迷子石
「五百羅漢」に、迷子石(迷子の標石)のことが出て来ます。
大火事で親にはぐれて迷子になった女の子の親探しをする子どものいない八百屋夫婦。
棒手振り商売の出先で尋ねたり、町内の井戸端会議で離したり、色々調べますが、手がかりはなし。
そこで、「迷子石」に紙を貼って来ようということに。
コンピューターのない時代、情報の伝達や共有のためには、人の集まるところに、札などを掲げていたんですね。
江戸時代中期になると、争乱のない世が続いていて文化が爛熟。
江戸の人々には生活を楽しむ余裕が生まれていた。
見世物小屋のならぶ両国、芝居見物の浅草、名のある寺社の祭礼など、遊興地は多くの人でにぎわっていた。
そんな場所につきものだったのが迷子である。
当時の警察である町奉行所は、犯罪捜査に手いっぱいで、迷子にまで手がまわらなかった。
そこで、町の人々は自衛策をとった。
子どもに迷子札をつけさせたのだ。
木札に名前・年齢・住所などを書いて紐をつけ、子どもの首からぶらさげておく。
これなら見つけた人に、どこの家の子なのかがすぐわかる。
しかし運悪く迷子札のない子だったときは、見つけた人がその背格好、着ているものなどを紙に書いて、迷子石に貼っておいた。
迷子石とは迷子を親元に帰すための伝言板的役割を持っていた縦長の石柱のことであるる。
この石柱には迷子を見つけた人だけではなく、子どもが迷子になった親も、子どもの人相や着物のほか、ホクロや傷といった特徴、クセなどを書いて貼った。
迷子石の一方の面は「しらす方」と迷子を見つけた人用、もう一方の面は「たづぬる方」と迷子を探す人用に区別してあった。
迷子を出した親は迷子石に自分の子の特徴を記した紙を張る一方で、その裏側に貼られた紙を見て、自分の子のことが書かれていないか調べたのである。
この迷子石の誕生は、八代将軍吉宗の時代に「掛札場」という迷子や身元不明の行き倒
れを知らせる、いわば伝言板のようなものがつくられたことがきっかけになっている。
この掛札場の掲示期間が七日間しかなかったため、期限のない掲示ができるものが必要だと、町の篤志家が迷子石を設けたのだ。
迷子石が立てられる場所は、人通りの多い橋のたもとと、寺社の境内など人目につきやすい所が選ばれた。
掲示は見つかるまではがされることはなく、迷子を出した家は新しい貼り紙がないか、毎日のように迷子石に通った。
一方、迷子になった子どもは見つかった町で保護され、親が迷子石を見て現れるのを待った。
しかし、現れない場合も少なくなかった。
そんなときは「捨て子」としてあつかわれた。
・・・「五百羅漢」では、一石橋と湯島天神と浅草寺、それから両国に行って迷子石に紙を貼って来る設定にしました。
ただし、残念ながら、迷子石での手がかりがないままに・・・。
うん、だんだんイメージが盛り上がって来ました。
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