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2017年7月21日 (金)

70年前の伝説の日

memo文春オンラインで読みました。
あの名人の、あの伝説の真相。
今から70年前の今日、1947(昭和22)年7月21日、戦時中に満州(現在の中国東北部)に渡っていた落語家の五代目古今亭志ん生が、日本橋の寄席「人形町末広」に帰国後初めて出演した。
結城昌治「志ん生一代」によれば、大の酒好きだった志ん生は、この日も朝から飲んでおり、昼席のあと贔屓に呼ばれてまた飲み、夜席のトリに上がる時には相当酔っていたという。
それでもこの時の演目「ずっこけ」は酔っ払いの噺とあって、無事に務めた。
彼が伝説に残る“失態”をしでかしたのは、この後の大喜利での席だった。
大喜利では、客席から帽子やマッチなどを借り、落語家たちがそれらの品をシャレに織り込んで噺をつなげ、最後の演者がサゲをつけるお題噺が披露された。
ところが、志ん生まで番が回ってきたところで噺が止まってしまう。
下を向いたきり顔を上げないので、最初はどう喋るか考えているのだと皆は思ったが、そのうち軽い鼾が聞こえてきた。
何と、志ん生は酔っ払って、座ったまま眠ってしまったのだ。
客にもやがて気づかれ、笑い声が起こる。
共演していた八代目桂文楽が慌てて「志ん生は満州の疲れがとれておりません。何卒ご勘弁のほどを」と頭を下げると、客は文句も言わず、「ゆっくり寝かしてやれよ」と声がかかったという(結城昌治「志ん生一代(下)」小学館)。
戦時中、旧満州へ慰問のため六代目三遊亭圓生とともに渡った志ん生は、その後、ソ連軍の侵攻で九死に一生を得る。
終戦から1年以上経った46年末にようやく引き揚げ船に乗りこみ、この年1月に帰国した(圓生は3月に帰国)。
戦前からの貧乏暮らしで働かねば食っていけず、帰国後6日目にして、体がまだふらついたまま新宿末広亭に出演。
3月31日には上野鈴本で独演会を開き、昼も夜も大入の客を集めた。
帰国後の志ん生は「芸が大きくなった」と言われ、人気も高まっていく。
「大きいやかんは沸きが遅い」と大器晩成を自認した志ん生は、57歳にして大輪の花を咲かせたのである。

・・・古きよき時代。

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