人間の業の肯定
またまた「喰亭寝蔵師匠」の話題。
地元の越後でのご活躍は、落語を演ずるのみにあらず、学術的落語論にまで及びます。
昨年の12月、新潟の某大学で「日本の伝統芸能:落語の世界」というテーマで講義(講演)をされたそうです。
その時の資料を拝見することが出来ました。
1.落語とは何か
2.落語の起こり「落語の祖」
3.江戸落語と上方落語
4.古典落語と新作落語
5.「落語は人間の業の肯定である」
6.寄席文字
7.上下を切る
落語実演 味噌豆・お花半七(上)
実に行き届いた内容です。
これなら、落語初心者でも、よく分かりますし、居眠りする人もいないでしょう。
就中、私が注目するのは、5の「人間の業の肯定」の部分です。
寝蔵師匠も、この部分に一番重きを置かれた気がします。
そして、私も強くシンパシーを感じました。
「落語は人間の業の肯定である。」故・立川談志の言葉
「業」…人間に生まれつき備わっている執着・運命。
たとえば、大金が入って贅沢をしてしまうと、もっと贅沢をしたくて自分が欲望に飢えるし、そのせいで人に迷惑を与えてしまう。
因縁、因果による行為で生ずる罪悪を意味したり、不合理だと思ってもやってしまう宿命的な行為。
例:忠臣蔵…討ち入りしたのは四十七人だけ。その他大勢の藩士は、参加しなかった。
「切腹なんか嫌だ。」「もっと遊びたい。」「うまい物を食って、酒飲みたい。」等々、「業」を肯定。
歌舞伎、芝居は四十七士にスポットを当てるが、落語は「逃げたやつ」にスポットを当てる。
ですから、落語には、数々の「ダメな人」「失敗した人」たちが登場する。
その失敗を笑いに変えるという、現実には起こりえないような話に、救われる人が多い。
店賃をため込んでもまったく気にしない熊さん、八つぁん。
人はいいけど、放蕩が止まらない若旦那。
のんきで楽天的だが、何をやっても失敗ばかりする与太郎。
しかし落語には、彼らを否定することなく、「まぁ、人間こんなもんだ。」と抱き込む、懐の深さがある。
聞き手は「マヌケだなぁ」と呆れつつ、時には登場人物に己を重ね、まとめて笑い飛ばす心地よさ。
ダメな亭主に、しっかりしたおかみさん。
侍も、しっかりした侍は出てこない。どっかマヌケな侍。
なぜ、今、落語が好まれるか?
ひとことで言えば、落語が人間の本質を描いているからだと、思われる。
人間の心の奥深いところを、正面切ってではなく、斜めから、笑いに包み込むような形で描くのが落語の真骨頂である。
現実社会で得難くなっている、人間性に根差して上質な笑いを、人々が求めているのではないか…と、思います。
四十七士の例えの部分は、「深川三流亭」の「人情八百屋」のマクラで使わせていただきました。
人間なんて弱いもの、褒めたり批判したりするのは簡単ですが、実に人間と言うのは弱いもの、怠惰なものです。
それをまず受け容れようじゃないか。
「人間て、そういうものなんだよ」・・・からスタートする。
本音と建前なら本音、理と情ならば情・・・それでいいじゃないか。
だから、大名でも、与太郎でも、定吉でも、生かされた(生まれた)環境を受け容れて、生きようとしている。
そのパワーが人間の素晴らしさで、ここを落語が語っているということでしょう。
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