1945年7月6日
「たなばた空襲」と言われる甲府空襲の日。
甲府が空襲された夜は、盆地特有のむし暑く寝苦しい夜だった。
米空軍のB29爆撃機の大編隊が甲府の上空を通過した同年5月25日の夜以来、数回にわたって大編隊が1万メートル以上の甲府の上空を通過していた。
いつ、B29に焼夷弾や爆弾が落されるか時間の問題だと予期しながら、市民は空襲に備えて家族・家財道具の疎開、防空壕掘り、食糧の確保などに努めていた。
7月6日午後11時23分、甲府市防空本部は、警戒警報のサイレンを鳴らした。
燈火管制下の甲府市内は闇の中に包まれていた。B29の爆音が真上に近づいた瞬間、 市の北部の愛宕山の上空に照明弾が落下された11時54 分、同時に市防空本部は"空襲警報"を発令した。
そのサイレンもB29の焼夷弾が落下する音と地上に落ちて炸烈する爆発音でたちまちかき消された。
市の中心地は、燃えあがる炎に包まれ、空襲にあわてて逃げまどう市民の頭上へは無数の焼夷弾が容赦なく落下した。
富士川、琢美、相生、新紺屋、湯田、穴切、春日、朝日、伊勢、貢川、国母、里垣、相川の各地区は、30分たらずで火の海と化した。
戦争は絶対にやってはいけませんね。