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2016年9月27日 (火)

とんでもない!

実は、触れようか、やめようか迷ったのですが・・・。
まずは、相模原の障害者施設での事件の犯人が言った言葉。
「障害者は不幸をつくることしかできません。障害者を殺害すれば日本のためになる。 」
そして、某アナウンサーの暴言。
「自業自得の人工透析患者なんて全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!」
さらに、某弁護士はこのようにのたもうています。
「一人で全部を演じる「落語」は本当に面白いのか?」
前2者は人権を無視したとんでもない発言ですが、それに負けない偏見と独断に満ちていて、呆れすぎて笑ってしまいました。
落語は、通常複数の登場人物を一人の噺家がすべて演じる。
この演じ分けがうまい人がいるのも確かで、それができる噺家が「名人」と呼ばれるのだろう。
しかし、落語という文化のあり方はさておき、「観客の理解」という点においては、確実に、登場人物一人一人の全てに、違う演者をあてがった方が分かりやすいのは確かである。
落語家がヘタな場合、一人で全部を演じられてしまうと、「今しゃべっているのは誰なのか」が分からなくなり、迷子になってしまう。
素人落語はその典型だ。
そして、どんなに演じ分けがうまい人であっても、登場人物が増えてゆくと、いずれ限界を迎えてしまう。
名人クラスの落語を見ていても、「あれ、これって誰だっけ?」と思わされる瞬間はある。
なぜ落語は一人の噺家に全てをやらせるという手法に固執しているのだろうか。
これは、筆者が長年抱いていた疑問であった。
一つには、登場人物の一人一人全てに違う演者をあてがうと、コストがかかる、という分かりやすい理由があるだろう。
演者の絶対数が増えれば、人件費が増える。
一人でやっても、複数でやっても時間(ネタ)が同じであれば、一人でやってもらった方が、
コストパフォーマンスは高い。
さらに、適切な役者を捜索・選考する手間(オーディション)や、役者(噺家)に話(ネタ)の内容を教え込む手間がかかるということもあろう。
それだけではない。
落語家は一人で全部をやるので、登場人物同士の会話の間とかも自由自在にできるのだが、違う人どうしでこれをきちんとやるとなると、事前に入念な稽古が必要になってくるのである。
これはこれで大変な手間だ。
もちろん、落語の台本は、そのまま芝居スタイルに転用できるようなものではない。
どうしても、複数人による芝居風に台詞を加除する必要がある。
そうすると脚本を作り直す手間も出てくる。
すると作り直した脚本をまた演者に説明しないといけないし、それをもとにまた稽古をしてもらって最適な間や立ち居振る舞いを探ってもらう必要が発生する。
落語を複数人で演じるとなると、こういう人件費だとか、演者間、あるいは演者と脚本の作り手との間のコミュニケーションのコストが増えるのである。
つまり、落語家とは監督と脚本と主演を全て兼ねた一人クリエイターなのである。
このうち一部を外注していくと、それに伴って種々のコストが増えてくるのは当然である。
手間も増えるわけだ。
ただこれは、あくまで「作り手が大変になる」という話でしかない。
手間がかかったり、制作が大変になるかたといって、それをやらず、その結果、作品がおもしろくなるのであれば、プロ(作り手)がその手間を厭ってサボっている、というだけに過ぎない。
制作コストが増えれば、利益を上げるために一人一人の客に払ってもらうお金もその分増えるかもしれないが、それはまた別の問題だ。
結局、落語というのは、作り手の手間を抑えてサボるための仕組みに過ぎないのではないか、と筆者には思えてならない。
伝統芸能だとか、話芸だ、とかいう主張もあろうが、それと観客から見ての「面白さ」とは無関係だ。
それとも、落語にはいわゆる「面白さ」「わかりやすさ」は求めてはいないのだろうか。
そもそも落語は今で言えばバラエティ番組やお笑いライブであり、大衆芸能である。
そんなはずはあるまい。
「この考えは間違いだ」という人は、是非「落語家が登場人物全てを一人で演じることでおもしろさの向上につながっている部分がある」という点を具体的に教えて欲しいものだ。
作り手にとってのメリットではなくて、客にとってのメリットを。

・・・ね、メチャクチャな論理です。
噺家さんの多くも、この文に触れて、暗に呆れています。
サッカーというスポーツは、手を使ってはいけないというルールがあるから、厳しいし、激しいし、面白いのだと思います。
コストパフォーマンスなどというレベルで語るものではありません。
3つとも、本当に悲しい・・・。

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