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2018年7月 6日 (金)

歌丸師匠のこと

若い頃の歌丸師匠の印象は、落語芸能人協会で、桂米丸一門でもあったので、新作落語の噺家さんでした。
晩年、というか、途中からは古典落語の師匠のイメージが強くなりましたが。
歌丸師匠のこと
その辺りのことを、演芸評論家の渡邉寧久さんが振り返っておられます。
「役目だと思っています」
 毎年4月と8月、東京・国立演芸場で落語中興の祖、三遊亭圓朝作の長講をかけることが、古典派としての桂歌丸師匠の矜持だった。
約1時間の高座に挑む理由を尋ねたときの答えが、冒頭のひと言だった。
いわゆる“圓朝もの”といわれる「怪談牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」「塩原多助一代記」といった長講に挑むようになったのは、1994(平成6)年のことだ。
「これをやんなさいって勧められたんです。無理だって言ったんです、できるわけがないって」
58歳の歌丸師匠に道しるべを進言したのは、当時のTBS「落語研究会」のプロデューサーだった。
課題は「栗橋宿」。
「牡丹灯籠」の一節だ。
「3カ月くらいかかりました。何とか形になって、オンエアされましたから合格点をもらったっていうことでしょう」
若いころ、最初の師匠、先代の古今亭今輔の逆鱗に触れたことがあった。
新作派の師匠に入門しながら、古典落語に傾倒したからだ。
破門から2年半、落語界から離れていたことがあった。
74(昭和49)年、地元横浜の三好演芸場で独演会を定期的に開くようになったことで、流儀の転換を余儀なくされた。
「それまでは新作6割、古典4割でしたが、独演会をやるとどうしても古典のネタを増やさないとならないんです」
戦後、たいそうにぎわった横浜・真金町で育った。
親代わりだった祖母は、遊郭を仕切る「やり手ばばぁでした」という存在。
落語の廓噺そのものの世界でおしろいの匂いをかぎ、新内流しの三味線の音に耳を傾け、辻占(占い)のまわりに集ってははしゃぐ女らの姿を見つつ、物売りから稲荷寿司を買っては食べていたという少年時代。
「落語の下地はできていたんでしょうね」
それでも「まだ悩んでいますよ」と口にするほど落語に迷い続けた晩年。
その場所に甘んじることをしなかった。
「『笑点』の歌丸、大喜利の歌丸で終わりたくないんですよ。“落語の歌丸”になりたいんですよ」
70歳を過ぎて、そんなことを時折、口にするようになる。
放送開始から約50年間出演し続けた演芸番組「笑点」から身を引いたのは2016年5月、79歳のときだった。
歌丸師匠のこと
落語家として結果残された時間は2年弱。
“落語の歌丸”として満身創痍でしゃべり続け高座の緞帳を静かに下ろした。
お見事、師匠!

・・・この流れ、何となく記憶がある気がします。
個人的には、古典落語一本にされて大正解だったと思います。

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