演読
落語を覚えるプロセスで、師匠は「演読」を重視されています。
師匠が作った熟語で、落語を演じるように読むことを言います。
「落語は活字で覚えちゃいけないよ」というのが師匠の教え。
台詞や言葉を覚えずに、落語を覚えるということだと、私は理解しています。
そのための有力な稽古方法のひとつが「演読」だということです。
そして「演読」にも、少なくとも2つのプロセスがあると思います。
まずは、自分の言葉にするプロセス。
師匠の高座本の言葉(単語や言い回し)と、自分の中にある言葉の引き出しとを合わせる。
あるいは、ストーリーや了見を変えずに自分の言葉に変える。
それは、ある程度事前に整理はしておきますが、大切なのは、演読の時のぶっつけ本番で、自分の言葉を瞬間的に引き出す作業です。
なぜなら、会話と言うのは、刹那の言葉のやり取りですから。
この第一のプロセスは、いわば「演”読”」です。
次のステップは、言葉に、自然な仕草や視線や声を合わせる。
言葉を瞬間的に引き出している訳ですから、どこでどういう仕草をするという決めは出来ません。
どうやって、自然な仕草をするのか。
それは、場面設定と人物設定と感情をベースに、自分の上半身で全てを表現するプロセスです。
例えば、外を歩いている時に、急に雨が降り出して、慌てて近くの家の軒下に駆け込むと言うような場面。
雨に濡れて軒下に飛び込んだらどうするでしよう。
そういうシーンは、どんなことを考えて(気持ちで)、どんな声を出し、どんな表情をし
、どんな仕草をするか・・・をひたすら考えます。
そうすれば、濡れた頭や着物の露を払ったり、軒下越しに空を見たり・・・、とにかく色々なことをするでしょう。
それを「自然に」やることなんです。
「この台詞を言ったらこういう仕草をする」など、ここでこうする・・を決めてしまわないことです。
落語の場面は全てそうだと思います。
従って、第二のプロセスは「”演”読」ということになります。
「演読」でもうひとつ大事なのは、言葉や仕草だけでなく、全体の流れやリズムを身体に染み込ませるために、通して”本息(本番の速さ・声の高さ・リズム・間)”でやることです。
台詞を覚えていないから高座本を見ながらやるのではなく、リズムやスピードを通すために使うべきものだと思っています。
元々「演読」は、私の稽古をご覧になった師匠が考えられた稽古法ですから、いつもプレッシャーを感じています。
ですから、私は、演読で高座本を手にしていても、そのまま忠実に読む(喋る)ことはありません。
その場で出て来た、自分の言葉を発するようにしています。
それが自然ですから。
要するに、舞台背景、人物設定、感情移入を、自分の了見で織り込むのが落語です。
人間国宝の柳家小三治師匠も、こんなふうに仰っています。
落語というのはセリフをしゃべっているのでなくて、その人、その人の気持ちに瞬間、瞬間なっていく。
セリフは気持ちの現れですから、セリフから気持ちが入っていくんじゃなくて、気持ちからセリフが出てくるもんだと、わたしは思っています。
落語は、演じるものではないということですね。
芝居や歌や踊りや読みではありません。
これらのような”過去”を伝えるものではないと思います。
高座本と現実がシンクロして、まさに今起こっていることを観て(聴いて)もらうものだから楽しい。
だから、難しいと思います。
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