柳亭市楽さん
産経新聞の記事、【落語は「笑点」だけにあらず】。
柳亭市楽さんが採り上げられていました。
懐かしい・・・、というのは、10年ぐらい前に落語に戻って来て、市馬師匠、鳳楽師
匠、三三さんなどを追いかけていた時期がありました。
その時には、まだ前座で「市朗」と名乗っていました。
何か飄々としているというか、クールな感じのする前座さんでした。
柳亭市馬の初めての弟子の柳亭市楽の高座は、とても明るい。
高座にあがっただけで、周囲を明るくする落語家だ。
市楽が落語家になった動機は大学生で就職を決めるときに、「昼まで寝ていられる商売はないかな」というので、落語家になることを決めた。
よく落語家が高座でそうした話をしていたからだ。
落語家になることは決めたが、師匠を誰にするかを決めるまでに、1年間かかった。
「気が短いので、けんかをしたらおしまいだ」というので、師匠選びは慎重だった。
基準は「この人、けんかするかしないか」だった。
何度も高座の師匠を見た。
それで決めた。
市馬師匠は市楽が初めての弟子だった。
市楽は入門するまで、着物も着たことがない弟子だった。
落語を初めて聞いたのは、大学2年の秋だった。
テレビ番組「笑点」も知らなかった。
大学の漢詩の授業で、講談を聞いた。
それで講談に興味を持ち、寄席に行って、落語家を見た。
それまで、寄席では、毎日同じ人が出て、同じネタをやるのだと思っていた。
入門してからも、アクセントを市馬師匠に何度も厳しく直された。
普通なら落ち込むほど何度も直された。
市馬師匠は昭和歌謡が好きで有名な師匠だが、市楽は自分でもカラオケ嫌いだ。
音痴でもある。
「お前の音痴は人を明るくしない」と、市馬師匠に言われる。
それからだ、師匠といっしょにいても、カラオケで、次が自分の番になると、寝たふりをするようになった。
かつて、噺を「ふわっと覚えていた」と、市楽はいう。
「受験勉強の要領で覚えていた」と、かつて塾の講師をしていたことも影響したのか。
前座時代は、噺も覚えられずに、その数も少なかった。
しかも、誰に教わった噺なのかも、すぐに分かるようなしゃべりだった。
「いつの間にか、師匠っぽくしゃべっていた」という。
「師匠っぽくない」というのは、褒め言葉だと市楽はという。
ただ明るいだけではなく、寄席でのオールラウンドプレーヤーになりたいという。
寄席にはいろいろな人がいなければいけない。
「金太郎あめでは駄目。寄席は、変なじいさんを見るところであってほしい」
ある師匠に「寄席には、寄席菌が住み着いているので、それを吸いに来い」といわれ、高座の袖で、ずっと聴いて、噺を勉強する。
高座では無理に明るくしているのだという。
「性格的には違う。本さえあれば、誰とも話をせずにいることができる。楽屋でも、最低限の話をするだけで、壁を見ている」と。
どうも、そうらしい。
朝起きて噺を稽古するとちゃんと噺が頭に入る。
あるとき、そのことに気付いて、稽古は朝するようになった。
落語家になった大きな理由の昼まで寝ているということはできなくなった。
「朝、稽古すると頭に入る」と、そのことを大変な発見のように市馬師匠に報告したら、不思議な顔をされた。
「売れたときに、困らないように、今、力を付けておく。次に打順がまわってきたときに、(ヒットかホームランを)打てるように、その支度をしている」といい、市楽は少し厳しい顔をした。
・・・最近は、なかなか聴く機会がありませんが、きっと頑張っていることでしよう。
弟弟子も増えましたから、市馬会長一門の総領弟子として、是非活躍して欲しいと思います。
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