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2017年8月 1日 (火)

噺は生きている

広瀬和生さんの新刊を上野駅の本屋さんで見つけました。
「噺は生きている 名作落語進化論 同じ『芝浜』は一つとしてない」
噺は生きている
志ん生、文楽ら昭和の名人から、志ん朝、談志、さらには小三治、談春、一之輔など現役トップの落語家まで、彼らがどのように演目を演じてきたのかを分析。
落語の魅力と本質に迫る落語評論本。

・・・だそうです。
長講好きな私が、今まで演った噺、いずれ演ってみたい噺について、研究する参考になりそうです。
特別に、「芝浜」の部分が公開されていました。
「芝浜」と言えば、三代目桂三木助が筆頭に来るでしょう。
◆落語を「耳で聴く文学」にした男◆
ーー「芝浜」とはどんな噺かーー
江戸の裏長屋に住む棒手振りの魚屋。
腕はいいのに酒におぼれて休んでばかりいる。
そんな男がある朝、女房に無理やり起こされて久々に芝の魚河岸に行き、大金の入った財布を海から拾う。
「これだけの金があれば遊んで暮らせる」と大喜びで豪勢に飲み食いし、酔いつぶれてしまった男だが、目覚めると女房に「大金を拾ったなんて夢だ」と言われて呆然自失。
「俺はそこまで腐っていたのか」と心を入れ替えて酒を断ち、真面目に働いて人並みの幸せを手に入れた三年目の大晦日。
女房が「あれは夢じゃなかった、お前さんを立ち直らせるための噓だった」と打ち明けて詫びると、亭主は「今の暮らしがあるのも、お前が夢にしてくれたおかげだ」と感謝する。
「今のお前さんなら大丈夫」と女房が勧めた酒を口にしようとした男、ピタッと手を止め、「よそう、また夢になるといけねぇ」・・・。
幕末から明治にかけて活躍した「近代落語の祖」初代三遊亭圓朝が三題噺の会で「酔っぱらい」「芝浜」「財布」の三つの題をもらって創作したとされる『芝浜』。
落語ファンの間では最もよく知られた人情噺といえるだろう。
『芝浜』という噺は、三代目桂三木助が売り物にするまではあまり人気のある演目ではなかった。
どちらかというと地味な噺という印象さえあった『芝浜』を、三木助は安藤鶴夫(作家・評論家)の助言を積極的に受け入れて風景描写に力を入れるなど工夫を凝らし、文学的な香りのする作品に仕上げた。
日本人のライフスタイルが大きく変わっていく戦後社会の中にあって「古典」と呼ばれることになった落語に、ちょっと気どった「耳で聴く文学作品」的な演出を持ち込んだ三木助の『芝浜』は高く評価され、1954年には芸術祭奨励賞を受賞している。
ーー新しい「夫婦の形」ーー
三木助は『芝浜』を、よくできた女房が亭主を立ち直らせる美談として洗練させた。
「よくできた女房とダメ亭主」という構図は落語ではよくあるものだが、三木助の『芝浜』の内容は落語というよりも夫婦愛を描いた良質の短編映画のようなもので、当時としては非常に新しく、そして時代の空気に合っていた。
日本が高度経済成長期に突入したのが1954年。
核家族化が本格化していくのはもう少しあとのことではあるけれども、戦前とは明らかに異なる夫婦観・家族観を持つようになった大衆が、三木助の描く「夫婦の形」の新鮮さに大いに感銘を受けたのは想像にかたくない。
芝の浜の一件から三年後の大晦日、女房は隠してあった革財布を持ち出してきて亭主の勝五郎(魚勝)に「夢じゃなかったんだよ」と打ち明け、「あのとき夢だって言ったじゃねぇか」と言う亭主に、「怒らないで聞いとくれ。しまいまで聞いてから、ぶつなり蹴るなりすればいいじゃないか」と釘を刺して、こう話し始める。
「あんな大金、悪い了見でも起こしたんじゃないかとも思ったけど、そんな様子もないし、どうしようと思って、お前さんがぐっすり寝込んだのをいい潮にして大家さんのところにこのお金を持って相談に行ったんだよ。そうしたら大家さんが『そんなもの一文だって手をつけたら勝五郎の身体は満足じゃいられない。俺がお上に届けてやるから、勝五郎のほうはお前がうまくやっとけ』って・・・お前さんがみんなを連れてきて飲み直して、あくる朝、夢だ夢だってとうとうお前さんをだましてしまって、それからお前さん人間が変わったように好きなお酒をピタッとやめて一生懸命商いをしてくれて、三年経ってこうして魚屋の親方になれて・・・。普段からお前さんに噓をついてて申しわけないと思っていたけど、うっかりしたことを言って元のお前さんに返られても困るしと思って、このお金だってずっと前に下がってきたんだけれども、今日まで黙ってた。でも、もうお前さんは立派な魚屋の主人、いつ見せても心配ないって思って、今日この話をした。決して悪気があって噓をついたわけじゃないけど、腹が立ったら、あたしをぶつなり蹴るなり・・・・」
聞いていた亭主は「ちょっと待ってくれ」と涙ながらに遮り、「おっかあ、お前は偉ぇなあ・・・」と、夢にしてくれたことを感謝する。たしかに拾った金に手をつけたのがお上に知れたら、悪くすれば打ち首、軽く済んでも寄場送りで、挙げ句の果ては乞食になるしかない。
それを救ってくれたのは女房の機転だ。
「お前のおかげでこれだけの魚屋になれたんだ。俺のほうで礼を言うよ。ありがとう、すまねぇ」
「許してくれるかい」
「許すもなにも、俺のほうで礼を言ってるじゃねぇか」
いい話である。
夫婦はこうありたいものだ、という素敵な物語を三木助は『芝浜』で提示してみせた。
それが時代の空気に見事に合っていたからこそ、三木助の『芝浜』は大いに支持され、この演目が「美談」として広く知られるようになったのである。
ーー意外にアッサリな『芝浜』ーー
もっとも、江戸前の口調で滑らかに進行していく三木助の『芝浜』は、実際に録音を聴いてみると、かなりあっさりしている。
「いい噺」ではあるけれど、今の我々がイメージする「暮れの大ネタ」的なコッテリ感はない。
三木助の『芝浜』は、桂文楽の『明烏』、古今亭志ん生の『火焔太鼓』などと同様、「この人の、この噺」として定着したが、それは三木助一代のこと。
現在の『芝浜』の「大ネタ」としてのイメージを確立させたのは立川談志と古今亭志ん朝、そしてそれに続く演者たちである。
『芝浜』が圓朝全集に入っていないことから「圓朝作であるかどうかは疑わしい」とする説もあるが、まあ、それはどちらでもいいだろう。
いずれにしても「圓朝の演目」として一門の三代目・四代目三遊亭圓生や四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、二代目三遊亭金馬などに伝わったほか、初代柳亭(談洲楼)燕枝と二代目柳亭燕枝、四代目柳家小さん、三代目柳家つばめ等も演じている。
八代目桂文楽は、三代目つばめから『芝浜』を教わったものの納得のいく出来にならず、持ちネタとして磨くに至らなかった。
三木助は、四代目柳家つばめから「私の噺を覚えてほしい」との申し出を受けて『芝浜』を覚えた。
三木助は『芝浜』という演目が好きではなく、当初は乗り気ではなかったものの、主人公(魚屋の勝五郎)に感情移入して次第に愛着を覚え、工夫を重ねて自らの代表作に磨き上げていった。

・・・こんなことが書いてあるようです。

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