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2017年1月12日 (木)

「元寇」に新説?

yacht歴史と言うのは、必ずしも正確には伝わらないものです。
その時の権力者やその後の強者によって、あるいは大衆の意志や感情によって真実が歪められたりすることも多いと思います。
モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたって食い止めた「元寇)」の「文永の役(1274年)」「弘安の役(1281年)」は、いずれも長年、「暴風雨(神風)」が勝因とされています。
歴史でそう習いました。
1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。
鷹島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。
続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日本側の防戦で一時撤退後、鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため退却(弘安の役)。
その後も皇帝フビライは3度目の日本遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。

・・・そうです。
そう習いました。
国の存亡の危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、神国日本を裏付ける材料として使われました。
ところが、新たな見方が浮上しているそうです。
「文永の役」については、「モンゴル軍が日本に攻め寄せた夜に嵐が来て翌朝撤退したと書く本が多いが、そんな史料は存在しない」との主張があるそうです。
元になったと思われるのは「八幡愚童訓」という鎌倉時代の史料だそうで、「夜中に神が出現し矢を射かけたため、蒙古はわれさきに逃げ出した」といった内容。
さらに、西暦換算すると、モンゴル軍の襲来時期は11月で台風のシーズンではないようで。
「寒冷前線通過に伴う嵐が来た可能性はある。でも、それで大量の軍船に被害が出たという記録はない」ということなんです。

それでは、なぜ撤退したのか。
「攻略が思うようにいかない場合、冬の前に帰国する計画だったのでは。軍勢の数も900隻・4万人とされてきたが、これは搭載されたボートなどを含めた数字。実際は112隻、将兵は船頭を含めて1万2千人ほど」と。
続く「弘安の役」では、台風でモンゴルの軍船が一部被害を受けたと思われるが、「沈んだのは鷹島沖の老朽船だけ。本来なら大勢に影響はなかったが、食料などに不足をきたし、日本側の猛攻を受けたため撤退した」とみるとか。
さらに、フビライが3度目の日本遠征をやめた理由は、ベトナム侵攻で敗北したからとの説が有力。

鎌倉武士は戦の勝因を神風とは考えていなかったらしいのです。
主張したのは敵国調伏の祈禱(きとう)をした社寺で、武士はむしろ自らの戦績を誇ったようです。
しかし、そのはるか後世、「神風」の記憶だけが歪曲され、西欧列強の脅威に直面した明治期と、「神州不滅」が叫ばれた第2次世界大戦中の2度にわたり、「元寇」は日本人の国民意識の形成に大きな役割を果たすことになりました。
まさに、時の権力者のプロパガンダにされたということですね。
鎌倉武士は、台風の力を借りなくても強かったんです。

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