三遊亭圓歌師匠の記事
東京新聞の三遊亭圓歌師匠の記事。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/tradition/CK2015082102000208.html
落語界の重鎮、三遊亭円歌がこの道70周年を迎えた。
二つ目の歌奴時代、「山のあな~」のギャグで一躍スターとなり、6人の高齢者をネタにした「中沢家の人々」などで日本中を爆笑に包んできた。
83歳となった現在も「爆笑王」の嗅覚は衰え知らず。
31日には上野の鈴本演芸場で70周年記念の一門会を開く。
今月上旬、東京・新宿末広亭。
「『山のあなあなやれ』って言われたって忘れたよ。やってる私もじじぃになった」。
マクラでいきなりはじけて、お目当ての「中沢家の人々」を語り始めると、客席は爆笑の渦。終演後、「この年になってもお客さまに喜んでもらえる。笑いを取れるなんてなかなかないよな」とひと言。
幸せな思いとまだ一線で勝負できる自負がにじむ。
東京の下町で生まれ育った。
終戦間際、学徒動員で山手線の新大久保駅に勤務。
吃音に悩んでいたが、「『新大久保~』と言えず『しん、しん、しん~』なんて言ってるうちに電車が(隣の)高田馬場に着いちゃった」とギャグを交えながら思い出話が進む。
終戦直後の一九四五年九月、吃音を矯正しようと、二代目円歌に入門。
師匠も吃音だったが、忍耐を教えられた。
「相手が話し終わるまで聞く習慣がついたね。よく聞かないと笑いはとれないもの」と振り返る。
四八年に二つ目昇進の際、歌奴を襲名。
五〇年、NHKラジオで全国放送した創作落語「授業中」で「山のあな~」と吃音もギャグに転化させ、人気者となった。
その後も「浪曲社長」「月給日」も合わせた三部作で全盛時代を築いた。
七〇年に三代目円歌を襲名。
八五年には突然出家し、世の中を驚かせた。
「お遍路しながら落語をやりたかった。(放浪の俳人種田)山頭火のように生きるのが夢だったの」と心境を明かした。
めがねをかけて高座に上がり、色紋付き姿での高座…。
何かにつけ「第一号」となった。一九九六~二〇〇六年、落語協会の会長もつとめ、理事の若返りなど改革の旗を振った。
自身の入門時、協会メンバーは三十人足らず。
「今は約四百人。若返らないとつぶれちゃう」。
常に修業に励む若手に気遣う。
自身には約二十人の弟子がいて、歌る多、歌武蔵ら人気者や実力者も育てた。
三十一日の会は「弟子たちが開いてくれるんだよ」とうれしそう。
若い日々から思ったことは実行し、周囲を驚かせてきた。
一門にもそのサプライズな行動派ぶりは継承されている。
・・・確かに、個性的なお弟子さんが多い一門だと思います。
お弟子さんを多く育てるというのも、噺家の師匠の大事な仕事かもしれません。
三遊亭を名乗るのは、圓生系、圓歌系、金馬系、芸術協会の遊三系とありますが、今一番賑やかな一門ですね。
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