落語「居残り佐平次」
「居残り佐平次」は、初代春風亭柳枝の作といわれる廓噺の異色作(大作)です。
別名「居残り」、「おこわ」などとも言われます。
大正時代には初代柳家小せんの十八番とされ、それを学んで創意を加えた六代目三遊亭
圓生師匠の高座が傑出していたと評されます。
https://www.youtube.com/watch?v=wrj5i__PPks
「居残り」というのは、当時の遊郭において代金を支払えなかった場合、代わりの者(一緒に来た者や家族など)が代金を支払うまで、その身柄を拘束したことを言い、行灯部屋や布団部屋といった納戸に軟禁されるのが普通だったそうです。
舞台は品川宿。
吉原を北、品川を南と呼んだように、隆盛を極めていました。
貧乏人たちが集まる長屋で、その一人の佐平次という男が品川宿の遊郭に行こうと周りを誘う。
当然、貧乏長屋の住人らに遊郭で遊ぶような金はないが、佐平次は気にするなという。
品川の遊郭にやってきた一同は、佐平次を信じて飲めや歌えで遊び尽くし、一泊する。
翌朝、佐平次は理由をつけて自分はもう一泊する旨を仲間に告げ、皆を帰してしまう。
その後、勘定にやってきた店の者に佐平次は、先程帰った仲間が代金を持ってくるなどと言ってはぐらかし、今度は一人で飲めや歌えで遊び、また一泊する。翌日になり、再び店の者が勘定にやってくるが、やはり佐平次ははぐらかし、また同様に一泊する。
やがて痺れを切らした店の者に詰問されると、佐平次はまったく悪びれず「金は無い」「仲間は来ない」と答える。
店が騒然となる中、佐平次はまったく慌てず自ら布団部屋に入り「居残り」となる。
やがて夜になって店が忙しくなると、店の者たちも居残りどころではなくなってくる。
すると、佐平次は頃合いを見計らって布団部屋を抜け出し、勝手に客の座敷に上がりこんで客あしらい(幇間)を始めた。
居残りが接待する珍妙さと、佐平次の軽妙な掛け合い、さらに謡、幇間踊りなど玄人はだしであり、客は次々と佐平次を気に入り、佐平次は相伴に預かったり、祝儀までもらい始める。客が引くと佐平次は再び布団部屋へと戻り、また夜になると客あしらいを始め、数日後には客の方から、あの居残りを呼んでくれと声まで掛かるようになってしまった。
本来の客あしらい(幇間)である店の若い衆らは、佐平次の活躍の分だけ、祝儀などをもらえなくなってしまったために、もはや勘定はいらないから佐平次を追い出して欲しいと主人に訴え出る。
佐平次を呼び出した店主は、もはや勘定はいらないから帰るように言う。
しかし、佐平次は理由をつけて居残るようなことを言い身の上話を始めたりする。
仕方なく店主は、さらに佐平次に金を与えるが、佐平次はさらに煙草まで要求して飲ませ、ようやく佐平次は店を出る。
店から離れたところで佐平次は、心配で後をついてきた若い衆に、自分は居残りを生業としている居残り佐平次だと名乗る。
さらに佐平次は店主はお人好しだと馬鹿にするようなことを言ってその場を去る。
急いで店に帰ってきた若い衆は、店主にそのことを話す。
話を聞き激怒した店主は「ひどいやつだ。私をおこわにかけやがったな」 と言う。
それに対し、若い衆が一言。
「旦那の頭がごま塩ですから・・・」
さて、「幕末太陽傳」という映画があります。
落語好きにはたまりません。
「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「付き馬」「文七元結」「大工調べ」「お見立て」「親子の遊び」「おせつ徳三郎」・・・・、こんな落語の名作の数々が、練り込まれています。
それから、落語を演る立場からも、煙草盆や火鉢や帳場、廓や品川の海、花魁の生態や様々な商売など、実際に動いているのを見られるのも貴重です。
頃は幕末--ここ品川宿の遊女屋相模屋に登楼したのは佐平次の一行。
さんざ遊んだ挙句に懐は無一文。
怒った楼主伝兵衛は佐平次を行燈部屋に追払った。
ところがこの男黙って居残りをする代物ではない。
いつの間にやら玄関へ飛び出して番頭みたいな仕事を始めたが、その要領のよいこと。売れっ妓こはるの部屋に入浸って勘定がたまる一方の攘夷の志士高杉晋作たちから、そのカタをとって来たり、親子して同じこはるに通い続けたのがばれての親子喧嘩もうまく納めるといった具合。
しかもその度に御祝儀を頂戴して懐を温める抜け目のない佐平次であった。
この図々しい居残りが数日続くうちに、仕立物まで上手にする彼の器用さは、女郎こはるとおそめをいかれさせてしまった。
かくて佐平次は二人の女からロ説かれる仕儀となった。
ところが佐平次はこんな二人に目もくれずに大奮闘。
女中おひさにほれた相模屋の太陽息子徳三郎は、おひさとの仲の橋渡しを佐平次に頼んだ。
佐平次はこれを手数料十両で引受けた。
あくまでちゃっかりしている佐平次は、こはるの部屋の高杉らに着目。
彼らが御殿山英国公使館の焼打ちを謀っていることを知ると、御殿山工事場に出入りしている大工に異人館の地図を作らせ、これを高杉らに渡してまたまた儲けた。
その上焼打ちの舟に、徳三郎とおひさを便乗させることも忘れなかった。その夜、御殿山に火が上った。
この事件のすきに、ここらが引上げ時としこたま儲けた佐平次は旅支度。そこへこはるの客杢兵衛大尽が、こはるがいないと大騒ぎ。
佐平次は、こはるは急死したと誤魔化してその場を繕い、翌朝早く旅支度して表に出ると、こはいかに杢兵衛が待ち構えていてこはるの墓に案内しろという。
これも居残り稼業最後の稼ぎと、彼は杢兵衛から祝儀をもらうと、近くの墓地でいいかげんの石塔をこはるの墓と教えた。
杢兵衛一心に拝んでいたが、ふと顔をあげるとこれが子供の戒名。
欺されたと真赤になって怒る大尽を尻目に、佐平次は振分けかついで東海道の松並木を韋駄天走りに駈け去って行った。
・・・落語を語るに、廓噺を抜きには語れません。
良くも悪くも、我々の世代は、吉原や品川などの色街や遊郭のことは知りません。
残っている写真や絵を見て、想像して舞台設定をするしか術はありません。
人が、柵や義理や金に縛られて、自由に幸せに生きられなかった時代。
しかし、そんな時代をも、落語は肯定し(受け入れ)。活き活きとした人間像を描いています。
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