向かいの家に囲いが出来たね
先日の「柳家小三治独演会」。
長い長いマクラの中で、小三治師匠が"落語論"に触れた部分がありました。
「向かいの家に囲いが出来たね」「へぇ」という小噺。
この小噺はみんな知ってますから、どこでやっても受けたためしがありません。
そんなことはどうでも良いのです。
小三治師匠はこんなニュアンスを仰いました。
この小噺を漫然と台詞だけ喋るのは落語じゃない。
他愛もない会話の中に、とても多くの要素が含まれている。
向かいの家はどんな家?
路地の広さはどれぐらい?
どんな囲いが出来た?
天気はどんな?
会話をしているのはどんな人? ・・・・等々
こういう多くのファクターをしっかり自分で掴んでやるのが落語だ。
・・・そんなふうに仰っていた気がします。
たかが小噺と侮ってはいけないという戒めだと思いました。
舞台設定、感情移入がしっかりしていないと、たとえ一言でも、それは落語ではない。
また、普段こんなことも仰っています。
落語というのはセリフをしゃべっているのでなくて、その人、その人の気持ちに瞬間、瞬間なっていく。
セリフは気持ちの現れですから、セリフから気持ちが入っていくんじゃなくて、気持ちからセリフが出てくるもんだと、わたしは思っています。
表現こそ違いますが、いつも圓窓師匠から言われていることと全く同じでした。
そう、だからその度に違う、生きているものなんですね。
小三治師匠の名言をいくつか並べてみました。
・(落語の魅力は)生きているうれしさや悲しさを知ってもらうこと。
・一口に『笑い』って言いますけど、私は、笑いは落語の場合には
付きものではあるけれど必須や義務ではないと思ってます。
結果的に笑っちゃうものはいいんですけど笑わせることはしたく
ないですね。
私が楽しんではなしていると、それに乗ってきて笑うお客さんとは
時を同じくもつ者どうしの『同志』です。
・笑わせるもんじゃない。つい笑ってしまうもの。
これが芸だと思うんですね。
・(弟子への稽古の時)お前は“どうしたら流暢に聞こえるだろう?”
とか、そんなことを考えているようなキレイな言葉ばかり喋って
いて、気持ちがそこに流れていない。
・芸には人間性がそのまま出る。
芸の勝負はつまるところ人間性の勝負だと思う。
・・・深い。
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