横綱の引き際

この引き際の潔さは、一体どこから来ているのでしょうか?

そんな美学は、大正時代の名横綱・栃木山から始まった。
3連覇を果たした後、1度も土俵に上がらないまま引退した鮮やかな引き際は、引退から6年後の第1回大日本相撲選士権で、現役の横綱・大関たちを倒して優勝したエピソードでさらに彩られた。
栃木山の弟子の栃錦をはじめ、何人もの横綱たちがこの引き際を踏襲し、称賛されたことから、いつしか潔さこそが横綱「理想の引き際」として揺るぎないものとなった。
横綱には引き際以外にも「かくあるべし」という理想がある。
「受けて立つ相撲を取るべし」「毎場所優勝争いに絡むべし」「品格ある行動をとるべし」などなど。
その多くは、常陸山、栃木山、双葉山など、過去の伝説的な横綱たちの理想的な姿から選りすぐられたものだ。
それらがあいまって理想の横綱像が形作られ、すべての横綱が、それに近づくことを求められる。
しかし、実際にはほとんどの横綱が、理想の横綱像と現実の自分とのギャップにもがき苦しむ。
それも無理はない。
そもそも横綱昇進の基準が「2場所連続優勝」という成績が中心で、理想の横綱像に近づけるかを考慮していないからだ。
ところが、昇進した途端、理想の横綱像に近づくことを当然のように求められる。
じつに理不尽なことだ。
・・・確かに、稀勢の里も、「大関(まで)と横綱の景色は全く違っていた」というニュアンスのコメントをしていました。
そもそも「武士道」みたいなものに行き着くのでしょう。
ところで、横綱栃木山はどんなお相撲さんだったのか?

栃木山は、体重103kgの「史上最軽量横綱」ながら大正時代に無敵を誇り一時代を築いた力士。
引退から6年経って全日本力士選士権に年寄・春日野として出場して現役力士らを向こうにまわして優勝。
また、筈押しのスピード相撲を完成させて、兄弟弟子の大錦とともに「近代相撲の先駆者」といわれる。
明治44(1911)年2月の初土俵以来連勝を続け、大正2(1913)年5月の幕下まで21連勝。
入幕までにわずか3敗のスピード出世。
大正4(1915)年1月に新入幕。
大正5(1916)年5月、新三役(東小結)で、8日目に無敵を誇った太刀山の連勝記録を56でストップさせる大殊勲。
大正6(1917)年5月、大関昇進、同場所に初優勝し以後5連覇。
連覇中の大正7(1918)年5月、横綱に昇進。
その後4回の優勝を積み重ねるが、3連覇した翌場所の大正14(1915)年5月直前に突然引退を表明。
これから何回優勝を積み重ねるのかと思われていた矢先。
最後の出場場所となった大正14(1915)年1月は10勝1分で負けなしの優勝。
横綱在位成績は115勝8敗6分3預22休、勝率9割3分5厘。
横綱在位勝率9割を超えた最後の横綱。
(因みに、稀勢の里はちょうど5割でした。)
左利きだった栃木山は左筈、右おっつけで、相手にまわしを取らせず自分もまわしを取らない徹底した鋭い押し相撲を完成。
https://www.youtube.com/watch?v=0NdMV0sv_rA
腰を割り、鋭いすり足により勝負が決した時には土俵に2本のレールのような線が出来ていたといわれる。
(それでよく「電車道」って言うのかなぁ。)
相撲の型を完成した最後の力士といわれる。
また、鋭いスピード相撲により近代相撲の先駆者ともいわれる。
・・・あの横綱栃錦の師匠筋に当たるんですね。
私の記憶にある突然引退して驚いた横綱は「佐田の山」です。
「えぇ?先場所優勝しているのに?」と、子ども心に思いました。
1967年11月場所では12勝3敗で5度目の優勝。
1968年1月場所では13勝2敗で連覇を果たした。
ところが、同年3月場所で序盤3敗を喫するとあっさり引退を発表。
まだ30歳になったばかりで悲願だった連覇を達成した直後だったことから周囲に激震が走り、「高見山大五郎(前頭4枚目)に金星を献上したことが悔しかったのではないか」という憶測まで流れたが、佐田の山自身は「弟弟子の北の富士(大関)に敗れて初優勝を許した時点(1967年3月場所)で(引退を)考えていた」という。
戦前に栃木山・常ノ花といった出羽海部屋の名横綱に見られた「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだとも言われた。
・・・なるほど、「引き際」は出羽海一門の伝統だったんですね。
稀勢の里を辿ると、田子の浦→鳴門→二子山→花籠→二所ノ関ということになりますが。