談志師匠の芝浜
広瀬和生さんの「噺は生きている」で、特別に「芝浜」のところの一部が公開されています。
桂三木助師匠がベースとなって、最近の若手真打まで、「芝浜」に対する「演目論」が展開されています。
これから、じっくり読ませていただきたいと思います。
”特別サービス”で、談志師匠の「芝浜」が紹介されていました。
◇ドラマティックな感情の移入
立川談志は三木助の『芝浜』を受け継ぎながら、現代人としての感情を大胆に注入し、別次元の「感動のドラマ」に仕立てた。
「泣かせる人情噺」としてドラマティックに演じる『芝浜』の源流は間違いなく談志である。 「三木助の名作」に疑問を持った談志は、独自の解釈で取り組むことで、『芝浜』を世代を超えて受け継がれる「暮れの大ネタ」として定着させた。
談志は三木助の江戸前な落語における「会話のセンス」をこよなく愛したが、『芝浜』に関しては安藤鶴夫の入れ知恵と思われる過剰な文学的装飾を嫌い、まずはそうした要素を排除しながら自己の個性を存分に反映させた威勢のいい『芝浜』をつくり上げた。
これが談志30歳の頃。
だが、彼は次第にそれが「いい噺」であることに嫌気が差してきた。「この女房は可愛くない」と思ったからだ。
そこで談志は、『芝浜』を美談としてではなく、「ある夫婦の愛を描くドラマ」として演じ始めた。
それが40代のことで、50歳を迎える頃には格段にドラマティックな噺になっていく。
談志の『芝浜』の女房は、決して「ダメな亭主を立ち直らせようとしている」わけではない。ただ、亭主に惚れている可愛い女房であって、亭主が大金を拾ってくれば女房も一緒に喜ぶ。
あくまで、大家に命じられて「夢だった」と嘘をつくはめになるだけだ。
健気に働く亭主を見ながら3年間、申しわけない気持ちでいっぱいだった女房は、罪の意識に耐えきれず、ついに真実を告白する。
だが亭主も、この可愛い女房に惚れている。
だから嘘をつかれたと聞いても納得する。
芝浜の財布の一件から3年後、二人でささやかに暮らしていける今の幸せは何物にも代
えがたい。
この幸せだけは「夢」にしたくない……「また夢になるといけない」というサゲの一言には、そんな二人の想いが込められている。
ーーリアルタイム進行で始まる物語--
談志の『芝浜』は晩年に至るまで進化し続けたが、基本形は30代から40代で固まってい
る。
魚屋の名前は勝五郎(魚勝)、芝の浜で拾った財布に42両入っているという設定は三木助のままだ(現存する唯一の三木助の『芝浜』の公式音源は82両となっているが、それは例外だという)。
三木助はマクラで芭蕉の句を引用しながら、隅田川で白魚が獲れた時分の江戸を語ったあと、「ねぇ、お前さん、起きとくれ」と女房が亭主を起こすことで『芝浜』を始める。
だが、談志の『芝浜』は(もちろん白魚云々のマクラはなく)、芝の浜で金を拾う前夜の「いつまでも休まれちゃ釜の蓋が開かないよ」「うるせぇな、明日から行くから今夜は飲みたいだけ飲ませろ」と魚勝夫婦の会話するシーンが挿入されている。
談志は、三木助版で女房が亭主を起こしながら語る「お前さん、明日から商いに行くから飲みたいだけ飲ませろって、ゆうべあんなに飲んだんじゃないか」という経緯をリアルタイムで進行する場面として描き、そのまま寝込んだ亭主を女房が「お前さん……」と起こす場面に続けたのである。
こういう演り方をするのは談志だけだった。
起こされた亭主が愚痴をこぼしながら河岸に行ってみても問屋が開いてない。
鐘の音を聞くと女房が時刻(とき)を一つ早く間違えて起こしていることがわかり、しかたなく浜へ下りて海水で顔を洗い、一服しながら夜明けを待つ。
ここで三木助は、「お天道様が出てきた……いい色だな……よく空色ってぇと青い色のことを言うけども、朝の日の出のときは一色だけじゃねぇや、どうでぃ、小判みたいなところがあるかと思うと、白いようなところがあり、青っぽいところがあり、どす黒いところがあり……」「帆掛け船が帰ってくるじゃねぇか」などと独り言による情景描写に力を入れていたが、談志はそういう描写はカット、ただ「波ってやつは面白いねェ」だけを継承して、すぐに財布を拾う。
火打石と火口を使って煙草に火をつけ、一服吸ったあとで手のひらに乗せた火玉を転がして二服目をつける仕草の見事さは、談志の『芝浜』の名シーンでもある。
財布を拾って家に帰り、喜んで酒を飲んで寝てしまった亭主を女房が「商いに行っておくれ」と起こし、「あの金があるから商いに行かない」と言う亭主に女房は「夢でも見たの?」と返し、「お前さんは起きたら湯に行って大勢引っ張ってきて豪勢に飲み食い
したけど、その勘定はどうするの?」と迫る。
それを聞いて愕然とする亭主は、「死ぬ気で働けば借金なんてどうとでもなる」という女房の言葉を聞いて「酒をやめて商いに精を出す」と誓い、そのまま河岸へ出かけていく…この展開も三木助のままだが、その中の夫婦の感情表現のダイナミックさがケタ違いだ。
・・・さらに続いているのですが。
談志師匠のスタートの部分は、非常にシンパシーを感じます。
三木助師匠は、他の、例えば「ねずみ」などでもそうですが、文学的な表現を好んで使います。
山本進先生は、「ねずみ」のねずみ屋の主人が自己紹介をする場面で、暫く身の上を話した後で、「私、宇兵衛と申します」という演出を、気障な演出だと言われ、それでも「三木さん(三木助師匠)だから許されるが、他の噺家さんがやるのは似合わない」という趣旨のコメントをされていました。
ただし、おかみさんの位置づけは、そのまま入って行かれない部分があります。
夫婦が惚れ合っているというのは、落語の底流に流れていますが・・・。
芝の浜での場面は、真冬の未明だということを考えると、三木助師匠もそうですが、あんまり長くするのは、やや現実感がないのかもしれません。
・・・なんていう感想を抱きながら、読み勧めて行こうと思います。
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