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2015年8月 7日 (金)

八幡様の例大祭

sign05会社の地元、虎ノ門一丁目琴平町の八幡様の祭礼です。
Top24_2すぐ近くに「金刀比羅宮」があり、旧町名が琴平町というのに、愛宕山の方にある「西久保八幡神社」の氏子です。
その西久保八幡神社例大祭は、 8月13日(木):前日祭、14日(金):中日祭、15日(土):大祭式で、境内での盆踊りや模擬店は8月11日(火)~13日(木)に行われるそうですが、各町内の祭礼は、それより前に行われます。
ちなみに、琴平町のほか、明舟町(虎ノ門二丁目)、巴町(虎ノ門三丁目)、神谷町、八幡町(虎ノ門五丁目)という氏子町会があるようです。
祭礼
会社で金一封をご奉納していますので、「奉納一覧表」にも会社の名前が載っています。
そもそも「西久保八幡神社」の縁起は。
寛弘年中(1004~12)、源頼信(多田満仲の三男)が、石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関あたり(榎坂とも)に創建したという。
太田道灌の江戸城築城に際し(築城は長禄元年・1457)、現在地に遷された。
徳川秀忠(徳川二代将軍)正室の崇源院(諱は「江(ごう)」・「お江」・浅井長政とお市の方の三女・家光の生母)は、慶長5年(1600)、家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として社殿建立の遺志を残しており、家光公御代寛永11年(1634)、社殿が造営され、同時に御神体の木像(八幡宮座像・仲哀天皇座像・神功皇后座像)と明王像(不動明王立像・愛染明王座像)も奉納された。(享保8年(1723)の火災により焼失)
元和5年(1619)には時の鐘が建てられたが、寛文10年(1670)に割れてしまい、現存はしていない。
享保8年(1723)の火災の翌年には土蔵にて社殿が建造されたが、文化8年(1811)にも火災に遭い、文政元年(1818)に再建されている。
この二回の火災により宝物・旧記等はことごとく失われた。
また、その間にあっても明和3年(1770)・文化12年(1815)・文化13年(1816)には境内で大相撲が行われ、落語や講談で有名な阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)も相撲を取っている。

祭礼
明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と称し、東叡山の末寺であったが、江戸八所八幡の一つに数えられ、八八幡詣(ややはたもうで)として多くの参詣を受け、周辺は門前町として賑わった。
また、天保9年(1838)刊行の「東都歳時記」8月15日の項に当時の祭礼の様子が次の通り記されている。
「毎年神輿産子の町を渡し、 西久保大通りへ御旅所を儲けて十三日より御旅出あり。今日放生会をなす。町々より隔年踊りねりものを出す事、丑卯巳未酉亥の年なり。」
昭和15年、皇紀2600年を記念して、境内を整備し、玉垣・神楽殿・御輿庫が新築された。
祭礼には門ごとに軒提灯を下げ、牛車にのせた御輿が氏子中を練り歩いた。
市兵衛町(六本木一丁目あたり)の偏奇館主人荷風散人(永井荷風)は、その日記に「西ノ久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり」「飯倉八幡宮の祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞こゆ」など記す。
昭和20年3月、戦災により、社殿はじめ御輿庫、社務所を焼失、5月神楽殿も焼夷弾の直撃を受けた。
終戦当日は、焼野原に建つトタン葺の仮社殿で大祭式を終え、数名の参列者とともに、玉音に接するありさまであった。
氏子の町々の復興とともに昭和28年8月社殿を総桧木により復興、同29年町内御輿庫再建、同時に手水舎を時の氏子総代山田信治郎氏奉納、同37年末社稲荷社・人麻呂社を復興。
同40年国道一号線拡幅工事に伴い、鳥居・石灯籠および熊谷橋の移築。同51年8月社務所を木造瓦葺で新築した。

祭礼330k
「阿武松」が出て来るとは思いませんでしたが、やはり歴史のある八幡様なんですね。
奉納のお返しにいただいた手拭いを、今年も私が頂戴しました。
謹んで稽古の時に使わせていただこうという訳です。

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