« 八幡様の例大祭 | トップページ | 富士山対決 »

2015年8月 7日 (金)

阿武松

わしが国さで 見せたきものは 昔ゃ谷風 今伊達模様
仙台の勾当台公園には、「横綱谷風梶之助」の像があります。
虎ノ門の「西久保八幡神社」でも相撲をとったという「横綱阿武松緑之助」・・・・。
能登の国鳳至群七海村から江戸へ相撲取りを目指して出てきた長吉が、観世新道の武隈文右衛門に弟子入りし小車と言うしこ名を貰う。
部屋の米がやけに早くなくなる、これはおかしいと、おかみさんが見ていたが誰も売り払ったり持ち出す者も居なかった。
小車は、朝の炊いた後の釜底から赤ん坊の頭ぐらいの御焦げのお結びを17-8作り、食前にぺろりと平らげる。
その後お膳に向かって何杯食うか分からない。
それを見たおかみさんが親方に注進。
「あんな奴がいたら食い潰されてしまうよ」と。それを聞いた親方は小車に「大飯食らいに大成した奴は居ない」と1分の金を付けて破門した。
京橋から板橋、志村から戸田川で渡しを待っていたが、どう考えても国元に面目がない。
戸田の渡しで身を投げようと思った。
貰った1分の金を生かすつもりで板橋の平尾宿へ戻り、橘屋善兵衛の旅籠に投宿する。
「それから身投げしても遅くはないだろう」。
1銭で充分泊まれるのに25銭の金を出して、おまんまだけは良いと言うまで出してくれと頼んだ。
今生の食い納めと食うわ食うわ、2升入りのおひつを3杯空にして、未だ継続中。
余りにも食いっぷりが良いので善右衛門が覗きに行き、事情を聞き、新しい親方を紹介すると言う。
それには月に5斗俵2俵付けるので安心しなさい。
翌朝出かけ、巣鴨の庚申塚を抜け、本郷追分けを通り、根津七軒町の親方、錣山(しころやま)喜平次の所に着いた。
部屋の若い者も普段世話になっているので、直ぐ中に通され、錣山に弟子を取ってもらいたいと頼むが、身体を見なくても旦那の推奨ならよいという。
「旦那は相撲好きで、10日の興行を12日見る方ですから」

「そんな事は出来ないよ

「いえ、櫓を組んで準備の日から見に来て10日楽しんで、片付けの日もここに来て、都合12日楽しむ相撲好きな方ですから」。
錣山の前に二十五になる長吉が小さくなって挨拶した。
武隈には分からなかったが、錣山が見て6代目横綱をはる男が目の前にいる「いい、イイ」と唸るだけであった。
遊びも何も楽しみはなかったが、ただおまんまだけが大好きである事も、そのため武隈親方に破門された事も話した。
毎年お米も贈ると言ったが、親方は食べるのも仕事の一つだから、米はいらないと言う。その代わり、幕に入るときしるし物でも贈って、贔屓にして、やってください、と暖かい言葉が返ってきた。
改めて入門し、錣山の出世名・小緑のしこ名を貰う。
文化12年12月麹町10丁目報恩寺の相撲の番付に初めてこの人の名前が載りました。
序の口・スソから四枚目に小緑長吉、翌13年2月芝西の久は八幡の番付に序の二段目、スソから24枚目と躍進。
その間100日と経たない内、番付を60何枚と飛び越した古今に珍しい出世であった。
文政五年、蔵前八幡の大相撲で入幕し、小緑改め小柳長吉と改名。
初日、二日目、三日目と連勝し、四日目のワリが出た。
喜んだのが師匠の錣山で、「お前の旧師匠武隈関とのワリが出た。しっかり働け」と激励された。
「武隈関に負けたら板橋の旦那に合わせる顔がございませんで・・・」おまんまの敵と対峙。
この取り組みが、長州侯の目にとまり阿武松緑之助と改名、六代目の名横綱になった。

・・・落語には、お相撲さんの噺が多くあります。
「佐野山」「半分垢」「鍬潟」「大安売り」と、私の持ちネタでもある「花筏」、あぁ「千早振る」も・・・。
確か「真景累ヶ淵」の後半にもお相撲さんが出て来ます。
師匠が3年ほど前に創作された「指相撲」は、この阿武松と競い合ったと言われる横綱「稲妻雷五郎」の噺でした。
そこでは、阿武松という横綱は"待った"が多かったとありますが・・・。
   初代  明石 志賀之助   
   二代  源氏山 綱五郎 
   三代  丸山 権太左衛門   
   四代  谷風 梶之助 
   五代  小野川 喜三郎
   六代  阿武松 緑之助
   七代  稲妻 雷五郎

お相撲さんというのは、英雄だったんですね。

« 八幡様の例大祭 | トップページ | 富士山対決 »

落語・噺・ネタ」カテゴリの記事