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2017年8月19日 (土)

鼠小僧の命日

cat今日は鼠小僧の命日だそうです。
天保3年8月19日(1832年9月13日)、鼠小僧次郎吉が処刑されました。
盗賊ながら、芝居などでは盗んだ金を貧しい人々に配る義賊として描かれます。
黒装束にほっかむり姿で、闇夜に乗じて金持ちや大名の屋敷に忍び込み、大金を盗んでは、町の貧しい長屋に小判をそっと置いて去っていったという、ご存じ、義賊・鼠小僧。
芝居や時代劇でもおなじみの人気キャラクターですが、実像は違っているようです。
寛政9(1797)年、次郎吉は芝居小屋の木戸番・貞次郎(定七とも)の長男として元吉原に生まれました。
最初、建具職人・星十兵衛に弟子入りしますが、16歳で家に戻り、続いて町方鳶(とび)人足となりますが、酒や女、博打を好むようになって身を持ち崩し、25歳の時に父親から勘当されています。
結局、博打をやめることができず、盗人稼業に手を染めることになりました。
27歳の文政6(1823)年以降、武家屋敷に忍び込むこと28ヶ所、回数にして32回、盗んだ金は751両1分、銭7貫600文であったといいます。
文政8年に土浦藩主・土屋相模守の屋敷に忍び込んだところを捕らえられますが、南町奉行所の尋問で初めての盗みであると言い抜け、罪人の入れ墨を入れられて、中追放の罪で済みました。
その後、一時期、上方に身を隠しますが、ほどなく江戸に舞い戻り、盗人稼業を再開します。
そして7年にわたって武家屋敷71ヶ所、回数にして90回、盗んだ金は2334両2分、銭3貫372文、銀4匁3分と前の時期を大きく上回る「おつとめ」をしてのけます。
その手口はといえば、塀を乗り越え、あるいは通用門から堂々と紛れ込み、主に奥向きに潜入して、錠前をこじ開けたり、土蔵の戸を鋸で切って、盗み出しました。
奥向きに忍び込まれることは武家とすれば恥なので、被害にあっても口をつぐむ場合がほとんどで、そのために次郎吉の足がつきにくかったのでしょう。
この辺は、なかなか計算していたようです。
しかし、盗み出した金を次郎吉が貧しい人々に施した形跡はなく、贅沢と博打に使ってしまいました。
天保3(1832)年5月、日本橋浜町の小幡藩主・松平宮内少輔の屋敷に忍び入って捕らえられ、北町奉行所で詮議の上、3ヶ月後に市中引き回しの上、獄門にかけられました。
享年36。
もっとも、鼠小僧が義賊であるという話は、後世のものではなく、実は彼が盗人当時から世間では流れていたようです。
おそらくはたった一人で武家屋敷に潜入し、まんまと大金をせしめる鼠小僧に、庶民が一種の痛快感を覚えたからなのでしょう。
そんな男が義賊であれば、庶民はなおさら肩入れしたくなるというもので、いつか話に尾鰭がついたようです。
彼の墓石は本所回向院に建てられましたが、その後、墓石を削って所持していると賭け事に勝つという俗信が生まれ、墓石はたちまち小さくなってしまいました。
現在は本物の墓石の前に、削るための別の石が置かれており、その人気(?)が今も続いていることが窺えます。

・・・やはり、人の物を盗ってはいけませんよね。

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