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2017年8月 3日 (木)

志ん朝師匠の芝浜

広瀬和生さんの「話は生きている」から、「芝浜」の「演目論」で、何人かの噺家さんを採り上げています。
”特別サービス”で、三木助師匠、談志師匠の次に、志ん朝師匠が紹介されていました。
その一部です。
噺は生きている
◇人間味あふれる夫婦の機微
落語を超えるドラマとしての『芝浜』を追究した談志とは対照的に、名作落語として『芝浜』を磨き上げたのが古今亭志ん朝だった。
万人に愛される「ミスター落語」志ん朝の『芝浜』は、彼の演目がどれもそうであるように、実に心地よい。
談志のように聴き手を自分の世界に引っ張り込んで強烈に揺さぶるのではなく、うっとり聴き惚れているうちにホロッとさせられる。
夫婦の機微を描いた落語として実に楽しく、心温まる一席だ。
志ん朝の『芝浜』は父の古今亭志ん生ゆずりの型で、主人公の名前は熊五郎(魚熊)。
志ん生は拾った財布の中身を50両としていて、志ん朝も50両で演っていた(「53両と2分」に変えていた時期もあった)。
いきなり女房が起こすところから始まるのではなく、腕のいい魚屋なのに昼飯で酒を飲むようになってから信用を失い、ヤケになって酒におぼれていったという経緯から入っていくのも志ん生の演り方を踏襲している。
ただし、志ん生はある晩「明日から商いに行く」と約束する夫婦の会話を手短に演じ、翌朝女房が亭主を起こすと亭主は素直に出ていく、という展開だが、志ん朝は、魚熊がヤケになって商いに行かなくなったことを説明すると「暮れもだいぶ押し詰まってきまして」の一言を挟み、「ちょいと熊さん、起きとくれよ」と女房が起こす。
亭主が出ていくまでの描写はほぼ三木助と同じ。
盤台が乾いて使い物にならないだの、包丁がどうのと愚図って行きたがらない亭主を「ちゃんと準備ができてるんだから行っておくれ」と説得する女房、という場面を丁寧に描いている。
ーー芝の浜を省略する演出--
志ん生・志ん朝親子の『芝浜』の演出上最大の特徴は、朝、女房に起こされた熊が芝の浜へ向かってからの行動を描写することなく、財布を拾い、慌てて戻ってきた熊が女房に「出かけたあと、なにがあったか」を語り聞かせて50両を見せる、という構成だ。
三木助・談志の型がポピュラーになったため、かなり変わった演り方に思えるが、志ん朝が演るのを観れば「この演出のほうが自然」と思えてくる。
志ん生は「(三木助は)芝の浜のくだりが長すぎて、あれじゃとても夢と思えねぇ」と言ったというが、そういう父の理屈とは関係なく、志ん朝の華麗な芸風においては「あの声と口調で淀みなく語り聞かせられるほうが、行動を描写されるより心地よい」からである。
この「芝の浜へ行く場面を省略する」演出は志ん生の創作ではなく、二代目金馬や三代目つばめがやはりそういう演り方をしていたことが速記で確認できる。
四代目小さんは芝の浜の場面を省略する演出について「財布を拾って気が動転している亭主が順序立てて観客にわかりやすく説明できるはずがない」と批判していたというが、そういうリアリズムと「芸の嘘」のどちらをとるか、という問題だろう。
三木助が芝の浜での描写に力を入れたのはリアリズムというより美学の問題だと思うし、その意味では談志のほうがずっと「リアル」だった。
いずれにしても志ん朝の演り方には四代目小さんの指摘するような「無理」はまったく感じられず、実に自然だ。
逆に志ん生・志ん朝は、三木助や談志が描写しない「湯へ行った亭主が友達を大勢連れ
てきて豪勢に飲み食いする場面」を、魚熊の行動として進行形で演じる。
志ん生はそれをごくあっさり済ませたが、志ん朝はここを大きく膨らませ、実に面白い「見どころ」にしている。

・・・そうなんです。
志ん朝師匠は、談志師匠のような理屈を全面に出すようなことにはしていません。
自然体で、素朴に人はどう思い、どう行動するかで、演じている気がします。
そこは、その方が良いと思います。
芝の浜の場面がカットされているのは、そういう演出上の理由だとは思いますが、この噺のクライマックスは、やはり後半の部分。
それでなくても長講になりますから、演ずる時間などを考慮すると、やはりこの部分を小さくするのがベストなのかもしれません。
野暮な言い方ですが。

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