« 並ぶ気がしれない | トップページ | 怪談牡丹燈籠のオチ »

2017年7月17日 (月)

抜け雀のオチ

「わしは親不孝だ。見ろ、我が親を"かごかき"にした」・・・は、実に美しいオチではありませんか。
Fw: 乱志師匠ローカル写真
あまりポピュラーではありませんが「親の加護(籠)で助かった」と言うのもあるようですが。
師匠は、それにもメスを入れられます。
師匠は、絵描きの父親を医者にして、衝立には「鳥籠」ではなく「竹」を描きます。
そして、オチの部分。
「父上。ご不孝の段お許しください」
「この竹を描いたのはお父上だったのですか?」
「父は絵師であったが『絵では人の命は救えない』と考えて医師になった人。
子供の頃、父から絵の手ほどきを受けた。医師になった父の絵を見る目は衰えていないようだ」
「親子揃って大したものですね」
「俺は親不孝だ。父を藪(藪医者)にした」
・・・と言う。
これについて、師匠はこんなコメントをしています。
あの世に行ってしまった柳家つば女(平成16年6月13日没)が生前にこんなことを言っていた。
「雀は籠に入れて飼うような高級な鳥ではない。絵師として駕籠入りの雀は描かないはずだ」と。
つば女は武蔵野美術大学の出身なので、あたしは信憑性を感じた。
そこで、本文のような落ちに直したのである。
既成の落ちは、老人が駕籠を描いたので、息子として「あたしは親不孝。父を駕篭かきにした」というのである。
しかし、この落ちの本来の意を知っている人は少ない
ようだ。
〔双蝶々曲輪日記 六冊目 橋本の段〕の吾妻の口説き句に「現在、親に駕篭かかせ、乗ったあたしに神様や仏様が罰あてて――――」というのがある。
[抜け雀]を演るほうにも聞くほうにもその知識があったので、落ちは一段と受け入れられたものと思われる。
本来の落ちには隠し味ならぬ、隠し洒落があるのが、嬉しい。
知識として、その文句のない現代のほとんどの落語好きは、ただ単に「親を駕篭かきにしたから、親不孝だ」と解釈をしてるにすぎない。
胡麻の蠅と駕籠かきは旅人に嫌われていた。
その「駕籠かき」から「親不孝」と連想させての落ちになるのだが、悪の胡麻の蝿と同じような悪の駕篭かきもいただろうが、いとも簡単に駕篭かきを悪として扱うのはどうかと思う。
だから、浄瑠璃の文句の知識を念頭に入れない「駕篭かき」の落ちの解釈は危険そのものなのである。
・・・確かに、つば女師匠の言葉には説得力もあります。
また、そうは言っても、一応は見るに耐えられるぐらいの絵にしているはずで、籠というのは不自然です。
竹ならば、「竹に雀」は相性も良く、そこいらにもある絵に見えたでしょう。
だから、オチがとしては、竹を描いて薮にした方が美しい。
ですから、私もそれでやりました。
ただ・・・、医者の趣味で絵を描いているという設定は、やや弱いところではあります。

« 並ぶ気がしれない | トップページ | 怪談牡丹燈籠のオチ »

落語・噺・ネタ」カテゴリの記事