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2015年8月31日 (月)

三井の貸し傘

「国立名人会」で、師匠がお演りになった「三井の貸し傘」は、師匠が「三越落語会」のために創作された噺だそうです。
師匠のHP「五百噺ダイジェスト」にコメントされています。
平成19年7月13日の第538回 三越落語会は〈三越劇場 創立80周年記念〉の公演で、創業の祖三井八郎右衛門を称えて越後屋のアイデア商法の一つ〈三井の貸し傘〉を取り上げて創作落語にして、高座にかけました。
あたしは落語の演者であり作者でもあることを自負しておりますので、三越から創作の注文いただいて、その感激も一入です。
既成の落語では甚五郎物の[三井の大黒]が有名ですが、この創作には甚五郎は登場しません。
そして、越後屋の主は登場しますが、主には越後屋を語らせず、他の店 (日向屋)の主と小僧に越後屋の素晴らしさを語らせました。
このほうが、三井家や越後屋の教えが解り易く聞き手に伝わるのではないかと思ったからです。

・・・という訳で、ある意味では、「越後屋(=三越)」の宣伝のような部分もあるかもしれません。
勿論、生では初めて聴かせていただきました。
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日向屋の主は小僧の定吉を共に越後屋へ買い物に行ったが、降りだした雨にそこで 三井の貸し傘を二本借りた。
その傘には〈井桁に三〉の三井家の紋が入っている。  
帰り道、主は〈三井の紋の由来〉〈店前(みせさき)現金掛け値なし〉〈小裂も売 る〉〈越後屋にないものはない〉、そして〈貸し傘〉などを絶賛して、「作ってよし、 売ってよし、買ってよしの三方が揃って、初めて世間よしに繋がる」と定吉に語った。  
定吉は、五年前の雨の日、破れ傘一本で勘当された若旦那のことを褒め、ちゃちを入れちゃぁ返事をしながら着いてきた。  
その途中、八幡さまの庇の下に傘なしで雨宿りの娘(なみ)を見つけて、三井の貸 し傘の一本を貸してやる。
そして「越後屋さんへ返してくれればいいさ」と名も告げ ずに立ち去った。  
翌日、なみは越後屋へその傘を返しに行って、貸してくれた人の名を「神田田町の日向屋」と教えてもらった。  
その翌日、なみは用足しのあと、傘のお礼にと日向屋に向ったが、またも降りだした雨に、八幡さまの庇の下で雨宿り。  
すると、若者が「入りませんか」と三井の貸し傘を差し掛けてきた。  
なみは躊躇したが、昨日と同じ三井の貸し傘になにかの縁だと思い、入れてもらっ て歩き出した。
若者に昨日の傘のことを話して「日向屋へお礼に行くところです」と 言う。
ところが、歩いているうちになみは差し込みがきたのか、脇腹を抑えてしゃが み込んでしまった。  
若者はなみを負ぶって淡路町のなみの長屋へ送ることにした。
長屋には寝たきりの 母親が一人いると言う。  
なみを届け、横にさせた若者は知り合いの医者を呼んで、自腹を切って手当てをさせた。これがきっかけで、若者と医者がちょいちょい見舞いに顔を出すようになり、 親子は全快した。  
ある日、若者が見舞うと、なみが一人。
母親は近くへ用足しに出掛けたと言う。
なみから親子の秘密を聞かされた。
「実は、あたしは三つのとき、八幡さまに捨てられ、ここのおっかさんとおとっつぁ んに拾われたんです。おとっつぁんは二年前に亡くなりました。二人はあたしの命の 恩人なんです」 「そうでしたか……」
こんな会話があって、二人はなにか近付くものを感じ出した。  
それから、ふた月後。  
日向屋に越後屋の旦那がやってきた。
「今日はあたしのほうから日向屋さんへお返しするものがありまして」  
越後屋は表に待たしている若者を呼び入れた。
日向屋の倅、陽之助である。  
越後屋は話を続けた。
「五年前。雨の日でした。用足しの戻り道、八幡さまのところで破れ傘を一本抱えて 震えている男を見つけました。勘当されたそうです。なんとかしてやろうと、日本橋 は人目につくので出店へ置きました。よく働きました。それに、よく商いの道を学んでくれました。今ではどこへ出しても恥ずかしくないでしょう。いかがです。日向屋 さん。受け取っていただけますかな。この日向屋のあとを継がせてやってくださいな」
「……、受け取ります……」
「もう一つ。差し上げたいものがございましてな」  
越後屋は表に待たしているという女を呼び入れた。
なみである。  
越後屋はなみのこと、そして、なみと陽之助とのことを語り、二人を夫婦にすることを勧めた。  
なみは改めて日向屋に挨拶をした。
「越後屋さんの貸し傘の縁がずーっと続いて、おっかさんまで助けてもらいました。 陽之助さんの嫁になって尽くしたいと思います」  
日向屋が言った。
「なみさんや。この陽の助は途轍もない道楽者でした。雨の日、唐傘一本でこの家から叩き出された男なんだよ。それでもいいのかい?」
「はい。その傘を相合傘にいたします」
・・・生で聴いた率直な感想は、噺を創作した経緯から、「越後屋」の宣伝のような部分がありますが、逆に「貸し傘」の事実を説明した上で、宣伝は削った方が良いかもしれません。
それから、なみと陽之助を、もう少し強調した演出の方が、後のストーリーが分かりやすくなるかもしれません。

http://www.mitsuipr.com/special/100ka/24/index.html
しかし、それにしても、いつもながら、師匠の構想力には敬服してしまいます。
ところで、越後屋の貸し傘というのは、当時有名だったそうです。
三井家の日本橋での歴史の始まりである「越後屋呉服店」が、江戸時代に営業中ににわか雨が降り出した際に、顧客や通行人に番傘を貸し出した「番傘貸し」のこと。
同店の屋号が江戸中に知られるようになった理由のひとつに、この「番傘貸し」があったとされる。
同店では、営業中ににわか雨が降り出すと「越後屋」の屋号が記してある傘を土間に積み上げ、顧客や通行人に貸した。
夕立ちやにわか雨が降ると、顧客だけでなく、通行人までもがその傘をさし、江戸の街は「越後屋の傘」でいっぱいになったという。
そうした様子を謳ったのが、「江戸中を 越後屋にして にじ(虹)がふき」。
また、「ごふくやの 傘 内心は かへさぬ気」という川柳もあり、当時も不心得者も当然いたが、越後屋はこの「番傘貸し」により、屋号を広めると同時に、その屋号に「お互いを信頼し合っていこう」という越後屋精神を裏打ちしたともいわれている。

社会貢献活動をしながら、宣伝をしようという・・、商人魂ですね。

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