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2015年8月14日 (金)

瀧口さんの怪談論

またまた瀧口さんのツイートから。
怪談の怖さは幽霊が出る怖さではない。
勿論、幽霊は恐い訳だが、幽霊が出るきっかけになるまでの登場人物の言動。
聴き手がそれを自分の言動と重ね合わせてみた時に、同じようなことがあったりして驚かされる。
それが怖さの源になる。
怪談の怖さは人間の心理が描けるかにかかっている。
だから難しい。

これまた本当にその通りです
先日の落語っ子連の稽古で、師匠から、「怪談は、幽霊が出て来る場面までの持って行き方が難しい。聴き手を掴む、引き込めないといけない」と言われました。
同じことを仰っているんだと思いました。
クライマックスに持って行くプロセスが大切なんですね。
だから、「牡丹燈籠・お露新三郎」の前半の、医者の山本志丈と女中のお米の台詞回しがポイントになる訳です。
お米の言い回しは、春風亭小朝さんの音源が参考になりました。
やや芝居がかって演った方が重厚さが出ますから、ここではリアリズムは不要なのかもはれません。
瀧口さん、こんなコメントもしています。
「怪談噺」という言葉はなるべく使わないにょうにしている。
怪談の「談」は「噺」と同一の意味。
でも「怪談噺」って言うと、ちょっといつもより怖そうに感じるし、深みを感じたりもする。
使わざるを得ない時はそういうことも意識している(つもり)。

そうですね。
馬から落馬、英語で「フジカワ・リバー」って言うのと同じ?
「ホウリュウジ・テンプル」とか、「オオサカジョウ。・キャッスル」。
よく、「○○先生様」って言う人も、この類ですか。

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