立川談幸師匠の記事
立川談幸師匠の記事を見つけました。
談幸師匠は、明治大学落研のOBで、コント赤信号の渡辺正行さんたちと同期だそうです。
あの談志師匠の内弟子を勤め上げたという伝説もあります。
派手ではありませんが、立川流の重鎮でした。
その談幸師匠、立川流を脱会して落語芸術協会に移籍されたのは、一昨年だったかな?
7月11日初日の浅草演芸ホールの中席前半の夜の部で、立川談幸がトリを務めた。
襲名披露でもない通常の興行だったが、談幸にとっては特別な意識があった。
入門40年目で初のトリだったのだ。
◇立川流を退会し芸協に加入した理由は…
「ずっしりとではないけれど、重みを感じています。
今回、機会を与えてくれたことに感謝したいですね」。
基本的には真打ちになれば寄席でトリを取れるとされている。
なぜ談幸は40年かかったのか。
それを読み解くためには寄席の仕組を説明しなければならない。
ここでいう寄席は年間を通じて興行を行っている定席で、鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場の4つを指す。
鈴本は落語協会(柳亭市馬会長)が常時興行を行い、他の3寄席は落語協会と落語芸術協会(桂歌丸会長)が10日ずつ交互に興行を行っている。
東京では両協会のほかに落語立川流、5代目円楽一門会の2派があり、2派は寄席に出演できない。
談幸は立川流を脱会し、2015年に落語芸術協会(芸協)に加入。
2年間の「準会員」を経て今年1月に「正会員」になった。
タレント・毒蝮三太夫からは冗談で“脱北者”などと言われる中、決断に至った理由を説明した。
「年齢も60(歳)になって、高座にあがれるのはせいぜい70歳から75歳までだと思うんです。声の張りだとか…。残された噺家人生が短く、ゴールが見えてきた時に、定席に戻れるのであれば、チャンスがあるなら戻りたいと思った。噺家人生の“終活”として、落語家のベースの寄席で終わりを迎えたいなと思ったんです」。
◇師匠・談志の死から3年後の決断
談幸は、78年に立川談志に入門。
二ツ目時代の83年に談志が一門を引き連れて落語協会を脱会し立川流を創設した。
落語協会で5年間、寄席での修業経験がある。
「当時は(人数も多くて)寄席に出るのは年に1回あるかないか。真打ち昇進試験で若手に不満がたまっていた時期で、師匠が新しいことをやるというワクワク感があった」。
談志は11年11月に75歳で亡くなった。
演芸界だけにとどまらず、その言動や生き方が大きな話題を呼んだカリスマ的な存在だった。
幾多の弟子を育てた談志の中でも唯一の内弟子として濃密な時間を過ごした談幸にとっても大きな転機となった。
「師匠が死んで、心棒がなくなった感じ。談志がいての立川流で、師匠がいるうちは(弟子は)いろいろ目が向いていても、最後は師匠の方に向いていた。けれど、いなくなってバラバラになっていった。気持ち的にフリーになった感じ。師匠が未来永劫生きているならば考えなかったですけれど、師匠が亡くなって色々考える時間が増えましたね」。
談志が亡くなって3年後に決断した。
「(以前所属した)落語協会は、一度出ていった人間ですから、(寄席に出る)チャンスはそうそうないし居場所もないと思った。芸協は余一会で若干交流があって、フレンドリーな雰囲気もあったし、何のわだかまりもないので、お願いしました」。
歌丸会長の存在もあった。
「歌丸会長はうちの師匠も人間的に信頼していた。『歌さんがいいよと言うんだったらいいよ』と勝手だけど思ってくれているんじゃないかな」。
◇弟子が3人増えて5人の弟子を育成
立川流で二ツ目になっていた2人の弟子の吉幸は1年間、幸之進は芸協加入に伴い2年間の前座修業を余儀なくされた。
「戸惑ったかもしれないけれど、決まった以上前向きに取り組んでくれた」。
今年に入って3人が弟子入りした。
幸七、幸太、幸吾で前座見習い中だ。
「真打ち(昇進)まで15年。立川流だったら(自分が)死んだら右往左往するし難しいかなと思った。二ツ目までは見届けられると思う。(芸協の)団体が“みなしご”にはさせないし、その時、彼らも先輩とのつながりも出来ているはず」と話した。
寄席に出演することで充実感がある日々を送っている。
「最近、コンスタントに出させてもらっていると、今まで寄席に通ってなかったくせに、休席が続くと、『もったいない』って思ってしまう」と苦笑いする。
楽屋の雰囲気も大好きだ。
「(滞在するのは)出番前のわずかな時間だし、せいぜいいても1時間くらいだけど、いろんな人が出入りして、話をしたり聞いたりするのが面白い」。
立川流の一門会では20~30分の持ち時間は当たり前だが、寄席ではトリなどを除けば、持ち時間は15分程度。
「(噺を)短くするのに苦労しています。他の人が(短く)処理しているのを(楽屋で)聞いて勉強になっている。こうやるのかって。面白いですね」。
◇今なお生きる談志の教え
立川流を脱会しても、師匠談志の教えは心の中で生き続けている。
「芸人の持つ清潔感ですね。見た目じゃなくて、下品な言葉を使っても清潔感がある、きれいな身なりをしていても清潔感を感じない、ってあるじゃないですか。芸風としての清潔感が伝わるように心がけています」。
あとは言葉の選択だ。
「言葉を選ぶセンスですね。言葉が重複するのを嫌いましたし、言葉の美学というか、『その言葉は古典落語にそぐわない』とか、分かりやすいけれど使わないほうがいい、逆に分からなくても使った方がいい、とか言葉に対するセンスは良く言っていました。“美学”と“分かりやすさ”を天秤にかけることはあります」。
日誌をつけるようになった。
今までもネタ帳はつけていたが、寄席に出演することなって、ネタに加えてお客さんの入りや反応をメモに残している。
「自分の会ではお客さんが特定されるけれど、寄席は不特定だから、昨日受けたのが、今日受けないこともある。寄席のお客さんにはリピートしてもらいたいので…」と理由を説明した。
「芸協に入れてもらった以上は、今までになかったもの、立川流で培ったものをそこに残せていけたら…。“におい”や“空気”を伝えられたらと思っています。寄席というのはみんなで支えていくもの。落語家のチームワークでやってきた歴史がありますので…」。
談幸は充実感と幸せをかみしめながら日々、寄席の高座を務めている。
・・・談幸師匠の高座そのもののコメントが随所にありました。
自分ではどうしようもない大きなうねりの中で、ある意味逆境にありながら、努力して現在に至っている・・・。
◆立川 談幸(たてかわ・だんこう)
1954年7月29日、東京生まれ。
明大商学部を卒業した78年3月に立川談志に入門し「談吉」。
82年に二ツ目に昇進し「談幸」。
83年に師匠談志とともに落語協会を脱会し落語立川流に所属。
87年5月に真打ち昇進。
2014年12月に立川流を脱会し、翌年1月から落語芸術協会に「準会員」として入会。
17年1月に「正会員」。
出囃子は「三下がりかっこ」(立川流時代は「吾妻八景」を使用)。
明大では落語研究会に所属、「コント赤信号」の渡辺正行、小宮孝泰は同期で、立川志の輔は2学年先輩も談志への入門は談幸より遅く、弟弟子にあたる。
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