富士山が見られて姐さんたちは果報者だ”と言うと、”朝夕見ているとさほど大きく見えません。大きく見えても半分は雪でございます”、と謙遜した返事だった。それを聞いてかえって富士山が大きく見えた。”卑下も自慢”とはこういうことだ」、と意見する。
しばらくして町内の若い衆が訪ねてくる。
金さんから聞いて、大きくなって戻ってきた関取を一目見たいと。
おかみさん「いいえ、関取は今朝、小さく、小さくなって帰ってまいりました。蚊の鳴くような声で呼ぶので外へ出ると、”声はすれども姿は見えず、ほんにあなたは何とやら”でよく探すと下駄の刃の間にはさまっていました。頭は一口饅頭ほどで、目はあずき粒です。戸の節穴からスルッと、あぶら虫のように入ってまいりました。帰る途中で虫を三匹踏み殺したそうです。さっき朝飯を5粒食べ、座布団で寝ています」。
これを奥で聞いていた関取、あまりに馬鹿馬鹿しく、いたたまれず大きなどてらを羽織って、ドスン、ドスン、大声をあげて出てくる。
おかみさんの話とは大違い、若い衆はびっくりして、こんなに大きく立派じゃないかと言うと、
おかみさん「朝夕見ておりますとそんなに大きゅう見えません」
若い衆「何をいうか、家の中いっぱいやないか」
おかみさん「いいえ、こんなに見えましても半分は垢でございます」
・・・この噺は、確か、圓窓師匠の「五百噺」の記念すべき第1席目だったはず。
◇「相撲風景」六代目三遊亭圓生
同じ演目で、各師匠方がそれぞれオリジナルでやっています。
八代目雷門助六、初代林家三平・・・。
圓生師匠も、時々、「おかふい」とか「江戸の四宿」とか、軽い噺をお演りになっていました。
・・・私も、「花筏」がやりたくなりました。
圓窓師匠に稽古を付けていただいた噺も、少しずつ増えて行きました。
当時は、今のような高座本ではなく、私は、学生時代のネタ本を再度作ったりしていました。
柳家権太楼師匠と五街道雲助師匠のCDも参考にしました。
そして、ネタ下ろしは、「第2回お江戸OB落語会(現・お江戸あおば亭)」の主任でした。
学生時代に、十代目金原亭馬生師匠をラジオで聴いたことがあって、心に留まっていた噺でした。
ただ、元々は、人情噺の色合いの少ない噺で、唐突に与太郎と戸隠様が出て来るのには違和感がありました。
明治28年7月、「百花園」掲載の名人四代目橘家圓喬の速記が残っているようです。
そして、戦後、若き日に円喬に私淑した五代目古今亭志ん生師匠が、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ、十八番にしていました。
それからもう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬師匠で、こちらは圓喬→三代目圓馬と継承された人情噺の色濃い演出でした。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2011/05/post-ae37-1.html
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神田・お玉ヶ池で小間物問屋を営む甚兵衛さんは、夏の佃島で開かれる祭りを楽しみにしていた。
その当日、妻から「祭りが紅白粉付けて待ってるんでしょ?」などとヤキモチを焼かれながらも「暮6つ(現在の18時頃)の終い船(渡し船の最終便)に乗って、今日中には必ず帰る」と言って出掛ける。
佃島に着いた甚兵衛さんは祭りを存分に楽しんで、気が付くともう暮6つ。
急いで船着場に行き、乗客でいっぱいの終い船に乗ろうとすると、突然見知らぬ女に袖を引かれる。
行こうとする甚兵衛さんと引き留めようとする女、お互い揉めているうちに終い船は出発してしまう。
船に乗り損ねてがっかりする甚兵衛に対し、女曰く「3年前、奉公先の金を失くして途方に暮れた末に吾妻橋から身を投げようとしていたところ、見知らぬ旦那様から5両のお金を恵まれまして、おかげで命が助かりました。何とかお礼をしたくずっと探し回っておりましたところ、ようやくここでお会いすることができましたので、夢中で引き留めてしまいました」
「ああ、そう言えばそんな事もあったな…。でも、今日中に帰らなければうちの女房がうるさくて…」
「夫が漁師をやっておりますので、帰りの船はいつでも出せます。是非我が家へどうぞ」
いつでも帰れると聞いてようやく安心した甚兵衛さん、女の家へ招かれてお酒や佃煮など魚料理をご馳走になっていると、やがて外がにわかに騒がしくなる。
聞けば、先ほどの終い船が客の乗せすぎで沈没し、乗客が全員溺れ死んでしまったとのこと。
甚兵衛さんはこれに仰天。
もし3年前に彼女を助けていなければ、そのままあの船に乗って死んでいただろう…と、自分を引き留めてくれた女に感謝する。
一方、甚兵衛さんの自宅では終い船沈没事故の話が伝わって大騒ぎ。
妻と近所の長屋の連中は甚兵衛さんが死んだと勘違いし、遺体の確認をする前から葬式の準備を進め、一同お悔やみの後にお坊さんを呼んで仮通夜を営んでいると、何も知らない当の甚兵衛さんが戻ってきたものだから「ヒィーッ!ゆ、幽霊?」と、一同腰を抜かしてしまう。
でも、甚兵衛が事情を説明すると誤解が解けて一安心。
最早出番の無くなったお坊さんも「これぞ因果応報。甚兵衛さんはかつて女の命を救った為、それが今、自らの命を救う形で戻って来たのです…」と長屋の連中に説いて回った。
皆が次郎兵衛の無事を喜んでいる中、ただ1人与太郎だけは「身投げをしようとしている女に5両あげれば自分の命が助かる」と思い込んでしまい、家財道具を売り払って5両の金を工面し、毎日橋の上や川沿いで見張っていると…或る日、袂に何か重そうなものを詰めた女が涙をためながら川へ向かって手を合わせているのが見えた。
与太郎、これぞ身投げだと大喜びで女を捕まえて、
「これこれ身投げはよしなさい、5両あげるから」
「身投げじゃないよ!あたしゃ歯が痛くて戸隠様にお願いしていたんだ」
「だって、袂にたくさんの石が…」
「これは、お供え物の梨だよ」
・・・という。
私は、権太楼師匠と同様、人情噺仕立てにして、与太郎の梨の部分はなしにしました。
ただ、権太楼師匠はオチを付けていなかったので、雲助師匠のオチを拝借しました。
ところで、明和6(1769)年旧暦3月4日、佃島の住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆・沈没し、乗客三十余名が溺死する大惨事にあったそうです。
翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押込など、町役にも相応の罰が課されたそうです。
噺は、この事件の実話を元にできたものかもしれません。
佃の渡しは古く、正保年間(1644~48)以前にはあったといわれます。
佃島の対岸の鉄砲洲船松町一丁目(現中央区湊町三丁目)が起点でした。
千住汐入の渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、300年以上も存続しましたが、昭和39(1964)年8月に佃大橋完成とともに廃されました。
私は、落語の空間を想定するのに、実際の距離感と言うのが物凄く重要だと思います。
例えば、神田の住人が吉原や品川に遊びに行く距離感。
吾妻橋から吉原を見た時の距離感。
この噺を演る時には、佃に行きました。
そして、この「佃島渡船」の碑から、対岸(明石町)方面を。
それは、佃の渡し船の大川(隅田川)での距離感をイメージするためです。
勿論、現在と当時とはかなり違っているはずです。
しかし、対岸を望む角度、川の幅、波の高さ・・・。
落語の語りには出て来ませんが、私の頭の中には、この空間がビルトインされています。
これは、別にこの噺だけではなくて、「文七元結」でも、「ねずみ」でも、「火事息子」でも、すべて空間設定をしています。
「佃祭り」は、佃住吉神社の祭礼です。
旧暦で6月28日、現在は8月4日で、天保年間(1830~44)にはすでに、神輿の海中渡御で有名だったそうです。
ところで、この噺の原話を遡ってみると、どうやら中国・明代の説話集「輟耕録」中の「飛雲の渡し」に至るようです。
名奉行としても知られた根岸鎮衛(肥前守、1737-1815)が、著書「耳嚢」(文化11=1814年刊)巻六の「陰徳危難を遁れし事」として翻案したものが原話だということです。
サゲの部分の梨のくだりは、式亭三馬(1776-1822)作の滑稽本「浮世床」(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたもの。
中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋ですが、これは、落語「ちきり伊勢屋」の原話でもあります。
「耳嚢」の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。
筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに佃渡船の惨事を前提にしているものでしょう。
ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあって、「老いの長咄」という随筆(筆者不明)中に、主人の金を落して身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという
実話として紹介されています。
いずれにしても、「情けは人のためならず」ということでしょう。
「何とか詐欺」の被害が相変わらず物凄いようです。
身内になりすましたものだけではなくて、最近は役所の担当者を語ったりして、善良な高齢者などを中心に毒牙を光らせている・・・?
冷静に考えれば、そんな筈はないことが分かるのに。
一種のパニック状態になってしまうんですね。
日本人は、とにかく基本的に人を疑わない。
それから、活字と役所や大手企業などに弱い・・・。
役人や弁護士や銀行員の言うことは、ほぼ妄信してしまうかも。
最近は、「改元」をキーワードにした詐欺口上が出ているようです。
とにかく、暗証番号やパスワードを口頭で聴かれたり、紙に書いたりすることは、絶対にないと思います。
気をつけましょう。
落語の「花筏」とは違いますから。
この噺も学生時代に演った思い出の噺です。
2年生の時の「仙台落語勉強会」です。
この「仙台落語勉強会」は、落研の主催で、若手のプロの噺家さん(二つ目)3人に仙台に来てもらい、我々も高座に上がって競演(勉強)するというものでした。
この時に、後に「三遊亭圓丈」になって大活躍される「三遊亭ぬう生」さんもいらっしゃいました。
音源は確か三遊亭圓楽師匠のテープを参考にしました。
圓楽師匠の音程とペースが合っている気がして、学生時代は、かなり参考にさせていただきました。
この「花筏」のほか、「ねずみ」「藪入り」「浜野矩随」なども。
それから、マクラの部分は柳亭市馬さんを参考にしました。
https://www.youtube.com/watch?v=4HHdU7j-re8
お相撲さんが主人公の噺です。
2010年5月。
落研OB会の悲願だった、東京でのOB落語会(お江戸OB落語会・現在のお江戸あおば亭)の第1回目の演目に選びました。
その高座に上がる時の緊張した写真です。
場所は、「浅草ことぶ季亭」でした。
当日の番組は、卒業年次順という感じで、さすがの私も、最初から人情噺という訳にもいかず、浅い時間に「花筏」でご機嫌をお伺いしました。
ちょっと気取ってマクラを振っています。
マクラの呼び出しさんのところでは、客席から拍手をいただき、とても嬉しかったのを覚えています。
「東ぃ~、栃東ぁ、栃東ぁ~。西ぃ~・・・」と。
提灯屋の七兵衛の家を、知り合いの相撲の親方が訪ねてきた。
聞けば、患っている部屋の看板力士・大関花筏が、明日をも知れない容体だという。
実は親方、銚子で相撲の興行を請け負ったが、向こうは花筏一人が目当てで、顔を見せるだけでも連れていかないわけにいかず、かといって延期もできないしと、頭を抱えていた時思い出したのが提灯屋で、太っていてかっぷくがよく、顔は花筏に瓜二つ。
この際、こいつを替え玉にと、頼みにやって来た次第。
相撲は取らなくてもいいし、手間賃は一日二分出すという。
提灯張りの手間賃の倍だから、七兵衛もその気になった。
その上、のみ放題食い放題、どっかとあぐらをかき、相撲を見ていればいいというのだから
おいしい話。
早速、承知して、銚子へ乗り込むことになった。
相撲の盛んな土地で、飛び入りで土地の者も大勢とっかかる中、際立って強いのが、千鳥ケ浜大五郎と名乗る網元のせがれ。
プロを相手に六日間負けなしで、いよいよ明日が千秋楽。
こうなると勧進元が、どうしても大関花筏と取らせろと、きかない。
病人だと断っても「宿で聞いてみたら、酒は一日二升、大飯は食らうし、色艶はいい、あんな病人はない」と言われれば、親方も返す言葉がなく、しぶしぶ承知してしまった。
驚いたのは提灯屋。
あんなものすごいのとやったら、投げ殺される。
約束が違うから帰ると怒るのを、親方がなだめすかす。
当人もよくないので、大酒大飯だけならともかく、宿の女中に夜這いに行ったのを見られてはどうにもならない。
「立ち会いに前へ手をパッと出し、相手の体に触れたと思ったら後ろへひっくり返れ。そうすれば、客も病気のせいだと納得して大関の名に傷もつかず、五体満足で江戸へ帰れる」
と親方に言い含められ、七兵衛も泣く泣く承知。
一方、千鳥ケ浜のおやじは、せがれが明日大関と取り組むと知って、愕然。
向こうは今までわざと負けて花を持たせてくれたのがわからないかと、しかる。
明日は千秋楽だから、後は野となれで、腕の一本どころか、投げ殺されかねない。
どうしても取るなら勘当だと、言い渡す。
翌朝、千鳥ケ浜は辞退しようとしたがもう遅く、名前を呼び上げられ、いつの間にか土俵に押し上げられてしまった。
提灯屋、相手を見ると恐いから、目をつぶって仕切っていたが、これでは呼吸が合わず、
行司がいつまでたっても「まだまだッ」
しびれを切らして目を開けると、
千鳥ケ浜の両目がギラリと光ったから、驚いた。
これは間違いなく命はないと悲しくなり、思わず涙がポロポロ。
脇の下から、冷や汗がたらたらと流れる。
土俵に吸い込まれるように錯覚して、
思わず「南無阿弥陀仏」
これを見て驚いたのが千鳥ケ浜で、土俵で念仏とは、さてはオレを投げ殺す気だと、こちらも涙がポロリ、冷や汗タラリで「南無阿弥陀仏」
両方で泣きながらナムアミダブツ、ナムアミダブツとやっているから、まるでお通夜。
行司、しかたなくいい加減に「ハッケヨイ」と立ち上がらせると、提灯屋は目をつぶって両手を突き出し、「わァッ」と後ろへひっくり返ったが、片方は恐怖のあまり立ち遅れて、目と鼻の間に提灯屋の指が入り、先に尻餠。
客が「どうだい。さすがは花筏。あの人の張り手は大したもんだ」
張り(=貼り)手がいいわけで、提灯屋だから。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2010/05/post-8fc1.html
もともと講釈(講談)ダネで、古くからある上方落語「提灯屋相撲」を、三代目三遊亭圓馬が東京に移植したものです。
東京では、昭和20~30年代に八代目三笑亭可楽、八代目春風亭柳枝、その後五代目三遊亭圓楽師匠が得意としたほか、現在でも時々寄席の高座にかかっています。
ところで、この噺では「花筏」は大関の四股名ですが、もっと美しいものの名前になっています。
まずは、植物の「花筏」。
春に、葉の真ん中あたりに花をつけ、 夏に同じ場所に黒っぽい実をつける。
葉の中央につく花を「筏に人が乗った姿」に見立てて名付けられたのでしょう。
それから、もう一つは風流な「花筏」。
桜の花が散って、花びらが水に帯状に浮かんで流れるさまを「筏」に見立て呼ばれています。
・・・この噺、言い方をかえると「八百長相撲」ということになります。
そこは、業を受け入れる落語ということで、大らかに聴いていただきたいものです。
北海道は、記録的な低温になっているそうです。
60年前の観測開始以来の記録的な状態だと・・・。
札幌市の最高限気温が、氷点下10度を下回った(。>д<)
私の経験では、生活レベルでの最低気温は、学生時代の仙台で、氷点下9度だったことがありました。(;_;)/~~~
部屋で石油ストーブと炬燵で暖を取ったのを覚えています。
現在真夏の南アメリカ大陸では、氷河のある場所の気温が35度を超えたそうです。
北半球の各国でも、寒波で犠牲者が出ているそうです。
きっと、「おはよう」が凍ったり、池に鴨が舞い降りた瞬間に池が凍って、鴨刈り(狩りではない)学生出来るようになる。
春になると、鴨の足から芽が出る。
これが鴨芽(カモメ)。
生卵も凍ってしまうので、生卵を食べたかったら茹でないと生卵になりません。
明日の雪の予報が少し変わって、都心でも積雪となり、連休の最終日も雪の可能性があるようです。
関東は明朝から雪が降りはじめ、昼過ぎには広い範囲で雪。
夕方以降は止む所も多いですが、千葉県や茨城県、栃木県を中心に、夜も雪の残る所がありそう。
10日(日)午前0時までの24時間に予想される降雪量は、いずれも多い所で、関東の平野部で5~10センチ、北部の山沿いで10~20センチ。
東京23区も含めて雪が積もり、大雪となる所もありそう。
その後、10日(日)は晴れ間が戻るものの、11日(祝・月)は再び降雪の予想。
千葉県や茨城県の関東東部は、朝から長時間に渡って降るようです。
雪に弱い首都圏ですから、スリップ事故や、入学試験などへの影響が心配です。
常磐線の快速電車は、明日の9時頃から、成田線への乗り入れを中止することを、早くも決めたそうです。
帰りの電車内でアナウンスされていました。
明日は1日自宅で静かにしていた方が良いかな?
世界の各地で異常気象が続いているようですから・・・。
「成金」とか言う若手噺家のグループがあるようです。
その活動が間もなく終わるようですが、代わって「芸協カデンツァ」という、10人のグループが出来るそうです。
名前の通り、落語芸術協会の二つ目さんたち。
「カデンツァ」と言うのは、芸協の事務所が、西新宿の「芸能花伝舎」にあるからでしょう。
新宿中央公園の近くの、閉校になった小学校の建物を利用した、とても不思議な雰囲気の場所です。
私は、徒党を組むのは好きではありませんが、昔から、似たような動きはありましたし、噺家さんの数も増えて、競争も激しくなっていますから、自然な流れかもしれません。
ただ、単なる大騒ぎ集団にはならないで欲しいと思います。
因みに、落語芸術協会ということもあり、私はメンバーの1人も知りません。
先日の「深川三流亭」のBDを、いつものように、越児さんが編集して送ってくださいました。
あの、超満員だった・・・。
例によって、ディスクの写真は、恐らくメンバーに合わせて作ってくださっています。
出演者が、師匠も含めて10名でしたから、とても賑やかです。
早速、視聴させていただきました。
気になったのは、全般的に、高座に上がってお辞儀をする所作が雑に思えるところです。
ここの高座は、とても上がりやすいはずですから、もっと節度をつけて、丁寧にしないと。
今度の稽古の時に、みんなに言おうと思います。
噺の出来栄えは、それぞれ稽古の成果が出ていたと思いますが。
さて、私の「天災」ですが、思っていたよりも酷くなかったようです。
途中、言葉が出なかったのが2ヶ所、上下が逆になった場面が1ヶ所ありました。
これは動画を見るまでもなく、その瞬間に分かっていましたが。
それよりも、全体の流れやリズムは、最初から最後まで変わらず、とてもよかった気がします。
なるほど、いつものことながら、大変参考になりました。
越児さん、いつもありがとうございます。
大バカな奴らが大騒ぎする渋谷は、それでなくても駅と周辺の再開発で大騒ぎです。
かつて、4年以上も通った思い出深い場所ではあるのですが、どうも・・・。
同じように通った、大手町、新宿、青山、赤坂、横浜などという所と比べても、トップクラスの喧騒の街です。
東京メトロが、銀座線渋谷駅の移設工事の現場を報道陣に公開。
鉄骨アーチが連なるM字のホームの屋根が初めて披露された。
現在は東急百貨店の3階部分にありますが、約130メートル東の明治通りの真上に移設され、2019年度中に使用開始の予定。
新駅舎の屋根は高さ最大約9メートルのアーチを45本連ねてアルミやガラスのパネルで覆う構造。
屋根上部には自由通路を整備し、「渋谷ヒカリエ」や、今年秋開業予定の「渋谷スクランブルスクエア」といった商業施設、JR渋谷駅などに行き来できるようになるそうです。
1日約22万人が利用する地下鉄駅は、1938年の開業以来大規模改修が行われておら
ず、ホームの狭さや設備不足が課題でしたが、移設後はホームを拡幅し、未整備のトイレ
やエスカレーターも設けるそうで・・・。
でも、ビルの3階から出る地下鉄と言うのは、変わらないんでしょう。
あぁぁ、そうか。
地下鉄はここから入れるんだ。
春日三球師匠に教えてあげないと・・・。
十八番一覧の中でも、比較的新しい持ちネタです。
とは言え、とても手強い噺でした。
落語も、演者によって、同じ噺でもニュアンスが変わるものです。
この噺も、どちらかと言うと、バリバリの人情噺というよりも、前半の近火のお店のドタバタに力点が置かれることが多い気がする。
しかし、例によって、圓窓師匠の高座本をベースに、後半の父母(老夫婦)の会話にスポットを当てて、人情噺仕立てにしました。
江戸時代の消防組織には、町火消と若年寄直轄の火消屋敷があった。
神田の質屋伊勢屋の一人息子の藤三郎は子どもの頃から火事が好きでしょうがない。
ついには火消しになりたくて町内の鳶頭のところへ頼みに行くが断られ、他所へ行っても鳶頭から回状がまわっていてだめ。
仕方なく火消屋敷の火事人足、臥煙になる。体中に刺青(ほりもの)をし、家(父親)から久離を切って勘当されてしまう。
今では親と喧嘩をして「おまえなんか勘当だ」と家を追い出されても法律上は親子のままですが、江戸時代は、連帯責任が及ばないように子を籍から除いて、親子の縁を完全に切ることができました。その手続きを「久離を切る」と呼びました。キュウリを輪切りにした訳ではありません。
ある北風が強い日に、店の近くから火事が出た。
質蔵の目塗りをしようと左官の親方を呼んだがこっちまで手が回らないという。
さいわい火元からは風上だが万一人様の物を預る質蔵に火が入っては一大事と、あるじは高い所を怖がる番頭を蔵の屋根へ上げ、定吉に土をこねさせ屋根へ放り上げるが番頭は怖がって上手く受け取れない。
顔に土が当たって顔に目塗りをしている有様だ。
するとこれを遠くから見ていた一人の臥煙が屋根から屋根を伝わってきて、番頭の帯を折れ釘に結んだ。
これで両手が使えるようになり、番頭はこれで踊りでも何でもなんて両手をひらひらさせている。
やっとのことで目塗りも出来上がる。ちょうどその頃、火が消えたという知らせ。
そうなると今度は火事見舞いの人たちが入れ替わり立ち替わりやってきて忙しい。
紀伊国屋さんからは風邪をひいた旦那の代わりにせがれが来た。
思わず自分の息子と比べ羨ましいかぎりで思わず愚痴も出る。
そこへ番頭がさっき手伝ってくれた臥煙が旦那に会いたいと言っていると取り次ぐ。
旦那は店に質物でも置いてあるのだろうと思い返しあげなさいと言うが、番頭は口ごもってはっきりしない。よくよく聞いてみると臥煙は勘当した息子だという。
もう赤の他人なんだから会う必要なんかないという旦那を、他人だからこそお礼を言うのが人の道だと諭され、それも道理、一目会って礼を言おうと台所へ行く。
竈(かまど)の脇に短い役半纏(やくばんてん)一枚で、体の刺青を隠しようもない息子の藤三郎が控えている。
お互いに他人行儀のあいさつをかわし、旦那は息子の刺青を見て、「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始なり」と教えたのに親の顔へ泥を塗るとはお前さんのことだと嘆く。
旦那が「お引取りを」、「それではこれでお暇を」と息子が言うのを番頭が引きとめ、おかみさんを呼ぶ。
奥から猫を抱いたおかみさんが出てくる。火に怯えずっと抱いたままだという。
番頭「若旦那がお見えでございます」
おかみさん せがれの寒そうななりを見たおかみさん、蔵にしまってある結城の着物を持たせてやりたいと涙ぐむ。
旦那「こんな奴やるくらいなら打っちゃってしまったほうがいい」
おかみさん「捨てるぐらいならこの子におやりなさい」
旦那「だから捨てればいい。捨てれば拾って行くから」
おかみさん「よく言っておくんなさった。捨てます、捨てます、たんすごと捨てます。この子は粋な身装(なり)も似合いましたが、黒の紋付もよく似合いました。この子に黒羽二重の紋付の着物に、仙台平の袴をはかして、小僧を伴につけてやりとうございます」
旦那「こんなやくざな奴にそんな身装をさしてどうするんだ」
おかみさん「火事のおかげで会えたから、火元に礼にやりましょう」
「お江戸あおば亭」の終演後の楽屋で、ある先輩が、「人情噺にしたんだね」と仰いましたので、「はい。圓窓師匠が人情噺でお演りですので」と答えました。
私は、後半の父親と母親の、息子に対する対照的な姿を描こうと思いました。
父親の「前へ出ろ!」と、母親の「(彫り物が)綺麗だね」をキーワードにしました。
息子を思う父と母の違いを明確に描きたかった。
そして、それぞれを聴き手に納得していただきたかった。
父親の業、母親の業の違いを人情噺にして語りたかった。
「理」と「情」、「厳格」と「寛容」。
親ゆえに、根底に流れる、形こそ違え、子に対する深い思いを。
・・・この噺では、若旦那の藤三郎は、「町火消」ではなく「定火消」、すなわち武家屋敷専門の火消人足になる設定です。
この人足を「臥煙(がえん)」と言いますが、身分は旗本の抱え中間(武家奉公人)で、飯田町(今の飯田橋辺)ほか、10ヶ所に火消屋敷という本拠がありました。
もっぱら大名、旗本屋敷のみの鎮火にあたり、平時は大部屋で起居して、一種の治外法権のもとに、博徒を引き入れて賭博を開帳していたため、その命知らずとガラの悪さとともに、町民の評判は最悪でした。
目に入れても痛くない、歳を取ってから授かった大事な一人息子が臥煙にまで「身を落とした」ことを聞いたときの父親の嘆き。
しかも、臥煙は、町火消のような刺し子もまとわず、法被一枚で火中に飛び込むのを常としたため、死亡率も相当高かったので、親の心配は大変なものだったことでしょう。
若旦那の藤三郎は、番頭を折れ釘にぶらさげて動けるようにしてやるだけで、目塗りを
直接には手伝わず、また父親も、必死にこみあげる情を押さえ通して、最後まで「勘当を許す」と自分では口にしません。
単なるお涙頂戴にならないような、父と息子、父親の意地、男の見栄が交錯する展開を描きたいものです。
そして、母親は、ただひたすらに息子の無事を祈る。
そんな人情噺に出来ればと思います。
この噺は、明治期には初代三遊亭圓右の十八番でした。
昭和に入って、八代目林家正蔵師匠をはじめ、六代目三遊亭圓生師匠、五代目古今亭志ん生師匠、三代目桂三木助師匠など、名だたる大看板が競演しています。
今日は、五代目春風亭柳朝師匠のご命日だそうです。
お弟子さんの春風亭正朝師匠がツイートされています。
53歳で脳梗塞で倒れ、闘病生活を続けられるも、結局高座に復帰できずに61歳でお亡くなりになりました。
昭和の四天王の一人と評価された、江戸っ子気質のテンポのある明るい芸風の師匠でした。
「花色木綿」のマクラの泥棒の小噺など、さんこうにさせていただいた記憶があります。
私の父と同い年だったんですね。
53歳で倒れて、61歳で亡くなるなんて、早すぎる。
1950年3月、五代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)に入門し小照。
1951年に一旦は転職するも、1952年に再入門し林家正太。
1953年5月、二つ目に昇進し照蔵に改名。
1962年5月、真打に昇進し五代目春風亭柳朝を襲名。
亭号が「春風亭」になったのは、師匠が「林家正蔵」の名跡を七代目正蔵の遺族である初代林家三平より一代限りの条件で借り受けていたことから、三平を配慮して自分の弟子が真打に昇進した時は他の亭号に変えさせていたため。
「春風亭」の名跡は落語協会にもあったが、八代目春風亭柳枝没後封印されていた。
そのため師匠は日本芸術協会(現:落語芸術協会)会長の六代目春風亭柳橋に面会し、柳朝を名乗ることの了承を得た。
1960年代はテレビ、ラジオでも顔を売り、七代目(自称五代目)立川談志、三代目古今亭志ん朝、五代目三遊亭圓楽と共に「落語若手四天王」と呼ばれた。
1972年、五代目柳家小さんが落語協会会長に就任すると同時に、同協会専務理事に就任。後に常任理事に就任。
1980年、2番弟子の春風亭小朝が36人抜きで真打昇進。
このことは当時の大ニュースとなり、柳朝は押しも押されもせぬ大幹部となる。
1982年1月、師匠彦六と死別。
同年12月には脳梗塞に倒れ、高座復帰も叶わぬまま、1991年2月7日に死去。
・・・そうそう、「四天王」と言われたり、「小朝さんの師匠」と言われたり。
古今亭志ん朝師匠との二人会「二朝会」は、伝説になっています。
本当に情けなくなっちゃう・・・。
会社の関係で、個人の証明書が必要となりました。
本籍地の役所でないともらえないので、郵便で申請をすることにしました。
町のホームページから用紙を印刷して、必要事項を記入。
返信用の封筒に切手を貼って、郵便局で小為替を買って。
・・・役場から電話がありました。
「本人確認資料が入っていません」・・・。
あぁぁぁぁ、そうだ、忘れたぁ。w(゚o゚)w
早速、FAXで運転免許証のコピーを送りました。
担当者の女性は「〇〇さん」という方でした。
珍しい苗字で、恐らく町内に何軒もないので、
「家は◆◆(集落名)ですか?」
「すると●●さんの奥さんかお嬢さんですか?」
どうやら、私が知っている人の奥さんのようです。
遠くの知らないオジサンだったので、驚いているようでした。
とても親切に、とてもテキパキと処理してくれて、ご丁寧に、FAXを受け取って本人確認ができたので、今日、証明書を送ったと、電話をくれました。
「ご主人(●●さん)によろしくお伝えください」とお礼を言いました。
・・んっ?しかし、ご主人は、私のことは忘れてしまっているかもしれません。
回転ずしの「くら寿司」の男性アルバイトが、店内で不適切な動画を撮影し、インターネット上に投稿。
会社は「お客さまに大変不快で不安な思いをさせてしまい、深くおわび申し上げる」と謝罪するコメントを発表。
動画は大阪府守口市の店舗で、アルバイト店員が食材の魚をごみ箱に捨てた後、ふざけてまな板に載せようとする姿が写っている。
問題の魚はその場で廃棄処分されて、客には提供されていないそうですが。
「従業員教育の徹底と再発防止」は勿論大切ですが、それ以前に、それ以前のレベルの輩ですから、きっと無駄でしょう。
最近は、老若男女まんべんなく、変な奴が多くなって来たみたい。
ほかのどこかの国のことなど、悪く言えません。
柳家小三治語録からです。
五代目の小さん師匠に言われたんですよね。
私も、落研の先輩に「どうすれはを面白い噺が出来ますか?」と尋ねたことがありました。
その先輩、「(簡単だよ)面白くやりゃぁいいんだよ」って。
結局、こういうものは、教わるのではなくて、自分で感じたり、見つけたりして、更に工夫をするものなんでしょう。
上手くなりたいなぁ。
恋しい「第二の故郷」仙台が舞台になっている唯一の噺。
当然、大学3年生の時に、この噺にチャレンジしました。
この噺は、三代目桂三木助師匠が、浪曲師の広沢菊春に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものです。
だから、純然たる古典落語ではないんですね。
「甚五郎の鼠」で、昭和31(1956)年7月に初演。
「竹の水仙」「三井の大黒」などと並んで、三木助師匠得意の名工左甚五郎の逸話ものです。
三木助師匠は、昭和を代表する噺家さんの一人ですが、あの「芝浜」の今の原型を作ったり、勿論この「ねずみ」もそうですが、脚色・演出家としても、大きな足跡を残していると思います。
ある評論によれば、音源を聴いてみると、三木助師匠が、特に子供の表現に優れていたことが分かると言われています。
お涙頂戴に陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところがこの人のよさでしょう、と。
https://www.youtube.com/watch?v=XhR1gHno6QE
・・・確かに、人情噺なんですが、重たくしていない。
演っていても、それは感じます。
ほろりとするところは、1ヶ所だけ。
「お父っつぁん、おっ母さんは何故死んじまったんだよう」。
それから、私がもう一点関心・感服したのは、言葉遣いです。
この噺は、舞台が仙台ですから、落語のパターンであれば、甚五郎を除いて全員が田舎言葉になるはずです。
宿外れで卯之吉が、「オジサンは、旅の人かねぇ。おらの家さ泊まってけさい」って。
しかし、地元の人の会話は田舎言葉にしますが、卯兵衛も、卯之吉も、生駒屋も、番頭の丑蔵も、普通の言葉遣い(江戸弁)。
ところが、1ヶ所だけ、三木助師匠は、地元の人の言葉に卯兵衛が返す場面で、こんなやり取りにしています。
「んじゃあ旦那ぁ、甚五郎名人と心安いだかねぇ?」
「んにゃ心安いなんてはぁ、おしょしい(おしょすい)がね」
・・・「おしょしい(おしょすい)」というのは、どういう意味でしょうか?
何と、「恥ずかしい、照れくさい」という意味なんです。
この一言を、三木助師匠は、噺(会話)の中に、さりげなく入れているんです。
しかも、前後の脈絡から何となく意味が想像できる。
日本橋橘町の大工の棟梁、政五郎の家に居候の身の左甚五郎。
見聞を広めるためか、ただの物見遊山か奥州への旅へ出る。
仙台城下で客を引いている子どもに、「おじさん、うちに泊まっておくれよ」と袖を引かれて鼠屋という宿に入る。
使用人などはいなく腰の立たない卯兵衛と十二になる子どもの卯之吉二人だけでやっている宿とは名ばかりで物置小屋のような粗末な家だ。
足をすすぐのは裏の小川、夕飯は父子二人分込みの出前の寿司、布団は貸布団という宿らしからぬことばかりで、甚五郎が二分払うと卯之吉は酒を買いに行った。
甚五郎「なぜ、女中などを置かないのか?」と、卯兵衛に問うと、
卯兵衛「もとは向かいの虎屋の主人でしたが、五年前に女房を亡くしました。古くからいる女中のお紺を後添えにいたしましたが、これが番頭の丑造とくっついて私をないがしろにし、卯之吉につらく当たっていじめました。ある時、二階の座敷で客同士の喧嘩の仲裁に入ったところ、喧嘩の巻き添えで階段から転がり落ちて、こんな身体になってしまいました。お紺と番頭は私たちが邪魔になり、ここへ追いやりました。ここは元は物置で、友達の生駒屋の計らいで宿を始めました。ここは鼠が多いので鼠屋という名にしました」
話を聞き終えた甚五郎は、適当は木端を持って二階に上がった。
卯兵衛が宿帳を見ると天下の彫り物師でびっくり仰天。
甚五郎はその晩、精魂込めて一匹の小さな鼠を彫り上げた。
翌朝、甚五郎は木の鼠を盥(たらい)に入れて竹網をかけると、”左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧になりたい方は、土地の人、旅の人を問わずぜひ鼠屋にお泊りください”と書いた札を入口に揚げさせ、「あるじ、卯之吉、世話になった」と出発した。
すぐに通り掛かった近所の百姓が札に気づく。
むろん甚五郎の名は百姓までにも知れ渡っている。
早速、鼠を見せてもらうと、あな不思議、盥の中の鼠がちょろちょろと動き回った。
びっくり仰天、さすがは甚五郎と感心だが、家はすぐ近くだが鼠屋に泊まるハメになった。
さあ、この噂はすぐに広がって鼠を一目見ようと、次から次へと見物人が押し寄せ、それがみんな泊って行くから鼠屋は大繁盛。
裏の空き地に建て増し、使用人も何人も置くようになった。
それに引き替え向かいの虎屋には悪い評判が広がり、客足は遠のく一方で閑古鳥が鳴く有り様だ。
困った丑造は仙台城下一の彫刻名人・飯田丹下に頼んで、大金を払って大きな木の虎を彫ってもらって、二階に手摺り置いて鼠を睨ませた。
大きな虎の威力に怯えたのか鼠はピタッと動かなくなった。
卯兵衛「畜生、こんなことまでしやがって・・・」と、怒ったとたんに腰が立った。
ずっと立たないと思って立とうとしなかったから立てなかっただけで、立とうと思えばとっくに立てただけなのだが。
卯兵衛は江戸に帰っている甚五郎に、「おかげさまで私の腰が立ちましたが、鼠の腰が抜けました・・・」と手紙を送った。
どうしたのかと不思議に思った甚五郎は二代目政五郎を連れて仙台へやって来た。
卯兵衛に言われ虎屋の二階を見ると大きな虎がこちらを睨んでる
甚五郎「なあ、政五郎、あの虎をどう思う?」
政五郎「金で作らされて魂が入ってないうつろな、卑しい目をしてまさぁ。立派な虎は額に”王”という字が浮かぶと言いやすが、あのトラには何の風格もありゃしません。ちっともいい虎とは思いやせん」」
甚五郎「そうだろう。あたしもいい出来とは見えない。おい、ネズミ、俺はお前を彫る時に魂を打ち込んで彫り上げたつもりだけど、お前はあんな虎がそんなに恐いか」
鼠「えっ?あれは虎ですか。てっきり猫と思いました」
・・・やはり、先代ご当地噺なので、OB落語会でもやらせていただきました。
そして、2011年7月に、「学士会落語会会員落語会」で、「ねずみ」を口演しました。
圓窓師匠の出囃子「新曲浦島」に乗って高座へ。
代わる代わる色々な顔をご覧に入れまして、お力落としもございましょうが、私が高座の掃除番でございまして・・・。
「旅人は 雪呉竹の群雀 止まりては発ち 止まりては発ち」
「ここが虎屋か。木口といい仕事といい、実に見事だ。」
「さぁさぁ、どうぞお入りください。」
「子どもの喧嘩でそんな傷がつくか。正直に言え。」
私の学生時代の人情噺御三家は、「ねずみ」「浜野矩随」「藪入り」です。
・・・それにしても、今は東京から新幹線で1時間半で仙台ですが、昔は「奥州街道」をひたすら北に向かったという訳で、本当に江戸からは遠い場所でした。
仙台で旅人が草鞋を脱ぐ場所は、今の「芭蕉の辻」あたりだったようです。
この辺りには、旅籠がならんでいたそうです。
当時、旅籠の客引きたちは、どの辺りまで出て、街道を下る旅人に声をかけたのでしょうか?
長町から広瀬川を越えてすぐの所までは行ったんでしょうか?
広瀬橋を渡ったら、卯之吉が声をかけてくれたんでしょうか。
想像するだけでも楽しかった。
一度アップしましたが、故郷のことで、とても気になるから。
来月、中部横断道一部開通のニュースです。
国土交通省関東地方整備局とNEXCO中日本は、中部横断道の新清水JCT~富沢IC間20.7kmと下部温泉早川IC~六郷IC間8.4kmが3月10日(日)16時30分に開通すると発表しました。
中部横断道は、新東名高速などに接続する新清水JCT(静岡市)と、上信越道との接続点、佐久小諸JCT(長野県佐久市)とをほぼ南北に結ぶ高速道路です。
このうち新東名~中央道間では、六郷IC(山梨県市川三郷町)から中央道に接続する双葉JCT(同・甲斐市)までの区間が開通しています。
今回の新清水JCT~富沢IC間と下部温泉早川IC~六郷IC間は、暫定2車線で整備されます。
設計速度は80km/hです。
この2区間の開通により、山梨県庁から静岡県庁までの所要時間は約30分短縮されて2時間5分になるといいます。
富沢ICまでの通行料金(普通車、通常料金)は、東京ICから4310円、横浜町田ICから3820円、清水ICから870円、名古屋ICから4610円、新静岡ICから960円。
下部温泉早川IC~六郷IC間は新直轄方式区間のため無料です。
なお、建設中の富沢IC~南部IC間は2019年夏ごろに、南部IC~下部温泉早川IC間はトンネル工事が順調に進んだ場合2019年度にそれぞれ開通する見込みです。
「ふるさと納税」・・・、何か品物がもらえるということだけで、趣旨も分からずに騒いでいる気がしてなりません。
もらう方も、返送する方も、ちょいと勘違いなのではと。
ふるさと納税の返礼品をめぐり、大阪府泉佐野市は、返礼品に加えてアマゾンのギフト券100億円分をプレゼントするキャンペーンを始めたと発表した。
現行法上問題ないとしているが、総務省はギフト券による還元を問題視しており、真っ向から反旗を翻した格好だ。
総務省は、返礼品の調達費は寄付額の30%以下などとする基準を設け、守らない自治体は6月以降、制度の対象外とする法改正を目指している。
泉佐野市は規制強化に反対しており、法改正されればこれまでのような取り組みはできなくなるとして今回のキャンペーンを決めたという。
期限は来月末だが、ギフト券発行が100億円分に達すれば終了するとしている。
泉佐野市の担当者は、法改正されれば基準は順守すると説明。
ギフト券については「返礼品ではなく、あくまでキャンペーンのプレゼント」と強調した。
平成29年度に寄付受け入れ額が全国トップの135億円となった同市は、これまで総務省の規制強化に「地方自治の精神にそぐわない」などと反発。
一方、ギフト券は、静岡県小山町が昨年末まで返礼品として贈り、多額の寄付を獲得したことで、石田真敏総務相が先月「良識ある行動とは思えない」と不快感を示したばかりだった。
・・・寄付の資金が、この返礼品の財源に充当されているとすれば、どうも本末転倒な気がするんです。
寄付を受ける自治体があるということは、所得税を還付する自治体もある訳で、返礼品の分だけ、トータルの自治体の資金は減少するということになるような・・・。
何かこう・・・「帯久商法」のように思えてなりません。
フェースブックなどのSNSの「いいね」っての、何かバカにされたようで嫌ですね。
さすがに慣れては来ましたが。
例えば、「◯◯さんが亡くなりました」でも、「◇◇さんが事故に遭いました」でも、「いいね」になっちゃう。
それから、フェースブックで、誕生日になると「おめでとう」が「友だち」とか言う人達からコメントが送られて来ますが、これも嫌ですね。
こんな感じで、大変失礼ながら、そらぞらしい。
若い人たち同士ならまだしも、いい歳のオジサンたちが「おめでとう」なんて・・・。
みんなに見られて。
せめてお祝いするなら、個別のメールで2者間でやればいいじゃありませんか。
あぁ、気色悪っ。
みんな「幼児化」してしまっている感じ。
やはりとても難しかった「明烏」。
私にとっては、初めての「廓噺」でした。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2014/04/post-02c0.html
「明烏」と言えば、八代目桂文楽師匠でしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=HHiXe0TWLWE
文楽師匠が、二ツ目時代に初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝師匠が台頭するまで、文楽師匠以外は演り手がないほどの十八番にしていました。
寄席で、「甘納豆」が飛ぶように売れたという逸話もあり。
それ以前は、オチ近くが、艶笑がかっていたのを改めて、父親が主人公の若旦那(時次郎)を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出でした。
噺の時代設定は、明治中頃とし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっているようです。
「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764~72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。
その発端は、明和3年(1766)旧暦6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。
それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。
事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。
第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。
現行の「明烏」は恐らく幕末に、発端を独立させたものでしょう。
噺の中に、「明烏」が出て来ないこともあり、この噺の題名が分かりにくくなっていますが、何となく色っぽいニュアンスは感じることが出来ます。
私は、3年前に「深川三流亭」でネタ下ろしをしました。
日本橋田所町三丁目、日向屋半兵衛の倅の時次郎。
晩熟(おくて)なのか女嫌いなのか品行方正で堅過ぎる真面目男。
今日もお稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになり、子どもたちと太鼓を叩いて遊んで来たと、半兵衛に得意げに報告する。
まさに色気より食い気で、おやじは跡継ぎとしてこれからの世間付き合いができるだろうかと、道楽息子を持つ親よりも心配だ。
そこで、町内の札付きの遊び人の源兵衛と太助を引率者・指南役として、時次郎に吉原で遊びの実地授業を受けさせることにした。
本人にはお稲荷さまのお籠りと偽り、お賽銭が少ないとご利益(りやく)が少ないから、向こうへ着いたらお巫女(みこ)さん方へのご祝儀はおまえが全部払ってしまえと忠告し送り出した。
大門をくぐって吉原へ入った時次郎、お茶屋まではよかったが、大見世に入れば遊女たちが廊下を草履でパタパタ歩いている。
いくら初心(うぶ)でも、ここがどこで、何をする所くらいは書物で知っている。
お稲荷さまとだましてこんな悪所へ連れて来られたと泣いて騒ぎ出し、子どもみたいに帰るとごね出した。
源兵衛と太助は大門を三人で入ったのに、一人で出て行くと怪しいやつ思われて会所で留められ、縛られてしまうとおどして、やっと部屋に上がらせる。
時次郎だけ座敷の隅で、そっぽを向いてうつむいている。
芸者連が来て賑やかな酒の座敷のはずが、お通夜みたいな空間になってしまった。
こともあろうに、時次郎は「女郎なんか買うと瘡をかく」なんて場所柄をわきまえない禁句まで口走る始末で、どっちらけだ。
早いことお引けと、いやがる時次郎を敵娼(あいかた)の待つ部屋へ引きずり押し込む。
時次郎の敵娼は十八になる浦里という絶世の美女。
色男で初心な時次郎に惚れたのか、いつもと違う珍しい客が気に入ったのかその夜はサービス満点。
むろん、木石ならぬ時次郎もすっかりメロメロ、トロトロ、グニャグニャになって、お稲荷さんなんかはどうでもよくなった。
烏カァで夜が明けて、「振られた者の起し番」で敵娼に振られた源兵衛と太助はぶつぶつ言い、甘納豆をやけ食いしながら、時次郎を起しに来た。
「けっこうな、お籠りで・・・・」なんて時次郎はしゃあしゃあしている。
源兵衛 「そろそろ帰るから、早く起きてください」
浦里「若旦那、早く起きなんし」
時次郎「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、足であたしの体(からだ)をぐっと押さえて・・・・」とノロケまで飛び出すほどの遊びの上達ぶりだ。
頭に来た太助、「じゃ、おまえさんは暇な体、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
時次郎「あなた方、先へ帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」。
私が、それまで「廓噺」を演っていなかったのは、どうも、廓や女郎などに嫌悪感があったからです。
私も、時次郎だったんです。
しかし、落語を演る者が、あれが嫌だ、これはやらないというのでは駄目ですし、ましてや落語に廓噺は不可欠ですから、宗旨替えをしたということです。
この噺も、さらに磨き上げたい素敵な宝物です。
永年の悲願が、当初予定よりは遅れていますが、進みつつあります。
中部横断自動車道の新清水ジャンクション(JCT)=静岡市清水区=―富沢インターチェンジ(IC)=山梨県南部町=間20・7キロと、山梨県内の下部温泉早川IC―六郷IC間8・4キロが3月10日に開通することが分かった。
同自動車道の静岡県内区間の開通は初。
新清水JCT―富沢ICの開通により、山梨県が初めて新東名、東名高速道とつながることになる。
両区間とも3月10日に式典を行い、同日午後4時半に開通する予定。
両区間はともに2018年度中の開通を目指して工事を進めてきた。
関係者によると、全線開通はトンネル工事の進捗が順調であれば、これまで通り19年度中で変更はない見通し。
同自動車道は新清水JCT―増穂IC間のトンネル工事で、想定よりも現場の地盤がもろい上に掘削土から重金属が検出されたため、追加対応が必要となっていた。
これに関連して同省などは18年7月、山梨県内の富沢IC―南部IC間6・7キロの開通が、従来予定していた18年度中から、19年夏ごろに遅れる見通しになったと静岡、山梨両県や沿線自治体に報告した。
この区間に5本あるトンネルの工事が難航していることが原因。
最終的には、我が町に2ヶ所のインターチェンジが出来て、東名・新東名高速、中央道と直結することになります。
また、中央道を経由して、日本海側にもつながります。
私は、帰省するには、今までどおり、東名の富士川スマートインターチェンジか、新東名の新清水インターチェンジを使う方が近いと思いますが、沿線に何か良いことがあればなぁと思います。
地元で関わっていた、今は亡き父に、開通を見せてあげたかったと思います。
「恵方巻き」の狂騒・バカ騒ぎが終わってホッとした途端、今度は「バレンタインデー」という、これまたお菓子屋の陰謀イベントがやって来ます。
これも無駄と言えば無駄ですが、チョコレートは保存がききますから、すぐに大量に廃棄することはないでしょうが、適量を食べるのならともかく、糖質が制限されている人には酷なイベントです。
尤も、それは、義理にでもチョコをもらえたオジサンたちだけの事情で、若い人は鼻血が出るほどチョコレートを食べても支障はないでしょう。
さて、第4世代のチョコレートが話題になっているそうです。
(わざわざ話題にしている?これも陰謀の一端かもしれません。)
「ルビーチョコレート」と言うそうです。、
「ルビー」チョコレートは、従来の「ビター」「ミルク」「ホワイト」に次ぐ第4のカテゴリーのチョコレートとして、チョコレート世界シェアNo.1 のスイスの会社が、昨年10月から、アルチザン(プロ・職人)向けに販売開始したものだそうです。
ルビー色の成分をもつ特殊なカカオ豆を選定し、独自の技術で天然のルビー色を生み出すことに、10年の歳月を経て開発に成功。
ということで、ルビーチョコレートは鮮やかなピンク色が特徴。
着色料不使用で、カカオの天然色による華やかな色味によりチョコレートのビジュアルを変える一品で、カカオ本来の豊かな香りと、ほんのりとしたフルーティーな天然の酸味を持っているそうです。
・・・私は、「明治ミルクチョコレート」「ロッテガーナミルクチョコレート」、それから「不二家ショコラ」が、チョコレートの原点で、未だにこれが一番だと思っています。
最近は、カカオの比率が高い、健康食品として人気のあるチョコレートですが。
あ、そうそう、もう一つ、今、私が好んで食べているのは、ローソンで売っている低糖のアーモンドチョコレートです。
糖質が少ないチョコレートとアーモンドの組合せはベストで、味もなかなかなものです。
そう言えば、春風亭小朝さんのバレンタインデーに関わるマクラでこんなのがありました。
モテモテの小朝さんのところには、たくさんのバレンタインデーのチョコレートが集まります。
とても食べきれないので、大師匠の林家彦六師匠に、アーモンドチョコレートをお裾分けしたそうです。
彦六師匠、早速アーモンドチョコを口に入れてもごもごしていましたが、そのうちに、アーモンドを口から吐き出して、「種が入ってた」・・・。
さすが、餅にカビが生える訳は、「早く食わねぇからだ」と仰った彦六師匠です。
この3月にカードの有効期限が来るクレジットカードの新しいカードが届きました。
仕事の関係もあって、このカードの会員になったのが1979年ですから、ちょうど40年になります。
まぁ、長い付き合いです。
基本的に、このカード1枚を使い続けています。
長く使っているから、良いこと、得することがあるかと言うと・・・、決済手段として使っているだけですから、特にありませんが、不便も感じません。
ETCカードと電子マネーもセットしているので、最近は現金を使うことが少なくなりました。
このクレジットカードとJRのスイカカードで、ほとんど用が足りてしまいますから。
あとは、駅前にイトーヨーカドーがあるから、時々ナナコかな?
現金は持たなくなりました。
以前、大阪出張の時に財布を忘れたことがありましたが、3日間、全く不自由を感じませんでした。
現金を使うのは、チェーン店でない飲食店、カード決済機能のない自動販売機、出張の時のタクシー代、飲み会の割り勘の会費、祝儀不祝儀ぐらいでしょうか?
それにしても、私は何と身の程知らずだと実感します。
18席のほとんどが、ちょいと軽く出来る噺ではない・・・。
そして、とうとう・・・やってしまいました。
三遊亭圓朝の作と言われる「文七元結(ぶんしちもっとい)」。
「ザ・落語」、落語を知っている人であれば、そう簡単に演ろう(演れる)とは思わない、通は演らそうとは思わない大きな噺です。
「いつかは〇〇を」と言う時に、プロアマに関わらず、落語を演る人が夢見る噺の「〇〇」には、かなりの確率で「文七元結」が入ると思います。
(あとは、「芝浜」とか「百年目」とか「井戸の茶碗」とか‥?)
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本所達磨横町の左官の長兵衛は腕はいいが、博打にはまってしまい家は貧乏で借金だらけで、夫婦喧嘩が絶えない。
見かねた娘のお久が吉原の佐野槌に自分の身を売って急場をしのぎたいと駆け込む。
佐野槌からお久が来ていると知らされた長兵衛は女房のボロ着物を着て佐野槌へ行く。
女将「お前いくらあったら仕事にかかれるんだい」
長兵衛「実は細川様のお屋敷に仕事に行っている時に、ちょいと手を出したのがやみつきで、義理の悪い借金こしらえちまって、・・・四十五、六もありゃ・・・」
女将「じゃあ、五十両あれば・・・」
長兵衛「そりゃあもう、五十両あれば御の字なんで・・・」
女将「じゃあたしが貸してあげよう。あげるんじゃないよ貸すんだよ。それでいつ返してくれるんだい」
長兵衛「・・・来年の七、八月頃には必ず・・・」
女将「それじゃ来年の大晦日までは待ってあげよう。それまではこの娘(こ)は預かるだけにしよう。だけど大晦日が一日でも過ぎたらこの娘は見世に出して客を取らせるよ」
お久「お父っつぁん、もう博打だけはよしとくれ・・・」
大金を懐にした長兵衛は大門から見返り柳を後に、道哲を右に見て、待乳山聖天の森を左に見て、山の宿、花川戸を過ぎて吾妻橋まで来ると若者が身投げをしようとしている。
長兵衛がわけを聞くと横山町の鼈甲問屋、近江屋の手代の文七で、水戸屋敷から集金の帰り、枕橋で怪しげな男に突き当たられ五十両を奪われたという。
長兵衛はなんとか思い留まらせようとするが、文七はどうしても死ぬと言う。
長兵衛「どうしても五十両なきゃ死ぬってぇのか・・・どうせ俺にゃ授からねえ金だ、てめえにくれてやりゃあ、持ってけ!」
と、財布を前に置いてこの五十両を持っているいきさつを話す。
文七「そんなわけのあるお金をあたくしは頂くわけにはまいりません」
長兵衛「俺の娘は何も死ぬわけじゃねえんだよ、見世へ出して客を取らせりゃいいんだ。おめえは五十両なきゃ死ぬってえから、やるんだよ」
押し問答の末、長兵衛は五十両を文七に叩きつけ走り去ってしまった。
文七「あんな汚いなりをして、五十両なんて持ってるわけがあるものか。やると言ったからしょうがなく石っころなんか入れてぶつけて行きやがった」
ひょいと財布の中を見てびっくり。
もう見えなくなった長兵衛の方へ両手を合わせて伏し拝み、
文七「ありがとうございます。・・・おかげさまで助かりました・・・ありがとうございます」
文七が店へ帰ると主人も番頭もまだ寝ないで待っていた。
文七が五十両入った財布を差し出すと、二人とも怪訝そうな顔をする。
半七が奪われたと思った金は文七が水戸屋敷で碁を打った時に碁盤の下に置き忘れていて、屋敷からわざわざ届けられていたのだ。
文七は吾妻橋での一件について話すと主人もようやく納得した。
翌朝、近江屋の主人が文七を連れて五十両を返しに来る。
長兵衛の家では昨晩から夫婦喧嘩が続いている。
長兵衛「・・だから嘘じゃねえんだよう、やったんだよ」
女房「だから、何処のなんてえ人にやったんだい」
長兵衛「そんなこたぁ聞くのが面倒くせえから、そいつに金ぶつけて逃げて来たんだ」
女房「金ぇぶつけて逃げるなんて、いい加減なことばかり言いやがって・・・」
そこへ近江屋が入って来る。
鼈甲問屋と聞いてここは家が違うと言う長兵衛に、近江屋は表から文七を呼び寄せ、昨晩の五十両の顛末を語って、
近江屋「・・・したがいまして昨夜、お恵み頂きました五十両、ご返済にあがりました次第で・・・」
すると長兵衛はいったんやった金は今さら受け取れないと言い張り出した。
ボロを着ていて人前に出られずに、ぼろ屏風の後ろに隠れていた女房が受け取れと袖を引っ張り、近江屋も受け取ってくれないとこの金のやり場に困ってしまうと言うので、長兵衛はしぶしぶ五十両を受け取った。
近江屋は今後は長兵衛と親戚付き合いがしたいと申し出て、角樽と酒二升の切手を差し出し、
近江屋「お肴をと思いまして、御意に召すかどうかは分かりませんが、ただ今、ご覧に入れます・・・」
長屋の路地に駕籠が入って来て、中から出て来たのがお久だ。
文金の高島田に綺麗な着物で、すっかり化粧した姿は錦絵から抜け出たよう。
お久「お父っつん、あたしこのおじさんに身請けされて、もう家に帰ってもいいんだって・・・」
この声を聞いて隠れていた女房もたまらなくなって出て来て、お久とすがり合って泣き出した。
文七とお久は結ばれ、麹町貝坂に元結屋の店を開いたという「文七元結」の一席。
・・・この噺は、中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭圓朝が作ったとされますが、実際には、それ以前に同題の噺が存在し、圓朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて
人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵師匠の説。
初演の時期は不明ですが、明治22年4月30日から5月9日まで10回に分けて、圓朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。高弟の四代目圓生が継承して得意にし、その他、明治40年の速記が残る初代三遊亭圓右、四代目橘家圓喬、五代目圓生など、圓朝門につながる明治・大正、昭和初期の名人連が競って演じました。
さらに、四代目圓生から弟弟子の三遊一朝(1930年没)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)師匠、六代目圓生師匠に伝えました。
この二人が戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生師匠もよく演じ、志ん生師匠は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。
さらに、次の世代の五代目圓楽師匠、談志師匠、志ん朝師匠も得意にしています。
ある噺家さんは、一番難しい噺だと言います。
人物造形が 一筋縄じゃいかないのですよ。
揃いも揃って登場人物の奥行きがそれぞれ深い。
深すぎる。
なにしろ落語はこれら全員を一人で演じるんですから。
薄っぺらな奴が演ったら、セリフをただ棒読みにするのと同じです。
学芸会もいいところで、とても聴いちゃいられない。
逆にもったいつけ過ぎても鼻について嫌らしい。
この「程の良さ」の調整は落語家のセンスにかかってきます。
誰が創ったんだか知らないけど、まあ大変なネタです。
プロでも一目を置く、“ザ・落語”。
オチは、未熟な文七がすぐにお久をめとるのは不自然だし、「文七元結の一席でございます」では、オチがないのは落語ではないという師匠と私の信念。
元結は、紙で出来た髪を束ねるもの、文七とお久の縁は、図らずも博打に現を抜かした長兵衛が元。
だから、結びの髪・結びの神の地口にしてみました。
師匠にご指南いただいたちょうど30席目の噺になりました。
・・・いつまでも、憧れの噺であることは変わりません。
こんなこともあるのかという・・・。
東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市の市長選の投開票が行われ、現職が新人を破って3選を果たしました。
・・・とここまでなら、よくある選挙結果ですが。
ところが、投票率78・38%の開票結果は以下の通り。
◇当選 現職 6504票
◆次点 新人 6499票 ・・・わずか5票差!
否かの町会議員選挙では、1票差なんていうのもあると思いますが、それも、得票そのものが100票とか200票程度の場合です。
しかし、民主主義と言うのは、多数決ですから、たとえ1票差でも勝ち(負け)は勝ち(負け)ですから。
それぞれ、やりづらいことでしょう。
まだまだ東日本大震災からの復興途上だと思いますから、いずれにしても、そのペースを落とさないようにして欲しいものです。
震災から、まもなく8年になります。
今日は「立春」。
ええっ?
もう立春ですか?
去年の今頃は、まだどんと祭だった感じですが。
立春を過ぎて強い風が吹くのを「春一番」と言うそうです。
こんな条件があるそうです。
・・・それで、今日、もしかすると最速で春一番になるかも・・・と言われているようです。
ところで、この「春一番」という言葉がおなじみになったのは、あの「キャンディーズ」なんだそうです。
♪春一番が 掃除したてのサッシの窓に~♪
あっ、これじゃありませんでした。
♪雪が解けて 川となって 流れて行きます♪
・・・でした。
これ、雪解け水が多過ぎると、土石流になってしまいますが・・。
普通の女の子になりたかった彼女たちって、偉かったんですね。
ところで、中国の「春節」で、中国人旅行者が、特にこの数日増えるかもしれません。
「爆買い」はピークを過ぎたようですが、都内だけでなく、各地の観光地は・・・。
銀座線などは・・・、気をつけよう。
昨日の節分1日のための食材。
これを、ノルマまで課して売ろうとしているコンビニやスーパー。
行儀の悪い食べ方をも奨励するような「恵方巻き」。
節分が過ぎて、売れ残った物は・・・。
あの美味しい米や、海苔や、具材が、まるで塵扱い。
経済的な損失もさることながら、一生懸命に育んだ生産者の方々の気持ちはどうでしょうか?
こういうロスも含めた価格設定しているはずですから、神をも恐れぬ蛮行だと思います。
こんなことをしたら、ご利益どころか、それこそ罰が当たりますよ。
こんなふうになるものを、競って食べますか?
大した根拠のないものに大騒ぎをして、絶対に良いことはないと思います。
少なくとも、日本の八百万の神々は、大切な食べ物を粗末に扱う民たちを、決してお救いにはならないでしょう。
同郷の人が主人公の噺です。
この噺、別名「法華豆腐」と言い、法華(日蓮宗)の宣伝噺なんて言われたりもする。
これまた、師匠の音源があるんです。
ある朝の江戸の豆腐屋。
店頭の卯の花を盗ろうとした若者がいた。
主人が咎めると「昨日、甲州から出てきて、スリに財布を盗られてしまった。
腹がへって、悪いとは知りながら卯の花に手を出しました。すいません」と詫びる。
人柄が良さそうなので、主人は「うちで働かないか」と優しく言う。
喜んだ若者(猪之吉)はその日から住み込みで働くことになった。
主人から教わった通り「豆腐~ィ 胡麻入り~ィ ガンモド~キ」の売り声で外を売り歩き、陰日向なく実によく働いた。
あっと言う間に三年がたった。
この豆腐屋の一人娘のお花が、どうやらに猪之吉に惚れているらしい。二人を添わせて店を譲ることにした。
また二年たったある日のこと。猪之吉が「実は江戸へ出るとき、途中に身延に寄ってお祖師さまに五年の願掛けをしました。その願ほどきをさせていただきとう存じま
す」と申し出た。
豆腐屋も宗旨は法華宗なので喜んで「お花も一緒に行って来い」と赤飯を炊いて送
り出すことにした。
出立の朝、長屋のかみさん連中から二人に声がかかった。
「ご両人、どちらへ?」
猪之吉が売り声の調子で「甲府~ィ お参り~ィ 願ほど~き」
この噺で、師匠はこんなコメントをしています。
堅物の田舎者(猪之吉)が落ちのところでいきなり洒落を言い出すのはどう考えても不自然だ、と稽古をしはじめてすぐ気が付いた。
このことを仲間に話すと「落語だからそれでいいんだよ」と軽くいなされた。
落語という話芸はいわば虚構の世界であろうが、虚構の中にもそれなりに理屈はある。
この噺の落ちはそれからはみだしているような気がしてならないのだ。
そこで、あたしは、豆腐屋の主人に「猪之吉よ。堅いのはいいが、堅すぎるのはよくない。商いのときに洒落の一つも言えるようになれ。たまには落語を聞け」なんという小言をいわせている。
その効果が現われたか、猪之吉が赤飯を食べて「もう入りません」と箸を下ろすと、豆腐屋が「立って二、三遍はねてみろ。上のほうに隙間ができるから」と言うのだが、すかさず猪之吉が「茶袋じゃありませんよ」と返す。
豆腐屋は「洒落がわかってきたな」と喜ぶ。
そんな場面を挿入して、落ちへ継げるという演出をして、不自然さをカバーしてみたのだが、また仲間から「すぐにそんないい洒落が言えるわけがないよ」と皮肉を言われたこともあった。
話芸という虚構の世界は難しい。
・・・いずれにしても、ほのぼのする噺です。
この噺は、3年生の時に、ご当地ネタということで初演しました。
音源は、古今亭志ん朝師匠を参考にさせていただきました。
そして、社会人になって、忘れられない噺になります。
私の結婚披露宴。
山梨の石和温泉のホテルでやったこともあって、「ここぞ」とばかり、披露宴の余興のトップバッターとして、新郎が一隻ご機嫌を伺いました。
同期の宝亭六方さんと多趣味亭こり生師匠に、真打昇進よろしく、結婚披露口上をお願いしました。
新郎としては、なかなか羽織や袴を着ることができないので、落語のチャンスだということで。
この記念すべき時に、「甲府ぃ」をやりました。
・・・まぁぁ、若いこと。
身延山(身延詣り)は、大変身近なものでしたから、これからも「南無妙法蓮華経」の落語を覚えたいと思います。
今夜は、「九代目入船亭扇橋特集」でした。
とてもほっこりとした師匠で、とても好きでした。
私の「ねずみ」と「猫怪談」は、扇橋師匠の音源でした。
◇「疝気の虫」 九代目入船亭扇橋
昔は「悋気は女の慎むところ疝気は男の苦しむところ」」なんて言ったものだ。
ある医者が夢の中で変な虫がいるので潰そうとすると虫は命乞いをして「自分は疝気の虫といい、人の腹の中で暴れ、筋を引っ張って苦しめるのを職業にしている。
蕎麦が大好物で食べると威勢よくなって大暴れし、嫌いなものは唐辛子で、それに触れると体が腐って死んでしまうので、唐辛子を見ると別荘、男の金の袋に逃げ込むいう。
夢から醒めた医者は、治療に役立つかも知れないと、疝気で苦しんでいる男の家に往診に出かける。
おかみさんに蕎麦と唐辛子を用意させ、蕎麦をおかみさんに食べてもらい、その匂いを亭主にかがせる。
亭主の腹の中にいた疝気の虫は大好物の蕎麦の匂いがするので、上がって来て亭主の口から、おかみさんの口に飛び移り、腹の中で大暴れするので、今度はおかみさんの方が苦しみ出して七転八倒だ。
疝気の虫が出て行った男はそばでケロリとしている。
医者はこの時とばかり、用意してある唐辛子をおかみさんに飲ませるさせる。上からの天敵の襲来に仰天した疝気の虫は急いでいつもの避難場所に逃げ込もうと、一目散に腹を下るが、
「別荘はどこだ、別荘は?・・・?・・・」
疝気(せんき)というのは、漢方で腰腹部の疼痛の総称。
特に大小腸・生殖器などの下腹部内臓の病気で、発作的に劇痛を来し反復する状態。
あたはら。しらたみ。疝病。
「悋気は女の苦しむ病気、疝気は男の病気」と言われるように、特に男性が掛かる病気だと言われます。
・・・こういう軽い噺は、扇橋師匠の十八番でした。
◇「ざこ八」 九代目入船亭扇橋
眼鏡屋の二男坊の鶴吉。
年は二十二になるが、近所でも評判の男前で、そのうえ働き者で人柄がいいときている。
そこで、これも町内の小町娘で、
金持ちの雑穀商・ざこ八の一人娘のお絹との縁談がまとまり、
鶴吉は店の婿養子に迎えられることになった。
ところが、その婚礼の当日、当の鶴吉がふっと姿を消してしまう。
それというのも、貧乏な眼鏡屋のせがれが玉の輿にのるのをやっかんだ連中が、
小糠三合あれば養子に行かないというのに、おめえはざこ八の身上に惚(ほ)れたか、などといやがらせを言うので、急に嫌気がさしたから。
それから十年。
上方に行って一心に働き、二百両という金をためた鶴吉が、久しぶりに江戸に戻ってきた。
十年前の仲人だった桝屋新兵衛方を訪ね、ようすを聞いてみると、とうの昔に店はつぶれ、ざこ八もこの世の人ではないという。
あれから改めてお絹に、葛西の豪農の二男坊を養子にとったが、そいつが身持ちが悪く、道楽三昧の末財産をすべて使い果たし、おまけにお絹に梅毒まで移して死んだ。
ざこ八夫婦も嘆きのあまり相次いで亡くなり、お絹は今では髪も抜け落ち、二目と見られない姿になって、物乞い以下の暮らしをしているという。
「お絹を今の境遇に追いやったのは、ほかならぬおまえさん」
と新兵衛に言われて、返す言葉もない。
せめてもの罪滅ぼしと、鶴吉は改めて、今では誰も傍に寄りたがらないお絹の婿となり、ざこ八の店を再興しようと一心に働く。
上方でためた二百両の金を米相場に投資すると、幸運の波に乗ったか、金は二倍、四倍と増え、たちまち昔以上の大金持ちになった。
お絹も鶴吉の懸命の介抱の甲斐あってか、元通りの体に。
ある日、出入りの魚屋の勝つぁんが、生きのいい大鯛を持ってきた。
ところがお絹は、今日は大事な先の仏(前の亭主)の命日で、精進日だからいらない、と断る。
さあ、これが鶴吉の気にさわる。
いかに前夫とはいえ、お絹を不幸のどん底へ落とし、店をつぶした張本人。
それを言っても、お絹はいっこうに聞く耳を持たない。
夫婦げんかとなり、勝つぁんが見かねて止めに入る。
「お内儀(かみ)さんが先の仏、先の仏ってえから今の仏さまが怒っちまった」
夫婦の冷戦は続き、鶴吉が板前を大勢呼んで生臭物のごちそうを店の者にふるまえば、お絹はお絹で意地のように精進料理をあつらえ始める。
一同大喜びで、両方をたっぷり腹に詰め込んだので、腹一杯でもう食えない。
満腹で下も向けなくなり、やっとの思い出店先に出ると、物乞いがうずくまっている。
「なに、腹が減ってるって? ああうらやましい」
この噺は、扇橋師匠の師匠の「三代目桂三木助」師匠の十八番。
元々は、上方落語の切ネタ(大ネタ)で、東京では戦後、二代目桂三木助直伝で三代目三木助、八代目林家正蔵が、東京風のやり方で売り物にしました。
特に、三木助がこの噺を好み、十八番として、しばしば演じています。
本家の上方では、六代目笑福亭松鶴が得意にし、東京でも、二代目桂小南が、上方風で演じました。
あまり出来がいいともいえない噺なので、現在は、東京ではあまり演じ手がいません。
三木助門下だった入船亭扇橋師匠が継承していたぐらいでした。
・・・懐かしい師匠ですね。
好きな噺家さんの一人でした。
晩年の寄席の高座では、噺がグルグル回ってしまって、痛々しく感じたこともありました。
今日の2席目は二代目三遊亭円歌師匠。
今度、四代目が襲名されることになっています。
◇「鹿政談」 二代目三遊亭円歌
奈良の名物といえば、「大仏に、鹿の巻き筆、あられ酒、春日灯篭、町の早起き」なんて言います。
鹿は春日大社のお使いで、神鹿(しんろく)です。
徳川時代にはこの鹿に年に三千石の餌料が与えられ、鹿奉行がこの三千石を預り管理していました。
鹿を誤って殺しても死罪になるので、朝起きて家の前に鹿の死骸でもあるものなら、これを隣の家に回しておく、隣の家でもこれを向いの家にというわけで、早起きしないとどんな災難にあうかわからんというので奈良の町は早起きが名物になったとか。
その中でも朝が早いのが豆腐屋さん。
三条横町の豆腐屋の六兵衛さん、今日も朝早くから豆腐をつくり、きらずを桶に入れ表へ出します。
「きらず」とは「おから」のこと、「から」というげんの悪い言葉をきらって「きらず」といいます。
豆腐は包丁で切れるけど、おからは切れないので「きらず」。
表で音がするので外へ出てみると大きな犬がおからを食べている。
六兵衛さん割木をつかみ投げるとうまく犬に当たり倒れた。
近寄って見るとこれが犬ではなく、なんと鹿で死んでしまっている。
そのうちに近所も起き出して大さわぎになり、町役が目代屋敷に届けると役人が来て六兵衛さんを引っ立てて行った。
そして鹿の守役の塚原出雲と興福寺の伴僧良然が連署して奈良町奉行所へ訴え、奈良町奉行の曲淵甲斐守の取調べが始まった。
奉行は六兵衛に生まれた地はどこかと聞く。
他所で生まれ奈良で鹿を殺すと大罪だということを知らなかったという取り計らいで、六兵衛さんを助けようとするのだが、正直者の六兵衛さん、三代に渡り三条横町で豆腐屋をしていると答える始末。
こんどは奉行さん、鹿の死骸を持って来させ自ら吟味してこれは鹿に毛並みのよく似た犬ではないかと言い出す。
回りの役人、町役もこれには大賛成で、犬を殺しても罪はなく書類は取り下げと言う奉行。
すると塚原出雲、鹿と犬とを取り違えることなどはないと言い張る。
奉行がこれには角が無いではないかと言うと、出雲はえらそうに「鹿の落とし角」の講釈を始めた。
途中まで聞いていた奉行さん、「黙れ!奈良の奉行を務むる身が、鹿の落し角を心得おらぬと思いよるか・・・」と、一喝のあと、出雲らの罪をあばき出す。出雲らが鹿の餌料を横領し町民に高利で貸付け、町民は難儀し鹿は餌不足で町をうろつき、きらずなどを盗み食いするというのだ。奉行さんは、いかに鹿とはいえ人の物を盗み食うとは賊に過ぎず殺してもかまわないとも言う。
奉行からこれを鹿と言い張るなら、餌料横領の件から吟味すると言われた出雲、改めて犬か鹿かと問われ、もう鹿と答えるしかなくなった。
奉行から角の落ちたような痕があるがどうだ追い討ちをかけられ、それは腫物、できものの痕だと苦しい答え。
奉行「よくぞ申した。しからばいよいよ犬であるな」
塚原出雲「犬に相違ございません」
奉行「犬を殺したる者にとがはない。書類は取り下げてよろしかろ。一同の者、裁きはそれまで、立ちませえ・・・・六兵衛、待て。その方は豆腐屋じゃな。・・・きらずにやるぞ」
六兵衛「はい、まめで帰ります」
・・・こういう痛快な噺は、水戸黄門もそうですが、日本人好みなんですね。
この噺は、学生時代に先輩の風流亭喜楽師匠のを聴いたのが最初でした。
こういうパターンの噺って、やりたくなりますよね。
日曜日、ゆっくり寝ていて、「演芸図鑑」を視損なってしまいました。
文化放送の「落語のデンパ」も、相変わらずのつまらなさで、「新粗忽長屋」などと称する、オレオレ詐欺を茶化した新作をやってていたようですが、聴いていて底が浅過ぎて・・・。
気がつくと、林家正蔵(彦六)師匠の声が聞こえました。
◇「普段の袴」 八代目林家正蔵
上野広小路の御成道沿いの骨董屋に黒羽二重の紋付、仙台平の袴、白足袋に雪駄履きの立派な武家が立ち寄る。
店の主(あるじ)とは顔なじみで、墓参の帰りにお供の者とはぐれてしまったので、ここで一服させてくれという。
主が煙草盆を差し出すと、銀無垢の煙管(キセル)で煙草を吸いながら、店先の掛け軸に目を止め、「見事な鶴じゃのう」と感心して眺めている。
主は「お目が高い、落款はないが文晁の作と心得ます」と言うと、武家は「なるほど、見事じゃのう」と言い、見惚れている。
すると思わず煙管に息を吹き込んで、火玉がポンと飛び出して、武家の袴の上に落ちた。
あわてた主が「殿さま、お袴に火玉が」に、武家は少しも慌てず騒がず払い落とし「うん、身供の粗忽じゃ。許せよ」
「どういたしまして。お召物にきずは?」
「いや、案じるな。これは、いささかふだんの袴だ」と言って帰って行った。
これを見ていたのが長屋住まいの八五郎。す
っかり武家の振る舞いの格好良さに感心し、自分もやって見たくなる。
早速大家の所で古い袴を借り、上は印半纏、下は袴という珍妙な形(なり)で骨董屋へ、「亭主、許せよ」と乗り込んだ。
千住で買った紙細工の粉煙草を、手入れをしてなく詰まっている煙管で一服ふかして、「あそこにぶら下がっている鶴はいい鶴だなあ」とやり出した。
主が「これはどうも、お見それしました。文晁と心得ますが」とここまでは筋書き通りだったが、「えぇ文鳥だ、あれがか、文鳥ってのはもうちっと小さくて口ばしが赤い鳥だ。あれは鶴だよ」と、正体を表わしてしまった。
お里が知れたとも気づかない八さんは、「いい鶴だ、いい鶴だ」と言っている。
そして火玉を飛び出させようと、煙管を吹くが、ヤニが詰まっていて飛び出さない。
こん畜生と思い切り吹いたものだから、大きな火玉が舞い上がって、袴に落ちずに頭のてっぺんへ乗っかってしまった。
笑いをこらえて主が「親方、頭に火玉が落ちました」
八五郎 「心配すんねえ。こいつはふだんの頭だ」
・・・この噺も軽妙なストーリーで、やってみたいと思います。
しかし、最近は「普段の」とか、「普段着」なんていう言葉は分からなくなっているのでしょうか?
日本橋あたりを歩いていると、中央通りの北方向を見ながら、「御成街道、普段の袴」を連想します。
また泥縄式に出て来た、留まるところを知らない航空会社のパイロットの飲酒事案。
全日空グループの「エアージャパン」の米国籍の40歳代の男性副操縦士から、乗務前の検査で基準値を大幅に上回るアルコールを検出。
副操縦士は前夜に社内規定の2倍以上の量のウォッカを飲んでいた。
別のパイロットに交代し、乗務予定の便に影響はなかった。
副操縦士からは、成田発ヤンゴン行きの便に乗務前、呼気1リットルあたり0・25ミリ・グラムのアルコール分を検出。
社内規定では同0・1ミリ・グラム以上での乗務は禁じており、その後の2度の検査でも数値は同じ。
副操縦士は乗務の12時間前までに飲酒をやめていたが、自宅で750ミリ・リットルボトルのウォッカを半分ほど飲んだという。
エアージャパンは処分を検討中。
・・・精神的なプレッシャーが大きい仕事だから・・なんておためごかしの言い訳を絶対に認めてはいけないと思います。
精神的なプレッシャーから逃れるために酒に走る人は、そもそもパイロットとしての適性がないと判断しないと。
乗客があまりに危険過ぎます。
乗客を安全に目的地まで届けるのが全ての仕事なんですから。
言い訳や同情は不要。
即刻、退場いただくべきでしょう。
とりもなおさず、事故が起きる前に退場させて良かったということにしないと。
航空会社の資格も剥奪ですよ。
今日は節分。
今では2月3日に定着している節分ですが、本来は「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日のことを「節分」と呼んでいました。
節分は、名前の通り「季節を分ける」ということを意味しています。
立春・立夏・立秋・立冬は季節の始まりの日であるため、それぞれの前日は季節の変わり目にあたり、それが節分だったのです。
現代では2月3日だけが節分になっていますが、これは4つの季節の中で「立春」が最も重視されていたためです。
春の訪れである立春は1年の始まりでもあり、とくに待ち望まれていました。
徐々にこの考えが強まり、立春の前日だけを節分と呼ぶことになったのが現代の節分の由来だといわれています。
今では12月31日が大晦日、1月1日が元旦で新年の始まりとなる日ですが、その昔では立春が新年の始まりでした。
そのため、立春の前日である節分が大晦日だったのです。
1年を締めくくる節分は、その年の中でもとくに重要な日で。
来たる新年に向け、厄や災難をお祓いする行事が行われており、これが豆まきの由来になったといわれています。
また、元々日本では、穀物などに邪気を払う力があると考えられていました。
とくに大豆は米や麦と同じくらい重要な穀物として扱われており、魔除けや生命力に関する霊力が込められていると考えられていたのです。
このことから、お祓いなどの行事などでは大豆がよく使用されていたという説があります。
また、暴れている鬼の目に炒った豆を投げつけて鬼退治ができたという説や、魔物(鬼)の目の文字を取って「魔目(まめ)」になるという説もあります。
節分の豆まきといえば、「鬼は外! 福は内!」という掛け声が連想されます。
地域によってこの掛け声は変わるようですが、鬼を外に払い、福を呼び込めるようにという意味が込められています。
家庭で豆まきをする際は、家のドアや窓を開けてから「鬼は外!」と言いながら豆をまき、払った鬼が戻らないようドアや窓を閉めてから「福は内!」と言って部屋に豆をまきます。
この豆まき方法も地域によって多少の違いがあるようですが、一般的なのは部屋の奥から玄関に向かって豆をまく方法です。
・・・私にとっての節分は、家では祖母が紙を三角に袋にした豆を、妹と二人で家中の部屋にまく行事でした。
そのうちに、父が、身延山の「節分会」でまかれた豆を持って帰るのが楽しみでした。
「今年は、お相撲さんの〇〇が来て、豆をまいたよ」なんて言う話をしながら。
野球で言えば「4番バッターのエース」です。
私の落語徘徊の頂点に位置する、私の至宝の噺です。
この噺について語り始めたら、もう何時間でもという。
学生時代に、上野鈴本演芸場で聴いた「五代目三遊亭圓楽」師匠。
この噺との衝撃的な出会いでした。
そして、4年生の時に公演して以来、現在に至るまで暖めて来ています。
2009年の「創部50周年記念OB落語会」も、当然この噺をやりました。
突然、「今ここでやってみなさい」と言われても、すぐに全編(約40分)を演ることが出来ます。
母親と息子との繋がりを語る人情噺です。
ただし、現代っ子には受け入れられづらいかもしれない。
浜野矩安は、名人といわれた刀剣の付属品の腰元彫り師だったが、息子の浜野矩随(のりゆき)は、足元にも及ばないへたくそで、父親が死んでからは、得意先からどんどんと見放され、芝神明の骨董屋の若狭屋甚兵衛だけが、矩随のへたな作品を義理で一分で買ってくれるだけ。
今は露月町の裏長屋での母親と細々と暮らしている。
ある日、矩随が馬を彫って持って行くと、若狭屋は「足が3本しかないではないか」と怒り、手切れの五両をやるから、母親に渡してお前は吾妻橋から身を投げるか、芝増上寺の山門の松の枝に首をくくって死んでしまえと冷たく言い放った。
そこまで言われた矩随は死ぬ覚悟を決め、母親に若狭屋から伊勢参りを勧められて路銀をもらったと嘘を言う。
矩随の様子から若狭屋での一件を見抜いた母は、「死んでおしまいなさい」と突き放し、その前に形見に観音様を一体彫ってくれと頼む。
母親からも見捨てられたと思った矩随は、水垢離をしてこれが最後の作と、一心不乱にまる4日間、観音像を彫り続けた。
隣の部屋では母親が一生懸命に念仏を唱え続けていた。
彫り上がった観音像を母親に見せるとその出来栄えの良さに驚き満足し、若狭屋に持って行って三十両で引き取ってもらえという。
そして矩随に碗の水を半分飲ませ、残りは自ら飲んで見送った。
矩随はおそるおそる観音像を若狭屋へ持って行くと、一目見た若狭屋が「まだ父親の作が残っていたのか」と見間違えたほどの立派な観音像だ。
三十両で買い取るという若狭屋は観音像の足裏に「矩随」の銘があるので、「何でこんなことをしたんだ」と怒る。
矩随は母とのやりとりからの顛末を話すと、若狭屋も納得、碗の水のことを聞いて水杯とピンと来た若狭屋は急いで家に帰れという。
裏長屋に駆け戻った矩随だが、家に代々伝わる短刀で母親は自刃していた。
これをきかっけにして開眼した矩随はさらに精進し、後に父にも劣らぬ名人と言われるようになったという一席。
怠らで 行かば千里の 果ても見む 牛の歩みの よし遅くとも
「浜野矩随」は実在の人です。
三代続いた江戸後期の彫金の名工。
初代(1736~87)と、二代目(1771~1851)が有名だが、この噺のモデルは初代だと言われる。
初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随(しょうずい)に師事して浜野派彫金の二代目を継いだ。
細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住んだ。
・・・ただし、この噺のストーリーとは必ずしも一致していませんから、実在の人物とは言え、実名を借りたフィクションなのかもしれません。
この噺は、五代目古今亭志ん生師匠の十八番でした。
元々、講釈(講談)を元に作られた噺ですから、講釈師のキャリアもある志ん生師匠がお演りになるのは自然だと思います。
明治期には初代三遊亭圓右の十八番だったようです。
圓右は、あの四代目橘家圓喬と並び称されたほどの人情噺の大家で、若き日の五代目古今亭志ん生師匠が、この圓右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしたということでしょう。
しかし、私は、圓楽師匠の口演がベストだと思います。
ストーリー、テンポ・・・、今まで色々な噺家さんを聴きましたが、圓楽師匠に勝るものはないと思います。
立川志の輔さんも十八番にしていますが、ベースは明らかに圓楽師匠のものです。
そこで、ストーリーの中で、よく話題になるのは、矩随の母親の演じ方です。
講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。
(「唐茄子屋政談」でも2パターンあります。)
ところが、志ん生師匠は、これをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しました。
ご子息の古今亭志ん朝師匠も同様にしています。
圓楽師匠も、やはり母親が自害するやり方でした。
(その後、死なせない演出のものもありますが。)
言うまでもなく、老母の死があってこそ、矩随の悲壮な奮起が説得力を持つ訳で、こちらの方が優れていると思います。
今から7年前に、「番外OB落語会」でやっています。
その時に、「浜野矩随」への質問なんていうことで、アップしています。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/02/fw-2671.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/02/post-a0c0.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-6a5f.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-891e.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-891e-1.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-a2cb-1.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-a2cb.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-d97c.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-891e-2.html
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2012/03/post-9f28.html
本当に思い入れの強い噺だということですね。
これからも、ずっと機会があれば演り続けたいと思います。
・・・ところで、「初代三遊亭圓右」についてちょっと。
この人が「二代目三遊亭圓朝」だということは、知らない人が多いと思います。
圓朝は初代だけでなく、本当に二代目だったんです。
初代三遊亭圓右(万延元年(1860年) - 大正13年(1924年))は、四代目橘家圓喬と並び称される明治期から大正期にかけての名人。
幕府の御家人だった伯父が風流人で笛を得意とし、初代三遊亭圓朝のお囃子をしていた関係で、幼いころから楽屋に出入りする。
1872年頃に二代目三遊亭圓橘門下で橘六、1877年に二つ目で三橘、1882年に圓右となり、1883年真打昇進。
1897年上方にも活動を始め、上方ネタを多く改作。
1924年10月24日、大師匠三遊亭圓朝27回忌に、二代目圓朝の名跡を管理していた藤浦三周からその年の秋に名乗ることを許されるが、既に身体は肺炎に冒されていた。
結局病床で襲名するも間もなく死去。
享年65。
二代目圓朝となったのは事実であるが、圓朝としてはほとんど活躍せずに没したため「幻の二代目」と言われる。
一方、圓右時代の功績が華々しかったためか、一般には「初代圓右」として認識される。「名人圓右」といえば、初代圓右のことを指す。
・・・「二代目圓朝」は実在したんです。
節分の前日、世が世であれば、暮れの忙しい真っ最中の今日は、内緒ですが結婚記念日です。
もう、33年になるようです。
光陰や矢のごとしで、まるで三十三間堂みたいです。
大阪出張中に、ふと思い出したので、何もしないと何かがあるといけないと、花でも贈ることにしました。
そして迎えた当日。
稽古に出かけて、昼間から酒を飲んで帰る頃には届いているだろうと思って帰宅すると、リビングのテーブルにはなにもありません。
何事もないように、注文受付のメールを確認。
確かに、2月2日配送となっている。
「おい、日比谷花壇はなにやってんだ!」とイライラ。
夜8時過ぎて、やっと宅配便で届きました。
ところが、肝心な家内は入浴中で、送り主の私がシャチハタを押して受け取るという・・与太郎な状態になりました。
しかし、さすがに日比谷花壇の花でですね。
あんなに高かったのに、こんなに小さい・・。
それでも何とか束の間の平和を維持することが出来ました。
この花の効き目がなくなる頃は、今度は誕生日です。
ここも外さないようにしておかないといけません。
くわばら、くわばら。
12時に稽古が終わった後、いつもはそのまま解散というパターンですが。
今日は土曜日で、明日は休みの解放感もあって、誰言うともなく、みんなで一杯ということになりました。
特に、先週の「深川三流亭」の打ち上げでは、帰りに車を運転しないといけないので、泣く泣くノンアルコールを強いられた夢学さんが、「どうしても飲みたい!」という訳で・・・?
・・・門前仲町駅近くに戻り、真っ昼間からの酒盛りになりました。
百梅さんが探したイタリアンの店で、7人で盛り上りました。
飲み放題で、料理もなかなか美味かった。
夢学さん、リベンジ出来たかな?
しかし昼間の3時頃に、いい気分になったところまでは良かったのですが、酔いが冷めてくると、身体中がだるくなりました。
明日は節分です。
節分と言えば、落語「鬼の涙」でもそうですが、「鬼は外!福は内!」ですよ。
鬼の仮面(お面)が付き物です。
ところが最近は、「顔にかぶると視野・視界が狭くなり危険」などと記された品が増えているそうです。
要するに、お面を被ると危険だということですね。
こんな注意書きが付いているとか。
「玩具安全マーク(STマーク)」事業を担う一般社団法人日本玩具協会によると、3年前から、お面にSTマークを認める条件として「顔にかぶせないことを指示する注意書き」を商品に示す基準を明文化。
頭かおでこに着けるよう求めているということです。
・・・それじゃ「お面」じゃないですよね。
理由は、視野が狭まった子どもたちが転倒するのを防ぐため。節分用に限らず、露店などで売られるアニメキャラクターなどの商品も同じだそうです。
・・・確かに、 危険がないとは言えませんが、何とも寂しいなぁ。
インターネットオークションの恐ろしさ。
インターネットオークションで、放射性物質「ウラン」とみられる粉末が売買されていたそうです。
警視庁が購入者から粉末を押収して鑑定を進めるとともに、原子炉等規制法違反(譲渡)容疑で出品者から任意で事情を聞いているそうです。
昨年1月、原子力規制庁職員がネットオークションに「ウラン」と称した物質が出品されているのを見つけ、警視庁に通報。
警視庁が出品者の男性と複数の購入者を特定。
鉄腕アトムの妹のウランちゃんではありません。
ウランなどの放射性物質の無許可売買は同法で禁じられている。
警視庁は、出品者が粉末を入手したルートについても捜査を進める。
原子力規制庁によると、2年前にも放射性物質を含むキーホルダーがネット上で売買されており、同庁が行政指導したという。
ウランとは、原子番号92の元素。
元素記号は U。
ウラニウムの名でも知られるが、これは金属元素を意味するラテン語の派生名詞中性語尾 -ium を付けた形。
しかし、いくらなんでもウランを売っちゃあいけません。
ウラン(売らん)なんだから。
これも不祥事なんでしょう。
山口県警の女性巡査が生活費のために福岡県の風俗店で働いていたことが発覚し、減給処分を受けたうえ、依願退職したというニュース。
この女性巡査は去年9月から11月にかけ、福岡県の風俗店でアルバイトをして約8万円の報酬を得ていた。
去年11月に警察に情報が寄せられて女性巡査を調べたところ、「生活費の足しにしたかった」と事実を認めた。
女性巡査は年齢20歳以下だ。県警は副業を禁止した地方公務員法違反にあたるとし、女性巡査を減給処分。
女性巡査は即日、依願退職。
・・・何か事情はあるかもしれませんが、二十歳前でも、自身の仕事、置かれた立場・・を考えることは出来なくては。
社会や人の役に立とうという人が、自分だけの都合で行動するのは・・・?
職業選択の自由と言う次元ではありません。
この画面、ちょっと垢抜けていませんが、昔から見慣れた「スーパーマリオ」ですよね。
ところが、全く違います。
中国で治安や司法部門を管轄する共産党の組織が、大手ゲームメーカー「任天堂」の人気キャラクターの「マリオ」にそっくりなキャラクターを使用した宣伝動画を掲載し、インターネット上で「著作権を侵害しているのではないか」といった批判的なコメントが寄せられ波紋を呼んでいるそうです。
この宣伝動画は、中国共産党で治安や司法部門を管轄する中央政法委員会が、中国版ツイッターのウェイボーの公式アカウントに掲載したものだそうです。
動画では、大手ゲームメーカー「任天堂」の「マリオシリーズ」の「マリオ」にそっくりなキャラクターを登場させて、法執行の取り組みなどについて表現していて、ゲームと似た音楽も使われているようです。
この動画をめぐっては、当然のことと思いますが、アカウントのコメント欄に「著作権を得たのか」とか、「任天堂の著作権を侵害しているのではないか」といった批判的なコメントが寄せられ、「マリオ」の無断使用ではないかと問題視されて波紋を呼んでいます。
これについて、任天堂は「個別の案件にはコメントしていない」そうです。
もう、呆れて、慣れて、蔑んでいるんでしょうね。
恥ずかしくないのかなぁ。
そういえば、「ウルトラマン」に似たのもいましたね。
この噺も忘れられない噺です。
なぜなら「身延詣り」がベースになっているから。
落語は、法華(日蓮宗)、身延詣り(身延山久遠寺)が出て来ます。
ご当地噺として、持ちネタにしたいという気持ちもあります。
ですから、「甲府い」も「鰍沢」も同様なんです。
この噺は、古典ではない新作落語です。
NHKが、昭和40年直木賞作家の「平岩弓枝」さんに書き下ろしを依頼して完成したもの。
八代目林家正蔵(彦六)師匠のこの「笠と赤い風車」で、所謂「文芸物」が高座に登るきっかけとなりました。
正蔵師匠は、この作品により、「芸術祭奨励賞」を受賞。
学生時代にラジオで聴いて、「あぁ、あの”肝っ玉かあさん”の作者の・・・」という驚きも含めて、大変印象に残りました。
テープでも販売されていて、早速買って何度も聞きました。
人の親の 心は闇にあらねども 子を思ふ道に 迷いぬるかな
古歌から始まる、格調高い噺でした。
浅草馬道にお豆腐屋さんの嘉吉の店があった。
夫婦の間に男の子が産まれた。
喜んでいると3日目に産後の肥立ちが悪く、おかみさんは亡くなってしまった。
水子を抱えてどうしようかと思案していたら、亡くなったおかみさんの妹でおせんが何くれと細やかに赤子の面倒を見てくれた。
大家さんを始め周りの者も推め、それに従って後添いとした。
おせんさんと嘉吉の間には子供が無く、男の子には常吉と名を付け幸せに暮らしていた。常吉が多感な15歳の時、「お前のおっ母さんは、継母で実の親が亡くなる前から、父親と付き合っていた。」と、まだ世間知らずの子供に吹き込んだ。
ここで常吉は根性が曲がってしまい、20歳の時には道楽三昧をするほど堕ちてしまう。
それを苦にしながら嘉吉は亡くなってしまう。
常吉は、母親のおせんが何をやっても、悪く悪く取って始末に負えない。
所帯を持たせば落ち着くだろうと、遠縁の器量好しで気立ての良いお花を迎えたが、それにも難癖を付けた。
その頃町内でも有名な縛連崩れの悪女、おぎんと言う女が常吉に付いた。
常吉は知らないが、おぎんには仙太というヒモが付いていた。
ある日、大家が訪ねてきて、無尽が満期になったお金と、生前嘉吉が預けておいた金、合わせて15両がある。
6月10日法華講が身延に参詣に行くので、一緒に行こう、と誘われた。
嘉吉の遺骨を収めに行きたい、と話はまとまり、大家が15両預かってくれた。
この話がおぎんの耳に入り、仙太と悪い相談が決まった。
おぎんの口から常吉に伝え、親孝行の真似をしてお金を巻き上げろと悪知恵を与えた。
親孝行の真似事をしていると、おせんもほだされ15両の一件を話し、身延に行く事を了承して欲しいと頼むと、遠いし大変だから自分が行くと言い出した。おせんも快く了承し、大家も最近の行いを見ていたので同行を許した。
10日が近づくと、おせんは15両を胴巻きに縫い込み、あれこれと旅立ちの用意をした。
当日、菅笠には実の母親からの形見の赤い風車を縫い付けておいた。
この赤い風車も母親だと思って、身延に収めて欲しいと持たせた。金が欲しいだけの常吉は気ィ良く持って出た。
一行は東海道の道を取り、初日、戸塚泊まり。
常吉は一緒の宿には泊まらず、おぎんと逢って別の宿に投宿した。
翌日二人は歩き始めたが赤い風車が気になったが、しっかり縫い付けられていたので取れず、茶店で置き忘れたように捨てた。
小田原に宿を求めると、赤い風車が付いた笠が届いていた。
茶店のお婆さんが届けたという。翌日、歩き始めてドブに笠を捨ててしまった。
箱根にさしかかり、茶屋に腰を下ろすと、赤い風車を付けた笠が届いていた。
品の良い2人の婦人が届けたという。
さすがの常吉もゾーッとした。
箱根で宿を取ったが、酒を飲んでも気が晴れない。
散歩をしようと宿の下駄を引っかけ真っ暗闇の中歩いていると、後ろから思いっ切り突き飛ばされて、谷川に転落。
突き飛ばしたのはヒモの仙太で、金を懐におぎんと二人は箱根越えを始めた。
常吉は気が付いたら箱根の宿であった。
聞くと、炭焼きが赤い物を見付け、谷川を下りると、川の中に倒れていた。
笠が常吉を支えるようにして、水も飲まず怪我もせず助かった。
笠はぐっしょり濡れて、その時の状況が見えるようだった。
笠の中に母親の姿をだぶらせたが、その母親は継母のおせんの事であった。
居ても立っても居られず、とって返して我が家に。
線香の煙の中、おせんは横たわっていた。
お花が言うには、毎日手を合わせていたが、昨夜気が付くと、両手を上につきだして重いものを支えるような恰好で、水につかったようにぐっしょりと濡れて息絶えていた。
「おっ母さん、おっかさ~ん」と子供のように泣きじゃくる常吉の背中で、風車が風もないのに回りました。
クルクル、クルクル、クルクル。
地語りも多く、音源が彦六師匠でしたから、自分のペースや世界を作るのに苦労しました。
常吉が、継母のおせんのことを「おっ母さん」と叫ぶところが、この噺のポイントだと思います。
2010年9月26日、仙台での「OB落語会」でも口演しました。
これもまた「冗談でしょ?」と思います。
JR東日本の交通系ICカード「Suica(スイカ)」の解約を巡り、秋田県など東北の一部で不満の声が出ている。
対応できる装置が宮城、福島両県の駅にしかなく、未設置の地域は解約がままならないためだ。
運賃をはじめコンビニエンスストアやスーパー、自動販売機の支払いにまで使えるスイカだが、利用者に混乱が生じている。
.
昨年12月上旬、秋田駅で由利本荘市の60代女性がスイカの解約を申し出た。
駅構内にあるJR系列のコンビニエンスストアで購入したカードだったが、窓口の担当者の説明に耳を疑った。
「新潟駅に自己負担で行き、解約の手続きを取っていただけますか」・・・。
.秋田駅と新潟駅を往復すると特急の乗車時間だけで約7時間。
運賃は約1万4000円となる。
女性は代替策として「手続き可能な駅でJRに解約してもらい、デポジット(預かり金)やチャージ額を秋田駅の窓口で受け取りたい」と提案したが、拒まれたという。
.新潟に用事はなく、スイカは今も手元にある。「お金をかけないと解約できない。
このままでは泣き寝入りになる」と嘆く。
・・・結局、入口だけは必死に作るけれども、出口は軽視しているという、典型的なパターンです。
提案(依頼)は、至極ごもっともで、当然対応すべきだと思います。
そもそも、どの面を下げて「新潟まで行ってくれ」と言ったんだろう。
現時点で、秋田県内の在来線はスイカで運賃支払いできない。
JR東日本秋田支社によると、スイカを解約できる窓口備え付けの装置は県内にはなく、近県では「仙台」「新潟」の両エリアのスイカ対応駅に足を延ばす必要がある。
秋田県内では、系列のコンビニエンスストアなど7店舗でスイカを販売しているが、いずれも解約の手続きは受け付けていない。
秋田支社の広報担当者は「『県内では解約できない』と販売時に注意書きを渡すことになっている」と説明するが、女性は「口頭での説明も文書もなかった」と話す。
.・・・注意書きや説明でなく、出来るようにしないといけない。
やはり、未だに時々「国鉄」が出て来るんでしょうか。
とんでもない、時代錯誤です。
新作落語の名作に「ぜんざい公社」という、お役所仕事を風刺した噺があります。
長崎県総務文書課は、県庁内の部署から別の部署や議員執務室など同じ県庁内に、2016〜2018年度に、把握しているだけで計32件が郵便局を通じ送られていたと発表。
これとは別に、長崎県庁の部署から議員執務室に宅配便が届く例もあった。
長崎県庁全体でどれくらいこうした行為があるのかは把握できていない。
送料がかかっており、県総務文書課は「無駄なお金を使っている」とし、各部署の担当者を集めた研修会で指導する。
ある県議は、本年度、庁内の部署から、議員執務室に長崎県関係資料が詰め込まれた宅配便が届けられた。
「堂々と届いてきた時はびっくりし、(県側に)抗議した」と振り返り、送料について「たかだかと思っているかもしれないが、ちりも積もれば山となる」と公金意識の改善に注文。
・・・それにしても、バカじゃないかと思います。
そうそう、「百年目」でこんなシーンがあります。
番頭が、店の手代や小僧などの奉公人に小言を言う場面です。
手紙を出さずに手元に置いてあるのは、小僧の手が空かないという言い訳に、「お前が小僧を使うなんていう立場ではない。自分で出しに行け」と嗜めます。
そんなの常識でしょう。
これは、誰かの襲名披露口上ではありません。
千葉県野田市で小学4年生の女の子が死亡し、41歳の父親が傷害の疑いで逮捕された事件で、女の子が「父からいじめを受けている」と訴えた小学校のアンケートのコピーを、市の教育委員会が父親からの要求を受けて渡していた・・・。
「秘密は守るから」と言ってアンケートを行ったのに?
教育委員会の言い訳。
父親の恫喝の恐怖感に屈した。
一時保護に納得できない訴訟も辞さないというような怒りを鎮めるために、恐怖感から(アンケートを)出してしまった。
市は一時保護の後、ここの校長は、今後保護する際にはすぐに父親に情報を開示することなどを約束する「念書」を書いていた。
お前たちは、何のためにいるんですか?
子どもを守るためではないのですが?
それなのに、最も大切な子どもを売って、自らの保身に走った。
教育委員会の担当者は、会見で「配慮が足りないだけでは済まされない、取り返しのつかないことをしてしまった」と謝罪。
当たり前でしょう、謝って済む問題じゃありません!
「配慮が足りない」だ?
この期に及んで何とバカを言っているのか、配慮以前の、人の道を外れた任務放棄、情報公開条例違反なんてものではなく間接的に「殺人幇助罪」と言ってもいい愚挙。
こんな輩が、教育委員会ででかい面して、「これでいい野田(のだ)」と、無駄に給料をもらっている野田(のだ)。
昨年9月に75歳で亡くなった樹木希林の生前の言葉が、いくつか新聞広告などに載っているそうで、ちょっと拾ってみました。
前後の脈絡や背景は知りませんが、何となくニュアンスは伝わって来ます。
「人間はあした地球が滅ぶとわかっていても、きょうリンゴの木を植えなきゃならないものなのよ。そういうふうに考えて生きていきましょうよ」
「絆というものを、あまり信用しないの。期待しすぎると、お互い苦しくなっちゃうから」
「迷ったら、自分にとって楽なほうに、道を変えればいいんじゃないかしら」
「えっ、わたしの話で救われる人がいる?それは依存症というものよ」
「私は何でもおもしろがれるの」
「本物だからって世の中に広まるわけじゃないのよ。偽物のほうが広まりやすいのよ」
「どうぞ、物事を面白く受け取って愉快に生きて。 あんまり頑張らないで、でもへこたれないで」
・・・力が抜けていますよね。
やはり、深夜に雪が降ったようです。
積もってはいませんが、車のボンネットには残っていました。
寒いことは寒いですが、凍結するほどでもなさそうで、一安心。
こんな天体ショーもあるようです。
2月1日の未明から明け方、南東の低空で月齢26の細い月と明けの明星の金星が大接近して見える。
地球照を伴った幻想的な細い月と金星の共演は、数ある月と惑星の接近の中でも随一の美しさで、早起きして見る価値のある光景。
月と金星の右上には木星が、左下には土星も見え、翌朝にはさらに細い月と土星が接近する。
月と金星の次回の共演は3月3日。
・・・月と夜明けの明星に加えて、木星と土星も?
駅へ向かう道で、月と金星と、恐らく木星の共演を見ることが出来ました。
写真だとぼんやりしていますが、細い月と明るく輝く星が、とても美しかった。
大岡裁きの一席「帯久」です。
落語国でもヒーローの「大岡越前守」の見事な人情お裁き。
講談の大岡政談ものと、随筆「明和雑記」中の名奉行曲淵甲斐守の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。
「名奉行」と題して、明治末に「文藝倶楽部」に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭圓生師匠が東京風に改作。
昭和32年10月に上野の本牧亭での独演会で初演。
https://www.youtube.com/watch?v=dYw18jwbN70
圓生師匠没後は、圓窓師匠が復活して演っています。
https://www.youtube.com/watch?v=T3BcXFG7u8A&t=42s
しかし、圓窓師匠がお演りになったから、という訳ではないんです。
http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2013/01/post-c882.html
・・・何か、落語が業の肯定だと思った時、世の不条理や不合理に憤りながら、でも絶対にそんなことがまかり通る訳がないと、悶々としていたんだと思います。
落語は、必ず助けてくれる。
それが「帯久」で、偶然にも、師匠の十八番の一つだった。
どうも、私は、「これは」と思うと、師匠のCDがあったりする。
「明烏」「子別れ」「ねずみ」「子別れ」「不孝者」。
堂々と?稽古をつけていただいた度胸というか無茶ぶりは、後で冷汗が出ます。
約7年ぐらい前、「一番丁はずみ亭」でネタ下ろしをしました。
本町四丁目に呉服屋を営む和泉屋与兵衛は好人物といわれ、評判も高い。
近くの本町二丁目の同業の帯屋久七は、陰で売れず屋と言われているほどなので、資金繰りに苦しんでいる。
享保六年二月二十日。
帯屋は和泉屋へ「金を貸してくれないか」とやってきた。
人のいい和泉屋は「あるとき払いの催促なしでいいですよ」と二十両貸してやった。
帯屋は二十日ほどで返金した。その後、五月に三十両、七月に五十両、九月に七十両と借りに来て、ちゃんちゃん二十日後には返金した。
十一月に百両借りにきたが、二十日経っても返金はなく、十二月の大晦日に返しに来た。
和泉屋は奥座敷でその百両を受け取り、「お客さまがいらっしゃいました」という内儀の知らせに部屋を出て行った。
部屋には帯屋が一人になった。目の前に返金した百両が置かれている。
帯屋はその百両を自分の懐へ入れると、店の者に挨拶もそこそこに帰って行った。
後刻、和泉屋は百両紛失に気が付いたが、忙しさに取り紛れてついついそのままにしてしまった。
帯屋はその百両を基にして商品に手拭い、布巾、晒し、袱紗、足袋、半衿などの景品を付けることを思い立った。
皮肉にも、これが人気を呼び、売れず屋が売れる屋になった。
一方、和泉屋は運から見放されたように、翌年三月、一人娘を亡くし、五月に内儀を亡くした。
その年十二月十日、神田三河町から出火。着の身着のままで焼け出されて、逃げるときに腰を打ったのか、満足に歩けなくなった。
和泉屋は以前、暖簾分けをしてやった分家の和泉屋武兵衛に救われた。
しかし、その武兵衛も人に騙されて店はなく、今は日雇いをしている身の上。それでも、恩返しのつもりで必死になって和泉屋の面倒を看た。
十年経ったが、和泉屋の生活は同じようなもので、相変わらず武兵衛の家の居候。
ある日、和泉屋は和泉屋本家を興こし、武兵衛にも楽をさせようと考えて、帯屋に金を借りに行った。
しかし、けんもほろろに断られて、その上、店の者に引きずり出され、塩まで撒かれる扱いであった。
あまりの悔しさに和泉屋は普請中の帯屋の裏手へ回り、見越しの松の枝を目にして首を括ろうとした。
今生の最後の一服と煙草を吸う。その吸い殻が普請場の鉋屑に転がっていき、燃え出してしまった。
大事には至らなかったが、帯屋の訴えで火付けの罪で捕われ、大岡裁きになる。
奉行は部下の者につぶさに調べさせて、何度か取り調べを重ねて、いよいよ今日はその判決。
「さて、帯屋久七。そのほうは和泉屋から再三に亘って金子を借りておったのぅ」
「お奉行さま。ものには順がございます。火付けの罪として和泉屋を訴えたのは私でございます。火付けの件を裁いていただきとう存じます」
「ものには順があるか。そうであるの。帯屋からよいことを教わった。 しからば、和泉屋。そのほうの行いは火付けにあらず。煙草の火の不始末による失火である。しかし、失火であろうとも帯屋にとってみれば迷惑なこと。重罪も同然であろう。よって火炙りの刑に処す」
この判決に帯屋は大喜び。
「さて、帯屋。ものの順に従って取り調べる。そのほうは和泉屋より再三、金子を借りて返済はしておるようじゃが、最後に借りた百両は?」
「それも大晦日に返済いたしました」
「確かに和泉屋へ返済に行ったようじゃが、大晦日、店は忙しさに取り紛れている最中、来春に改めて返済をしようと思い立ち、返済はせずに帰宅したのではないか。しかし、春になって、今度はそのほうの店が多忙となり、つい、返済を忘れてしまったのであろう」
「いえ、そのようなことはありません」
「忘れたようじゃの。思い出すためにまじないがある。手を出せ」
帯屋の右手の人さし指と中指の二本に紙縒り(こより)を捲いてきつく縛り付けて封印をした。
「思い出すまじないじゃ。思い出すまで取ってはならんぞ。勝手に取ったならば、打ち首じゃ」
さぁ、帯屋は困った。
右手の指、二本が使えないので、物を持つことも容易ではなく、また濡らすと切れる恐れがあるので、風呂も入れない、顔も洗えないという始末。
この様子を見た帯屋の番頭が「どうせ、和泉屋は火炙りで死ぬのですから、『思い出した』と言って百両を返したほうが楽ですよ」と知恵を付けた。
帯屋は奉行にそのことを申し出ると、「やっと思い出したか。正直になったな。でかした」と褒めながら奉行は封を切ってくれた。
「帯屋。十年経ったのであるから百両には百五十両の利子を付けて、計二百五十両を返済せよ」
「お奉行さま。それはあまりにも法外な金額」
「黙れ。世間の相場である。しかし、情けを持って、利子の内、五十両は一遍でなく ともよい。年に一両ずつでよい」
「温情ありがとう存じます。では、とりあえず二百両は払います。それでは和泉屋の火炙りを」
「ものには順がある。貸し借りが先にあり、火の不始末はその後。利子の返済を終えた後、火炙りの刑をいたす」
「それでは、五十年後となり、あたしも生きているかどうか、わかりませんで」
「ならん。ものには順があると申したのはそのほうじゃ。火炙りは五十年後に執行する」
「では、五十両の件、年に一両ずつの返済はなかったことにして、即刻に払いますので」
「では、五十年後の火炙りもなかったことを、即刻に決めよう」
帯屋は青菜に塩で、なにも言い出せなくなってしまった。
奉行が和泉屋に言った。
「これ、和泉屋。帯屋から二百両受け取れ。そして和泉屋を興せ。長生きしてよかったのぅ。何歳に相成る?」
和泉屋も涙をこぼしながら言った。
「六十一で……、おかげで本家(本卦)帰りができます」
・・・圓窓師匠は、悪人の帯屋久七の名がタイトル[帯久]になっているのが、ちょいと気になるが、「髪結新三」の例もあるので、我慢をしようと。
圓生師匠のは、和泉屋が本当に火付けをするという筋ですが、和泉屋を悪人にしたくないので、失火に変えたそうです。
舞台の火事は享保(1721)年12月10日、神田三河町から出た大火事としています。
火元の神田三河町は現在名称はなく、神田錦町一丁目と二丁目 の境の道路両面。
噺では、当時はなかった神田駅の西側(現在の神田錦町)から出た火事は、神田駅の東側現在の室町まで火炎を伸ばしたことになります。
本庁二丁目の売れず屋の帯久は被災せず、本庁四丁目の和泉屋与兵衛は類焼してしまった。
この年は火事が多くて1月から3月にかけて連続して6件の火災が発生し、江戸の延べ3分の2が焼失したと言われています。
・・・この噺は、私は、失火を出した和泉屋を町役人が番屋へ連行し、身の上話を聞いて涙しながら、和泉屋から受けた恩を語る部分に力をいれました。
この部分は、いつ演っても、涙が止まりません。
また、オチに関連して、「本卦還り(返り)」がキーワードになる噺。
本卦返りというのは、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。
現在では、「還暦」の方がポピュラーかもしれません。
陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支を組み合わせ、その(10と12の)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる数え61(満60)歳を本卦返りとして、赤い着物を贈って祝う。
この風習は今でもあります。
因みに、今年は36番目の「己亥(つちのとい)」です。
・・・この噺は、是非何かのタイミングで再演したいと思います。
創部60周年=本卦還り・・・ですね。