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2016年4月28日 (木)

文七元結談議

先日の稽古会の時に師匠が。
「見ず知らずの人に、大切な50両もの大金を渡す・・・、あたしはとても出来ない。この噺を稽古した頃、いつも複雑な気持ちになったものだよ」と。
「ザ・落語」とでも言うべき名作の、この部分はよく議論されて来ているところです。
ドラマ性は認めても、自分に置き換えたら現実でない了見でありストーリーです。
この噺は、中国で伝承されてきた話をベースに、三遊亭圓朝が創作したと言われます。
幕末から明治初期にかけての江戸が舞台で、圓朝は、当時薩摩や長州の田舎侍が我が物顔で江戸を闊歩していることが気に食わず、江戸っ子の心意気を誇張して魅せるために作ったということになっているようです。
江戸っ子気質が行き過ぎて描写されるのはこのためだです。
そういう背景が分かれば、いくらか納得できるというものです。
ただし、100%腹には落ちないでしょう。
我が娘を犠牲にしてまで赤の他人に金を恵む。
この常人では到底不可能な事をしてのける長兵衛がどういう動機で金を恵むかについては、古今の師匠方も色々考えて演じているようです。
昭和の名人と言われる三遊亭圓生、古今亭志ん生師匠は、娘は傷物になっても死ぬわけではないがお前は死ぬという、見殺しにしては寝覚めが悪いからと嫌々ながらに金をやる・・というスタンス。
これに対して、林家彦六師匠などは、50両のために主への忠義を通して死のうとする文七に感じ入り、所詮自分には縁のなかった金と諦めて女郎屋に借りた金を返さないと覚悟を決めた上で与えてしまう・・・金に対する未練を見せないというスタンス。
いずれにしても、この部分は、江戸っ子気質ということで押し通すということでしょう。
ところで、「元結(もっとい)」というのは、髷の根を結い束ねる紐で、「文七元結」は江戸時代中期に考案された、実在する元結です。
長くしつらえた紙縒(こより)に布海苔と胡粉を練り合わせた接着剤を数回にわたって塗布し、乾燥させたうえで米の糊を塗って仕上げた元結だそうです。
「文七元結」の名称は、桜井文七という人物の考案が考案したからとも、下野国産の文七紙を材料として用いているからともいわれているそうです。
初代桜井文七は実在人物で、天和3年(1683年)美濃国生まれで信濃国飯田で修行した後に江戸で活躍し、宝暦3年(1753年)飯田に戻ったそうです。
江戸で有名な元結屋で、代々「文七」を襲名されていたために、圓朝がモデルにしたということでしょう。
ですから、この噺に出て来る文七は、あくまでも架空の人物だということです。
師匠の高座本では、文七は信州飯田の出だと言っています。
また、他にも、、後世の噺家さんが、辻褄を合わせて演じている部分があるそうです。
例えば、古今亭志ん朝師匠は、真夜中にお久が一人で本所から吉原まで歩くのは不自然であるとして、大引け(午前2時)過ぎから中引け(午前12時)過ぎに時刻を変えているそうです。
私は、刻限をはっきり言わず、「夕べ」という表現にしたいと思います。
三遊亭円丈は、結末で唐突にお久と文七が結ばれる点を、以前から恋仲であったという伏線を張った上で、2日間にわたる話を大晦日1日の出来事に短縮しているそうです。
私は、オチを作ることと並行して、この事件をきっかけに2人が知り合って親しくなり、結婚に至るという設定にしようと思います。
さらに、立川談春さんは、50両もの大金を、どんなに高給な左官職でも年内で返済できる筈がないとして、返済期限を2年に延ばしているそうです。
・・・色々ありますね。

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