« 落語「穴泥」 | トップページ | 師匠の創作噺 »

2019年1月 9日 (水)

もう1人の1月8日

私の誕生日と同じ日、51年前(1968年)の1月8日、オリンピック(メキシコ)でのメダルが期待されていたアスリートが、自ら命を絶ちました。
円谷幸吉さん。
当時27歳でした。
1964年の東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得し、国民的な英雄になりました。
国立競技場のトラックで、イギリスのヒートリー選手に抜かれるまでは、当時無敵のエチオピアのアベベ選手に続いていました。
小学2年生だった私も、テレビに釘付けになって応援したのを覚えています。

前回の東京オリンピックは、まさに国を挙げたイベントでした。
1人のアスリートであると同時に、国の威信を賭けた星でした。
銅メダルを獲得した後は、「次は金メダルだ」と、自他共に意識した(させられた)時代です。

結果的には、その重圧に耐えられず、メキシコオリンピックが開催される年の初めに、還らぬ人となりました。

「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」というフレーズは、衝撃的でした。
今のアスリートにも大きなプレッシャーですが、簡単に比較は出来ないものの、想像を絶するプレッシャーだったと思います。
そういう光景を目の当たりにしている人が多いから、後年、チャラチャラした態度で記者会見をしたり、「楽しんで来る」などとコメントしたアスリートには、物凄いバッシングがされたものでした。
彼らも、自らのプレッシャーを抑えるためだったのでしょうが、我々世代にとってあの言動は、到底容認出来なかった。
オリンピックの代表=国の代表だから。
その、円谷選手のことを歌った歌もヒットしました。
当時の若者が聴いていたラジオの深夜放送でも、何度も聴いたものです。
ピンクピクルスという女性グループが歌った「一人の道」。
https://www.youtube.com/watch?v=TYWruGl8CoU
♪・・・・見て欲しかったもう一度 表彰台の晴れ姿
     だけど身体は動かない とってももう走れない
                    ・・・これ以上は走れない♪

あれから半世紀以上が経つんですね。

« 落語「穴泥」 | トップページ | 師匠の創作噺 »

徒然」カテゴリの記事