落語の「視線」
私は、どうも「目線」という言葉に抵抗があります。
「視線」というのが正しいと思うのです。
調べてみると、やはり色々あるようです。
「目線」という語は、元々、映画・演劇の世界で演技者が目を向ける方向のことを指す言葉。
小学館の日本国語大辞典には戸板康二さんの著書「楽屋のことば」の一節が引用されている。
それには「役者が演技中に、月を見あげたり、山を眺めたりする時の、目のつけどころを『目線』という。視線とはいわない」とある。
同辞典はその記述のあと「②転じて、一般に視線をいう」とあり、現在の使用状況の実態としては「視線」とほぼ同じ意味。
言葉は使われる頻度が多くなると、背景などがどうあれ、認知される傾向にあります。
映画や演劇で使われていたとすれば、落語でも「めせん」?
それは嫌ですね。
落研では、高座に上がる時は、全員メガネを外しました。
緊張するから、メガネを外して客席が見えないようにする訳ではありません。
(そういう人もいたかもしれませんが。)
落語は、座って演じる芸能です。
しかも、小道具は、扇子と手拭いしか使いません。
それで、宇宙からミクロの世界まで演じる演芸です。
従って、頭、顔、肩、腕、手、表情、顔色、そして視線で全てを表現する訳です。
メガネを外す理由がここにあります。
まず、江戸時代が舞台になっている噺は、そもそもメガネはありえないでしょう。
それから、これが最も大事なのですが、落語にとって、この「視線」が重要なんです。
例えば、「嬉しい」って笑って言っても、視線が下を向いていたら、100%嬉しくない感情になる訳です。
そういう機微を表現する、最大の武器なんです。
ところが、メガネをかけると、レンズを通して視線が見えづらくなるだけではなく、場所によって、高座の照明の関係で、ライトがレンズに反射して全く見えなくなる場合もあります。
ですから、必ずメガネを外して、視線で演技をすることが大切。
極端に言えば、言葉は発しなくても、「目は口ほどに物を言う」。
何度も言うように、落語は聴き手の頭の中に、聴き手自ら映像を作ってもらわないといけないのですから、
聴き手が、どのように見えるかが、重要になる訳です。
以前、千公さんが「ぞろぞろ」を、百梅さんが「夕立屋」の稽古をしていた時、私は、家の中から外の天気を窺う視線を工夫するようにアドバイスしたことがあります。
当然、空を見上げますから、顔を上げて上目遣いにしますが。
私は、この場合の視線を線で示すと、「」ではなく「」となるはずだから、「」の視線を演じるようにと。
「」なら、視線は天井や軒下にぶつかり、空模様は見えない。
天井や軒を透かして見る視線(仕草)が必要になるんです。
視線は、基本的には直線ですから、「」の視線を具体的にどう工夫して演じるかは、実際に軒下から空を見上げて、天気を確かめてみれば良いと。
それから、先日の稽古で、千公さんが「目黒の秋刀魚」の稽古をした時、オチの直前の殿様の台詞で、「この秋刀魚、何処より仕入れた?」と家臣に尋ねる場面。
ここは、ずっと下手の家臣を向いて語るのではなく、目だけで良いから、不味い秋刀魚を一瞥してから台詞を言えば、物凄くリアルで立体的な表現になるとアドバイスしました。
この視線も自然に演ずることが出来れば、素晴らしいと思います。
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