「不孝者」考
「不孝者」という噺があります。
あまり演じられることは多くありませんが、なかなか面白い噺だと思います。
倅(若旦那)と一緒に出かけた権助が一人で帰って来た。
「若旦那と日本橋の山城屋さんに行きましたが、謡いの会があるからそれを聞いたら帰るので、遅くなる。それで私だけ先に帰ってきた。後でお迎えに行きます」
「顔に”お金をもらって嘘を吐いています”と書いてある。「場所は柳橋じゃないのか?そうか、橋を渡った先の”住吉”か」
権助と着物を交換して頬被りをし、柳橋の住吉にやって来た。
迎えに来たと告げたが、もっと遊びたい若旦那に下の部屋に入れられ、待たされることになる。
女中が若旦那の差入れだとお銚子と肴を持ってきた。
「バカ野郎。親をこんな部屋に通して。この酒だって若旦那からだと言うが、回り回って私の懐から出るんだ。私を見て驚いた顔を見るのが楽しみだ」
2階の部屋では新内が始まって、倅の唄う声が聞こえてくる。
「ん、うまいじゃないか。あれくらい唄える歳になったのか、でも芸者に習った唄は駄目だ。ちゃんと師匠と差し向かいでないと」
「八ちゃん居ますか。あ、ゴメンなさい。酔って部屋を間違えて・・」
突然芸者が部屋に入りかけてきた。
「チョット待ちなさい。お前”琴弥”ではないか?」
「・・・まぁ〜、旦那じゃありませんか。どうしたんですその格好は」
「これには訳があって・・・、ま、襖を閉めてこちらにお入り。嬉しいね、ここでお前に会えて・・・。綺麗になったね」
「いやですよ。私はお婆ちゃんです」
「お前がお婆ちゃんなら、ここの芸者はみんなお婆ちゃんだ。それより青臭さが取れて、大人の魅力がいっぱいだ。ところで、今は旦那がいるんだろ?」
「いえ、私は一人ですよ」
「それは芸者の決まり文句。いいんだよ、ここは二人だけだから」
「怒りますよ。私を捨てたのは旦那ですよ」
「捨てませんよ。分かれたのは本当だが・・・。ま、聞いておくれ。あの当時は請け判を押してしまったせいで、店が危なく人手に渡る所だった。間に入ってくれた人が、こんなときに女を囲っていたのでは周りがほっておかない。それで手切れ金を持たせたが、本当は私が持って来たかった。それでは心がぐらついてしまうので番頭に持たせた。そのお陰で店も立ち直ったが、その心労でどっと床についてしまった。幸いに、元気を取り戻し、お前に会いたいと思ったが、逢って新しい旦那を見せつけられたら辛いから、きっぱりとお前の事は諦めた。それ以来遊びも止めて、女っ気は何も無い。でも、どうしてお前ほどの女に旦那がいないんだい?」
「本当は若い旦那が付いたんですが、とんでもない人で、すぐに別れてその後は恐くて旦那を持つ気にもなれなかったのですが、女ですね〜、寂しい夜もあるでしょ、悲しいことや辛いことを聞いてくれる人が欲しいのは本当なんです」
「そうか、本当に一人なんだ。今は、お前を世話するぐらいの力はある。色気抜きで、お前の相談相手になってやりたいが・・・」
「嬉しい。旦那、今度いつ逢ってくれます?」
「明日は都合が悪いが、明後日にしよう。分かった、そこに行くよ」
「旦那、本当に約束ですよ」
しなだれかかる女の化粧の匂い、島田が傾き、肩に掛かる旦那の手に力が入る・・。
「お伴さ〜ん、若旦那がお帰りですよ」
「・・この、親不孝者めが」。
・・・この噺は、若旦那の道楽がきっかけで、お父っつぁんが昔寵愛していた芸者と再会し、男と女のやり取りが続きます。
そして、最後は、元通りの仲に収まり、いよいよ濡れ場となるところに、無粋な声がかかる。
お父っつぁんが、「不孝者め」と発する。
・・・この噺、本当に男の身勝手な了見が横溢している噺で、「こうなるといいなぁ」という助平根性が隠れている噺です。
師匠は、「この噺は官能的だから」と仰っていました。
私が、「千早亭落語会」で演って、「この、不孝者めが」とオチを言って高座を下りて楽屋に戻って来た時、師匠から、「不孝者めが」は、倅(若旦那)に一方的に「せっかく良い所だったのに、邪魔をして」
という、怒りの感情だけではダメ、親父が自分に向かっても自嘲的に言っている面があるはずだから、その含みを持たせて語らせないといけないんだよ。
「しまった!そうだった!」と思っても後の祭りでした。
そして、その後の「南行徳落語会」では、その思いを込めてオチを語りました。
この噺の背景(含み)は、親父と倅(親子)というのは、所詮は同じ"生き物"だということです。
今では、常識的なことを言ってはいるが、そういう親父だって若い頃は道楽三昧をして、親に心配をかけていた。
(悪しき?)歴史は繰返されている訳です。
だから、いくら堅さを装っていても、親父も倅の了見がよく分かる。
だから、2階でドンチャン騒ぎをしている倅に、「歌は芸者ではなくて、師匠からしっかり習わなくては」なんて言っている。
親父と倅と言うのは、普段は水と油のようなところがありますが、親父からすると、自分のコピーで、それが可愛くて仕方がないもの。
口では厳しいことを言っていても、底流に流れているものは同じ。
私も、普段は口をきくことも多くありませんが、いくつになっても、愚息のことが可愛くて仕方がありません。
勿論、そんなことは、本人には言ってはいません。
だから、この噺は、官能や恋愛がテーマになった噺ではなく、男の性をそのまま表現した噺です。
・・・「この芸者の純愛を描きたい」と、この噺にチャレンジする女性がいるそうです。
チャレンジするのは自由ですが、ここに出て来る琴弥という芸者は、女性側の純愛が語れるキャラクターではないということを、しっかりと理解していただきたいものです。
なぜなら、彼女は、男が男の立場で都合よく作った女性だから。
こんな女性がいてくれたらと、男が勝手に作り上げた理想像。
私がよく言う、女性が出て来るからと言って、そのまま女性が出来る訳ではないという理由がここにあります。
そもそも、身勝手にも自分を捨てた男に、女性は、しかも芸者は、商売上の打算があるならともかく、絶対にこんな反応をしない。
たとえ好きであったとしても、一旦見切った(見切られた)人のところには、絶対に戻ることはないのが女性でしょう。
男は、いつまでも後を引き摺りますが。
だから、そのままの形では女性にやっていただきたくない。
もし女性が、時勢の了見で考えたら、全く別の噺になるはずです。
それを作らないと、女性が落語をやるのは難しいのでは・・・?
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