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2018年7月14日 (土)

京須偕充さんの寄稿

pen京須偕充さんが、「さよなら歌丸さん」ということで特別寄稿されています。
京須偕充さんの寄稿
七月二日に桂歌丸さんが八十一歳で亡くなられました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
一昨年あたりから酸素吸入器ごと高座に上がるようになりましたが息切れもなく声量も落ちず、まくらでは少し舌がなめらかではなかったものの、本題ではすっかり本調子になって、結末まで緩みがなかったのは立派な姿でした。
近年稀な芸人魂の持ち主だったと思います。
当人は「近頃覚えが悪くて」と言っていましたが、登場人物がやたらに多い「塩原多助一代記」も淡々とミスなくこなしていたのは驚異的でした。
八十路にして冴えていた歌丸師匠でした。
仕事上のお付き合いが始まったのは朝日名人会の発足準備段階の頃ですから二十年にわたります。
歌丸さんは私からすればビジネスライクの現代人。
芸人にありがちな癖や屈折がなく、駆け引きやはぐらかしも皆無で、爽やかな想い出しか残っていません。
こちらから問いかけもしないのに「(人情噺の)お手本は圓生師匠」と素直に明かすのもまた芸人として稀な常識人の姿でした。
それが回り回って歌丸さんの噺家人生を大団円へと導いたのだと思います。
お手本は圓生師匠と言いながら、歌丸さんは別の道への歩みを心がけていましたから、圓生のコピーに埋没することがなかったように思います。
圓生の人情噺は歌舞伎世話物型のセリフの妙味を備えていて、人物の感情や心理を繊細にまた克明に描きましたが、歌丸さんはそこに深入りしませんでした。
聴き手にとっては悪魔的魅力にあふれた圓生の世界に近寄りすぎると演者は遭難しかねない――。
芝居にたとえれば歌丸さんは装置や照明の変換、切り替えで難関をあっさり演じこなして、ひたすらリズミカルに噺を直進させる手法をとったのでした。
それは昭和戦後派で、江戸っ子ではなく浜っ子の、そして落語のスタートラインでは新作派だったから可能だった――などと理由づけては少し間口の拡げすぎになるでしょうが、人情噺を圓生、正蔵の時代から後輩世代へとつなぐ、歴史的役割は荷っていたように思います。
圓朝作の長編人情噺をライフワークにする前、四、五十歳頃の歌丸さんは埋もれ噺の復活にも取り組みました。
晩年までよくやっていた「おすわどん」「毛氈芝居」はその代表作です。
機会があれば「小烏丸」「辻八卦」「いが栗」もやりました。
一度はやって成功したのにその後あまりやらなくなった「樟脳玉」「庚申(こうしん)待ち」「派手彦」などを復演するよう奨めたのですがそれきりになりました。
「竹の水仙」「ねずみ」をやるのだから甚五郎物の「三井の大黒」はいかが、と奨めましたが、これも実現しませんでした。
「三井」の甚五郎は歌丸さんの芸風に合わないのかもしれません。
それよりも、と歌丸さんは浪曲で今もやる人がある甚五郎物の一編を落語化したいと言っていました。
一昨年、八十歳に手が届く時分のことでしたが、これも実現はしませんでした。
7月11日14時から横浜の妙蓮寺で桂歌丸さんの「お別れの会」がありました。
通夜と告別式は、近親、一門の方々により密葬形式で行われたようで、この日は業界や一般の人たちのための別れの催しでした。
師匠の桂米丸さん、落語協会会長・柳亭市馬さん、落語芸術協会会長代行の三遊亭小遊三さん、親交のあった歌舞伎役者の中村吉右衛門さん、「笑点」の僚友・林家木久扇さんなどの心のこもった惜別のことばがあって、とくに九十翁の米丸さんの弔辞は淡々と自然で少しの無駄や迷いもなく、心打たれる「ことばのひととき」でした。
歌丸さんにも十年の余命があれば、こんな境地に到達したのでしょうか。

・・・歌丸師匠の功績は、決して「笑点」ではありません。
私が憧れる"三遊亭"が、歌丸師匠にはありました。

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