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2018年3月23日 (金)

落語協会分裂騒動

未だに語り継がれている「落語協会分裂騒動」について。
◇1978(昭和53)年5月9日
落語協会理事会で、同協会前会長(当時顧問)三遊亭圓生は、才能が無くても二つ目昇進から10年以上経過したら誰でも昇進出来る大量真打昇進制度を憂えて、同制度を推し進めていた常任理事五代目春風亭柳朝、四代目三遊亭金馬、三代目三遊亭圓歌を更迭し、代わりに自分と同調する圓楽、談志、志ん朝を常任理事にして同制度を白紙撤回する議案を出すが、賛成は圓生、志ん朝、棄権は圓楽、談志、その他全幹部は反対したため圧倒的大差で否決された。
それを以て圓生・圓楽は新協会設立へと本格的に動き始める。

◇同年5月13日
東北大学落語研究部創部20年記念「三遊亭圓生独演会」。
超満員の仙台市民会館で「文七元結」「八五郎出世」等を演じる。
この際、同行していた真打に昇進
したばかりの圓丈に、(落語協会を脱退して)新しい協会を設立する意思を伝える。
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◇同年5月24日
当初計画では半数もの落語協会員が新協会側に移る胸算用で、既存の落語協会、落語芸術協会と並ぶ第三勢力の誕生を予期させたが、赤坂プリンスホテルで行われた新協会=落語三遊協会の設立記者会見時では、かなり規模が縮小されて、圓生一門、志ん朝一門、圓蔵一門のみとなり、行動を共にすると見られていた志ん朝の実兄馬生一門(小さんによる慰留と年齢のため)、小さん一門の談志一門(狙っていた新協会次期会長の座を志ん朝に奪われたため)、圓蔵一門の三平一門(師匠圓蔵に誘われたが圓生とは不仲のため)は落語協会側に留まってしまった。

落語協会分裂騒動
◇同年5月25日
都内各寄席の責任者=席亭会議で、それまで新協会設立に一定の理解を見せていた席亭達も、当初と違って小規模となった落語三遊協会に、落語協会と分裂されては困るので落語協会と一本化しなければ寄席を使わせない旨を通告。
これにより、志ん朝、圓蔵、圓蔵門下の圓鏡は降参。
◇同年5月31日
それぞれ落語協会からの脱退を撤回。
圓生だけは慰留を固辞し、一門は正式に落語協会を脱退。
◇同年6月11日
金願亭乱志が、「第一回全日本学生落語名人位決定戦」に出場。
審査員(柳家小さん・桂米丸・小島貞二)から「審査員特別賞」。
◇同年6月12日
宮城県沖地震発生。

◇同年6月14日
新協会「落語三遊協会」を上野本牧亭で旗揚げ。
結局、落語三遊協会は、圓生と弟子(既にさん生、好生は5月17日に破門)、孫弟子(圓楽・圓窓の弟子)の三遊一門だけの小所帯となる。
寄席に出る機会が無い彼らは、小ホールなどを利用した首都圏での自主興行や地方公演での余興に活路を求めた。
◇1979(昭和54)年9月3日
圓生が急死。
◇1980(昭和55年)2月1日
圓楽を除く弟子は落語協会に協会預かりの身分で復帰。
落語三遊協会は解散。
圓楽一門は復帰すること無く、大日本すみれ会(現:円楽一門会)を立ち上げ。
以降、圓楽一門は未だに落語協会に復帰していない。

・・・こんな騒動でした。

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