名人芸
「名人は 上手の坂を 一上り」という言葉があります。
「名人」「上手」というのは、どの分野にでもいるものですが、「名人」と「上手」との間には、歴然とした差があります。
「浜野矩随」のマクラで、こんな内容から入りますが。
とにかく、「名人」というのは、一般の人や「上手」の延長線上にあるものでないことだけは確かです。
理屈や鍛錬だけではない何かがプラスされないと。
落語にも「名人」と呼ばれる人がいます。
それぞれが伝説のようになっています。
圓窓師匠の師匠で、昭和の名人の一人と言われる六代目三遊亭圓生師匠は、いわゆるネタ本というようなものはなかったそうです。
質・量ともに、持ちネタの豊富さ・素晴らしさは突出していた師匠ですが、あの多くの名作は、全て頭の中に入っていたそうです。
これからも、名人というのは、頭脳・技量・精進に加えて、もうひとつ何かを持っているんですね。
宇宙観というか世界観というか、異次元の眼、いや五感以外のものです。
先日テレビを見ていたら、あの運慶の筋を引くと言う大仏師が出ていました。
松本明慶さんという方ですが、一本の小さな材木から仏像を彫る場面がありました。
明慶師は、材木に印をつけたり線を引いたりすることなく、彫刀を片手に、無造作に彫り始めました。
その時のコメントに驚きました。
材木を見ていると、中に仏様がいて、その姿が浮かんでくる。
仏師の仕事は、仏像の形を作るのではなく、中にある仏様を取り出すこと。
彫るのではなく、中の仏様を覆っている物(木)を取り去ること。
だから、印も何も要らない。
・・・完全に発想が違います。
こじつけかもしれませんが、落語もそうなのかもしれません。
台詞や地語りの積み重ねではないんだと思います。
ある噺の全体像・・・、噺ですから形ではありませんが、まずそれをイメージし理解すること。
後は、その噺を語りや仕草によって、周りの余計なものを取り去って行く・・・。
師匠が、「活字で覚えちゃいけない」というのは、こういうことの一部なんでしょう。
そのアプローチで楽しむか、出て来た落語の姿に感嘆するか。
これが、落語の楽しみ方なのかもしれません。
大変勉強になりました。